「障害」者と高校教育
「養護学校はいま」

小山 博美 

 
 

■ はじめに

 今回は最近の養護学校はどういう状況なのか、その内容を知りたいと思い、鎌倉養護学校を取材させていただいた。校長先生をはじめ四人の先生方に一堂に会していただき、お話をうかがうことができて、その教育の特色と現状などについてお聞きした。
 さらに、そこを卒業されたお子さんを持つお母さん、青木保子さんと小尾麗子さんにも、後日取材をさせていただいた。
 青木さんのお子さんは小学部から高等部まで一貫して鎌倉養護で学び、その後は青木さんが開設した地域作業所で働いている。
 小尾さんのお子さんは小学校が近くの普通級、中学校が特殊学級、高校が鎌倉養護で、現在は茅ヶ崎市内で一番大きな施設の中にある作業所と、藤沢市にある「つばさの会」という会で活動している。
 お二人のお母さんに、お子さんの小学校入学から高等部卒業までを振り返っていただき、お話をお聞きした。以下それをまとめたものである。
 

 1.鎌倉養護学校訪問('98 6/24)

■概要 

 鎌倉養護学校はJR大船駅からバスで10分程、鎌倉市関谷にある。
 開校は1979(S54)年・小中学部、'80(S55)年・高等部肢体不自由課程設置(訪問教育開始)、'83(S58)年・高等部に知的「障害」児受け入れ、'87(S62)年・高等部知的障害課程併置を経た、今年20年目の学校である。
 現在の生徒数は小学部31人、中学部31人、高等部A(肢体不自由)が41人、B(知的障害)が71人、合計174人である。職員構成は、校長・教頭・教諭123名、養護教諭2名、技能技員3名、臨任教諭5名、調理職(非常勤)9名、介助職(非常勤)19名、実習生2名、事務長・主査・主事合わせて5名、事務非常勤1名、学校医等6名となっている。

(1) 校内の特長
 当日は伊藤教務主任が出迎えて下さり1時間ほどかけて学校内を案内していただいた。 まずバスのプラットホーム(3本)が特長的である。
 鉄道のプラットホームのようにバスの床面の位置に合わせて車椅子が平なままでバスの中に入れられる。昇降口とホールが続いているがこれも平なまま広い。体育館と同じ面積を有している。すぐ奥手が体育館。その体育館を中心とするように右まわりに養護訓練室や食堂、小学部、プール、中学部、実習棟、高等部Aとなっている。すべて平たんな同じ高さのフロアーで教室はオープンである。玄関左手のエレベーターで2階に昇ると高等部A・B、上部体育館、美術室、理科室等がある。全体にバリアフリーの考え方で設備されている。
 この養護学校は鎌倉市にあるが通学している子どもは横浜市(金沢区や戸塚区)、藤沢市、逗子市、茅ヶ崎市、寒川町、鎌倉市からと広域が特長である。

■教育の特長
第一にひとり一人の子どもと向き合うことから始める。その子に合ったプログラムを作る。高等部から学力に配慮したクラス分けをする。マンツーマンではないが、それに近い状況で教えている。個々の能力を最大限に引き出すことを目標に置き、給食時間の充実、知的・身体訓練、日常生活訓練、高等部になると卒業後の生活に備え洗濯や調理・紙・皮工芸等も授業の中で行っている。

(2)「障害」児教育に関るということ
(佐々木校長、伊藤教務主任、永田教諭(中学 部)、田中教諭(養護・訓練担当)の話から)

■教師に求められていること
校長:養護学校の教師として心しなければならないことは、子どもの捉え方である。どうしても教師は子どもをここまでのレベルにしたいという一所懸命さになってしまう。しかし養護学校の子どもにその考えは邪魔である。まずその子をしっかり見ること。この子は何を持っているか、伸ばせるかに心を砕いてほしいということである。一般の人が「障害」児に接したときに、なぜあたりまえにできないのかと思う人が多い。できなくったていいと広い心でまず受け止めることを教師として考えていくことである。そして向き合うことに喜びを感じたらそれが教育の原点と言えるのではないか。子どもと向き合い人間として七転八倒していく中に原点が見えてくる。よく「障害児教育、養護学校教育が教育の原点だ、最優先してあたりまえだ」という人がいるがすべてが原点になるわけではない。「障害」児教育は通常児教育の下でも上でもないと考えている。

田中:私は普通高校から転勤して4年目であるが普通高校にも簡単な足し算や引き算ができない子どももいる。それをお構いなく三角関数などを教えなければならないというのが現実にある。養護学校はその子と対面しながら「この子にとって何がいいのか」を試行錯誤でやっている。すべての子どもたちにとってもここでのやり方、カリキュラムの自由さに教育の原点というものを感じている。

