吉川:鎌倉高校の吉川と申します。鎌倉高校に来る前の学校に新設校の段階からいまして、結果的には、「底辺校」という位置付けになりました。苅谷先生が神奈川県の入試制度をどれだけご存知か分からないんですが、階層という問題については、私たちは骨身に沁みているところがあるんです。
現実の問題として、今ここに、教育困難校とか底辺校とかの経験をお持ちの先生方はたくさんおられると思うし、いなければこれから確実に廻ってくるんではないかと思います。現実に新設校に行ったときは、新設校手当があってもいいんじゃないかなと、そんな実感を持ったこともあるんですが、入学試験のときにアチーブメントテストというのがあったんです。
中学の成績・アテスト・入試の成績の三本立てでやってきたんですが、その75%は中学校がデータを握っていて高校には決定権がなかったんです。そのとき輪切りという言葉ができまして、中学生を学区ごとに全部コンピュータで並べまして、何点から何点まではAの高校、Bの高校というふうに区切ってきたわけです。上と下に若干ダブっていた部分があることはあるんですが、それがいわば階層と見事にリンクしていた。
ですから、「底辺校」に行った場合には、階層というのは親の敵みたいな感じで、強烈な印象を持って迫ってきました。
教育改革とか、神奈川でも入試の改革がありましたが、そのとき、先生が言う階層を数値化して何かするという視点がなかったんです。そのために今のように、曖昧な、二つの高校が受けられるような制度になりましたけれど、その制度は一体何を言っているかというと、階層の輪切りの追確認というような現状があるわけです。階層の問題は、われわれの視点からまったくなかったというわけではない。もっと長い目で見れば、江戸時代から、高い教育と収入、あるいは地位というのはずっとリンクしてきたわけですから、これから教育改革等との関係で、先生の仰る視点がもう少し強く生かされていったら、また別のことができるんじゃないかという気がするんです。実際には、そういう話はなかなか実現しないのかもしれないとので、ちょっと残念な気もしています。
本間:はい、後ろの方、お願いします。
山根:川崎南高校の山根といいます。前の方の発言と多少関わるんですが、苅谷先生に質問です。階層ということを教育改革の視点として位置付けなければいけないと言われて、そこまではよく分かるんですが、それは具体的にはどういうことなのかということをもう少し教えてほしいんです。
つまり、戦前の日本の学校はもろに階層を意識した教育制度だと思うんです。戦後はその反省から、生徒は皆同じと考えた教育システムが作られたわけですが、現実的には、前の方が言われたように、高校の現場で言いますと、階層に正比例した偏差値の序列が横行する現状があるわけです。
階層を意識した今後の教育改革というのはどういうことをしていくのか、その辺のイメージが今一つ見えないんですけれども、その辺を教えていただければありがたいと思います。
本間:後、よろしいでしょうか。はい。では、前の方。
堀 :海老名で中学の教師をしています堀と申します。取り止めのない感想になりますが、実は午前中、飛田富士夫さんという大田区の○○会のしゃべりを聞いてここへ来ました。浜崎先生と小畠先生のお話を聞きまして非常にほっとしたところです。関わっている子どもたちの姿がよく見えて非常によかったなと思っております。
子どもたち一人ひとりがそれぞれの背景を持って生活しているわけで、この辺は苅谷先生の話に通じるところがあります。その子どもたちを学校現場の中で類型化してしまうのは、子どもたちと関わっていく教員として、また、カウンセラーとして、どうなのかなと思います。
一人ひとりが、一人ひとりの思いで教員と関わっていく、友だちと関わっていく、廻りと関わっていく、そういうところをわれわれのほうも素直に見ていく必要があるのかなということを感じました。
私も小学校をやったことがあるんですが、小学校・中学校・高等学校の違いがあります。小学校は学区が一番狭い。中学校はそれなりに広い。高等学校は学区制を敷いているわけです。小学校のほうは教員がほとんどが学級担任制を取って、全教科に近い授業をやっていて、子どもたちとの関わりは非常に密度が濃くなっている。狭い学区で、親との関わり、保護者との関わりも緊密の度合いが高い。
小学校はいわゆる一般の教員に負担が大きい。校務分掌なり、学校行事なりで、中学校・高等学校の教員と比べれば、比較にならないほどある。そういう中で、小学校の先生方が、果たして、どこで笑顔を出していくか―。もしかすると、カウンセラーの先生に会ったときに、自分の辛さとか、厳しさが出きったところで、笑顔があるのかもしれない、という気もします。
