政策科学としての教育社会学
―矢野眞和『教育社会の設計』を中心として―

佐藤 香  

 
 

 1 政策科学としての教育社会学

 「教育」を対象とする研究領域には、教育学を始めとして、教育史学、教育哲学、教育行政学、教育社会学、教育経済学、教育工学など、さまざまなものがある。教育社会学は「社会学を父とし、教育学を母として生まれた」(新堀、1954)といわれている。言葉を換えれば、教育を社会学的に研究する研究領域であるといえよう。
 日本の教育社会学創生期における最も重要な人物の一人に清水義弘があげられる。清水は、教科研や教史研との「教育科学論争」を通じて、当為的な教育学に対して、教育社会学は、社会的事実としての教育現象を対象とする特殊社会学であるべきだと主張し、また、そのような性格づけとともに、教育活動の展開や教育問題の解明に寄与できる「教育科学」であり、「教育の現状と将来予測からなる一連の政策技術体系」としての政策科学としても位置づける必要性を強調した。
 実際、この10年来、教育は重要な政策課題として位置づけられ、初等・中等教育を中心に教育改革が進められてきた。さらに現在では、「構造改革」のもとで、高等教育にまで対象を広げて教育改革が進められようとしている。こうした流れのなかで、「教育」を対象とした政策科学が、より重要になってきている。
 それでは、政策科学としての教育社会学は、これまで「何を」「どのように」問題にしてきたのだろうか。また現在、どのような問題が課題とされ、それに対してどのようなアプローチがなされているのだろうか。そして将来に向けて、どのようなヴィジョンが描かれているのだろうか。
 この春、これらの点をきわめて明快に示した著作が出版された。矢野眞和『教育社会の設計』(東京大学出版会)である。著者の矢野眞和氏は東京工業大学教授で、筆者の指導教官でもある。ここでは、この本を手がかりとして、うえであげた問題を筆者なりに整理しておくことにしたい1)。
 もちろん、1300人近い会員数をもつ現在の教育社会学会においては、政策科学としての教育社会学という認識を、誰でも共通に持っているわけではない。教育は、その段階別に、初等教育・中等教育・高等教育と区分され、その他、障害教育・生涯教育・同和教育などのトピックスを内包する。近年の教育社会学では、初等教育(子ども)と高等教育(大衆化と財政)が多くの研究者の関心を集めつつある。そしてまた、研究の「心理主義化」も指摘されている。
 1950年代後半から1960年代にかけての教育社会学においては、その政策科学的な性格がより強く現れていた。当時は、経済学において大きな影響力を持っていたベッカー(ノーベル経済学賞受賞)の「人的資本理論」(ここには、冷戦下初期のアメリカで盛んに議論された「近代化論」と同一の発想が認められる)のもとで、単純化すれば、経済発展のためには優秀な人材が必要である、優秀な人材を育てるのは教育である、という文脈で教育の重要性が強調された。またスプートニク・ショックにより、理工系人材の重要性も認識されるようになった。これらが、高校の増設・高等専門学校の新設、大学における理工系の定員増という形で、直接、政策的課題として論じられ実現されたのが、この時期であった。それとともに教育社会学も大きな発展を遂げた。だが、その後、経済成長とともに「政策科学としての教育科学」の必要性が切実でなくなるとともに、教育社会学の対象も拡散し、その性格や内容も徐々に変容していった。
 だが、教育社会学の存在理由は、やはり政策科学であるという点にある。ことに、さきにもふれたように、一連の教育改革が進められているなかで、これからの教育をどうするかという政策的議論を建設的なものにするためには、教育社会学が蓄積してきた、そして現在も蓄積しつつある実証的な調査・研究が必要とされているといえよう。
 

