特集 : シンポジウム  どうつくるか 「総合的な学習の時間」
 
  「総合学習」 を巡って高校が変わる
  
長 尾: 大阪教育大学の長尾ですが、 今の久世さんのレポートというのは、 もの凄く面白いレポートですね。 これはグッド・サンプルですわ、 本当に。 ずっと久世さん中心にやってもいいと思います。 本当に面白いことをいっぱい提起されたなというように思っています。
 高等学校における 「総合学習」 が歩んでいく、 「総合学習」 を巡って高等学校が変わっていくと言うか、 右往左往することを含めてですが、 本当にいいサンプルだなと思って聞かせてもらいました。 まとめられたらどうでしょうか。
 私、 幾つか思っていることがあるんですが、 この間までは、 「総合学習」 がいつから始まるのかということが議論になっておったんですね。 ところが最近、 質問が変わりまして、 いつまであるのかとこういう質問になっているんですね。
  「学力低下批判も出ているし、 なくなるいう噂もありますけれど、 長尾さん、 いつまであるんですか」 という質問がもの凄くあって、 時代が変わったなあ、 思っておるんですけれども。
 それに対応するように、 私はもう 「総合学習」 は論じる時代じゃなくなったぜ、 とこういうふうに言っているんですね。
 私も幾つか 「総合学習」 のこういうことやら、 研究会やら、 学習会、 参加するんですけど、 面白いのは 「総合学習」 とは何かというような議論、 今日の久世さんの議論は面白かったですけど、 それより教師が総合学習をやってみる、 これのほうが面白いです。 そのほうがよく分かります。 「総合学習」 とは何かということが。
 これ、 日教組と言っていいのかどうか分かりませんが、 別に、 ええんでしょ? ここ?(笑い) 日教組の教育課程編成会議、 越後湯沢で去年やったときに、 ワークショップをやったんです。 高校の教師までおったんですけど、 小中高みんなやって、 「総合学習」 について論じるのはもう止めようと。 「総合学習」 をしよう、 自分たちが。 そこから 「総合学習」 とは、 というようなことを考えてみようという形でやりました。 これはもの凄く面白かったです。
 教師がいかに 「総合学習」 が駄目か、 固定観念でやっているか。 高校の教師なんか、 すぐ、 越後湯沢で"酒の研究"とか言ってきたんですけど。 酒飲んでまわってきたんですけど、 とんでもない思い違いをしていたんですね。 「酒がうまいはずや」 とか言ってね。 「コシヒカリで作っているんやから、 旨いはずや」 と思って調べたら、 全然違ったんですね。 酒米と飯米とは全然違うんですよ。 そんなことも分からんかって、 勝手に越後湯沢はコシヒカリで作るから酒が旨いで、 と言ってたことがまったく違うことになって、 エライこっちゃ、 「総合学習」 いうのはとんでもないところへ行くねんなとか、 もの凄い発見があるんやな、 ちゅうなことをワイワイ言って、 喜んではりました。

  ごちゃごちゃ言わんとやってみる

 そんなんを含めて、 今日なんかもこんなごちゃごちゃ言わんと、 みんなやってみたほうが面白いというか、 ほんなら、 もの凄くよく分かる。 いいところや悪い点や課題やらいうのはよく分かってくる。
 われわれもワークショップ型と言うんですか、 こういうようなことも必要やなというように、 幾つか思っているわけですね。 それが最近の 「総合学習」 を巡る状況の中で私がつくづく痛感していることです。
 高等学校の 「総合学習」 は赤信号というようなことを書きましたが、 高等学校は一口に言えないんですね。 あちこちで言っているんですけど、 これが高等学校というのがないんですね。 そうでしょ? 普通科、 職業学科、 総合学科、 いっぱいあるでしょ。 定時制、 通信制もあるし、 私学、 公立もありますね。 それ、 高校とひとくくりにしているんですけど、 全然違うんですね。
 普通科と言ったって、 久世さんも言っていたけど、 進学校と課題集中校は生き残る、 真ん中が危ない、 こういうふうに言ってはったんですが、 それが、 同じ高等学校といっても、 その差は決定的でしょ。 進学校からいわゆる課題集中校へ行ったら、 学校がかわったという騒ぎじゃないですよね。 職種がかわったとしか言いようがないような、 大きな変化に見舞われるわけですよ。
 それをすっ飛ばして、 高等学校における 「総合学習」 はそもそも…なんて言うのは問いそのものがナンセンスや、 というように私は思っております。 そやから、 どこの高校やねん、 ということでやらないと出てこないというように思っているんです。
 で、 いろいろあります。 文部省の指定を受けていたんですが、 「総合学習」 で面白いのは、 尼崎市立城内高等学校というのがあるんです。 定時制の工業高校です。 そこも非常にしんどいんですね。 "しんどい"というのは大阪弁ですけど。
 その学校を希望した生徒というのは 1 割いないんです。 小学校、 中学校で痛めつけられてきているんです。 そういうところですから、 まず、 何をやったかと言うと、 "学校がおもろいで"ということをやったんですね。 そこから、"エデュテインメント"という造語を作ったんです、 エデュケーションとエンターテインメントを混ぜた言葉、 そんな言葉を作ってやった。
 何をやったかと言うと、 ゴルフをやらせたり、 校舎の中で単車に乗らせてワーワーやったり。"単車、 乗りたい"とか言って、 学校の中で単車を乗り回すんですよ。"おもろかった""また、 来よう"なんて、 整備が始まったり、 結構、 学習になっていくんです。
 エリート校と言うか、 トップ校では、 かなりレベルの高いことをやっています。 千葉の小金高校、 これは地域も非常によくって、 ということですけれども環境問題をビオトープを使ってやっているんですけれども。 大学の先生なんかも引き込んでという、 かなり本格的です。 大学でも新しい学問みたいな、 という話が出ていましたが、 その先駆けみたいな形でやっているところもあります。  
 私もちょっと関わっているんですが、 奈良女子大付属は中等学校という形で 6 年一貫で考えているんですが、 "奈良学"みたいなことをずっと伝統的にやってきているんですね。 「総合学習」 の走りというか、 一つのモデルになっている。

