滝沢:神奈川県で教員をやっています。私の勤務する学校もどちらかといえば、課題集中校に属する学校です。質問の1点目は、浜崎先生は今彼らが自尊心がない、自己肯定感が低いといっているわけですが、僕は逆に彼らほど自尊心が高くて、自己肯定感が高い連中はいないんじゃないかということです。それは苅谷先生の統計でも、なるほどと思ったんですけど、彼らは自分たちを、とるに足りない人間だとか、駄目な人間だという思いを持っているのか、かなり疑問に思っています。またそういう扱いをされてきたことがあるのかなとも思います。もしかしたら、今の高校生・中学生ほど、別の意味で自尊心が高くて、プライドが非常に高くて、その割には傷つきやすくて、という存在はいないんじゃないか、そんな感想を持ちました。
それからもう一点ですが、小学校の教員がかなり厳しい、生徒に笑顔を見せられない状況だというお話を伺いましたが、それが全部学校の責任なのか、とつくづく思います。そういう状況を作り上げたのは、学校以外の要因がかなり強いんじゃないか―。今、刈谷先生が仰ったように、管理教育とか、学校の問題点がかなり指摘される中で、学校の教員が何かをしようとすると、マスコミで大きく扱われるし、ものすごく叩かれる状況がありますので、学校の教員が子どもたちに笑顔を見せられなくなっているんじゃないか、そういう実感を私は持っているんです。
今の学校は、生徒には自由なんじゃないかと思うんです。浜崎先生が仰っているように、レジャーシートを敷いて、教室の後ろ側で寝られる学校なんですよ。それは、彼らにとっては居心地がいい状況ですね。例えば、彼らがアルバイトのときそんなことをやったら首になりますから。
本間:どうもありがとうございました。他にいかがでしょうか。ご質問・ご意見のある方、最初にお名前をお願いいいたします。
久郷:横須賀から来ました久郷です。二つほど質問します。初歩的なことかもしれませんが、まず、カウンセラーの先生に、エンカウンター・ゲームを高校でしたということですが、エンカウンター・ゲームの意味が分からないのと、それをなさった意味をお聞きしたい。それから、苅谷先生に、社会階層の分け方について、上位グループ・中位グループ・下位グループを社会学ではどのようにされているのか、もう少しご説明いただきたいと思います。
本間:とりあえず、ここで切って、シンポジストにお願いしたいと思います。
浜崎:自尊心が低いかどうか、という話は私の中には直接はなかったと思うんですが、数学に関しては、低い、という思いを非常に強く持っています。先日、中間試験のときに、「今まで、小中学校を通じて数学・算数の授業で、楽しかった思い出、嫌だった思い出、どちらかについての作文を書いてください」という問題を最後に出したんですが、嫌な思い出を書いた生徒が圧倒的に多かったんです。こういうふうに先生から傷つけられてきたという話をたくさん書いてくれました。
それから、自尊心の話で、小畠さんの話とも通ずるのですが、今うちの学校にもスクールカウンセラーが来ておりますので、その方と一緒になって、昨年、エンカウンターみたいなことですが、1年生のクラスに入りまして、“自分のいいところを探してみよう”というのをやったことがあります。
自分のいいところ、どんなところがあるか、カウンセラーが例として出したのは、「私は力持ちで、ピアノを運ぶことができる。アルバイトでそういうことをしているんだ」そういうような、何でもいいんだよ、ということで始めたんですが、クラスの中で、何も書けない、一行も書けない、ということで、私には何もいいところはないんだと、涙を流して、まったく筆が進まないという生徒が何人もいました。
ですから私は、彼らが自信を持っているとはとても思えないな、という気がしています。
本間:これは視点ということですので、いろいろな考え方があるだろうと思います。他のシンポジストの方で、今の関連で何かありましたら。
小畠:自尊心と自己肯定感という言葉を使ったのは私です。私もはじめ子どもたちと話をしていて、こんなにも自分に自信がないとは思わなかったんです、本当に。恋愛の相談が結構多いんですが、その中で、自分みたいに取るに足らない人間、こんな私でも好きになってくれたんだから、別に好きでもないけれど、選んでくれたので嬉しくなって、つきあっちゃう―。恋愛問題とか、そういうときには、自分を大事にできない、こんなに安売りしないで、と思うようなことが、たくさんあります。
