特集 : シンポジウム「17歳〜高校生の生活実態と学校」
 
 「自己肯定感」をめぐって

滝沢:神奈川県で教員をやっています。私の勤務する学校もどちらかといえば、課題集中校に属する学校です。質問の1点目は、浜崎先生は今彼らが自尊心がない、自己肯定感が低いといっているわけですが、僕は逆に彼らほど自尊心が高くて、自己肯定感が高い連中はいないんじゃないかということです。それは苅谷先生の統計でも、なるほどと思ったんですけど、彼らは自分たちを、とるに足りない人間だとか、駄目な人間だという思いを持っているのか、かなり疑問に思っています。またそういう扱いをされてきたことがあるのかなとも思います。もしかしたら、今の高校生・中学生ほど、別の意味で自尊心が高くて、プライドが非常に高くて、その割には傷つきやすくて、という存在はいないんじゃないか、そんな感想を持ちました。
 それからもう一点ですが、小学校の教員がかなり厳しい、生徒に笑顔を見せられない状況だというお話を伺いましたが、それが全部学校の責任なのか、とつくづく思います。そういう状況を作り上げたのは、学校以外の要因がかなり強いんじゃないか―。今、刈谷先生が仰ったように、管理教育とか、学校の問題点がかなり指摘される中で、学校の教員が何かをしようとすると、マスコミで大きく扱われるし、ものすごく叩かれる状況がありますので、学校の教員が子どもたちに笑顔を見せられなくなっているんじゃないか、そういう実感を私は持っているんです。
 今の学校は、生徒には自由なんじゃないかと思うんです。浜崎先生が仰っているように、レジャーシートを敷いて、教室の後ろ側で寝られる学校なんですよ。それは、彼らにとっては居心地がいい状況ですね。例えば、彼らがアルバイトのときそんなことをやったら首になりますから。

本間:どうもありがとうございました。他にいかがでしょうか。ご質問・ご意見のある方、最初にお名前をお願いいいたします。

久郷:横須賀から来ました久郷です。二つほど質問します。初歩的なことかもしれませんが、まず、カウンセラーの先生に、エンカウンター・ゲームを高校でしたということですが、エンカウンター・ゲームの意味が分からないのと、それをなさった意味をお聞きしたい。それから、苅谷先生に、社会階層の分け方について、上位グループ・中位グループ・下位グループを社会学ではどのようにされているのか、もう少しご説明いただきたいと思います。
 
本間:とりあえず、ここで切って、シンポジストにお願いしたいと思います。

浜崎:自尊心が低いかどうか、という話は私の中には直接はなかったと思うんですが、数学に関しては、低い、という思いを非常に強く持っています。先日、中間試験のときに、「今まで、小中学校を通じて数学・算数の授業で、楽しかった思い出、嫌だった思い出、どちらかについての作文を書いてください」という問題を最後に出したんですが、嫌な思い出を書いた生徒が圧倒的に多かったんです。こういうふうに先生から傷つけられてきたという話をたくさん書いてくれました。
 それから、自尊心の話で、小畠さんの話とも通ずるのですが、今うちの学校にもスクールカウンセラーが来ておりますので、その方と一緒になって、昨年、エンカウンターみたいなことですが、1年生のクラスに入りまして、“自分のいいところを探してみよう”というのをやったことがあります。
 自分のいいところ、どんなところがあるか、カウンセラーが例として出したのは、「私は力持ちで、ピアノを運ぶことができる。アルバイトでそういうことをしているんだ」そういうような、何でもいいんだよ、ということで始めたんですが、クラスの中で、何も書けない、一行も書けない、ということで、私には何もいいところはないんだと、涙を流して、まったく筆が進まないという生徒が何人もいました。
 ですから私は、彼らが自信を持っているとはとても思えないな、という気がしています。

