特集 : シンポジウム「17歳〜高校生の生活実態と学校」
 

シンポジウムをふりかえって

武田 麻佐子 

 

教育研究所は、従来から若者の変容に注目し研究を行ってきた。また、高校再編も大きなテーマとして取り上げながら、学校改革を研究してきた。
 今回のシンポジウムは、研究所が高校生の生活実態調査を行ったこと(『教育白書』2000参照)や、マスコミで少年が関係する事件が大きく報道されること、それに伴って、教育制度や内容が盛んに議論されている中での開催だった。「17歳〜高校生の生活実態と学校」というタイトルがはば広くとらえられるものだったため、参加者の期待もさまざまであったと考えられる。
 シンポジウムに当たっては、現場で日々生徒と対応している教員、生徒の内面にふれることの多いカウンセラー、社会学的に研究を積み教育改革への提言なども行っている研究者と、違った立場の方にシンポジストを依頼した。これは、いわばミクロ・マクロの視点それぞれから、今日の若者や教育を論じていただき、立体的に議論を深めようとの意図からである。そのような点から考えると、いくつかの課題が浮かび上がったように思う。以下、シンポジウムを振り返っての雑感と、今後の研究所の研究課題となることについて述べてみたい。
 

 高校生の自尊感情と、学びからの逃走

 二人のシンポジストから、学校生活の中で授業に価値観を見いだせない生徒、人間関係をうまく組み立てられない生徒、自分に自信がもてない自尊感情が少ない生徒の実態が報告された。シンポジスト2名は、教科を教え生活指導も行う教員と、評価や指導といったことからは一歩離れたところで生徒と接するカウンセラーであったが、実際に生徒と接している立場からの報告では、その高校生像にはかなり重なるところがあったように思う。次に社会学的な視点から、自己有能感と現在志向が社会の階層の中でどのように位置付いているかという報告があった(詳細は再録と苅谷氏のデータ参照)。
 ここで、3人の議論がかみ合っていないのではという見方もあるようだが、3人の報告から、現在の若者が、内面の不安を抱えながらも、学校的な場から逃走し、違うところで今という現実を楽しむ姿が、明らかになったと考えられる。シンポジストの視点が、現場からと研究の中から見えてきたことであったからこそ、若者像とその背景が浮かび上がってきたように感じた。
 もちろん、若者の内面は単純にはとらえられない。多くの大人の目に触れるように、自尊感情がないどころか、自己中心にしか考えない、という側面は大きい。しかし、その裏面では、自信のなさや未熟さ、弱さを持ち、他者の目を気にして人間関係におびえている部分もある。一方それらを隠すため自分を誇示する行動もある。さらに、会場からの発言にもあったように、大人に見せる内面には限度がある。大人であっても一人称で自己を他人に語れる人間はそう多くないのと同じだ。また、これも会場からの発言だが、弱い立場で、弱い自分を抱えながらも、それでも人間はしたたかに生きていく存在でもある。これらが複雑に絡み合っていることを念頭に置かないと、一面的な像しか見えないことはいうまでもない。
 そういったことを踏まえた上、今回の討論を考えてみても、弱さも含めたさまざまな内面を持つ生徒達に対して、現在の高校には何ができ、何ができないのか、学習内容の問題・カウンセリングやサポートなどの教育相談的な問題・学習集団のあり方の問題など、それぞれを整理していく必要があると思われた。
 今回のシンポジウムから見えてきた、社会の階層化という問題と若者が自分の居場所を見つけだす構造については、さらに先行する調査なども収集しながら、研究をすすめることが必要だろう。学校的な知や規律の体系の中での居心地の悪い者は、大人からみるといわば「公的な」学校という場ではないところで、今を楽しむ場所を見つける。現実の苦しさや将来への閉塞から逃れられるように感じる居心地の良さを探す。そして、学校文化から逃走している自分を自分で肯定していく。 それは社会学的にみて一定の階層に多い現象なのではないかという。この学校的な知(あるいは今まで大人の持ってきた文化や常識)からの逃走は、高校生段階で急激に起こるものなのか、それとももっと年齢的に下の中学生や小学生段階にも広がりつつある現象なのか、義務教育段階での研究をすすめている機関との今後の連携も行っていきたい。
 