私は最初からそんなふうに思ったわけじゃないんです。2年目、3年目、生徒と関われば関わるほど、自分のことをこんなに弱く感じているんだ、こんなに駄目な人間だと思っているんだな、というのを感じました。
それはみんな周りには出していないです、全然。こんなにも元気で、今時の女子高生がこんなことを言うのかな、私はまじまじと顔を見てしまいます。明るく元気で、“山姥”やっている人だってよく話をしてみると、そういうふうに、自分なんてどうしようもない人間なんだ、などと、ポロッと言います。私は、統計を取ったり、数で表わしたりできないんですけれども、子どもたちと話をしていると、相談の中から、また相談の後に、そんな話がポロポロと出てくる、そんな感じで話をしました。
本間:どうもありがとうございます。質問への答をお願いします。
小畠:エンカウンター・グループというのは、カウンセリングのほうで集団的に行うものなんですけれども、私がやったのは構成的なエンカウンター・グループというものです。
これは、感情交流ができるような親密な人間関係を体験するもので、実際、ホームルームでやっていただきたいなあと思って紹介の意味も兼ねてやったんですが、みんなと早く仲良くなる、体を動かして、緊張感やこだわりみたいなものをまず捨てるために、フルーツバスケットだとかそういうことをしながら、自分を解放していく、その中で、いろいろ自分を出す経験をしながら、最後には、自分を出す、相手を受け入れる、ということを体験する―。頭で分かるのではく、体で感じる、人とのふれあもも、触ったり、触れたりするゲームやら、そういうものがあるんです。
子どもたちが一番喜ぶのは、名前のリレーゲームというのがあるんですけど、自分の名前をいろんな人に言ってもらうんです。リレーしていくんですけれど、あとの振り返り用紙を見ますと、自分の名前をフルネームで呼んでもらえた、自分に質問してくれた、というのがとても嬉しかった、というようなことが書かれてきます。
先生方も、本屋さんに『構成的エンカウンター・グループ』とか『高校生のためのエンカウンター・グループ』が並んでおりますので、手にとって、使えるところをピックアップしてやってみたらいいんじゃないかな、と思います。
刈谷:簡単に補足します。親の職業のほうは父親の職業ですけれども、社会調査のほうで職業威信スコアというのがございまして、職業ごとにある得点が与えられているんですが、その平均点を取って、いくつかその職業の塊ごとに点数を与えて、いわば一次元的な尺度になるように並べておきます。
学歴のほうは、教育年数。中学校卒だったら9年、高卒だったら12年という数値を入れて、それをそれぞれ母親、父親ごとに取って、その三つの変数を主成分分析という方法にかけます。
信頼性がどのくらいあるかというと、一つ目の因子で58%ぐらい全体の分散が説明できる一次元性があるということで、その尺度を採用しました。その物差しをあてがって、全体の生徒をその得点によって三等分しています。ですから、職業を数量化する仕方は威信スコアという数量化の仕方、学歴は教育年数によって数量化して、それらを主成分分析によって一元尺度を作ってその得点で三等分した―。そういう話です。
本間:作業上、ともかく数量化して、ということですね。それ以上細かく講義を受けても、時間がかかると思います。
最初の方のご意見については、浜崎さんと小畠さんにお答えいただきました。また、今の学校は自由ではないか、というご指摘がありましたけれど、コーディネーターという立場を離れますが、彼らは自由に学校で生きているというところはあると思います。
私の学校でも、自由を満喫しているように見えますが、そういう中で、彼らがなおかつ、これでさえ不自由な場所であると感じるところに問題があるというふうに思っています。さらに自由にすればいい、という意味ではありません。そう感じるところに、何か、彼らの持っている意識なり、文化なり、問題があるのかな、というふうにも私は感じております。
この辺にご意見等ある方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。はい、どうぞ。