  子どもに合わせる

 久世さんの話で感動的だったのは、 いろいろ集めてやったけど結局あかんかったと。 行き着いたところが、 一体どんな子どもが来とるねんと、 そこから見直そうやないか、 という話になった。 これはもう 「総合学習」 をやっていく大前提、 大原則です。
 どこかに咲いているきれいな花をちぎってきて、 活けて、 それで 「総合学習」 をやろうというのは、 もう、 大けがのもとや。 そんなもんあかんねん。 自分とこの学校、 どんな学校で、 どんな子どもが来とんねん、 と。 そこからスタートせんことには 「総合学習」 なんかできへんよ、 というようにずっと言ってきたんです。 わが意を得たりという感じで久世さんの苦労話を聞いておりました。
 しかも、 実は、 それが高等学校には少ないというか、 子どもに合わせるという発想は少なかったんじゃないかなと思うんです。 と言うのは、 高等学校というのは義務制ではありませんからね。 子どもが来ているわけです。 選んで来とるんやから、 極端に言うと来た責任は子どもにあるわけですよね。
 そやから、 嫌やったら辞めたらええという切り札がありますから、 その点では子どもに焦点を合わせて、 学校のあり方、 教育のあり方、 教科のあり方を考えるという発想そのものが高等学校の場合必ずしも要請されて来なかったという、 こういうようなことがあったんじゃないかな。
 そこをどう破るかというということでなかったら、 「総合学習」 の手がかりが得られなかったという、 これが教訓的だと、 私は私なりに楽しく聞かせてもらったんです。
 そこでもうちょっと言いますと、 高等学校の学校文化と言うか、 高等学校を支えていた学校文化は、 やはり、 教科の文化、 サブジェクトの文化なんですね。 私は"教科大前提主義"と言ったりしているわけですけれども。
 とにかく、 「理科」 なんていうんじゃなくて、 やはり 「物・化・生・地」 に分かれていくということもありますし、 それぞれの教科が細分化されてくる中で、 教師も子どももそれは疑わないというようなことがあったんじゃないかと思うんですね。
  「何でこんな勉強せんならんねん」 と言うたら、 「お前、 こんなもん知らんかったんか、 うちの学校ではこうなっとんや。 嫌やったら辞めたらええやないか」 と、 こういう話になるんですね。
  「私はなぜ古典を教えているんだ」 てなことを言って、 この子にとって古典は何なんだろう、 ということをあまり深刻に問い直しますと、 自分で首を絞めることになりますから、 問わないわけでしょ。 わしは古典の教師やねんと言う。 アイデンティティは教科のほうにあるわけです。 「何でそれを教えてんねん」 と言うたら、 「そんな失礼なことを言うな」 と、 こうなるわけですね。 「わしを否定するのか、 わしは古典の教師やねん」。
  「何で教えるねん」 「何で教えるねんて、 それはカリキュラムが決まっておるし、 うちの学校ではそうなっとるねん」 と。 こういうことで許されていたわけです。
 そういうふうな文化がある中で、 高等学校を総体として、 問い直すという問いが必ずしも必然化されてこなかったというようなところがあるんじゃないかなというように思います。 それを、 あえて、 「何で古典を教えるねん」 と言うと、 「高等学校は国民的基礎教養を育てるんだ」 とか言って、 国民的基礎教養ということが言われたことがあるんですけれども、 どうも怪しいですよね。
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