学校の中でも教員の置かれている状況に違いがあり、今度、文部省による第7次の教員定数改善があるわけですが、小学校に対しては非常に数が少ない。教員一人あたりの児童生徒数というのは校長・教頭を含んで出していますので、校長・教頭が授業をしなければ、総数20数人といっても、実際、一人あたりの生徒数は多くなる。小学校は非常に厳しいんじゃないか。
それから、社会の階層と子どもたちの現状ということですが、民族差別の視点も必要ではと思います。日本にくるたくさんの外国人の子どもたちが、今まで、オールドカマーという言い方もありますけれど、今までの定住の外国人の人たちが社会の中で、どういう評価、状況に置かれてきたかということを検討してみると、同じようなことがまた、新しく日本に入ってきた外国人の子どもたちにも起きつつあるのではないか。マイノリティの社会の中の位置付けということです。
ところで、私も79年という年数を出しますと、97年の調査時点では、私たちが教えた子どもたちの子どもぐらいですね、もう二世代ぐらい関わっているわけです。学歴の問題では、中学校卒業というのは社会的にはマイノリティの部類に入ってくると思うんです。神奈川の高校進学率は相当高いわけで、高学歴化が進んでいます。そういう中で、中学校卒業で今親父になっている人たちとその子どもは、非常に厳しい状況に置かれている。これは、日常子どもたちと関わったり、保護者と関わったりしていく中で感じることです。
今日は、午前中無理矢理付き合わされたという感じで出ておりましたけれど、午後はこの会に出て、僕たち自身の居場所も学校、子どもたちの居場所も学校という中で、これからまた子どもたちとどういうふうな関わり方を探っていくのかを改めて感じました。
本間:どうもありがとうございました。それではここで切らせていただいて、苅谷さんになりますが、階層問題から教育改革の視点ということで、入試の細かい点は結構ですので、よろしくお願いいたします。
苅谷:たくさん論点がありますし、特に具体的な対応策ということを述べるのは大変難しい問題ですので、中途半端にしかお答えができないかもしれません。
一つは、その学校がきちんと教育できるような体制を教育改革の主軸に置くのかどうかということで、これは基本だと思います。現実に起きている事柄は神奈川の場合を知りませんが、東京の場合は明らかに、私立と公立という形で中学校の段階からの分化が非常に激しく起こりつつあります。
そういった、いわば受験の早期化ということと絡んで、公立高校のランクより前のところで、社会階層と結びついた格差というものが生まれつつある。それはおそらく公立学校が持っている役割とか、そういうことについての、ある種の社会全体の認識の後退に由来する問題なんだろうと思います。やはり、そこは一つ視点を持っているか、持っていないかで、公私の違いというものは明らかに対応策が違ってくると思います。
先ほどの最初のご質問、学校ランクについてもその場合にはそこで対応できる問題が出てくるでしょう。
それともう一つ。これはいろんな考え方があるわけですが、例えば、さっきちょっと出てきた教員の定数増員を文部省がやろうとしていると言いますが、実数を見たら雀の涙ほどもないほどの実員増ですから、あれでもって20人学級ができるなんていうのは、ちょっと計算してみればすぐ分かるとおり、5年間で小中学校の教員を2万6千人増やすといいますけれど、小中学校が全国で何校あるか、考えてみれば、一校あたり一人来るか来ないかという数字ですから、これでもって20人学級ができるはずはないわけです。
だけど、その教員の加配をする場合に、どういう基準で加配をするのかということは、当然、その社会階層の問題を中心において考えるのか、考えないのかで、効果が変わってくると思います。あるいは、それは教員の配置だけではなくて、教材の開発等を含めて、そういう視点を持って今まで日本の学校が運営されてきたのかどうかというところで、もちろん、先生方にしたらそれは階層問題と結びついて出てきているんだということは明らかに見えてきたと思いますが、しかしそれが政策レベルで、どういう対応してきたのかということを見てみれば、おそらくその部分については社会の問題になっていなかったが故に、その部分の後押しは弱かったと思います。
実は9月にイギリスに行ってきて、特にスコットランドで教育改革の事例を調べてきたんですけれども、イギリスで一つ、特にブレア政権になってから、サッチャー政権時代の市場原理と競争だけの教育改革に加えて、今、インクルージョンということが非常に大きなキーワードになっています。
