特集 : シンポジウム  どうつくるか 「総合的な学習の時間」
 
  フロアーからの意見
 
佐 藤: これから意見や感想等をいただきたいと思います。 また、 「総合学習」 に関しては、 さまざまなNPOなどが関心を寄せていますので、 そういったご参加の方もいらっしゃるかと思います。 ご意見をいただければと思っております。
井 出: 岸根高校の井出と申します。 生徒の実態から 「総合的な学習の時間」 の構想をスタートすべきだという趣旨の久世さん、 長尾さんのご発言に共感して発言したい。
 9 月に札幌での日教組の 「高校教育シンポジウム」 教育課程分科会で幾つかの発言がありましたが、 進路型カリキュラムの学校で、 そんなことをやっても、 実際、 就職なんかできやせん。 就職もできんような世の中は、 一体、 どうなっているんや。 こういう世の中はどうやったら変えていけるんやろか。 そういう問題関心が今の高校生の中にあるということでした。
0 時間目、 7 時間目、 土曜日に補習をやっているような進学校でも就職は難しいし、 たとえできたとしても、 企業の中で多く使い捨てられている。 そういう世の中、 一体どうなっているんだという問題関心が高校生の中に強い。
 これは学校の種別を問わず、 高校生たちの中に普遍的にある学習欲求、 疑問、 問題意識だと思います。 こういうことを踏まえられる 「総合的な学習の時間」 の編成、 また、 全教科の方法、 内容を含めたカリキュラム編成のあり方に通じる問題だと思います。
 アフガニスタンの戦争を見ても、 死んだ姿が見えてこないような映像の写し方など、 メディア・リテラシー的なアプローチの仕方もあり、 また低開発の問題も浮き彫りになっており、 そういう戦争と平和の課題も大きな問題関心になっていると思います。
 私たちに問われていることは、 現代社会の諸課題にただ適応させられ窒息していくという、 企業戦士たちの今のあり方を打開したいという課題に応えられるだけの政治的実践力、 行動力、 発言力、 表現力なのだと思います。
 そういう意味では、 久世さんが言いかけた 「表現」 の役割も 「総合的な学習の時間」 の持ち方の課題として検討していきたいと考えています。 以上です。
今 枝: 今の高校生を見ると、 基礎的学力よりも基礎的価値観の欠如を感じます。 それから、 シュタイナーという人の仮説では、 14歳の第 2 反抗期以前に安心して寄りかかれる価値観を体験しなかった子どもは自立できないということです。
 小学校や中学校で 「総合的な学習の時間」 がカリキュラムに組み込まれて、 仮に 「君たちの好きなことをやっていい、 自分の問題意識で学びなさい」 と言われて、 それが極端に進むと、 基本的な価値観が形成されなくて、 高校において 「総合学習」 が成立しないということが起こりえるのではないかと思うんですが、 いかがでしょうか。
大 山: 神奈川県のNPO団体の中には各団体が持っている情報を積極的に公開して、 「総合的な学習の時間」 に使ってもらいたいという動きがあります。 高校生の可能性というものにもの凄く期待していて、 いい共同作業ができればいいな、 と考えています。
戦後民主主義の価値などを引き継ぐ地道な努力をしてきた団体がたくさんありますので、 まだ形にはなっていないんですけれども、 よろしければそういう団体に声をかけて使ってください。

 
  終わりに

佐 藤: ご意見はこれで打ち切らせていただいて、 よろしいでしょうか。 ありがとうございます。 十分議論が深められるというところまでは行かなかったと思いますが、 パネリストの皆さんの発言等から幾つかの課題が出てきたのではないかと思います。 また、 最後に発言をいただいた方の趣旨もそうだと思いますし、 私が今回のシンポジウムを前に試行校でやっている方の話を伺った中でも幾つか問題点が出てきておりました。
 途中で指摘された人の問題、 予算の問題、 施設設備の整備の問題などもありますけれども、 何よりも感じましたのは目の前の子どもたちからどう発想していくのかということでした。
 高校が千差万別であるというところから、 私たちの足許からやっていくしかないんじゃないか。 そして、 まずやってみるというところに大切さがあると感じました。 われわれ高校教員には、 教科教育にしがみつくというところがあるように思います。 また、 その形態が自分の持っている知識を披瀝しながら生徒に教え込むというスタイルであることも、 今日発言された皆さんが長く喋るというところから、 明らかではないかと思います。
 やってみた実践例からは、 生徒と一緒に学ぶとか、 分からないけどやってみるというところに、 面白さを感じるという感想を多く読みとることができました。 そういうところにわれわれの意識改革が及んでいく。 そしてそれが、 「総合的な学習の時間」 だけではなくて、 カリキュラム総体の見直し、 あるいは学校像の見直しというところに広がっていくことが、 今、 求められているのではないかと思います。 「ねざす」 の厚い方の最後にも書いたんですが、 この 「総合的な学習の時間」 に、 今時点でも数多くの問題点が指摘されています。 しかし、 私にはできるだけ楽観的にやっていきたいという気持ちもあります。
 かつて、 批判をいっぱい背負いながら誕生した 「現代社会」 が現場のいろいろな取り組みの中で、 多様な中身を持つ面白い教科に脹らんでいったというところに私たちはもう一回立ち返ってやっていく必要があるんじゃないか。 そういう意味で、 意味ある 「総合的な学習の時間」 をどう作り上げていくかというところに期待していきたいと思います。
 最後にパネリストの皆さんから感想なりいい足りなかったことなりを一言ずつ発言していただいて、 シンポジウムを閉じたいと思います。 大杉さんからお願いします。