本間:これは視点ということですので、いろいろな考え方があるだろうと思います。他のシンポジストの方で、今の関連で何かありましたら。

小畠:自尊心と自己肯定感という言葉を使ったのは私です。私もはじめ子どもたちと話をしていて、こんなにも自分に自信がないとは思わなかったんです、本当に。恋愛の相談が結構多いんですが、その中で、自分みたいに取るに足らない人間、こんな私でも好きになってくれたんだから、別に好きでもないけれど、選んでくれたので嬉しくなって、つきあっちゃう―。恋愛問題とか、そういうときには、自分を大事にできない、こんなに安売りしないで、と思うようなことが、たくさんあります。
 私は最初からそんなふうに思ったわけじゃないんです。2年目、3年目、生徒と関われば関わるほど、自分のことをこんなに弱く感じているんだ、こんなに駄目な人間だと思っているんだな、というのを感じました。
 それはみんな周りには出していないです、全然。こんなにも元気で、今時の女子高生がこんなことを言うのかな、私はまじまじと顔を見てしまいます。明るく元気で、“山姥”やっている人だってよく話をしてみると、そういうふうに、自分なんてどうしようもない人間なんだ、などと、ポロッと言います。私は、統計を取ったり、数で表わしたりできないんですけれども、子どもたちと話をしていると、相談の中から、また相談の後に、そんな話がポロポロと出てくる、そんな感じで話をしました。

本間:どうもありがとうございます。質問への答をお願いします。

小畠:エンカウンター・グループというのは、カウンセリングのほうで集団的に行うものなんですけれども、私がやったのは構成的なエンカウンター・グループというものです。
 これは、感情交流ができるような親密な人間関係を体験するもので、実際、ホームルームでやっていただきたいなあと思って紹介の意味も兼ねてやったんですが、みんなと早く仲良くなる、体を動かして、緊張感やこだわりみたいなものをまず捨てるために、フルーツバスケットだとかそういうことをしながら、自分を解放していく、その中で、いろいろ自分を出す経験をしながら、最後には、自分を出す、相手を受け入れる、ということを体験する―。頭で分かるのではく、体で感じる、人とのふれあもも、触ったり、触れたりするゲームやら、そういうものがあるんです。
 子どもたちが一番喜ぶのは、名前のリレーゲームというのがあるんですけど、自分の名前をいろんな人に言ってもらうんです。リレーしていくんですけれど、あとの振り返り用紙を見ますと、自分の名前をフルネームで呼んでもらえた、自分に質問してくれた、というのがとても嬉しかった、というようなことが書かれてきます。
 先生方も、本屋さんに『構成的エンカウンター・グループ』とか『高校生のためのエンカウンター・グループ』が並んでおりますので、手にとって、使えるところをピックアップしてやってみたらいいんじゃないかな、と思います。

刈谷:簡単に補足します。親の職業のほうは父親の職業ですけれども、社会調査のほうで職業威信スコアというのがございまして、職業ごとにある得点が与えられているんですが、その平均点を取って、いくつかその職業の塊ごとに点数を与えて、いわば一次元的な尺度になるように並べておきます。
 学歴のほうは、教育年数。中学校卒だったら9年、高卒だったら12年という数値を入れて、それをそれぞれ母親、父親ごとに取って、その三つの変数を主成分分析という方法にかけます。
 信頼性がどのくらいあるかというと、一つ目の因子で58%ぐらい全体の分散が説明できる一次元性があるということで、その尺度を採用しました。その物差しをあてがって、全体の生徒をその得点によって三等分しています。ですから、職業を数量化する仕方は威信スコアという数量化の仕方、学歴は教育年数によって数量化して、それらを主成分分析によって一元尺度を作ってその得点で三等分した―。そういう話です。

本間:作業上、ともかく数量化して、ということですね。それ以上細かく講義を受けても、時間がかかると思います。
 最初の方のご意見については、浜崎さんと小畠さんにお答えいただきました。また、今の学校は自由ではないか、というご指摘がありましたけれど、コーディネーターという立場を離れますが、彼らは自由に学校で生きているというところはあると思います。
 私の学校でも、自由を満喫しているように見えますが、そういう中で、彼らがなおかつ、これでさえ不自由な場所であると感じるところに問題があるというふうに思っています。さらに自由にすればいい、という意味ではありません。そう感じるところに、何か、彼らの持っている意識なり、文化なり、問題があるのかな、というふうにも私は感じております。
 この辺にご意見等ある方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。はい、どうぞ。

