特集 : シンポジウム「17歳〜高校生の生活実態と学校」
 
4. 中流崩壊・格差の拡大と固定化

(1)塾・予備校の考え方
 今回の新学習指導要領を塾や予備校は格好のビジネスチャンスととらえている。 日能研中学入試情報センターの井上氏はその著書 (『私立中高一貫校しかない』) の中で2002年 (小中学校学習指導要領完全実施) を 「超・教育階層化社会」 元年と表現した。 社会構造の変化と公立学校のゆとり化 (授業時間や授業内容の削減) が文部科学省の方針を受け入れる立場にない私立中高一貫校と公立学校の格差をさらに拡大するとした。 そして、 教育に投資する意識の高低は親の階層に比例するといった論を展開する。 
 また、 「総合的な学習の時間」 の導入は小中においても公立学校間格差を生じるとしている。 「総合的な学習の時間」 は国際理解の名目で英会話、 環境や情報の名目で理科や数学の授業が行えるとし、 その一方で生活指導に明け暮れる地域の学校では指導要領の最低基準をクリアするのにさえ精一杯になるだろうと言うのである。 「総合的な学習の時間」 をうまく利用できる学校はさらにうまく行き、 そうでない学校は基礎のみの徹底に終始するのでこの時間が学校間格差を助長する決定的な要素になると述べる。 
また、 学校五日制についても難関校と目される学校で六日制堅持の方向が強く、 五日制に移行する私学でも70分 5 コマなどといった授業システムの工夫で授業総時間を六日制とほぼ同じにしているという。 つまり、 授業時間数に限れば格別ゆとりの時間を生み出しているわけではない。 
氏は今後10年の内に階層格差は一層広がり、 階層の固定化も進むと予想する。 最下層からの敗者復活の望みは階層化社会であった戦前より難しくなると予言する。 戦前では師範学校や軍の学校が敗者復活の道であったが、 現在はそれに相当するものが見あたらないと考える。 最後に氏は階層を上昇する希望がもてない世相は未来の敵だと締めくくる。 
「21世紀日本の構想」 懇談会が 「結果の平等」 に別れをつげ 「新しい公平」、 つまり 「公正な格差」 とでもいうべき考え方を導入するべきだと言っていたが、 「機会の平等」 が保障されない世の中は確かに停滞するだろう。 保護者のニーズに敏感な塾の関係者であるからこそ井上氏の予想は現実味を帯びて迫ってくる。 

(2) 教育社会学者の危惧
 教育社会学者の苅谷氏は 「中流崩壊」 に手を貸す教育改革と題して(『中央公論2000年 7 月号』)、 「個性尊重」 「自己責任」 を唱える改革論は、 理想像から出発した 「べき論」 にすぎず、 若者の実態を見ると、 意欲と努力と学力の格差が広まり、 機会と結果の不平等は拡大する一方だと述べる。 
 氏は 「自ら学び、 自ら考える」 「生きる力」 を持つ 「自己責任社会」 の担い手を経済学者の金子勝氏の 「強い個人」 という表現で示す。 新学習指導要領はこの 「強い個人」 を作り出す手だてとして、 学ぶ意欲や興味・関心を育てることを重視し、 その具体的方法として 「意欲・関心・態度」 を評価する 「新しい学力観」 に基づく評価法が導入され、 2002年からは体験的学習が重視される 「総合的な学習の時間」 が新設されるに至ったと説明する。 
 そして、 氏は 「強い個人」 の形成においても社会階層による差異が拡大しつつある傾向を次のように説明する。 

 個人の意欲や興味・関心、 さらにはそこから導かれる 「努力」 といった面でも、 階層間の不平等が拡大している。 個人の自立と自己責任が求められる中で、 現実に進行しているのは、 結果の不平等と、 機会の平等の大前提となる意欲や努力の不平等なのである。 
 しかも、 意欲や興味・関心の階層差の拡大は、 教育の世界で個性尊重がより強調される中で生じている。 心理学的に現実を理解しようとする傾向が社会に広まる中で、 私たちの多くは、 社会による強制を抑圧と見なし、 個人の選択や自由の拡大を尊重してきた。 このように 「個人」 が尊重される中で、 個人の形成にかかわる社会的・文化的環境の階層差が拡大しているのである。 

 氏が言うように、 個人をとりまく社会的・文化的環境の要素を忘れると、 「意欲の低下した人々」 「自分さがしがうまくできない人々」 「自己実現に失敗した人々」 はその結果を自分で引き受けなければならなくなる。 それは、 「生きる力」 を育てるという今回の教育改革にも通じることだ。 「総合的な学習の時間」 に限らずさまざま学校生活の中で、 うまくできない子ども達はこれからも必ず出現するだろう。 だが、 中教審や財界の考え方によれば、 社会的・文化的要素から生じる階層差は無視され、 失敗は子ども達自身で責任をとらなければならなくなってしまう。 真に改革を必要としているのは多くの分野における格差の拡大と固定化のはずだ。 
 教育改革の今後について氏は次のようにまとめる。 

