以上、矢野眞和『教育社会の設計』を手がかりとして、政策科学としての教育社会学の方法と、「何を」「どのように」問題にしてきたのかを概観してきた。社会から隔絶して行われていると思われやすい研究も、その時々の社会的文脈と深くかかわっている。
たとえば進学率の上昇は、かつて、それ自体が一つの「善」であると考えられていた。社会的にもそのように考えられ、また多くの研究者も同じ価値観を共有していたように思う。能力さえあれば進学して、出身階層のしがらみから離れ、より社会的上層に入ることができるというメリトクラシーが広く信じられ、学校は貧富の差などの出自による刻印を消し去る場として機能する場として想定されていた。
こうした学校のメリトクラティックな機能に対して、フランスの社会学者・ブルデューによる「文化的再生産論」は根本的な疑念を提出した。文化的再生産論は、人々が出身階層による差を消却するメリトクラティックな機能を期待している学校という場において、実は出身階層がもたらす差異が持ち込まれている(密輸されている)と主張する。学校で教えられる知識の体系は中産階級文化に属しており、その文化の中で育てられた中産階級出身者は、それだけ学校知と馴染みがよく、労働者階級の出身者よりも学校で成功しやすい。学校でよい成績をとったエリートと、よい成績がとれなかった労働者とは、それぞれ自分の所属階層をメリトクラティックに(業績主義的に)決まったものとして受け入れざるをえないが、実は、その差はもともとの出身階層の差が文化的に再生産されたものであるというのがブルデューの主張である。
この「文化的再生産論」は日本の研究者にも大きな影響を与え、多くの研究者が実証的にその存在を明らかにしようとしてきたが、私見では、これまでのところ、それほど明確な再生産メカニズムは見出されていない。けれども、この数年、話題を集めている「中流崩壊」「階層化」「階層固定化」などの議論をみると、日本社会においても、今後は「文化的再生産論」がよりリアリティを持ってくるのではないかと思われる。
「学歴」についても同様である。時代的背景によって、その捉えかたは大きく異なってきた。人的資本理論では教育は労働力の質を高めるものとされ、学歴はその質を示す指標であると考えられた。メリトクラシーの立場からは、本人の努力によって獲得された一種の業績だとされたし、その後、獲得段階では業績であるが、就職してからは属性として機能するという議論もなされた。あるいは、学歴は人々をふるいわけるスクリーニングの機能をもつという説も有力である。日本では人々は大学入試の際に「新たに生まれ直す」というドーアの議論もある。これらの議論は時代によって主流派となり、時には忘れられてもきた。
物理学や天文学のような、より客観的とされる研究領域であっても時代や社会の文脈から自由ではない。政策科学であればなおさら、その文脈に規定されるだけでなく、より積極的に文脈をとらえなければならない。そのうえで、しかも世論に流されないためには、やはり「平均の科学」に立脚することが重要である。平均値で語りながら、その説明や予測を社会全体に適用できるものにするためには、調査・分析のトレーニングが欠かせない。教育に関する議論も、これからは「平均の科学」を回避することはできないだろう。
しかし「平均の科学」にリアリティを与えるのは、常に現場である。リアリティがあると現場から受けとめられるような説明でなければ、その説明は成功したとはいえない。そのためにも、現場と研究室とを往復しつつ、これからも研究を続けていきたいと考えている。
注
1)煩雑さを避けるため、以下では一つ一つの引用個所をあげることはしない。また、今後のヴィジョンについては、ここではふれる余裕がないが、小文によって関心をもたれた方は是非、同書を直接、読んでいただきたい。
2)経済学は、だから、各企業の行動を説明・予測することはできない。経済学者が株で儲けることが(ほとんど)ないのも、このためである。
3)ただし、日本の経済成長に対する国際的な関心=「なぜ日本は驚異的な経済成長を達成したか?」は、新規学卒一括採用・終身雇用・企業内組合という日本的雇用慣行と大衆レベルでの労働力の質の高さとの関連に着目してきた。この視点から外部効率性の問題にアプローチした研究として、学校から労働市場への移行(トランジション)を対象とした一連の研究がなされている。