今枝:大原高校の今枝と申します。自己肯定感・自尊感情に関してですが、私が現場で見ている限りでは、生徒は自分の自尊感情を持っているし、自己肯定感も強いな、と思っています、中位の学校なんですけれど。
確か、サイモンという心理学者が、親が子どもに対して取る態度を、「受容と拒否、支配と放任」という4つの座標軸で書いていると思います。今の子は受容度という点に関してはきわめて高いんじゃないか、ただ、放任されているという気がします。
だから、大量消費社会の中で、欲望が遮断されずにしたいことができる、親にも受容されている。放任されているので、何をしていいのか分からない。
不安感とか、自信の無さは、価値がはっきりしないことにより起こってきているのであって、受け入れられていないことによる不安感、自尊感情が無い、ということではないと、私は考えます。
思想というものが、人間の文化とか苦労に大きな影響を与えるのかどうか分かりませんが、少なくともポストモダンと言われるような思想が特に70年代、『朝日ジャーナル』が転向してから、随分広まってきたと思うんですが、「何でもあり」とか、「カラス何故鳴くの。カラスの勝手でしょ」という雰囲気が、まさに学校の中に存在していると思うんです。高校なんかを見ると、まさにポストモダン的な状況だなと思います。
自立とか、主体性ということを考えると、僕はかつて、非常に自由な学校にいまして、その学校がグジャグジャになっていくのを見たんですが、自由の中でしか自由な精神とか自主性が育たない、というのは間違っていると思います。何故なら、主体性とか、自主性というのは、ある程度自分がよりかかれる価値観が存在してはじめて、そこから自分がどっちに向かっていくのかを検算することだと思っています。
特に第二反抗期以前の子どもは、自分が安心してよりかかれる価値観を体験していないと、自立できないんじゃないかと思っています。今の子どもたちは、第二反抗期以前に、自分が安心してよりかかれる価値観をまったく示されていない。受け入れられてはいるんだけれど、何も価値観がないので、自分が何をしていいのか分からないという、言うならば、糸の切れた凧のような状態になっているような気がするんです。
それで高校に入ってくるから、生徒は何をしていいか分からない。グチャグチャな、まさに、何でもありの状態になっちゃっているんじゃないかと思うんです。この状態の中で、自由にすれば自主性が育つ、とは思えない。基本的な価値観というのを提示していかないと、自分の自主性すら発展できない気がする。
だから、例えば、具体的なことを言うと分かりやすいんだけど、新しい学習指導要領の中で、選択科目を増やしたりするときに、好きなのを取っていいんだよ、というと、取れないんです。何をしていいのか分からないんです。あなたの人生は何がしたいの、と聞いていって、私は将来こういうものになりたい、じゃあ、そのためにはこういうことが必要なんだよ、という基本的なことをある程度言っておかないと、選択すらできない状況があるんじゃないかと思います。
本間:あと、いかがでしょうか。後ろのほうへ行きます。左の方。
会場:中郡の、(原因を作っている)小学校の教師をしております。ちょっとずれた質問になるかと思いますが、社会的階層とか、学歴によるデータを上げることによって、何の意味があるんだろうという単純な疑問、それと、母親の学歴で分けている理由は何でしょうか。
本間:次の方、お願いします。
松本:大学生の松本です。自己肯定感なんですが、自分独りでいるときにはないと思うんです。高校に行って、同じ年代のヤツがいて、同じような格好して、みんな一緒にいれば、自分も廻りと一緒―。さっきの例の「私は」で始まる文を作るときのこと、個人的に求められた質問だから、自己肯定感が低かったんじゃないかなと思います。
本間:お三方からいただきましたが、他にお願いします。前の方。
村田:県立高校の教員の村田と申します。苅谷先生の“自己有能感”という言葉の定義なんですが、自尊心という言葉とイコールなのかということと、発達心理学的に見ると、幼児的な万能感と苅谷先生の言う自己の持っている有能感が重なっているのか、それをお聞きしたいと思います。
本間:それではここで一旦切らせていただきます。苅谷さんから、まず質問のほう、お願いいたします。