  評価についての検討を

大 杉: 時間がなくて語れなかったんですが、 残された問題として 「評価」 があります。 評価こそ先生方がこの授業は何を目指したものであったのか、 ということが一番現れるところだと思います。
 今回の 「総合的な学習の時間」 は数値的なものではなくて、 いろんな学習活動と観点をそれぞれの学校で設定しながらどう子どもが成長したかを記述していく方式になっています。
 それこそ、 先生方がこの学習活動で何を求めようとしたのかということの投影だと思います。 それぞれの学校で立てられた狙い、 例えば問題解決能力、 知識の創造、 知の総合を設定しながら考えていただきたいと思います。 是非、 評価についての検討をお願いできればなと思います。
 最後に今枝先生からいただいております、 基本的価値観がないのではないかということについてです。 個人的にはやはり価値葛藤の場というものが、 是非、 必要かなと思います。
 世の中、 社会の中にはさまざまな考え方があり、 その正当性あるいは存立する根拠が必ずある。 われわれはそういう中で社会を形成しているわけですから、 そういう意味では価値葛藤の場面を含み込んで子どもがその中で何を選び取っていくかということを考えさせる。 はっきり言えば 「哲学」 ですが、 そのような学習は必要かなと思います。
  「総合的な学習の時間」 の中の"在り方生き方"のところに通じると思います。
 どうもありがとうございました。

  ファシリテイターとしての教員

久 世: 岡津高校のカリキュラム編成委員会でやっていることのご報告をさせていただきましたが、 いい足りなかった部分として、 部活のほうでも 「総合学習」 と関連することをやっております。
 ずっと演劇部の顧問をしています。 と言っても自分が学生演劇でやっていたとかということではなくて、 単に芝居が好きなだけなんですけれども。 脚本と演出というと格好いいんですけれども、 しばらくその真似事をやっていました。
 段々忙しくなったし辛くなりましたので生徒に任せるようになりまして、 今は脚本も演出もうちの演劇部は生徒がやっています。 たまに僕が書こうとすると、 余計なことはしないでくれと言われたりもします。 そうすると顧問というのは何をすればいいのか分からなくなりまして、 アドバイザーであったり、 プロデューサーの役割をしたりということになるんです。
  「総合学習」 が、 先ほどお話にありましたように高校のあり方を問い直すものということであれば、 われわれ教員のスタンスも問い直すものになるかと思います。 この演劇部で脚本も書かない演出もしない顧問というのが、 そのスタンスなのではないのかなと何となく思っています。
 県演劇連盟の地区組織で、 横浜市演劇連盟というところで自主研修をやっておりまして、 大岡淳さんという大師高校で講師をやっていた方ですが、 商品館劇場という劇団を主宰されている方のワークショップを一度お受けしました。 その中でファシリテイターという言葉が出てきたんです。 ワークショップというのは演劇の訓練法なんですけれども、 例えば僕がここに目に見えないボールを持っているとします。 「投げますから、 誰か受けてください」 というようなゲームをやっているようなものなのですが、 そういったワークショップを俳優修業の場から切り離して、 もっと表現の勉強ですとかコミュニケーションの勉強ですとか、 あるいはもっと発展させて、 先ほどお話のあったNPO団体なんかもこれを使って、 社会認識の勉強なんかに使ったりもしている、 そういったほうに発展していっているものなんです。 それを指導していく立場の人間というのがいるんです。 それをファシリテイターというんです。
 このワークショップは、 あくまで参加者の自発性というのが第一義です。 「僕がボールを投げるから、 こう受けてください」 と言っちゃあいけないんですね。
 どう受けるかは受ける側の人が考えて受けなければいけないんです。 だからディレクターではないんです。 演出しちゃあいけない。 参加者の自発性に第一義をおいて、 でも何かしらメソッドを持っていて、 コミュニケーション・ゲームであるとか、 もっと発展させて社会認識のゲームであるとかというように指導していくという立場がファシリテイターであるというお話を伺いました。
 そういう立場が 「総合学習」 における教員の立場なのかなと思って、 このことには興味を持っています。 部活のほうでも、 そういうことをやっていますということをちょっと付け加えます。 以上です。 どうもありがとうございました。

