エッチの先には愛がある?
−わたちゃんの「現代社会」ノートから−

綿引 光友  

 
 

 はじめに

 私が「現代社会」という科目と向き合うようになって、ちょうど20年。手探り状態であったが、職場の同僚教師とともに文字通り「共育実践」に取り組んだ経験は、その後の私の授業観に大きな変革をもたらした。ある年度には、5人の社会科教師が12クラスの「現代社会」を担当することとなったが、週2時間ずつの打ち合わせ時間を時間割表に組み込み、そこでの検討を経て、同一教材・同一授業・同一テストによる授業を展開した。私自身も教育実習以来はじめての経験だったが、各単元ごとに学習内容・時間配分さらには板書事項まで盛り込んだ「指導案」(授業マニュアル)を作成し、それを手にして教室での授業に臨むというシステムを同僚教師とともに作り上げることができた。「指導案」づくりは輪番としたが、教師の力量が試された。打ち合わせに出した「指導案」が批判され、全面書き直しをすることもあり、「指導案」づくりが間に合わないために、1時間分の授業を2時間に水増しして次の「指導案」を待たなければならないクラスもあった。
 徹夜で「指導案」づくりに取り組むこともしばしばで、まさに「難行苦行」の連続であったが、教師の協力・協同によって1時間、1時間の授業プランを練り上げる醍醐味も味わうことができた。こうした協力・協同による「現代社会」の授業づくりは約10年間続いたが、ふりかえってみて「よくぞ続いたものだ」と思わざるをえない。これから報告する「性」の授業も、私の個人的な思いによって提起し、実践に移すこととなったが、こうした協力・協同による実践体制があったからこそ、実現できたと思っている。先輩教師から「そのようなことは学校で教えなくても自然に身につくものだ」といった助言もあったが、平均年齢も若く、新しい科目ということも手伝ってチャレンジ精神が旺盛だったからこそ取り組めたのかもしれない。ちょうど15年前の話だ。
 拙稿では、初期の実践と最近のそれとを紹介しながら、高校生に「性」の問題を「生」や「人権」とも結びつけて考えさせることの今日的意義について述べ、できれば今後の実践上の課題にも言及する。
 

 「性教育」へのめざめ

 正直なところ、私自身でさえ、「性教育」というジャンルに足を突っ込むことになろうとは思いもよらなかった。多分、「あの事件」と出会わなければ、さらには「現代社会」と出会わなければ、きっとかかわることはなかったであろう。
 「あの事件」というのは、20年以上前にさかのぼる。私の授業担当クラスの女子生徒(高校1年生)が妊娠し、出産するというできごとがあった。相手の男性(28歳)も、はじめのうちは「責任をとって結婚する」ような素振りを見せていたらしいのだが、最後は逃げてしまった。したがって、彼女はたったひとりで子どもを産み、その子どもを育てるために高校を退学し、働くこととなった。
 退学する日、私のところに挨拶に来たので、どうしたらよいかいろいろ悩んだ末だが、ささやかな「出産祝い」を彼女にプレゼントした。こうした問題にまったく無知であり、その生徒のために何もできなかった自分が情けなかったが、せめて生まれてきた子どもには、「おめでとう、しあわせになってね」と言ってやりたかったからだ。しかしそのときは、自分が「性教育」を担当することになろうとはまったく考えていなかった。当時はまだ「家庭科」は女子のみ必修であったが、それを男女共学とし、「性」の問題を授業で取り上げるようにしたらよいのではないかといったことを同僚と話し合った。このときの議論は、男性教師ばかりの職場であったこともあり、今考えると恥ずかしいが、「再発防止」の観点がかなり前面に出ていたように思う。
 教育課程の改定もからみ、議論が白熱化したころ、私は転勤することとなった。新しい職場(S高校)では、翌年度(1982年度)から導入される予定の社会科必修科目「現代社会」をどのように扱ったらよいか、社会科内での議論が始まった。夏休みには「社会科研修旅行」と銘打って、全員参加(当時は6人)のもと、同僚が所有する山荘で2泊3日の合宿をし、新科目「現代社会」の授業をどうするか、採択が決まったばかりの教科書の読み合わせや検討などもおこなった。あわせて5時間近くにおよぶ議論もさることながら、男ばかりによる不慣れな手つきによる「食事の自主編成」もなかなか楽しかった。この「合宿」が原動力となって、私を含めた3人の担当者による、いわば3人4脚の「現代社会」授業がスタートしたのである。
 しかし、スタート当時は「難行苦行」といわれた週4時間分の「指導案」づくりに追われ、「性」の問題を「現代社会」の授業のなかで取り上げてみようとは私自身も思いつかなかった。

