特集 : 高校再編と新学習指導要領
 
.カリキュラム改革のポイント

■ 学校間格差構造の中のカリキュラム改革
 「学校間格差の是正」や「学区縮小」、「高校入試の廃止・希望者全入」が大きな前進を見ていないなか、学校間格差の構造がダイナミックに転換される見通しは少ない。高校再編の過程で、個別の学校の序列は変動するかもしれないが、全体としての格差構造そのものが大きく変化することもないであろう。
 この認識に立てば、これからのカリキュラム改革は、この学校間格差の構造を前提にして、入学してくる生徒や学校の実態にあったカリキュラムを構想していくことが、実質的であるし、現実的な選択だといえる。筆者は学校間格差の構造を固定的に捉えろと言っているわけではない。学力差や生徒実態が多様である以上、その多様さに対応できるような「柔らかなシステム」としての「自前のカリキュラム」をつくる必要があることを指摘しているだけである。「トップダウン」の「特色づくり」ではなく、「教育課程の編成権は学校にある」ことの実質を備えた「総体としての教育実践」が求められている。
 それぞれの学校が、自校の実態にあった「多様な」カリキュラムを持つことが格差構造の反映であることは否定しがたい。それゆえ、こうした手法は「学校間格差の構造を固定化するものだ」という反論も容易に想像できる。しかし、それは、「全てが解決されなければ何も始まらない」と言っているに過ぎなくはないだろうか。
 重要な点は、むしろ、どういう教育理念を共有するかではないだろうか。先の「高総検レポート」は、「教育課程の基本構造(領域)」の図式の中で、その究極の目標、すなわちどのような人間を育てるかをを以下のように規定している。

 ・民主的人格(民主主義思想と民主主義的  行動能力の統一) 
 ・精神的労働と肉体的労働の分裂を克服   し、現代の生産を主体的に担いうる全面  的に発達した主権者 

 硬い表現ではあるが、基本的な部分に異論はない。筆者なりに言い換えると、「主体的な自己解決能力を有する民主的で自立的な人間」とでも呼べばよいだろうか。山頂を目指すルートは多様であってよい。このルート、行程でなければ駄目だということはない。年齢と体力と天候に応じて無理のない登り方を選択すればよいのである。カリキュラム改革も各学校によって多様であるべきだ。肝要な点は、学校づくり、カリキュラム改革の理念・思想を教職員が共有し、その実現のための互いに力を尽くすことである。

■職場の中に推進母体を作ることが出発点
 学校は他の組織に比べると、極めて平準化されて組織形態を有している。30年の経験を持つ教師も、大学出たての新米教師も給料こそ違え、同じ地平に立って仕事をしている。主任やまとめ役などが存在するとしても、命令−服従的、権力的な力関係は存在しない。年齢からくる暗黙の序列構造はあるにしても決定的な要素ではない。
 今回の指導要領改訂にともなって出されてきている「校長のリーダーシップ」論は、そうした学校の特殊な権力関係を補完しようという意図があるのかも知れないが、これはほとんど現場感覚のない発想である。筆者の20数年の経験から見ても、学校という組織を校長一人で牽引し、変革していくことなど不可能である。また、それだけの見識や才能を持った管理職を現場教師の中で育てるシステムも用意されていない。たかだか数年しか在職しない管理職に、その学校の実態を性格に把握・分析し、その課題解決のための処方箋を描き、数十人の教職員の性格や力量、力関係を押さえた上で適材適所に配置して、学校改革を進めていくことなど到底できるものではない。誰にもできないとは言わないが、先が見えて、情熱も失せつつある管理職にそれを求めるのは酷というものだろう。残された時間を何とか大過なく終えて、できれば、少しでも序列の高い、評判のよい高校の校長になりたいと考えているのが一般的な管理職の姿ではなかろうか。
 指揮命令系統や日々の仕事の責任が曖昧で、互いの仕事を評価されることも少ないとなれば、学校の中に問題や課題が生じてもなかなか共有化されないし、解決のための求心力も形成されにくい。まして、義務教育段階である小・中学校に比べて高校は協同体制が脆弱な傾向がある。教科主義が優先されているだけに、生徒指導に手が掛からない高校ならば、教職員の関係性はなおさら希薄だといえる。
 筆者は、だから指揮命令系統を明確にし、日常の仕事の評価体制を厳密にした方がよいと主張しているのでない。学校がそうした特質や弱点を内在させていることを前提にして、問題や課題解決のための内部組織を「自主的・自律的」にどう作くり上げていくかを主張したいのである。
 学校の運営責任の不明確さや教科や分掌間のセクショナリズムを克服し、生徒や学校の実態にあったカリキュラムを創案していくためには、教職員の自主的・自律的組織を作ることがまず第一の仕事である。かっては、校長の取り巻き的な教職員や主任会のような組織がこうした役割を担っていたが、民主的という「仕掛け」なしに、選出されたメンバーの提案や決定を他の教職員に共有させることはなかなか難しい。 
 筆者も参加した日教組の「21世紀カリキュラム委員会」はその提言の中で、各学校が自前の「カリキュラム開発室」(仮称)を組織し、それを支援する「地域カリキュラムセンター」構想を提案している。この提案は、これまでの「トップダウン」式のカリキュラム改革から脱皮して、職場に根ざした「ボトムアップ」式の教育改革への転換を意図したものである。そのためには、学校における多忙化とストレス克服しながら、民主的な手続きを経て選出されたメンバーを中心にして教職員の英知を結集し、学校を基礎にしたカリキュラムを創案する組織の存在が不可欠なのである。以下筆者の現任校での実践を例示してみたい。

