特集 : シンポジウム  どうつくるか 「総合的な学習の時間」
 
  基礎基本とは何か

 "基礎学力"とか"基礎教養"とか言って、 基礎さえつければ何でもいいというようなことがあるんですね。 学力低下の問題でも"基礎学力が低下している"なんて言うけれども、 何が基礎かということはよう分からないですね。  
そやから、 日本人の教育・文化の底に"基礎恐怖症"みたいなのがあるんじゃないかと思うんです。 基礎ができていないと言われたら全否定になるんですね。 「あ、 それは基礎基本があかんからやで」 と言われたら、 何も説明はいらんのですよ。
 これは日本の文化の一つ違うかと、 私、 思っているんですがね。 野球でも高校野球なんか、 そうでしょ。 解説者は楽なもんですよ。 勝ったチームは基礎基本ができていたと言えば、 これはええんですよ。 負けたチームは基礎基本ができていなかったんですよ。 それならみんな納得するんです。 勝ったチームは運がよかって、 負けたチームはアンラッキーなだけやったなんて言うたら、 解説者はものすごく怒られるんです。 一番無難なのは基礎基本に忠実であった、 などと言ったらいいんです。
 そんなことがあって、 一体、 基礎教養、 教養とは何かというような問いは、 「これは基礎やねん。 高等学校は90%が基礎なんやから、 基礎やねん」 と言ったりしたら、 何となく通っていくんですが、 そういう時代が段々怪しくなってきたんじゃないかと、 こういうふうに思っているんです。
 それでもうちょっと言うと、 高等学校のあり方そのものが、 どういうふうに変わっていくのかなというところとリンクしていくのが面白いなと思っています。 通過点としての高等学校から、 そこで生きる場として、 そこに子どもたちがいてる、 その場としての高等学校です。 痩せても枯れても、 そこに 3 年間おるわけですよね。 どういう事情であれ、 3 年間そこに来るわけです。
 そのとき今までなら、 「何でここに来てるんや」 と言うと、 「こうなって、 ここしか来られんかった」 「そうか」 とかいう話になって、 「どこ行くねん」 「どこそこ行くねん」 「ああ、 そうか、 頑張れ」 と、 これだけで、 入り口と出口で何かあった程度で、 「高等学校で何するねん」 と言うたら、 通過点としての高等学校の 3 年間。 それにうまく手を貸すというか、 それが高等学校の教師の仕事という、 こういうことになっていたんじゃないかな。
 お前、 あまり高等学校の教師のことを知らないのに言うてるやないか、 と言われることもあるんですけど、 実は私はスパイを放っておりまして、 うちの女房が高等学校の教師なんです。 それでそこから情報を得るという、 こういう仕組みになっておるので言うんですけれども。 そうやな、 という感じをいろいろ聞いているんですね。 家で愚痴を聞きながら、 考えていると、 大体そんなことじゃないかなと思ったりするんです。