 教師もドキドキ −87年度の実践−

 「『現代社会』は教育現場の試金石」とのとらえ方もあって、毎年度末、1年間の授業実践総括が行われた。この総括をもとに、翌年度の授業をどう組み立てるか社会科で話し合うのである。そうした議論の積み上げによって、ちょうど5年目頃から、「生徒の目線に立った授業を」ということを考えるようになった。つまり、生徒のニーズにあわせた授業内容をもっと追求すべきではないかということだった。そのような議論から、86年度にはじめて、「生と愛と性を考える」という1項目が「現代社会」の授業のなかに取り入れられたのである。したがって、86年は私にとって「性教育元年」にあたる。
 残念ながら、このときの詳しい授業記録が手元に残っていないので、ここでは翌87年度の授業内容を紹介したい。テーマを「愛と生と性を考える」とし、「愛」と「生」を入れ替えたが、内容的にはほぼ前年度のものを受け継ぎ、一部修正を加えた。もちろん、同僚の社会科教師とともに作った「共同実践」だが、これは私にとっての「性教育」の原点となるものである。古いものをわざわざここに示すのも恥ずかしいが、比較する意味からもあえて掲げることとした。

<資料1> 1987年度の授業構成

項   目 方  法 時 間
(1)高校生にとって「性」とは? アンケート
ビデオ*1)
(2)ささげつくす性
1.ある少女の“悲しみの性”
2.なぜ拒否できないのか
ミニレポート
(3)愛し合っていればCも当然?
1.診察室から見えるもの
2.人工妊娠中絶とは?
ビデオ*2)
(4)文化としての人間の性  
(5)終わりに 感想文
*1)「性」(25分)労働教育センター
*2)「少女たちの産婦人科診察室」(45分)NHK番組の録画

 このときは、私以外の教師はいずれも初めての「性教育」の担当となり、毎時間冷や汗もので、ドキドキしながらの授業となった。しかし、この授業をともに実践した同僚教師は、「教員として授業をするようになってから、いまだかつて味わったことがない程の手ごたえを味わえた授業となった」と述べている。
 授業の最後に書かせた生徒の感想には、「生きていく上でとても大切で、かつとても難しいこと」「この授業は後々まで私の中に残り続けると思います」「イヤラシイ、不潔なことというイメージが一変した」といった声が寄せられた。生徒は多少の戸惑いを見せながらも好意的に受け止めてくれたが、先に示した授業内容の一覧を見れば明らかなように、どちらかというと「悲しみの性」や「傷つける性」に傾斜したものであることは否めない。もちろん私たちの中には、「だからセックスはしない方がよい」などといった短絡的な考え方は皆無であったし、結論を生徒に押し付けるような授業にはならないよう心掛けたが、一面的と批判されても仕方あるまい。ひとえに研究不足と未熟さのなせる業であろう。
 しかしそれでも、先の教師の述懐にあるように、生徒を真剣にさせ、引き付ける授業ができたことが何よりもうれしく、「やりがいのある授業」となった。それ以降、これが原点(原典というべきか)となり、「性脅育」ではない「性教育」の授業を模索することが私のライフ・ワークの1つとなってしまった。

 世紀末?の「性」の授業 −2000年度の実践−

 S高校を離れてからは、授業内容やその進め方について相談する相手もなく、「ひとりぼっち実践」となった。S高校での蓄積をもとに生徒の実態や時代変化に合わせて、教材の更新はもちろんのこと、内容の加除・組み替えをおこない、今日に至っている。独り身の気楽さはたしかにあるが、一方ではこの問題の奥行きの深さにいまさらながら驚くとともに、力不足・勉強不足をいやというほど痛感させられている。
 T高校を経て昨年(2000年)、長後高校に転勤となり、3年ぶりに「現代社会」を担当することとなった。週2時間というのは初めての経験だが、「現代社会」を導入したころの初心に立ち返って授業に取り組んでみようと決意した。「青年期の愛と性」とのネーミングで行った2000年度の授業構成(11時間)を以下に示そう。