インクルージョンというのは“含める”ということですけれども、いろんな背景の違う子どもたちをどうやって取り込んでいくのか、含めていくのか、ということに重点を置いて、大変厳しい地域の学校にはより資源を配分しよう、ということを始めています。
そういう視点を持てるというのは、当然、イギリスの中で階層による教育の格差というものが長年にわたって大きな問題の一つで、それが労働党と保守党が政権争いをする際常に政策的なイッシューになってきたからだと思います。
この前の衆議院選挙のときに、たまたま私はある新聞でコラムを書く際に、各政党の教育改革や教育政策を見比べましたけれども、ほとんど違いがありません。ほとんどの政党がそういう視点を持っていません。問題を感じているということと、それを社会問題化するということは違うわけで、声を挙げていけるかどうかということで、予算の配置とか制度の改変ということは実際に動いていくと思うんです。
そういう点でスコットランドの例を出しましたが、スコットランドとはもちろん国のサイズや背景の違いがありますから、同じようには行きませんが、そういう問題、他の国のことをどうやって、われわれが見ていくか、ということがあると思います。
先ほど外国人の子どもの話が出ていました。これは私の同僚があるところでやったフィールドワークで分かったことですが、総合学習とか体験学習とかを取り入れてやっている小学校で、外国人の子どもが基礎学力をつけられないまま、一体何をやっていいのか分からなくなってしまう。彼らの親にとっては、学校では日本語の読み書きや計算をちゃんと教えてくれればいいんだけれど、その時間を割いて、いろいろなところに見学に行ったりする。
見学に行くのは子どもも楽しいかもしれないけれど、外国人の子どもにとって一体どうなんだろう、というようなことが聞き取り調査で明らかになっているという事例もあります。もちろんこれも全国的にどうなのか、分かりませんけれど、日本の子どもにとっては何でもないことが、実は全然違う背景を持った子どもにとっては、学校が行うべき最低限のことができない状態につながってしまうこともあるわけです。
これも一つの例だと思います。その視点を持っているかいないか―。そういう意味で、いろんな論点があるのは当然なんですが、今日まさにさまざまな視点で語ろうということで言えば、どういう視点から問題をとらえていくのか、ということを一方で考えながら、問題提起をしていかないと、一枚岩で捉えたら日本の子ども全員にとっていい、よかれと思ってやり、いいことのように見えることが、実は、誰かにとってはしわ寄せになったり、問題を起こしたりする―。それをどうやって取り除いていくかというところで、あまり具体的な例ではありませんが、そういう問題をどうやって解決していくか、というところでの解決策があるんだろうと思います。
全然具体的でなくて、申しわけありませんが、この間『世界』(2000年11月号)に書いた論文でもう少し具体的なことを書いておりますので、それも参考にしていただければと思います。
本間:どうもありがとうございました。時間もかなり経ってまいりました。ここで、シンポジストからご発言がありましたら、お願いします。
小畠:先ほど小学校の先生がいると伺って、アレッと思いました。ここは高校の先生ばかりかなと思っていました。時間がなくて小学校の話を端折ってしまったんですけれど、カウンセラーとして子どもたちの話を聞いていると、小学校時代とても辛い思いをしたということをたくさん聞くんです。
だものですから、どうしても小学校の先生に期待してしまうというところがあります。「学校の先生、忙しいな。小学校の先生、本当に忙しいな」と思っています。保健室の先生と一緒に私が笑顔を振り撒いて、あちらこちらに分けてあげたいという感じでやっております。先生たちも一生懸命にやっている方たちがたくさんいらっしゃいます。
でも、もっともっと学校は笑顔で―。私は小学校にはそれを思っていまして、言葉足らずだったんですけれど、小学校の先生たちに、大事な小学校時代、これから自我を形成していく子どもたちに関わっていく先生たちに、どうしても期待しすぎてしまうというところがあって、言葉足らずですいませんでした。
本間:どうもありがとうございました。他にいかがでしょうか。はい、では―。
会場:苅谷先生のお話を伺って、階層という話をちゃんとやっていかなければ、と改めて思うんです。今まで、生徒一人ひとり、みんな大事だとか、民主的にみんな一人ひとり、という視点ばかりでした。
今私の学校にもいる「欠損家庭」とか、「破産家族」とか、「能力的に運動がまったくできない」とか、あるいは、LD(学習障害)であったり、ADHD(注意欠陥・多動性障害)であったり、一人ひとりが全部、問題を持っていない子はいない状態で、生徒を見ていくと、先ほどの柿生西と同じように半分くらい減って、3年生までで20人くらいになっていくんです。