 2 教育政策と教育世論

 教育政策と経済政策とが密接に結びついていた1950年代後半、文部省も「職場における学歴構成」(1954)、「職業と学歴」(1955)、「大学と就職」(1957)といった調査を精力的に蓄積してきた。こうした研究蓄積が、文部省白書「日本の成長と教育」(1962)、経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」(1963)に反映された。しかし、これらの政策提言は、当時の教育界から「独占資本に奉仕する労働力確保が教育の役割ではない」といったイデオロギー色の強い批判を浴びた。海外では、日本の経済成長は教育の成果であるという見解が広く流布されたが、日本では暗黙のうちに、教育と経済を結びつけた議論がタブーとされて、62年の文部省白書も封印されてしまった。その後、文部省が自ら実証的な調査・分析をおこなうことはほとんどなくなり、文部官僚が分析能力を育成することなく現在にいたっている。
 実証的分析にもとづく現状の理解が不足すると、政策は世論に振り回されやすくなる。現行の教育改革の根底にあるのは、教育の市場化論の発想である。これは、政府による資源の制度的割り当てよりも、市場による資源配分のほうが効率的で間違いないとする発想である。つまり、政府の介入を排除(規制緩和)し、学校を民間企業と同じように運営(民営化)すれば効率的な資源配分が達成され、財政の無駄がなくなるという主張である。
 こうした市場化推進派に対して、反対派は反対する材料を持ち合わせていない。とくに経済において規制緩和が必要なことが誰の目にも明らかである以上、推進派の主張が世論の大勢を占めやすい。けれども実は、教育における政府の資源割り当てが非効率的であり、財政に余分の負担を与えているのか否かは明らかにされていない。そのことを文部(科学)省も主張できないため、教育改革も世論に引きずられるかたちで市場化の方向に進みつつあるのが現状である。
 

 3 「個の科学」と「平均の科学」

 いうまでもなく、政策は社会全体に適応される。社会全体を一つの単位(主体)としてとらえ、対象とする分析をマクロ分析という。それに対して、社会の構成員一人一人を単位とする分析をミクロ分析という。一般に、社会科学はマクロ分析、人文科学はミクロ分析を扱う。
 社会科学のなかでも、典型的なマクロ分析をおこなうのが経済学である。経済学は各個人の行動を説明することには関心を払わない。むしろ積極的に、この関心を拒否している。多数の人を集計した「合計」、あるいは全体の「平均」的な行動を説明し、予測する。当然、不規則な個性的行動は説明されない。ただし、経済学が不規則な行動の存在を否定しているわけではない。不規則な行動が存在したとしても、全体的には平均化されるから、全体の予測には不都合がないと判断されているのである。これが「平均の科学」であり、統計的手法に依拠した研究はこちらに属することになる2)。
 一方、教育学は人間の行動を観察する距離が「平均の科学」よりもずっと近い。極端な場合は、一人一人を観察対象とする個性的な行動を説明するのがよいとされる。これは「個の科学」であり、典型的には臨床学の研究方法にみられる。教育に関する議論は、意識的にしろ無意識的にしろ、「個性重視の教育」「一人一人の顔が見える教育」といったように「個の科学」に近い発想になりやすく、個人の体験が議論の中心になることも珍しくはない。
 けれども、「個の科学」からはマクロ社会レベルでの政策を立案することはできない。政策科学としては、どうしても「平均の科学」が必要とされる。教育政策も例外ではない。市場化推進派は「平均の科学」の発想に立っており、「個の科学」の発想とでは議論が成立しない。市場化推進派に反対するためにも、教育を対象とした「平均の科学」が必要なのである。
 ここで少し私見を述べさせていただきたい。矢野の議論をふまえれば、「個の科学」的立場から「教育に効率という概念は馴染まない」と主張しても、これは何ら有効な反論にはならないということになる。政策とは、社会的に有限な資源をいかに効率よく用いるかに関する基本的な社会の合意であり、「効率」を受け入れられないという主張は、それだけで従来の教育が非効率的であったことを傍証するものとされかねない。したがって、教育に関する政策的議論の土俵にあがるためには、「平均の科学」の発想にもとづき、「効率」をプラスに評価する発想が必要となる。その議論は、どの方法がより効率的であるのかをめぐってなされることになる。ただし、教育における効率性は、単純な経済的効率性とは必ずしも一致しないと考えられる。
 

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