今枝:大原高校の今枝と申します。自己肯定感・自尊感情に関してですが、私が現場で見ている限りでは、生徒は自分の自尊感情を持っているし、自己肯定感も強いな、と思っています、中位の学校なんですけれど。
 確か、サイモンという心理学者が、親が子どもに対して取る態度を、「受容と拒否、支配と放任」という4つの座標軸で書いていると思います。今の子は受容度という点に関してはきわめて高いんじゃないか、ただ、放任されているという気がします。
 だから、大量消費社会の中で、欲望が遮断されずにしたいことができる、親にも受容されている。放任されているので、何をしていいのか分からない。
 不安感とか、自信の無さは、価値がはっきりしないことにより起こってきているのであって、受け入れられていないことによる不安感、自尊感情が無い、ということではないと、私は考えます。
 思想というものが、人間の文化とか苦労に大きな影響を与えるのかどうか分かりませんが、少なくともポストモダンと言われるような思想が特に70年代、『朝日ジャーナル』が転向してから、随分広まってきたと思うんですが、「何でもあり」とか、「カラス何故鳴くの。カラスの勝手でしょ」という雰囲気が、まさに学校の中に存在していると思うんです。高校なんかを見ると、まさにポストモダン的な状況だなと思います。
 自立とか、主体性ということを考えると、僕はかつて、非常に自由な学校にいまして、その学校がグジャグジャになっていくのを見たんですが、自由の中でしか自由な精神とか自主性が育たない、というのは間違っていると思います。何故なら、主体性とか、自主性というのは、ある程度自分がよりかかれる価値観が存在してはじめて、そこから自分がどっちに向かっていくのかを検算することだと思っています。
 特に第二反抗期以前の子どもは、自分が安心してよりかかれる価値観を体験していないと、自立できないんじゃないかと思っています。今の子どもたちは、第二反抗期以前に、自分が安心してよりかかれる価値観をまったく示されていない。受け入れられてはいるんだけれど、何も価値観がないので、自分が何をしていいのか分からないという、言うならば、糸の切れた凧のような状態になっているような気がするんです。
 それで高校に入ってくるから、生徒は何をしていいか分からない。グチャグチャな、まさに、何でもありの状態になっちゃっているんじゃないかと思うんです。この状態の中で、自由にすれば自主性が育つ、とは思えない。基本的な価値観というのを提示していかないと、自分の自主性すら発展できない気がする。
 だから、例えば、具体的なことを言うと分かりやすいんだけど、新しい学習指導要領の中で、選択科目を増やしたりするときに、好きなのを取っていいんだよ、というと、取れないんです。何をしていいのか分からないんです。あなたの人生は何がしたいの、と聞いていって、私は将来こういうものになりたい、じゃあ、そのためにはこういうことが必要なんだよ、という基本的なことをある程度言っておかないと、選択すらできない状況があるんじゃないかと思います。 

本間:あと、いかがでしょうか。後ろのほうへ行きます。左の方。

会場:中郡の、(原因を作っている)小学校の教師をしております。ちょっとずれた質問になるかと思いますが、社会的階層とか、学歴によるデータを上げることによって、何の意味があるんだろうという単純な疑問、それと、母親の学歴で分けている理由は何でしょうか。

本間:次の方、お願いします。

松本:大学生の松本です。自己肯定感なんですが、自分独りでいるときにはないと思うんです。高校に行って、同じ年代のヤツがいて、同じような格好して、みんな一緒にいれば、自分も廻りと一緒―。さっきの例の「私は」で始まる文を作るときのこと、個人的に求められた質問だから、自己肯定感が低かったんじゃないかなと思います。

本間:お三方からいただきましたが、他にお願いします。前の方。

村田:県立高校の教員の村田と申します。苅谷先生の“自己有能感”という言葉の定義なんですが、自尊心という言葉とイコールなのかということと、発達心理学的に見ると、幼児的な万能感と苅谷先生の言う自己の持っている有能感が重なっているのか、それをお聞きしたいと思います。

