ふれあいと学び合いを求めて
−学年通信づくりにハマった3年間−

綿引 光友 

 
 

 はじめに

 1999年3月2日の卒業式当日、学年通信「どんまい」の最終号を生徒に配布した。この最終号は卒業生221人全員の「ひとことメッセージ」(1人40字前後)に加え、1月末に実施した「卒業生アンケート」の結果報告を二大特集とし、12ページに及ぶものとなった。
 学年通信「どんまい」は、96年4月6日の入学式当日発行の第1号に始まり、3年間(1061日)で43号発行したことになるが、ホンネを言えば、「よくぞ続いたものだ」と思う。当初は発行し始めたものの、最後まで続けられるかどうかわからなかった。正直なところ、はっきりとした見通しを持たないまま走り出し、走りながら考え、実践してきたと言ってよいだろう。
 ところで、こうした取り組みに対して、「あなただから出来るのよ」と言われることが少なくない。「あなただから…」と言うことは、裏を返せば、「自分には出来ない」となり、実践不能に陥ってしまう。私の実践は普遍化できないものなのだろうか。
 卒業生を送り出してからわずか1週間足らずだが、今回、この拙文をまとめようと思い立ったのは、次のような考え方からである。すなわち、学年通信のもつ教育的価値と編集実務のノウハウを述べることによって、「わたしにも写せます」のコマーシャルではないが、「わたしにも作れます」という確信を多くの人たちが抱き、気軽に実践に移してもらえるのではないかと思ったからだ。
 あまり過去を振り返るのは好みではないが、はじめに私自身の30年近くに及ぶ学級・学年通信活動を簡単に振り返ってみたい。次いで、学校と家庭、教職員と保護者・生徒をつなぐ「かけはし」(「ヘソの緒」などと表現する人もいるが)としての学年通信が果たす教育的役割や効果などに言及する。その上で、私自身のささやかな経験則から、ほんのわずかな時間と労力を使うだけで、簡単に通信づくりが出来るということを示してみようと思う。
 

 私の学級・学年通信づくりのあゆみから

 私が学年通信発行担当となったのは、過去数回ある。一方、学級通信は教員2年目にクラス担任となって以来、何度となく出している。ある時期、日刊で出し続けたこともあったが、逆に途中で頓挫してしまった苦い経験もある。それだけに、1年間継続して発行することがいかに難しいか、誰よりもよく知っているつもりである。
 私が採用2年目で担任となり、そのときすぐに「めだかの教室」と題する学級通信を出し始めたが、恐らく村田栄一さん(当時小学校教員、現教育評論家)の「学級通信・ガリバー」などの実践に触発されたからだと思う。当時、同じ職場内で学級通信を出している担任は皆無だったと記憶している。私の学級通信第1号を「めだかの教室」と名付けたのは、「鞭をふりふりチーパッパ」と歌われた唱歌の「すずめの学校」ではなく、「誰が生徒か先生か」わからないようなホーム・ルームづくりをめざそうとの思いからであった。
 いうまでもなく当時は、ワープロはもちろんトーシャ(謄写)ファックスも職場にはなく、ガリ版印刷であった。鉄筆やヤスリ板が学校現場から姿を消してから久しいが、私は3ミリ原稿原紙を使い、文字通りガリガリと角張った文字をロウ原紙に書き記していた。それをようやく出始めたばかりの輪転機(初期は手動だった)に巻き付け、印刷し、クラスの生徒に配布した。ガリ版印刷の場合、かなり筆圧をかけて書かないときれいに印刷されないので、B4の藁半紙1枚分の原紙を切るとかなり指先が痛くなった。当時、同僚から《ガリ切り魔》との異名をもらうほど、ガリ切りに明け暮れていた。
 原稿を巻き付けたドラムを回転させると版下が出来るトーシャファックスが登場すると、ロウ原紙が不要になると同時に、原稿づくり・版下づくりの時間が大幅に短縮された。今も利用されているファックス原稿原紙に鉛筆書きし、さらに切り抜きやカットなどをはめ込めば、ガリ切り時代と比べ、実に簡単に印刷物を作ることが出来た。私はほとんど使用しなかったが、ボールペン原紙というものも登場したが、これはあまり人気がなかったようだ。
 その後、ワープロやパソコン、さらにはリソグラフなどといった便利な機器が出現し、今日に至っているが、インクで手を汚すこともなく、実にあっと言う間に大量のプリント類を印刷することが可能となった。したがって、その気になりさえすれば学年通信や学級通信などを迅速かつ大量に印刷できる条件は十分に整っているのである。その一方で、多忙化という壁が大きく立ちはだり、そこまでとても手が回らない状況にあることも紛れもない事実だろう。
 