勉強とか知的には低いかもしれないし、廊下組といえば廊下組も何十人もいます。そういう問題をお互いに持っているものだから、彼ら、変な社会性というか、生きる力というか、独りじゃ生きていけない、日本の社会に今のままでぽんと放り出されたら生きていけない、ということは客観的に見えるんですけど、途中で、何となく生きる力を身につけて、学校を辞めていく。あるいは滅茶苦茶やって、家庭謹慎だろうが、何だろうが、何十日もやりながら卒業していく。そういう中で、彼らはある程度の生きる力を身につけていくような感じがします。
先ほど仰っていた公立校で何ができるか、何をやっていけばいいのかを考えると、何か、そういう方向で考えていかなければいけないな、生きる力というと変な言葉になりますが、這い上がっていく力というか、そういうものは今の滅茶苦茶の中でついているんじゃないかな、と思います。ちょっと乱暴かもしれませんけれど―。
本間:ありがとうございました。ご意見ということでよろしいですしょうか。他、いかがでしょうか。はい、それではこちらの方―。
松坂:県立柿生西高校で司書をしております松坂と申します。小畠さんに質問ですが、先ほどのお話の中で、小学生を見ていらして、高校生と向き合って、その上で、だからこの子たちがここにいるんだな、ということを仰ったと思うんですが、その辺をもう少し詳しくお聞かせください。
小畠:私はスクールカウンセラーで小学校に入って3年目なんです。2年間行っていた学校と今行っている学校は様子が違います。今の学校は家庭がしっかりしている地域で、とても教育熱心で、それが大変なんですけれども、その前の2年間行っていた前任校は家庭も―。虐待から逃げてきたお母さんのシェルターみたいなところがあって、そこから順順に通ってくるような学校なんです。
そういう中で、家庭でも暴力を受けていたり、シェルターに来てもその中で大変な人間関係があり、学校に来ても社会でも、親子でみんなから仲間はずれにされている状況―。学校に行くんでもお母さんの配慮が足りなくて忘れ物が多く、月曜日なんか、上履きも体操服もない、給食のときの布きんがないなど、学校の中で学習する以前の問題を抱えているんです。
そういう中で学校に通っているものですから、お友だちとは仲良くなれません。周りがみんな幸せそうに見えるから、何か、苛々していて、すぐトラブルメーカーとなってしまいます。
そこにいる先生はというと、教室運営のことを考えてか、子どものせいになっちゃうんです。彼らの毎日の状況というものが理解されなくて、甘えるところがどこにもない中で、彼らは周りに対していつもトゲトゲして、周りの大人に対して不信感の塊でいます。
そういう子どもたちが段々大きくなって、どうなっていくかな、って思います。高校生となっている子にいろいろ話を聞くと、あの子が大きくなるとこうなるのかな、って、子どもの顔から、小学校の子どもの顔が思い浮かぶんです。やはり、こういうふうに来てしまうのかな―。
リストカットといって、ハサミやナイフや彫刻刀で自分を傷つける子どもに会うんですけれども、小学校5年生ではじめてやったとか、小学校のときからリストカットや自殺未遂をしている子に会うんです。高校生を見ていると、もっともっと私たちが関われることがたくあさんあるんじゃないかと、小学生の子とを考えてしまうんです。
それで、先ほど言ったように、小学校のときの対応というものが―。教育改革のときには、小学校を大事に考えていってほしいな、と。幼稚園でもいじめにあっていて、同年齢の子どもと一緒にいられない、そういうことをよく聞きます。
私がよく会う子どもは、同年齢のことをタメというんですけれども、タメが怖い、タメと一緒にいると緊張する、というふうによく聞きます。私とか、先生、年上の人や小さい子どもは大好きなんです。保母さんになりたいとか、幼稚園の先生になりたいという子はとても多いんです。でも、タメが駄目なんですね。どうしてかといえば、小学校のとき、中学校もそうでしょう、タメに傷めつけられちゃったり―。そういうときに救ってもらいたかった、助けてもらいたかった子どもたちが、今私の目の前にたくさんいるんだと思います。答えになっていたでしょうか。
本間:どうもありがとうございました。長い、長いと思っていたんですが、大分残り時間も少なくなって、最後にシンポジスとの方からご意見をいただいたりするような時間を考えますと、あと10分ぐらいはご意見・ご質問を受けることができるかと思います。
どうでしょうか。はい、どうぞ。