本間:それではここで一旦切らせていただきます。苅谷さんから、まず質問のほう、お願いいたします。

 階層の視点から教育を考えること

苅谷:はい、分かりました。何で、階層に分けて、こんなことをやっているのか、という意味ですが、逆に、何故、今までこういう視点が教育を議論するときになかったんでしょうか。
 私は社会学の立場だと最初に言って始めましたが、比較社会学をもっぱら専門にしているものですから、諸外国で教育改革を含めていろいろな研究について実際にものを読んだり、意見をぶつけたりしているんですが、ソーシャルバックグラウンドと言われている社会階層とか、どういう家庭に育つか、ということを教育を論じる際機軸に置くということは日本以外の社会ではどこでも当たり前のことなのです。
 だから同じことをやっているんだ、と言われてしまったら意味がないじゃないか、と言われるかもしれないんですが、こういう場で、こういうデータを僕が出すのは、どうしてこういうデータが日本では教育改革のときに誰も論じないし、誰も出さないんだろうか―。                             
 例えば、みんな勉強しなくなっている、と言うけれど、こうやってみたら、勉強しなくなっている度合いが家庭の背景によってこんなに違うじゃないか、ということを一つ見ることによって、おそらくこれは教育問題に留まらず、社会政策の問題になってくると考えますし、こういうデータを通じて、20年後、30年後日本社会がどうなるかということが見えてくるだろうということです。
 20年前の高校生に比べて、これだけ、意欲や実際の勉強の仕方や自己有能感の作られ方、こういったところに階層による大きな違いが出てきてしまって、もちろん、このデータが正しければという前提つきですが、こういったことがどんどん強められ、累積していったときに、20年後に僕たちの社会はどうなっているんだろうか、ということを考える点からこういうデータを出しています。
 また、それは、おそらく今まで、高度成長期を通じて社会全体が豊かになり平等化されてきた社会とは明らかに違うフェーズに入っているだろうということを言いたいからです。
 その際、何故学歴なのか―。これは非常に大事なポイントだと思います。一つの理由は技術的な問題です。もちろん親の職業でやってもいいんですが、親の職業の場合はそれを一元化することが非常に難しいということと、中でも、何故母親の学歴を取ったのかというと、日本の場合に子育てのプロセスの中で母親の果たしている役割というものが比較的大きいというみなし方をしておりまして、その際に、学歴という形で、(これはもちろん一つの指標で、本当はもっといろいろ母親の家庭的な背景の違いを取ればいいわけです)一番単純な学歴という形で取ってみても、差が出るということなので、そういう意味では非常に分かりやすい指標を取ってみているということです。
 私のプレゼンテーションのときに最後のところで時間がなくなって、説明をしなかったのですが、最初に申し上げた、教育を見ることで実は社会を見たいのだ、ということの意図は、われわれがずっと長い間、置き去りにしてきた階層問題というものがこういう形で、今顕著になりつつある、と―。
 それを一つ教育改革の議論の中にも置いておかないと、誰にでも同じように、意欲・関心あるいは、個性というものを育てられるのか、という大前提のところで、もし、日本の階層構造が変わってきているとすると、おそらく一枚岩的に捉えた改革は失敗するだろうし、失敗しないとしても、誰かにそのしわ寄せが行くだろう―。誰にしわ寄せが行くのかということを焦点づけるために、こういうことをやっています。
 それから、自己有能感についての質問。これは、いろいろと議論していくと、この質問では何が捉えられるのか、ということの限界はもう明らかなんですが、残念ながらこの調査自体が最初から自己有能感なりを捉えようとしたものじゃありません。一つは、20年前にやった調査を基にしてそれと同じ項目で調査をしようということだったので、“自己有能感”とか“自尊心”とかいうことに比較的近い項目をここでは使っているということです。ですから、定義といっても操作上の定義以外はありませんので、おそらくもっと“自己有能感”というのを取り上げていけば、心理学のほうでたくさん尺度があり、いろいろな調査方法があるのは私も知っておりますけれども、そうしたもののごく一部として見たときに、特に、過去と比較ができるということでここではそういうことをやっているということです。
 ですから、いわゆる“万能感”というところまでは行かない、そこまでは言えないというふうには思います。
 