 学年通信「どんまい」の登場

 96年3月、新1学年会において学年通信の発刊を提起し、了承された。言い出しっぺの私がその担当となり、入学式に配布する「どんまい」第1号の準備にあたることとなった。「どんまい」というネーミングは、NHK教育TVの連続アニメ「忍たま乱太郎」の主題歌の一節からとった。Don't mindを縮め、ひらがなにしたものだが、後でS高校時代の元同僚Nさんが、自分の学級通信に使っていたことを思い出した。前述したが、この段階では3年間続けられるものかどうか、まったく自信はなく、途中で挫折したときは、「ごめんね、どんまい!」と謝ればいいやと思っていた。
 4月6日の入学式当日、B5判4ページの「どんまい」1号を新入生241人全員に配った。当日同行した保護者にも同じものを配布した。内容は、「入学おめでとう!」との見出しで、新入生および保護者に対する学年の教職員からのアピールが2ページ分、事務連絡が1ページ、4月の行事予定表が1ページとの構成であった。「この3年間の中で、自分とは何か、自分を生かすにはどうすべきか、といったことを真剣に考えてください。高校時代とは、自分探し、自分づくりの3年間でもあるのです」と訴え、学年目標である「元気・勇気・やる気」の解説文も加えた。
 この第1号を出す直前まで、B5判の4ページ立てとするか、B4判1枚(B5で2ページ)とするか、私は迷っていた。たとえ月1回にせよ、4ページ分を埋めるには相当量の記事がないと難しい。ただし、最終ページには翌月の月間行事予定表を入れることにしたので、残りの3ページ分をどうするかが編集担当の腕の見せ所でもあった。果たして全ページを埋め切れるかどうか不安もあったが、走りだしてしまった以上、やれるところまで走るしかないと自分に言い聞かせた。
 

 読ませる学年通信をどう作るか

 第2号以後は、月末発行を目標に編集作業に当たった。しかも、できるだけロングホームルームのある金曜日に配布できるように心掛けた。また、「継続はちから」と自らにプレッシャーをかけ、「3年間で30号」を到達目標とする一方、途中で挫折しないことを最大目標とした。
 言うまでもなく、事務連絡的なものや説教じみた内容のものは読まれない。生徒さらには保護者に読んでもらえるような紙面をどう構成するか−これが大きな課題であった。そこで、できるだけ学校の様子や生徒の動きが見えるような紙面づくりに心がけた。とくに高校ともなると、保護者にとって学校の様子がよく見えない。さらに、学校に足を運ぶ機会が少なくなることも配慮し、ややいかめしく言えば、保護者の《知る権利》を保障するような通信をめざした。
 以下に4点、私がとくに心がけた通信作成上のポイントを書いてみる。

(1)

学校行事の記録を必ずフォローする
本校の場合で言えば、陸上競技大会、マラソン大会、球技大会、文化祭、社会見学、修学旅行の後、その取り組みぶりや反省・感想などをクラスの担当委員(体育委員、文化委員、旅行係など)や班長などに書かせ、それを順次掲載した。幸いなことに本校では、陸上競技大会や球技大会などが終了すると、体育科や担当分掌(球技大会の場合は生徒会部)から個人記録を含め詳細な資料が出される。その中から学年関係の生徒を抜き出し、紙面に紹介した。

(2)

ロングホームルーム時に「LHR作文」を書かせる
たまにロングホームルームの時間に何をしたらよいか、担任が迷うときがある。そのような時のいわば《埋め草》として、「LHR作文用紙」を用意し、テーマに沿って意見を書かせた。末尾には「学年通信に掲載する場合もある」との断り書きをつけた。担任から掲載可能な作文を推薦してもらい、それを掲載していった。
3年間で書かせた「LHR作文」のテーマは次の4つである。
 ア、入学して1カ月(1年)
 イ、1年をふりかえって(1年)
 ウ、学校がつまらない(2年)
 エ、3年生として今、何をすべきか(3年)

2年時には、生徒指導用資料として学校で購入したマンガ『ノーサンキュー!たばこ』(学事出版)をロングホームルームで読ませたクラスがあったので、そのあとに書いた生徒の感想文を担任から見せてもらい、2回に分けて掲載した。