  試行錯誤があっていい

長 尾:あまりないんですけれども、 生徒の実態からというようなことを言ってはいるんですが、 実は 「総合的な学習の時間」 を使っていろいろやってみると、 生徒のいろいろな実態が出てくるということがあります。
 これは大阪の人権教育研究所の高校部会が作っている総合学習の教材で 「私、 ナビゲーション」 というのがあります。 「私、 ナビゲーション」 という名前が非常にいいと思うんですけれど、 "自分探し"ですか、 「私、 ナビゲーション・メディア篇」 というのをやっているんですが、 こういう中でもいろい自分でテレビのコマーシャルを作ってみようとか、 メディア・リテラシーの問題なんかやっているんです。
 子どもというのは意外と知っていると思うことを知らなかったり、 知らないと思っていることを知っていたりということが多く出てきます。 教科の学習ですと、 知っていることと知らないことは予測しやすいのですけれども、 総合学習をやっていると、 "ええっ"と思うことを知っていたり、 "ええっ"と思うことを知らなかったりと、 こういうことが実践の過程でいろいろ言われています。
 その点では、 僕らが 「生徒の実態からスタートしよう」 という言葉自身のステレオタイプ化をかなりうち破っていかないと駄目だと、 いろいろ一緒にやっていて感じるわけです。
  「総合学習」 で何か教えようというようなことでは、 もうあまりないんじゃないかと思うんです。 「総合学習」 をどうやったらいいか、 分からんということをよく聞かれるんです。 「どないしたらええねん」 と聞かれる場合もあるんですけど、 「そんなもんのできへんやん。 あんた、 自分で子どものとき 『総合学習』 というの、 やったか。 やってへんやん。 大学で勉強したか。 『総合学習』 の授業あったか、 あらへんやん。 できへんねん。」
 だからそんなもん完成品であって、 私が 「総合学習」 をやってあげましょうなんていうような思い上がったことはやめといたほうがええねんと。 「総合学習」 いうのは、 子どもが自ら学び、 自ら考え、 自ら課題を発見し、 ということが大事やということだけがあるねんと。
 ほな、 自ら学び、 自ら考えというのはどないしたらええねんというと、 「おーい、 自ら学べ!自ら考えてみ!」 言うたら考えるのかというと、 考えへんやろ。 そこで、 教師の悪い性癖と言うてはったけど、 まあ、 悪い教師根性みたいなものは捨てるほうがええと。
 教師は自分がせんと、 暗い顔して 「明るうなれ!」 とか、 死にそうな顔して、 「元気出せ!」 とか言うてるやろ。 それがあかんのと違うか。 自ら学び、 自ら考え、 というんやったら、 久世さんみたいに考えとったらええねん。 ほなら子どもも、 「先生、 可哀想やな、 ひとりで考えとるねん。 わしらも考えたろか」 ということになるかも分からへん。 そやから、 自ら考え自ら学びということを作り出そうとすることについては、 教師が自ら学び自ら考えると。
 そうすると、 すっーと肩の力が抜けるところがある。 ほんで、 何か、 2003年から始まるというのに、 2003年に完成品を作らないかんと思っているところがある。 2003年から始まるねんと。 いつ終わるか分かりませんけど。 終わることを気にしている人がいます。 始まるのが2003年からやねんから、 始めて、 その次はどないしようか、 その次はどないしようか、 どんどん、 いわば、 インプルーブしていくというような射程をやって、 まずは、 助走をやって、 これぐらいのことやってみようか、 という形でやればええんであって、 それを何か完成品がどこかにあってそれを借りてきて、 はよやらないかんと。
 そやから焦ってしまったり、 大事なことをすっ飛ばしたまま形ばかりのことをやろうという、 こういうことになっているのと違うかなというような気がします。 まだ、 始まってへんねんで。
 こんなもん、 そやから始まってからでも考えたらええねん。 始まってから考えるときも、 原則とかどういう方法で考えていかなければいかんのかということをしっかり考えておけばええねん、 いうようなことを言っているんですね。
 でも、 行政もいい加減なことを言っていますわね。 時間の見方みたいのばっかり言っているから、 特別活動と 「総合学習」 とは違うとか言ってね。 修学旅行は 「総合学習」 の単位に勘定したらいかんとか言っている。 どこまでが許されてとかいうことは分からん。 ただ、 文科省が言っているのは時間の問題で言っていますからね。