本間:とりあえず、質問についての回答ということです。シンポジストの方で、ここで出た意見についていかがでしょうか。苅谷さん、ポストモダン的状況についていかがでしょうか。

苅谷:難しいんですけれども―。つまり、こういうところで、どういうレベルの議論―、どういうレベルというのは、抽象度をどこに設定して議論するか、というのは、今日のお二人の方の発表を聞いていても、どういうところでうまく議論がかみ合うようにするかな、ということを考えなければいけないというふうな気がしていますので、あまり抽象的なことを言っても仕方がないのかなという気がしています。
 ただ、ポストモダンなのかどうか分かりませんが、「今の高校生は一見明るくて自信がありそうに見えて、でもいろいろ聞いていくと悩みがあり、本当は自信がないんだ」というお話がありました。おそらくそれは、10年前も20年前もそうだったと思うんです。
 つまり、どんなふうに見えても、心の中というものを探り出したときに心の中にいろんな問題を抱えているという状態は、20年、30年前の高校生の方がもしここにいらっしゃったら自分で思い出してみれば、おそらく似たような悩みを持っていただろう、ということをいうでしょうし、20年前の高校生も、10年前の高校生も、やはりそうだった、と言うんじゃないかと思います。
 しかし何が変わったかと言えば、社会の眼差しは明らかに変わりました。“心”が問題になったというのは、おそらくここ15年、10年くらいの大きな変化だと思います。ポストモダンと言うのかどうか、僕には分かりませんが、今、日本の社会の中で、子どもの“心”が問題なんだという、問題の焦点付け―。こういうアプローチの仕方というものは、日本社会全体で見ると、(もちろん、昔からもそういう見方はありましたが)これだけ大きくマスコミ等で取り上げられたり、学校現場に実際入ってくるということで見ますと、やはり、これは大きな変化だと思います。
 これには、もちろん、いい面と悪い面が多分あるんだろうと思いますが、一つ確実に言えることは、そういうアプローチが広がれば広がるほど問題の発見される確率も大きくなるということです。それは、問題が存在しなかったことが明らかになったということではなくて、過去にも同じような問題があったけれどおそらくそうした眼差しがなかったのだと思います。
 ここで、話は全然違うところに行っちゃうかもしれないけれど、まもなく少年法が改正されようとしていますが、少年を巡る事件について、凶悪犯の統計をきちんと取ってみれば、これは、過去と比べてはるかに減少している、ということが言われている。しかし、子どもたちが事件を起こしたときに、例えば、17歳の子どもが人を刺してしまったというときに、そこに心の闇があるんだ、というような言い方で問題が把握される―。
 まったく同じような事件が20年前に起きていても、そこでの報道の仕方はまったく違ったんです。つまり、そういうふうに、社会の眼差しというものの変化によって、われわれの対処の仕方も違ってくる―。これはいい面と悪い面が両方ありますから、単純に社会の見方が変わったからいけないんだとか、いいんだとか、進歩したんだというつもりはありませんが、社会学という非常に引いた立場から言わせていただければ、われわれが問題を捉える見方自体が実は変化しているんだ、ということも一緒に考えておかないと、その解決の方法というものが完全でない以上、われわれはいつまで経ってもいわば新しい問題探しということに終始してしまうかもしれない―。
 そこいら辺で、(こういう言い方はちょっと誤解があるんですが)どこかで、大人の知恵で、歯止めをかけるということがあってもいいのかな、という気持ちはしています。今ちょっとインプリケーションが大きすぎて、いろんなことを含めて言ってしまったんですが、多少、我慢ということがあってもいいのかな、という感じがしています。