(3)

時のヒーローやヒロインの生徒に原稿執筆を依頼する
これは3年生になってからだが、たとえば進路が決まって喜んでいる生徒にすかさず声を掛け、喜びの声を掲載した。簿記検定試験に合格した生徒、文化祭に出場したバンドグループのリーダー、文化祭実行委員長、卒業準備委員の生徒などに積極的に原稿用紙を手渡し、書いてもらった。生徒も内心では「うざったい」などと思っていたかも知れないが、全員快く引き受けてくれ、しかも原稿はきちんと締め切り日までに届いたのである。
また、校外の作文コンクールで入賞した生徒が何人かいたので、その作品をそのまま転載させてもらったりもした。

(4)

生徒世論づくりを演出する
2年時に「みんなに言いたい」というコーナーを作り、匿名で学年の仲間に言いたいことを書かせた。そのテーマは「後で後悔してほしくない」(授業態度)「みんなが汚していく…」(教室・廊下の汚れ)「タバコは止めてほしい」(禁煙)の3つが連載されたが、私の怠慢もあって、後が続かなかった。「学年通信に載せるから書いてほしい」と頼むと、断られずに書いてもらえたことはありがたかった。また、交通事故を起こし、入院中の生徒を見舞いに行った際、原稿依頼をするという厚かましさぶりも発揮した。

 19人の「親の目」が光った

 教員・生徒・保護者の三者が集まり、学年通信の内容や企画を練り、編集に取り組むことが出来れば理想だが、それは「言うは易く、行うは難し」だ。そこで通信紙上に保護者の声を掲載できないものかと思案していたところ、ちょうど文化祭期間中(96年9月)にPTA役員のひとり、Aさんと話を交わすことができた。Aさんの子どもを授業で担当していたという偶然もあり、話が弾んだ。すかさず学年通信への寄稿を依頼したところ、快諾を得ることができた。この出会いは私にとって忘れることのできないものとなった。
 「これなら行けそう」と直感した私は、以来、PTA役員を中心に保護者に1ページ分の紙面を確保し、保護者の声を載せることにした。リレー連載という形式をとることから、「親の目」とタイトルを決め、保護者の目に映るわが子や今の高校生・若者について、自分の若い頃と重ね合わせて書いてもらうことにした。
 発行予定日(目標は月末最後の金曜日)の10日ないし2週間前に、生徒を通じて封書で依頼文を渡したが、幸い一度も断られたことはなかった。唯一、時間不足で執筆困難というケースがあり、急遽差し替え原稿で紙面を埋め、ピンチをしのいだ。
 「親の目」に登場した保護者は全部で19人、うち父親が2人であった。執筆者名は出さず、文末にイニシャルで表記した。「文章を書くのは学生時代以来…」などといった添え書きのついた原稿が届けられると、正直な気持ち、元気が出て来た。これほどの協力が得られるとは、思っても見なかっただけに、保護者から寄せられた原稿は《神の救い》であり、大きな励ましであった。「これでは途中で止められない。後へは引けない」と私は思った。
 学年通信が媒介となって、学年の教職員と保護者とのつながり、信頼関係が次第に深まっていった。そのような中でPTA学年委員会が中心となって、授業参観の要望が出され、紆余曲折があったが、97年2月、本校史上初の授業参観が実現した。当日はおよそ50人ほどの保護者が授業(土曜日の1・2時間目)を見学し、そのあと2つのグループに分かれ、懇談会をもった。この報告号はいつもの倍の8ページとなり、保護者全員に郵送した。
 「子どもは心の底では勉強ができるようになりたい、解るようになりたいと思っていると何かの本で読みました。工夫した楽しい授業を期待しています」と事後のアンケートにあったが、教職員側にとっても学ぶことの多い授業参観であった。私も学年通信の中で「PTAが変われば都岡は変わる」と書いたが、保護者と教職員とのパートナーシップの下で、学校づくりを進めていく必要性を改めて実感させられた。
 