■「学校改革推進委員会」の設置
 課題集中校の学校づくりを進める上でポイントとなったのは、生徒指導や授業の困難さの中で、ストレスや疲労に押しつぶされることなく「学校づくり」を進めていくためには、校内に効率的で継続性のある「運動体」を作り出すことであった。学校のおかれている現状や抱えている課題や問題点を分析し、それを教職員全体で共有すること、さらには、「学校づくり」を推進していく「運動体」を「機関車」にしながら、校内の他の組織と連動させ、着実で目に見える実践を積み上げていくことが改革を前進させるエネルギーとなる。抽象的な議論だけでなく、「学校づくり」の進行が実感できるような手法をとらなければ、どんな運動も長続きしない。学校が少しずつでも変わっているという手応えが感じられるような取り組みこそが次の改革へのエネルギーを生み出すのである。
 上記のような視点に立って、1994年度の1年間、「学校改革推進委員会」の設置を巡って職場内で激しい議論が闘わされた。それは、この委員会が学校の中で大きな力を持っていくことに対する教職員の危惧に根ざしていた。かっての「主任会」や管理職の「御用機関」となれば少数の教職員によって学校の将来や運営が牛耳られる事態も予想される。民主的で開かれた組織を巡って議論は割れたが、課題集中校の問題を解決していく方向では一致していた。結果的に資料@のような原案が職員会議に提出され可決された。この委員会は、その後、「学校改革委員会」として名称を変えて継承され、今日まで学校づくりの中核を担っている。

■カリキュラムをどう捉えるか
 これまで「カリキュラム」といえば、どの学年にどういう教科・科目を何単位配置して、どういう形態で授業を行うか、という「教育課程」を指すことが多かった。しかし、ここで言う「カリキュラム」は、そうした教育課程を含みながら、「それぞれの学校の教育理念や思想を表現するもの」と捉えている。それゆえ、教科活動だけでなく教科外活動や生徒指導、生徒会活動や地域との連携活動を含めて、学校の教育活動全体、まさしく「総体として教育実践」を意味する概念と考えている。
 個々の教職員の教育実践を尊重しながらも、「総体としての教育実践」を目指すならば、
学校における教育活動が有機的に連関し、学校の活動の隅々に反映されなければならない。それゆえ、生徒のニーズや実態、地域、学校の抱える課題や問題などを総合的に分析検討して、カリキュラムの中に反映させていく必要がある。そうでなければ、どんな教育実践も教職員個々の実践として閉じてしまう。教職員がそれぞれの主張や考えの違いを克服し、課題解決のための協同作業としてのカリキュラム改革を推進する必要がある。

■自己解決能力育成の視点から「総合的学習」の編成を
 これまでの学校は、カリキュラムから授業スタイルや内容に至るまで生徒の選択の余地の少ない硬直化した構造を持っていた。一斉、一方向的な授業スタイルが何十年も続いてきたが、「総合的な学習の時間」の導入や学校裁量枠の拡大といった改革案を利用しつつ、それぞれの学校が自校の抱える課題や地域の特色、生徒のニーズを基本としながらもカリキュラムをダイナミックにつくり変えていく必要がある。その際、留意すべき点は、生徒の選択を尊重し、生徒自身が主体的に学習に向かえるようにシステムを工夫することである。教師が生徒とつき合うのはたかだか三年しかないが、生徒その後長い時間を生きていかなければならない。その時に必要なのは自分自身で課題や問題を解決していく力である。そうした力は一朝一夕につくものではないが、生徒が試行錯誤を重ねながら自分で課題を発見し、解決していくプロセスを教科活動だけでなく、教科外活動や生徒会活動の中に保障していくシステムをつくることが重要である。

■居場所、生活の場としての学校の機能アップ
 兵舎型建築の見本のような学校が多い中、筆者が訪問した福島県三春町の中学校は外観的にも構造的にも新しい発想に満ちていた。図書館を中心とした構造、教科教室方式、瀟洒な食堂など、学びの場、生活の場として機能を持ちながら、空間的にも開放的な雰囲気を持っていた。筆者は、公立の中学校が、さまざまな制約を克服してそうした試みを成功させていることに大きな驚きを覚えた。もちろん、行政の決断や財政的裏付けなしには果たせない事業ではあるが、日本の公立学校は施設・設備的にあまりに貧弱すぎる。
 学習する場も談笑する場も食事をする場も居眠りをする場さえ教室しかないという構造は、生徒のストレスを加速させ、いじめやトラブルの温床となる要素が強い。学校を多様な生徒が集う生活の場として捉え、生徒の居場所、生活の場としての機能アップを図る必要がある。改築までいかないにしても、空き教室など有効に活用して生徒の居住空間の整備を図りながら精神的なゆとりを持てるような工夫が重要である。
 筆者の現任校では、94年4月に空き教室転用改装した「ランチルーム」を開設し、生徒の食事やくつろぎの場所として提供し、97年度からは二つある生徒棟のそれぞれに教室を改装した「オープンルーム」を開設して、生徒の居場所づくりに努めてきた。 