<資料2> 2000年度の授業構成

項   目 方  法 時 間
(1)病院に運び込まれた女子高校生 ミニレポート
(2)性交する前に考えること  
(3)避妊と中絶について考える  
(4)「産む」お産から「産ませる」お産へ ビデオ
(5)どう考える?援助交際 ミニレポート
(6)しのび寄るSTD  
(7)エイズは怖くない  

 先に示した87年度の実践と比べると、導入部分はほとんど変わらないが、後半に「援助交際」「STD(性感染症)」「エイズ」などが入っており、この数年で大きく変えた部分でもある。T高校のときは、「エイズ」のところで「私を抱いて、そしてキスして」(106分)などのビデオを見せた年度もあったが、週2時間という時間的制約を考えて、ビデオは(4)の部分で使用した「弟たちの誕生」(31分)の1本だけにした。
 1時間目の「病院に運び込まれた女子高生」は「性」の授業の導入としては定番となっている。以前は各人黙読させていたが、今回は「読めないよ〜」といった声があがったので、『さらば悲しみの性』(河野美代子、高文研・刊)の一部をプリント裏表に縮小印刷した資料(全文でおよそ7,000字分)を朗読した。すると、いままで騒がしかった教室内が水を打ったように静まり返った。朗読するだけでも15分から20分近くかかり、正直いって読むのもけっこうたいへんだったが、プリント越しに生徒の様子を見ると、ほとんどの生徒が真剣な顔付きとなって食い入るようにプリントを見ていた。
 残り時間は「ミニレポート用紙」を配って、「彼氏、彼女に私は言いたい」とのテーマで感想・意見を書かせた。「これでは彼女がかわいそう」とか「あんな彼氏は許せない」など生徒は素直に怒りを「ミニレポート」(B6大)にぶつけるようにぎっしり書いてきた。そこで、次の時間には同じクラスの仲間がどのような意見を書いているかを互いに知ることも大切と考え、全員分の「ミニレポート」を読み上げた。予想どおり彼氏の行動に批判を集中させたものが多かった。読み終わったあと、対等な男女関係を築くことができないために、「嫌なことは嫌!」とはっきりと相手に言えなかった彼女の弱点を指摘した。
 そして最後は、得意のダジャレで、「これをNOと言う能力というんだ」と言ってオチをつけた。
 (2)(3)(5)などでは、この授業を始める前に行ったアンケート(ちょうど直前がテスト返却の時間だったので、答え合わせと解説のあとに「生と性アンケート」を実施)の集計結果(5クラス分)を示しながら、すすめていった。
 ビデオ「弟たちの誕生」は、親子が出産に立ち会い、3番目の子ども(双子の男の子)の誕生を迎えるという内容だが、T高校時代から必ず見せている定番ビデオの1つである。はじめて見る出産シーンに驚く生徒も少なくないが、素直に感動し、涙をにじませる純情な(?)生徒も時々いる。今回、このビデオを見せたあと、その感想とともに、「あなただったら、立ち会うか(立ち会ってほしいか)」をアンケート形式で聞いてみた。すると、回答のあった男子(44人)の43.2%(19人)が「立ち会う」と答えている。女子(57人)は男子に比べやや低かったが、3人に1人(実数は19人)が「立ち会ってほしい」という思いをもっていることがわかった。数年前にも同じことを生徒に聞いたことがあるが、そのときは、「立ち会いたくない」「立ち会ってほしくない」と答えた者の方が多かった。少子化社会を迎え、立ち会い出産をすすめる病院が増えつつあるという時代変化の影響なのか、それとも今の高校生のもつ「やさしさ」の現れなのだろうか。
 (7)では、「薬害エイズ」によって17歳という若さで亡くなったM君の事例をもとにしながら、エイズの症状・感染経路や予防などにふれた。続く2時間目には、「薬害エイズ」の感染者と結婚し、さらに出産した女性(その後の検査で母子ともに陰性)が書いた『希望の子』(ワニブックス)という本の一部をプリント資料にして読ませた。こうした実話を通じて、感染者やその家族の思いを読み取ることによって、「エイズは怖い」といった偏見や差別を持ってはならないことを自然と理解してくれるのではないかと考えた。

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