■友人、家族、そして自分

 学校での唯一の楽しみが友人たちとの語らいである反面、その友人関係で悩んでいる生徒も多数います。友人とのつきあい方では全く二通りに分かれてしまいましたが、【7−2】「友だちとのつきあいで、悩んだり困ったりしている(いた)ことがありますか」という問いには、半数以上の生徒が回答を寄せています。一般的に人間関係を円滑にこなせない生徒が増えている傾向にあり、肌合いの違うグループとは口も聞かないという関係がクラスでもよく見かけます。仲のよいもの同士のグループだけに、ちょっとしたことで関係にヒビが入るとその修復を自分たちでやるのは至難の業です。そのため、グループから弾き出されないよう、「ハブ」にならないよう彼らなりの気遣いがうかがわれます。
 保護者観では、ハッキリとした傾向が出ています。「うるさい人」「経済的に面倒をみてくれる人」「身の回りの世話をしてくれる人」の三つが抜きんでて高い数値となっています。「食事、洗濯をしてくれて学費の面倒はみてくれるが、いつも行動にガミガミ言う存在」これが彼らにとっての一般的な保護者像ということになるでしょうか。
 上記の回答結果を【7−4】「保護者の自分に対する理解度」の数値とクロス集計してみると、「自分のことを分かってくれていない」とする生徒のグループでは、上記の一般的な保護者像がさらに際だった形になって表れています。親子のコミュニケーションの度合いが保護者像をかたちづくる重要な要素になっているいえます。

 彼らが自分自身のことをどう見ているか、意識しているかは興味深いところですが、意外にも、冷静に自分の足りないところ見つめているように見えます。「忍耐力」「けじめ」「集中力」「やる気」「根性」などなど、自分のおかれた状況への内省が込められている言葉が並んでいます。「社会への甘い考え」や「ひたむきさ」などの言葉を含めて、今や日本の社会から喪われつつある価値観ばかりです。そして、明治以来、日本の学校が生徒に向けて発信してきたものこそがそのような価値観だったのです。
 【7−7】で「イヤな大人像」として挙がってきている大人社会の堕落ぶり、浅ましさ加減の中に、日本人の「美徳」ともいうべきものが塵にまみれてしまっていると言うべきでしょう。子どもにだけ「美徳」を求めることはできません。学校はいつの時代にも「美徳」の体現者であろうとしてきましたが、子どもたちはその「本音」と「たてまえ」をとっくに見破ってしまっているのです。
 「自分勝手で無理解な大人」「自分の考えを押しつける」「プータロー」「大人はすべてイヤだ」などと共に、「自分の親」と回答した生徒が8人もいることをどう捉えるべきでしょうか。子どもにとって親は最も身近な大人ですが、家庭の中の人間関係さえも難しくなっているのが実状です。


■豊かな社会の中での満たされない日常…まとめにかえて

 ここに回答を寄せてくれた100人の生徒たちは、教室の中ではどんな顔をしているのでしょうか。学校から離れた場所ではどんな過ごし方をしているのでしょうか。ひたすら眠りこけているもの、止めどなくおしゃべりに熱中しているもの、気まぐれに学校に登校するもの、誰とも口を利かないが、学校を冷徹に見据えてるいるもの。ある生徒は、家庭に帰れば悲惨な現実と戦わなければいけないかもしれません、アルバイトではコキ使われている生徒かもしれません、コンビニのそばで溜まって時間を過ごしている若者の一群の中にいるかもしれません。
 調査担当者のコメント(集計表には掲載していませんが)から推察するに、多かれ少なかれクラスの「問題児」か「厄介者」になっている生徒のように見えます。さまざまな理由で一つのコースから逸脱してしまいつつある彼ら、学校生活の中に目標を喪失して思い惑っている生徒たち。しかし、本当に彼らはクラスの中で特異な存在なのでしょうか。感受性が豊かすぎた故に、今の学校生活の空虚さを鋭く見抜いているともいえますし、正義感が強すぎたために大人社会の矛盾にいち早く気づいたのかもしれません。学校制度の枠をはみ出したり、教師の指導に従わない生徒の中に、そんな心を持った生徒が多くいることを知っています。
 学校生活が儘ならない彼らも、アルバイトには精を出し、意外にも3割の生徒は明確に将来の
職業をはっきりと決めているという結果が出ています。いくつか考えている生徒数を合わせると、全体では6割以上が将来の進路に明確な指針を持っているといえなくもありません。しかも非課題集中校グループよりも課題集中校グループの方がその比率は高くなっています。

 かって、イギリスの学者が自国のハイスクールの生徒を調査して書いた書物『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィルス 筑摩書房)の副題に「学校への反抗 労働への順応」と記しましたが、まさに、学校が見限られている様子が透けて見えてくるような調査となりました。生徒に魅力とうつらなくなった授業、知識を詰め込むだけの学校、「進学校」であればなおさら、その傾向は強いでしょう。教育研究所主催のシンポジウムで、会場にいたある県立高校の生徒が言い放った言葉が今も印象に残っています。

 「学校に何も期待しなくて、学校についてここが人生の学びの基礎だというふうに情熱を持って勉強している人は、一人いればいい方だという感じです。今の学校の授業というのは、家で勉強している方が実際にましといっていいくらいです。実際学校に1クラス40人も集まって、ただ座ってるだけというのが、ほんとに私は悲しいと思うんですけど、40人集まったなら、もし歴史の授業なら歴史の事実について、40人なら40人なりのそれぞれの意見を持ってると思うんですね。その意見を述べる機会もなく、ただ事実をノートに写しているだけじゃもったいないと思うんです。」(『ねざす』17号「シンポジウム 戦後50年・高校はどう変わったか?」)

 「ここが人生の学びの基礎」と高校生が問いかけるに値する授業が果たして展開されているでしょうか。高校生はそういう意識で授業に臨んでいるでしょうか。いずれも答えは否定的にならざるを得ません。
 「百校計画」の内、99校が普通科高校であったことからも分かるとおり、神奈川において普通科の占める割合は8割を超え、全国でも抜きんでた数値を持っています。その普通科高校が偏差値で輪切りになっているのが神奈川における「格差と序列の構造」です。多様な生徒を受け入れる「受け皿」としても、神奈川においては、8割を超える普通科高校が大きな転換を迫られれているともいえます。
 上記の発言をした高校生は、クラスメートの発言を借りる形で次のようにも言っています。

 「私の友だちとかに聞く限り、『何であなたは学校に来ているんですか』と聞くと、大体全ての人が『このまま3年間その場の居続ければ卒業資格は取れるし、うまく行けば大学にも推薦で行けるし、それで就職しちゃえば一生安泰だし、ちゃんと昇進もできるし』みたいな答えをします。」

 「みんなが行くから、俺も行く」「勉強はしねぇ、でも、卒業はしてぇ」(『学校づくり最前線―課題集中校からの学校改革―』 U授業をどうするか)という生徒の本音の背後に横たわる「闇」に学校は光を当てることができるのでしょうか。私たちが今正面から取り組まなければならないのは、小手先の入試改革や制度改革ではなく、彼女の問いかけや学校を見限りつつある彼らに応えることができる「学校」の再生ではないでしょうか。

別表:高校生の自己・大人・社会像

(担当 三橋正俊 中野和巳)