 社会の階層化

 今回、苅谷氏の提示された問題で参加者にもインパクトを残したのが、上記の例にもみられるような、階層による格差の問題だった。氏は、今までは平等という概念の下に、あってもないように扱われてきた「階層」という観点に日本の教育が踏み込んでこなかったという問題点を指摘された。
 階層という概念は、私たちが学校間「格差」などと呼んでいるものと、実態として、どのように結び付いてくるのかという整理は、今後必要だと思われるが、学校文化からの逃走という現象は、下位層ばかりの問題だろうかと考えた。前述の教育研究所アンケートでは、意識の差を研究するため、便宜上「進学校・中堅校・課題集中校」という分け方を用いたが、中堅校の生徒の意識が、かなり変化(課題集中校の生徒の意識と重なる部分が多くなる)しているとみられる。学びからの逃走も、一部生徒に起こるのではなく、今後は中位層以下で広く浸透し、一方少数の上位層との意識の差は拡大してくるのかもしれない。教育改革の中で考えられている政策からみても、一握りのいわばエリートと呼ばれる人間にとっては、その能力を伸ばす場所の保障が示されていくようだが、多くの生徒にとって、学歴が人生の保障となり得ない・終身雇用という旧来の働き方も崩れつつあるというような将来への不透明さの中で、学校的な学習や文化はどんどん肯定されなくなっていくのかもしれない。その現象が一部ではなく、静かに広がる時、今までも提唱してきたように、課題集中校が学校改革を進めるということから一歩踏み出し、その実践を共有し、「課題集中校からの」学校改革の視点をさらに広げていくことが重要になってくるだろう。

 

 これからの学校改革

 人は自分と同じ階層を中心に社会を考える。(便宜上、上中下位層という言葉を使っておくが)上位や中位といわれる階層の人間は、今の世の中でそれが当たり前のようにとらえていく。下位の階層の人間も階層が生じているとは自らはいわず、皆中流という意識の中に自分を置くのかもしれない。しかし、もはや階層格差が生じてしまっているならば、それは今後拡大再生産される可能性が大きい。20年、30年後の社会はさらに階層化がすすみそれは均等に三等分ではなく、少数の上位層とその他という構成になっていることも予測される。大人にとっても、子どもにとっても、将来への不透明さは今までのどの時代よりも大きい。さらに市場原理に基づく新たな競争がすすみつつある。昨今使われだした「勝ち組」「負け組」という言葉はいやな響きを持つが、階層化された社会の中で、勝ち・負けは人生の早くから見越されたものとなり、「負け組」と見えてしまった人間は、学校ばかりではなく旧来の社会や文化からも逃走するかもしれない。
 シンポジウムの中でも苅谷氏からの「教育は下の階層に厚い配分を」と言う指摘があったが、それは具体的にどうすることかを考えていくことも研究所のテーマであろう。(苅谷氏の考える教育改革については雑誌『世界』2000年11月号の論文を参照されたい)シンポジウムを聞きながら、生活の基盤である福祉と多くの人が人生の早い時期を過ごす学校(教育)に対しての傾斜的な配分という発想は、今考えておかないと将来は間に合わなくなることかもしれないと討論を聞きながら考えた。
 現在、県内で教育改革が進んでいるが、この動きは下位のグループに厚い構造になっているだろうか。とりわけ今回の県の高校再編で、下位のグループの生徒の学習を保障できるのかどうか。再編対象校の多くが課題集中校であり、従来受け入れていた生徒達を受けとめた上での学校改革であるか、結果として新たな格差構造をつくるだけのものとなってしまうか、問われていくだろう。情勢からして財の配分については、いかんともしがたいものがあるのかもしれないが、現場においては、学びからの逃走の中にいる若者達にどのような学習や活動の場を提示できるのか考え、必要な措置を要求をしていくことは大切だろう。
 また、「個人の能力」「選択の自由」「自己の責任」が強調され始めた社会での、若者の内面に対する研究とサポートの体制は今後一層重要になってくるだろう。
 現在、若者の傍若無人ぶりに対する大人の怒りは心頭に達し、少年法の「改正」・道徳教育の強調・奉仕活動の強制・教育基本法の「改正」・戦後民主主義や歴史観の見直しなど、心情的な教育改革論は喧しい。それに対する我々の側は、一般の市民や若者に冷静で説得力のある理論を提示し得ているだろうか。子どもの人権、希望者高校全入運動などへの総括は十分だろうか。研究所の役割の一つは、学校関係者以外も含めて教育論議をするための工夫をすることだろう。特に当事者である若い世代に、どのように関わってもらうのかは難しいが重要なテーマだ。
 今回の 参加は107名。そのうち学校関係者以外と思われる方は33名。アンケート集約からみると30歳代以下の参加は約2割。これらの数字を多いとみるか、少ないとみるか。
 最後に、読者の皆様へ、今後のシンポジウムへの参加および一般の方への呼びかけをお願いするとともに、『ねざす』冊子への積極的な投稿なども期待したい。 

(たけだまさこ 神奈川県立豊田高校教諭 教育研究所所員)

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