  「総合学習」 で学校が変わる

  「総合学習」 というのはかなりインパクトのあることでして、 この間も言っていたんですが、 「『総合的な学習の時間』 が始まるけど、 これ名前をつけなあかんのですよ」 と言ったら、 小学校の先生も中学校の先生も、 「えっ!」 とか言うんですね。 学習指導要領をよく読めば、 「総合的な学習の時間」 の名称については各学校で適切に定めるものとする、 と書いてあるので、 来年から 「総合の時間」 とか言ったらあきませんぜ、 と言ったら、 「ええっ!これ、 名前つけるんですか?」 とか言ったりして。
  「文部省、 何と言っているんですか」 と言うから、 「適切につけると書いてある」。 エライこと言いますね、 とかいう話になるんですね。
名前つけんならんとか言って、 これはいろいろ、 僕、 名前コレクションをしたりしているんですけどね。
 高等学校でも非常にいい名前をつけている学校があります。 鹿児島南高等学校は、 "南十字星の時間"という、 すごい時間でしょ。 ほんまですねん、 これ。 そこで自主研究何でもいいからやれと言ったら、 長渕剛の研究ばっかりやっとんですよ。 長渕剛の母校なんです。 南十字星の時間、 これは格好ええですよ。 これぐらいの名前つけないかん、 と思っているんですけどね。
 一番おもろいのは"坂道の時間"というのがあって、 自分で何でもするんやけど、 やれんかったらズルズル落ちてしまう。 こういう脅迫的なネーミングもあって、 これはおもろいなと思っていろいろ集めたりしている。 いずれにしてもそうなんですけど違うんですね、 今までのカリキュラムとか、 学校の中でやっていたこととは違うことなんです、 これ。
何も書いていないでしょ、 学習指導要領。 勝手にせい、 言うてるでしょ。 名前もつけ、 言うてるでしょ。 自ら学び、 自ら考え、 とかいうて、 そんないい加減なことしか言うてへんですね。 これはだから、 かなり大胆な時間として設定されたという、 こういうことを念頭に置いておかないと困ると思うんです。
 これは 「生きる力」 ということで出てきたということはご存じだと思います。 「生きる力つけえ」 と言うたら、 文部省ははたと困ったんですな。 "生きる力、 つけろ"これはええけど、 「どないしてつけるねん」 と言うたら、 「そんなもん、 各学校で考え」 と、 こうなったと、 そういう話です。
 それはそうです。 そやから、 学習指導要領に小学校 5 年生の 「生きる力」 とか 「総合的な学習の時間」 の目標とか、 内容とか、 全然書いていないでしょ。 中学校も書いていない。 高等学校も書いていない。 それは何でやねん、 そんな無責任なことで、 100時間を超えたり、 3 単位から 6 単位を出せと言って、 そんなんどないするねん、 と言うたら、 「生きる力や」 とこう言う。 「生きる力、 どないするんですか、 文部省」 と言うたら、 「そんなもん、 各学校で考え」 と、 こう言うた。 「自由にせい、 わし、 知らん」 と。 「知らんかって、 できへんかったらどないするねん」 「そりゃあ、 お客が来んようになるやろ」 と、 こうなるわけですわね。 そやから、 いち早く久世さんは気がついて、 "これは危ない"と、 こういうふうになって・・・。
 これは面白いですね。 高等学校が 「総合学習」 に取り組む一つの契機は 「生き残り」 ですわ、 これ。 大阪なんか、 8 学区あるんですけど、 毎年学区に 1 校ずつ減っていくんです。 これはピンチです。 久世さんがいみじくも言ったように、 進学校と落ちこぼれ校、 あ、 落ちこぼれ校じゃない、 課題集中校は生き残りおるんです。 ニーズがあるから。
 ところが中間ですよ、 久世さんが言うてる、 これが一番ヤバイ。 特色がなかったら、 来いへんのです。 行っておもろかった、 という評判がなかったら、 あかんのですよ。 そやから、 地域に根ざそうとか、 地域とは何かとか、 これは言い出したらもの凄く面白い問題ですけど、 それやっているでしょ。
 そんなことが出てきたときに、 「総合学習」 絡みになって。 「総合学習」 でやるのが一番手っ取り早いんです。 まさにそうなんですよ。 そういうふうに考えていくと、 「総合学習」 というのは非常にインパクトがあり象徴的なんです。 21世紀の学校のあり方を象徴するような時間として出てきとるんですね。 自己責任というか。
 そのとき、 これまでの学校文化が変わっていくということをしっかりベースに置いておかないと実りが出てこないと思っています。 中学校でもそうなんですけど、 「 『総合学習』、 そんなん知らんで、 わしら 『総合学習』 の免許持ってへん」 と言われるんですが、 「ええやん。 免許だけが頼りになっている時代は終わっているで」 と、 こう言ったりもするんです。
 例えば、 単位の認定の問題があったでしょ、 久世さんがさっき言わはったように。 これも高等学校はちょっと特殊なんです。 小学校、 中学校は試験も別にせんでもいいわけですけど、 高等学校は単位認定せなあかんでしょ。
 これは原理として、 カリキュラム上の新しい原理なんですよ。 つまり高等学校は単位として認定するという、 「修得主義」 を採ってきているわけです、 カリキュラム上は。 そやから履修しただけではあかんわけでしょ。 必履修という形の中で単位認定をやっていくということになっているわけです。
 そやけども 「総合的な学習の時間」 というのは、 認定できないんですよ。 基準がないですから。 ここまで行ったらよろしい、 これは"生きる力 「 5 」"とか、 "生きる力 「 1 」"とか言えないわけですから。 それぞれやりおったら、 それで"生きる力"があるということにせんとしょうがないんです。
 そうするとこれは 「履修主義」 なんです。 履修したらそんでええのです。 小学校、 中学校は全部そうなんです。 分かろうが、 分かるまいが、 5 年生は 6 年生になるんですよ、 1 年間経ったら。 5 年生の最低基準を修得してないから、 こいつは 6 年生に行かせへん、 という形の原理を採っていないんです、 カリキュラム原理から言うと。 そこでは小中と高校は、 実は、 違う原理をカリキュラム編制上持っていたんです。
 ところが、 一部高等学校に入ってきとるんです。 すると、 実は履修主義の責任は学校と教師のほうにあるわけです。 やったけど、 あかんかったという責任は誰やねんと言うと、 やり方悪かったん違うかという話になっていくというところがあるんですよ。  修得主義では、 やったけど、 あかんかったは、 それは、 お前あかんから、 もう 1 年やらすという形になるわけです。 "頑張れ"とかいう形になるわけですけど。 基準を設定して、 さあ、 ここまで来いと。
 ところが、 そういうことじゃなくなる形になってくると、 こっちのほうが、 いわば提供して楽しんでもらわないかんと言うか、 生きる力を身につけてもらわないかんということになる。 もし、 身につかなかったら、 やり方悪かったん違うかという話になっていくということも、 原理として出てきているわけです。
 そういうことも面白いなあ、 と思って聞いていたんですが、 もう25分になったので、 何のことやわけ分からんのですけれど、 私がまとめて言うとすれば、 高等学校の 「総合学習」 というのは非常に怪しいです。