■多様な生徒の交流の場としての学校の機能アップ
 知識を授ける場としての学校の機能は著しく低下しているが、同年齢の子どもたちが集う集団生活の場としては貴重な機能を有している。そうした集団が苦手な子どもたちも多いし、それがストレスになって不登校やいじめを誘発する例も少なくないが、学校は多様な人間との出会いとコミュニケーションスキルを会得する機会に満ちている。教職員も生徒との親和的な関係を築き、人間的なコミュニケーションが可能となるように、いたずらに生徒の行動や身なりまで干渉するのは避けるべきである。もちろん、集団生活を安全に維持するための最低限のモラルや規則は必要であるし、相手の人権を尊重し、他人の安全を脅かす行動や言動について厳しい対応をとるのは当然であるが、同時に、失敗を過ちを包み込みながらやり直しを支援していく態勢を整えておくことが求められる。

■地域や社会に窓を開く
 学校が閉鎖的と言われて久しいが、小・中学校に比べ高校は一段とその感が深い。教職員が自分たちの価値観や考えだけで自足するのではなく、広く地域や社会の教育財を活用していく取り組みが必要である。もちろん、教職員が主体的に教育を担っていくことは基本であるが、保護者を含め学校外のさまざま人たちとの交流を推進していくことは、生徒にとっても貴重な経験になるだろう。さまざまな大人たちのとの出会いは、生徒の見聞を広め、学校的価値だけに止まらず、社会の多様な価値観を知る手掛かりにもなる。それは教師にとっても必要なことである。学校という社会の中だけで生活している自分を客観視する機会を提供してくれるし、自分たちの教育実践を検証することもできる。

資料1
職員会議資料

1994/2/21
校務分掌等検討委員会

新設委員会の設置について

  1. 委員会の名称  「学校改革推進委員会」

  2. 設置の目的
    現在、本校がおかれている困難な状況を克服するT前に、学校改革の研究・企画を提案する。

  3. 設置の期間
    2年間とする。ただし、必要がある場合に延長することができる。設置機関を延長する場合は校務分掌等検討委員会が職員会議に提案する。
    委員会の構成及び選出方法

  4. 6名(管理職1名を含む)とする。すべて、教職員の選挙によって選出する。ただし、立候補を認める。立候補が定員に満たない場合は、立候補者は信任投票とし、不足分は記名によって選出する。委員の任期は2年とし、異動その他によって欠員が生じた場合は、選挙によって選出する。選挙は、異動確定後に実施する。

  5. 委員会の仕事内容及び権限
    現在の他の委員会と基本的には同じであり、原案は職員会議に提案され、教職員の総意によって確認される。ただし、場合によって各教科・分掌・委員会に問題の検討を委嘱することがある。教職員がこの委員会に文書で意見具申することを保障する。

  6. 選挙管理委員会  省略

  7. 選挙日程  省略

  8. その他の問題
    委員の多忙化が予想されるため、委員選出後、時間割の中に会議のための時間を確保する等の措置を講じる必要がある。

 

6.生徒が変わるためには教職員が変わらなければならない

 「学校の主役は生徒である」とは言い古された言葉ではあるが、果たして現実はそうなっているだろうか?これまでの学校のスタイルは、生徒よりも教職員や学校の都合に沿ってできあがっているといえる。その全てが悪いわけではない。施設的な面や人的、予算的な面でそうせざるを得ない状況が続いてきた。その意味で、クラス定数の削減や予算的支援がなくては教育のあり方をダイナミックに変えることはできない。教育現場のアイデアや努力だけで問題が解決できると考えるのはあまりにも楽観的すぎる。
 しかし、教職員もこれまでの学校的価値を見直し、自分たちの発想を転換する時期にきている。授業スタイルや内容から進路指導や生徒指導のあり方まで含めて、そうした全ての教育活動が大きな意味で「カリキュラム」であるとの発想に立って、教育活動全体を見直してみる必要がある。結果と効率だけを重視するばかりでなく、「プロセス」としての学びを用意することが重要である。それは手間がかかり、非効率である場合も多いが、そうした営みが学校から喪われてきたことが、今日の「教育の空洞化」現象の遠因となっている。人を育てる営みは試行錯誤の連続である。生徒に「トライ&エラー」を認め、失敗しながらも成長していくプロセスを大人は用意してやる義務がある。

(なかの かずみ:県立田奈高校、教育研究所所員)

<<<ねざす目次
<<<24号目次>>>

次へ>>>