本間:ありがとうございます。他のシンポジストの方、よろしいですか。いろいろなご意見が出ると思います。これ、不充分とか、ご意見あれば、と思いますが。はい、どうぞ。

井上:厚木南高校通信制の井上といいます。苅谷先生の『大衆教育社会のゆくえ』をちょっと前に読んで、今日来ました。僕は今厚木南高校の通信制に勤めています。80年代後半は柿生高校、90年代は中沢高校に、計10年勤務しました。そこはいわゆる「底辺校」と呼ばれている学校で、浜崎先生の話をすごく懐かしい、あのころ、同じようなことがあったなあ、というふうな思いで聞いていました。
 今僕は厚木南高校通信制にいて、違う現場にいるんで、「懐かしい」問題になっているんだと思います。あれから10数年経っていて、また同じような話を、別な先生から聞かされた。浜崎先生にとっては二年目のフレッシュな経験でびっくりされたんでしょうが、僕にとっては思い出になっている。
 10年間、20年間、高校の現場にはそういうことがずっとあったんだな、ということが分かってきます。とすると、そのことは問題にはなっていたんでしょうけれども、例えば「あそこの高校に行くと、人生の10年を捨てたようなものになる」という噂話として受けとめられていても、「本当に誰の問題なのか」ということはあまり語られてこなかったんじゃないか。
 そこのところを苅谷先生は、社会階層の分化という問題と結び付けて考えられていて、僕らはきちっと見てこなかった、触れてこなかったから、先ほど、先生が「何故そのことが今まで問題にならなかったんですか」という形で返されたんだろうと思います。
 感想の二点目です。先ほど、自尊感情という言葉に関わって、いろいろ議論のやり取りがありました。「自尊感情」には自尊心と感情がついていて、この言葉の受け取りようによっては、今の高校生は多分「自尊感情がある」というより、高飛車なんだろうと思います。非常に高飛車な連中が出てきて、非常に生意気だという―。先ほど、昔から若い者は生意気なんだ、という苅谷先生の話もありました。
 そういう話もありましたが、その高飛車さというのは、強い自我とは別なんだな、という感じを持ちました。自分のことを批判的に見るほど、連中は強くない、そういうふうな感じで僕は見ています。
 言い換えれば、甘やかしてくれるところにはどんどん甘えていくという関係になってしまって、ずるずるとその子の面倒を先生が見なければいけないことも出てくると思います。
 そういうことを自分でなんとなく経験してきました。自立性、バランスを崩したところで生きているのが彼らなのかな、と僕には見えてきています。それを何とかしなければいけない、とするのか、昔からあったことだからいいんだ、とするのかが分かれ目かなと思っています。先ほど、浜崎先生の仰られたことに、ある方が反対意見を言っていましたが、浜崎先生の言い方の中にちょっと引っかかるのは、生徒を弱いものとしてしか見ていない、というところがあるんですね。
 可哀想だとか、自分を大切に思えていない、と強調されていて、確かにそういう面はあるんですけれども、連中の中にも、「どっこい生きているぜ」、というのもあると思うんです。そういうところも出していただければ、僕も分かるなあという感じがした、という感想を持ちました。
 それに絡んで言えば、「自由の中でしか自由は育てられないのか」と言えば、そんなこともなくて、自由がないところでも自由な精神は生きるんだ、と僕は人間を信じたい。その立場で言えば、僕も浜崎先生のことを批判しているわけではなくて、よく分かるので、その面を引いてくれたらもっとよく分かるということで、話を進めてもらいたい。
 最後に、苅谷さんのお話の中で、社会階層の下位グループでは、現在志向や学校を通じた成功物語の否定意識が強いほど自己有能感が高まる、ということでした。質問ですけど、自己有能感が高いから現在志向が強いのか、卵が先か、ニワトリが先か、みたいなことなんですが、自己有能感が強いから成功物語の否定が起こるのか、ということがあります。
 厚木南高校の通信制は、全日制高校や定時制高校からドロップアウトしてきた生徒がいます。そういう子たちが数年間勉強して、自学自習をやって、卒業できたときに、感想文には、「厚木南高校通信制でよかった」と厚木南高校のことを誉めてくれるし、「自分はここですごく成長したよ」と書いてくれるんです。
 それは嬉しいのですが、自分ではそれを100%受けていいのかな、とも思うんです。それは、厚木南高校通信制でよかったというのは、自分を肯定していくための補助線にすぎないで、純粋に通信制を肯定しているだけではないと思うのです。