 運動会やらせておいて、 これ 「総合学習」 やと、 そんな二重読みしたらいかんとか、 修学旅行が 「総合学習」 やったら、 「総合学習」 をやらんでもええということになったら困るとかいうことがあって、 修学旅行での時数を 「総合学習」 の時間に読んだらいかん、 こういうようなことを言っているだけで、 まあ、 そんなもん機械的なことだけで、 関係はどうやねんと言ったら、 修学旅行と 「総合学習」 とがリンクする実践はいくらでもあるわけです。
 教科の学習でやったらいかんというても、 教科型、 発展型の 「総合学習」 はあるわけですよ。 教科を発展させて 「総合学習」 をやる可能性はあるし、 そういうことは現実にもやってきたわけです。
 テーマ設定型もあれば課題設定型もいろいろある。 それはそれでええねん。 文科省は社会科の授業の中で 「総合学習」 みたいなものをやっている、 それは社会科やでというふうに言っているだけの話であって、 これも変なんですね。 授業時数とか、 急に気にし出しているんですね。
 先生方、 授業時数なんかちゃんとやっていますか。 欠時ありませんかと言うたら、 現場とは奥深いと私は言うんですが、 学習指導要領通りやっているかというたら、 ほとんどやっておらんでしょ、 そんなもん。
 卒業単位だって、 学習指導要領をかなり超えてやっているでしょ。 いろいろやっている。 で、 時数の欠時、 何時間なんて。 先生もいろいろな事情で抜けたりするわけ、 そんなもんはいいんですよ。 というか、 そんなに形式ばって 「総合学習」 が始まるからスタートのところで形式を整えようとしているから、 そんなことも出てくるわけです。 そんなものは適当におつき合いしておいたらよろしいと私は思っております。
「総合学習」 の前提は言いましたけど、 それがどんな意味を持っているか、 それが入ってくることによって、 学校は何が変わるねん、 急所のどこを変えたらええねん、 というようなことを考えながら、 2003年をのんびり待っていくということでもええんじゃないかな。
 スタートは2003年からするねん、 2003年になったら、 みんな倒れてもうて、 「あ、 終わった」 なんて言うて、 「あれは失敗やった」 とか言ってしまうようなイメージが強いんですね。
 そうじゃなくて、 2003年から始まるねん、 息長くやっていっていろいろ改良して、 これやってみてあかんなあ、 こうやってみようか、 試行錯誤も当然あって、 というようなことを僕は考えています。 ということぐらいですね、 はい。
 あ、 一言だけ。 デューイ・スクールのこと言ってはりましたね。 デューイ・スクールの考えもありますが、 これ、 あんまり関係ない。 日本固有の問題です。 「総合学習」 なんて訳もでけへん感じでしょ。
 アメリカもイギリスも、 それはやっていますけれど、 アメリカなんかいい加減な国ですやん。 州によって学習指導要領みたいなもん、 持っているところもあれば持っていないところもある。 日本みたいに学習指導要領あれへんのですよ。 学校制度だって、 6 ・ 6 もあれば、 4 ・ 4 ・ 4 もあれば、 6 ・ 3 ・ 3 もあるんですわ。 そんなところでやっとるんやから。 参考にしたらいいけど、 一遍濾過して参考にするといい。
 そうですね。 イギリスなんか、 トピック学習いうのやっとるけど、 そんなの当たり前の話であって、 小学校 1 年生に日本みたいに教科全部やっててはできへんでしょというのは当たり前の話ですわね。
 あんなん、 人権問題ですよ。 小学校の 1 年生みたいなのに音楽の時間や、 "歌、 歌え"と大きな声を出させておいて、 すぐに、 国語は"静かにせい"と言うて、 3 時間目に"体育や、 走れ"言うて、 4 時間目に、 "静かに!"、 そんなことはできへんやないかというのは当たり前のことなんですね。 考えてみれば、 そんなおかしなことはいっぱいあるんで。
  「総合学習」 というのは、 極めて日本的な問題なので、 他のいろいろを参考にせないかんけれども、 参考にしてどこかに答えがあるというのじゃなくして、 答えは自分で見つけていかなくてはしゃあない、 自ら考え自ら学べと。 「総合学習」 の精神で 「総合学習」 を言うとります。
 これが一番じゃないかということです。
佐 藤: ありがとうございました。 帰り道、 少しは皆さんの肩の荷が軽くなって帰れれば、 今日のシンポジウムは成功ということでいいのかなというふうに思います。
 また、 今後、 研究所としても、 このテーマについては情報発信なり情報集約なりをしていきたい。 皆さんにもそれをお伝えする機会を持てればというふうに思います。 お渡しした 『ねざす』、 是非お読みいただいて、 ご意見をお寄せいただければありがたいと思います。
 これで私の役を解かせていただきますが、 パネリストの皆さんに感謝の意を拍手で表していただければと思います。 (拍手)


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