  高校教師の協業が必要

 行政のほうが怪しいということを先取りしまして、 放っといたらしょうあらへんやろという形の中で、 カリキュラム上に位置づけろと、 これはかなり他では言っているようです。 神奈川では知りませんけど。  
 それでやらされて、 環境教育やっていると言って、 実は掃除させてたという、 こういうふうなのあるんです。 まあ、 そんなこともあるんですけれど、 僕はそういうような形でも、 やらなしょうがないからやるというのでも、 まあまあええですけれども。 結構、 高等学校のあり方いうものを問い直していく契機になるんじゃないかな、 いうような気がしています。
 高等学校の学校文化を支えてきた教科前提主義。 この教科はあるんやから、 というような形ですが、 じゃあ教科とは一体何やねん、 高等学校に何でこんな教科あるのん、 とかいう話で、 それは問いかけが自分のところに向いてきますから、 なかなかややこしいんですね。
 高等学校の先生は協業するという作業がもの凄く苦手ですね。 そんな教科をブツブツやっても、 子どもにとってはトータルで 3 年間なんです。 そのことをどうするのか、 というようなことをやはり考えていかなければいかん。
 その点では隣の人は何する人ぞという形では、 子どもの側から見たらもの凄く迷惑なことなんです。 高等学校が通過点でなくて生きる子どもたちにとっての 3 年間の場、 というようなことを考えてみたときに、 教師が協業するというか、 それぞれの教師が協力して一つの人格の中に落ち込んでいくカリキュラムを考えていくという、 こういうことはどうしても必要なことなんですね。
 そういうようなことはやってこなかったし、 中学校でもあまりやらないんですが、 公開授業なんてやらないでしょ、 高等学校の先生は。 授業研究なんかやらない。 分からんかったら子どもが悪い、 アホやというような形で怒っておったら、 それでええ。
 いろいろ教材なんかもあったんですが、 時間がなくなってしまいました。 いずれにしても久世さんがやっているような学校は、 良心的な学校だなあと思います。 それは生き残りをかけてということかもしれませんが、 頑張ってください、 と言うか、 何のことか分かりませんけど、 まあ、 そんな話であります。 また後で討論のときに。
佐 藤: ありがとうございました。 やはり、 なぜ高校という場で 「総合学習」 の検討がなかなか進まないか、 という原理的なところもお話ししていただいたと思います。 最初にありましたように、 やってみることが基礎基本ということで、 まず、 われわれもどう取り組んでいくか、 一歩踏み出さなければいけないのじゃないか、 ということを私も感じました。
 それでは、 これから、 皆さんに質問を出していただきたいと思います。 司会のほうからありましたように、 『ねざす』 に掲載する都合もありますので、 はじめに所属とお名前を言ってから発言いただければと思います。
 意見は後ほど、 別にやりますので、 質問のみ簡潔にお願いしたいと思います。 質問のある方は、 挙手をお願いします。
<<<ねざす目次
<<<29号目次>>>

次へ>>>