本間:どうもありがとうございました。質問について、苅谷さんよろしいでしょうか。

苅谷:現在志向と自己有能感の因果関係は確かに、両方あると思うんですが、大事なポイントは相対的に見て階層の低いグループでは、それがもう自己循環を起こしているということです。
 これ、なかなか厄介な問題で、自分がいいと思っている生徒たちに、そのリンクを断ち切れと言わざるを得ないんですね。自分に自信があって、しかも現在の生活をいいじゃないかと思っている子どもたちに、それ、悪い、と言わなければいけないわけです。
 しかも、それが全員に起きているなら、どこかで断ち切れという話だけれど、階層の低いところでだけ起きているというところがこの問題の厄介なところなんです。
 階層問題というのは、社会の不平等がどうやって認められるか、誰がそれを正当的なものとして受け入れてしまうか、不利な人が異議申立てをしなければ、その構造はずっと永続するようになっているんです。その異議申立てをするはずの人たちにとって、居心地のいい(ちょっと、その居心地という言葉はさっきのとは違う意味で使いますが)―、少なくともこのデータから見ると、そういうようなサイクルが動き出してしまっているんですね。
 ですから、もしかすると、断ち切ることが生徒を不幸にするかもしれない。しかも、特定の人たちにとってだけそれが起きているということが、やはり、問題なわけですから、こういうサイクルが生まれたときどうしたらいいか、なかなか難しいんです。もっと引いた見方をすると、見事な支配システムを作り上げたかな、と思います。これは見事なシステムです。
 自分たちで自己満足するようなルートを、教育改革が(という主語を僕がここで使うと怒られちゃうかもしれませんが)与えてあげたんですね。子どもたちが自己充足するような仕組みを特定の階層の人たちだけにうまく与えた。誰もそれが特定の階層の人たちだけに与えられたなんて言っていなかっただけなんですね。
 それと、もう一つ。高飛車かどうか、ということと自己のコントロールのバランスもそうなんですが、おそらく“自己”とかというものがこれだけ問われている時代というのはないんだと思います。今個人の選択というものが20年前に比べてはるかに多くの場面で求められるようになっているし、しかも、そのことに自分で責任を負えということがいつも対になって出てきている。これは、20年前の高校生だったら、選択科目もほとんどないし、どうやって勉強するかにしても、選択する余地がもっとなかったんだろうと思います。
 今は、同じ大学を受けるんだって、受験の方法が違っていたり、多様な選択が目の前にたくさんあって、その中で、そのたびにいつも、あなたの個性に見合った選択をしなさい、というようなことが強く言われている。そういう中で、自己というものを子どもたちが意識せざるを得ない、大人の側やシステムを作り出す側のほうで、個人というものを露出させてしまうような、そういう仕組みというものは、15年、20年前と比べると、明らかに強くなっているという気がしています。
 その中で強い自己が問われることが、実は過去と比べてバランスが変わったのであって、おそらく心理学的に見たときの個人のバランスというものはそれほど大きくは変わっていないんだろうと思いますが、その問われ方やその位置づけ方みたいなことが、あるいは、自己がさらされる機会みたいなものが変わったために、バランスも変わってきたのかなと、そんな感じがしています。

浜崎:私のほうも感想という感じなんですけれども、弱いものとしてみている見方が強いというのは、そう言われてみると、そうかもしれないなという気がしています。多分それは、私が授業だけではなくて、スクールカウンセラーと連携していろいろなことをしているということと関係があるのかもしれないんですけど、弱い部分を見る機会が多いということかもしれないと思っています。
 廊下組の生徒なんかも、話を聞くと、授業に出たくないから廊下にいるわけなんですけれど、中学校のときに、君が来ると邪魔だからということで、将棋の板を渡されて他の部屋で将棋をしていたとか、そういう子が結構いるんです。多分、中学校がとても大変で、そういう生徒の相手までできなかったんだろうと思いますが、完全に干されてきたというような、そういう気がしています。
 そういう子たちに強い部分ももちろんあるんだろうと思いますけれど、今、柿生西の生徒は柿生西の生徒だというだけで、アルバイトを断られたりしていますので、社会的にも弱者で虐げられた存在なんだなという気がしています。今ご指摘を受けて、私には弱いものとしての視点が強すぎるかなという気がしていますが、そういうわけでそう感じているんだというふうに思っていただけるとありがたいと思います。

本間:では、前の方。

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