 1時間で学年通信を作る法

 冒頭にも記したように、3年間続けられたことはまさに奇跡的であったかも知れない。私自身のワープロ入力技術が以前と比べだいぶ向上したとは言え、月末が近づくと胃が痛くなった。定期発行は当たり前ではあるが、その当たり前を実現することは決して楽ではなかった。忙しい時はぎりぎりまで追い込まれ、作業が徹夜に及ぶことも何度かあった。 発行日は最大で10日近く遅れたことが2〜3度あったが、なんとか3〜4日遅れ位でくい止めることができた。月末になると、「いつ通信をもらえるか」と聞きにくる生徒も何人かいた。理由を聞いてみると、アルバイト先での日程調整上、行事予定表が必要だとわかった。たとえどのような理由であれ、学年通信の発行を待ち焦がれる愛読者(?)がいることは、何よりもうれしい。「『どんまい』を配ると、教室中がシーンとなる」と担任からの報告も時々入ってくる。「どんなことが書いてあるのか」「誰のことが載っているのか」といった生徒の関心が高いからだろう。
 年を追うごとに教職員の仕事量は増大し、学年通信などといった余計な仕事まで、とても手が回らないことも事実である。しかし、時には苦しみながらも、かろうじて3年間継続できた体験をもとに言えば、学年通信はできれば出した方がよいと私は考える。「高校にもなって…」と思わなくもないが、家庭内の会話が少なくなり、学校の様子が見えにくくなる保護者にとって、学年通信は日常的な学校の様子や生徒の動きや考え方を知る格好の媒体となるのではないか。さらに、保護者に問題を投げかけ、ともに考え、解決をはかっていくような「開かれた学校」をめざす契機ともなるだろう。
 では、どうすれば手っ取り早く月1回の学年通信を編集・発行することができるか。人それぞれやり方・考え方は違って当然だが、私なりに考えているノウハウを示そう。
 B4大1枚ならば、1時間程度で通信を仕上げることは十分可能だ。まず、右半分のスペースには翌月の月間行事予定表を貼る。左側に通信の題字と本文を入れるわけだが、これは、できるだけお知らせや説教めいた内容ではなく、生徒の動きや声をできるだけ実名入りで掲載するようにしたい。また、この本文はできるだけ編集担当者が原稿を書かないで、依頼原稿にすることが望ましい。つまり担当者はエディターに徹し、ライターとはならないことだ。せいぜいワープロ(パソコン)入力と割り付け作業をすることだけに徹した方がよい。そして、いかに生徒や保護者さらには学年の同僚に、原稿を期限までに書かせるか、通信の記事となるようなネタがないか−このことに集中し、最大限の注意を払うのである。「球技大会で○組が優勝した」とか「陸上競技大会の100メートル走で○組の○○が2位」「○組が文化祭で劇をやった」といった事実を通信に掲載していけば、それらがそのまま3年間の記録にもなろう。
 

 おわりに

 3年間、学年通信の担当を引き受け、時にはもがき苦しんだこともあったが、しかしそれ以上に私自身が学び、励まされたことの方がどんなに多かったことだろうか。理解ある保護者・PTAに支えられての3年間だった、とつくづく思う。そうした保護者とのふれあいと交流は、私の教育観・学校観・生徒観を鍛え直すきっかけともなった。私自身にとっては2度目の経験となるが、今回、授業参観を3年間に2回実施するようになったのも、学年通信がもたらした波及効果でもあった。
 従来の学校観を揺るがす「教育困難時代」にあるからこそ、教職員と保護者が連帯し、21世紀を担う主権者をいかに育てるか、子どもにとって魅力ある学校づくりをすすめるためにはどうすればよいか、英知を集め、実践することが今、もっとも重要なことだと考える。そうした呼び水ともなるであろう学年通信づくりを提唱し、その実践化を広く呼びかけたい。

《付記》
 実践には失敗はつきもの。恥を忍んでその失敗を披露して今回の戒めとしたい。
 1つ目の失敗は、学年通信と学級通信は両立しなかったことだ。1年時に始めた学級通信は「3号雑誌」(雑誌ではないが)とよく言われるように、3号で廃刊となった。体力的にも両立は困難と実感している。
 2つ目は、両面刷りの4ページとなっているが、発刊第2号で、裏表反対に印刷してしまった。途中で気づき、あわてて引っ繰り返して印刷したが、時すでに遅し…であった。
 3つ目は、これもよくやる失敗だが、号数のダブリ。38号が2枚あった。卒業式に配った最終号には42号とナンバリングしたが、これが43号だったというわけ。もちろん、この重大な誤りに気が付いた人は私だけ。かく言う私もこの拙文を書くにあたって、バックナンバーをながめていて気が付いたほどだから。何年もやっていながら、こんな初歩的ミスをするなんて、サイテー!

 (わたひき みつとも、教育研究所員・県立都岡高校教諭)

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