 おそらく現状における 「ゆとり」 と個性尊重の教育改革は、 「強い個人」 の形成にはつながらないだろう。 実際には、 教育の多様化がますます進み、 若者の意欲と努力と学力の全般的な低下と格差の拡大とが生じるばかりである。 その結果、 「強い個人の仮定」 による自己責任社会の基盤は、 足下から崩されていく。 

 塾の関係者と教育社会学者がともに悲観的な未来予測を行っている。 両氏は現実に子ども達や保護者、 現場教師などにに接する機会があることや、 各種の調査結果から判断していることを踏まえると、 文部科学省のほうが楽観的すぎるのだろう。 

(3)文部科学省の方針転換
 2001年 1 月 5 日付の読売新聞が 「ゆとり教育抜本見直し/学力向上に力点」 と一面トップで報道した。 この記事は、 文部科学省が 「授業時間削減によってゆとり教育が学力低下につながらないよう、 教育行政の流れを大きく転換する」 として、 @指導要領は最低基準であり、 その範囲を超える授業も行って良いA私立中学入試の難問を容認するB 「総合的な学習の時間」 は教科教育の一環などと報じた。 ところが、 その後、 日本教育新聞の報道では、 この直後に読売の報道を全面的に否定する見解を文部科学省が都道府県教委連合会や各校長会に非公式に伝えたらしいとある。 
しかし、 2 月19日付の朝日新聞に町村信孝文部科学相へのインタビューが掲載された。 大臣は学習指導要領の最低基準としての性格が明確になったとし、 指導要領を越えた授業を実施することを認めるとした。 また、 私立中の難問については、 願わくばやめてほしい、 英語を受験科目にするのもどうかと思うといった消極的な回答をしている。 「総合的な学習の時間」 で英語を一律的に教えると受け止められていることは誤解であるとし、 この時間が教科的になることを否定した。 だが、 英語教育については一方で、 週刊朝日 3 月 2 日号の 「ゆとり教育大転換の現実性」 という記事中、 自民党文教族の下村博文代議士が 1 月24日に 「新指導要領と教育関連法案で教育はこう変わる」 というセミナーを開催し、 「総合的な学習の時間を使ってかなりの小学校で英会話が導入されるだろう」 と講演したことが報じられている。 また、 2000年に設置された英語指導方法等改善の推進に関する懇談会の報告は小学校の 「総合的な学習の時間」 を使い英語教育を行うことや、 それにともなう教員研修などにも言及している。 
 小学校において、 「総合的な学習の時間」 は総合学習から遠く離れた単なる英会話学習の時間になるのだろうか。 あるいは、 授業時間を削減された教科の補填、 そして体験学習などを子ども達が進路や意欲・関心によって選択的に学習するのか。 特に都市部にあっては私立中学入試との関連は無視できない。 既に、 大臣のインタビューにある通り、 一部の私立中学入試では英語が選択、 あるいは参考として受験科目に登場している。 小学校から知識の内容に格差が生じ、 それが中学・高校へと進学する中でより開いていく構図が予想される。 「総合的な学習の時間」 は教科学習の減少を補う流れと教科教育とは無関係な、 そして総合学習から遠いゆとりの時間・体験学習・英会話などへと分裂するのではないか。 こういった悲観的な予測も成り立つ。 
 

5. おわりに

  「総合的な学習の時間」 に代表される新学習指導要領は学校に競争原理を導入し、 義務教育を解体するといった点で高校よりも小中学校に深刻な影響が出ることが予想される。 さらに、 階層格差の拡大と固定化が現在よりも進行するといった社会的な要因が加味され、 高校における学校間格差はより明瞭に小学校からの競争路のゴールとして、 新学習指導要領や財界風に言えば自己責任の結果として意識されるのであろう。 
 8 月18日付朝日新聞に 「できる子に特別授業」、 同紙19日付に 「20高校で理系英才教育」 という記事が報じられた。 小学校から子ども達の選別を開始していくプログラムが現実のものになりつつあるようだ。 選別と競争が激化する中で、 本当の意味での総合学習を構築することはとても困難な作業になりそうだ。 
 だが、 悲観的になってばかりもいられない。 2003年から 「総合的な学習の時間」 は始まる。 子ども達の可能性を信じ、 彼ら彼女たちの現実から発想した 「総合的な学習の時間」 はつくれないものだろうか。 「総合的な学習の時間」 を本当の意味での総合学習に編成し直すことは、 混迷の度を深める現代社会を生きる子どもたちにとって必要不可欠なことと考えられる。 その視点として、 日教組が示してきた総合学習の理念を再度確認することが必要だろう。 そういった意味での 「総合的な学習の時間」 を構築する試みは、 学校現場がこれまでの教育実践を見直す好機となり得る可能性も秘めているのではないだろうか。 

参考文献 
久田俊彦編 『共同でつくる総合学習の【理論】』  フォーラムA
久田俊彦他編 『共同でつくる総合学習の【実  践】』 フォーラムA
教育評論 1996 年 8 月号
中央公論編集部編 『論争・学力崩壊』 中公新書
中央公論編集部編 『論争・中流崩壊』 中公新書
井上修 『私立中高一貫校しかない』  宝島新書
高等学校教育問題総合検討委員会編 『総合的な 学習の時間QandA』

(かなざわ のぶゆき 教育研究所員 県立元石川高校教諭)

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