伊藤:ここ何年か通常の高校から7、8人の教員が異動してきている。3年の期間が終わると当然のように通常校に帰る人もいるし子どもの気持ちの中に入ってもっとやっていこうという人もいる。通常校では英語とか国語とか専門教科を教えてきたわけで、養護学校でやっていかれるか不安感を持ちながらの人もいる。養護学校で通用するかしないかというのであれば通常校では通用しているのかと言いたい。養護学校でも通常校でも基本は変わらず、子どもと出会ったとき自分が輝いているかどうかである。また20年やったから立派、10年だからまだまだということでもない。5年でも「やってるな!」という人もいる。新人教員の異動が多くなれば教員の研修に人と時間をとられたり、連絡・周知徹底の会議が必要になってくるという問題もある。(職員数が多いのでそれでなくとも会議は多い)

■小学部から一貫して高等部、小・中学校
普通校から高等部の生徒に違いはあるか

田中:一般的に初めから養護に通学している子どもの方がどちらかというと障害の度合いの強い子どもが多い。軽いので小・中学校は普通校で受け入れてきたという傾向にあるのではないか。
 養護に来て安定するようになった子どもをみている。例をあげると中学部1年生の筋ジストロフィー症の子どもであるが、小学校では年間20日位しか通学(保健室登校も含めて)していなかった。本校に来るようになってからは1日も休んでいない。また中学の特殊学級に1年半ぐらい在籍していたが不登校になってしまった子どもであるが、家庭に閉じ籠もりお母さんに暴力を振るうようになっていた。やはりここで変わって暴力が無くなり、登校するようになったということがある。現状では養護学校の方がメンタルな面で十分な対応ができているのではないか。
 親は普通校に通わせたいと考えている人も多いと思うが、普通校の現実には単位を取らせるという枠組みがある。競争もある。教員の方にも個々に対応できる人数的なゆとりがない。

永田:「障害」児だから養護学校へ来るべきだということは言えない。逆に「障害」児が頑張って「普通」校にいかなければというのも、生き方を苦しくしているような場合があるような気がする。そろそろ自分がこうしたいという所で生きられるようになったらとよい思う。
 自分自身の子どもの体験であるが、子どもが通っていた小学校の学級に「障害」のある同級生がいた。卒業するときにそのお母さんが「なぜこの子を普通学級に入れたか」について話をされたと言う。「近所の酒屋さんも『Aちゃんが一人で歩いているけど大丈夫ですか』と家や学校に電話をくれたり……」。子どもが200人位学年にいたら200人のお友達ができる。お母さんお父さんを含めると地域に500人位の知り合いができる。それが地域から離れた養護学校に通学させると「お宅にお子さんいらしたの?」と地域の子どもとして見てくれない。地域でAちゃんのことを知っていてくれる人がいるということが大切なのだ、と子どもたちに話されたという。
 地域での長い生活を考えると、地域に知り合いがあることは重要なことだと思う。もう一つの例であるが、小学部から高等部まで本校に通ってすでに卒業したYさんのお母さんは初めは訓練を一所懸命されていた。卒業近くなってからは「子どもはやはり生きていくのは地域、それを知ってもらう必要がある」ということでお宅で毎月ガレージセールを始めた。そして地域作業所「ひだまりの家」を始めた。ボランテイアの人が地域から多勢集まってくれた。ノーマライゼーションという考え方は学校に限定されることではなく、その人が生きていくために何が必要なのかを必要に応じて組織していくことではないか。文部省や学校制度が悪いと、今あるものに文句を言ってもなかなかうまくいかない。Yさんのお母さんはYさんが行かれる適した施設はないかと見て廻ってもよい所はなかったと。「自分たちで作るしかないじゃないの」ということで作られたそうである。作業所を作るお母さん方から多くのことを学ばせてもらった。

■保護者との関りについて
永田:前任校では親の方たちが作業所を作る時にPTAとして全面的に関っていた。鎌倉養護学校でそれがむずしいのは児童・生徒が4市から5市の地域から通学している児童・生徒なので1つの行政区との関係ではすまない。各市の作業所づくりに関わることは実際に不可能な状態である。

伊藤:横浜市北部にある養護学校の例であるが、卒業する学年の保護者が団体として作業所を1つずつ作っていった時代もあった。この鎌倉養護は1か所作業所を作ればすむという状況にはない。ただPTAと進路を考えていくときに施設見学をしている。企業を含め施設、作業所、学校、厚生施設とか肢体不自由施設とか多岐にわたって卒業後の進路を探している。そして助言をしたり話し合ったりする。また懇談会や家庭訪問、保護者との連携ということでは連絡帳の交換や電話連絡等日常的にある。

■子どもたちの進路について
伊藤:まず本人の希望と状態ということがある。それに合わせた進路先ということになる。本人が住んでいる地域によって社会的資源が異なるので本人に合っている所かどうか、事前に施設や職場などで現場実習をしながら決めている。
永田:どちらかというと肢体の不自由な子どもの親御さんは小さいうちから「親の会」に入っている場合が多い。その親の会が運営している施設に行くと決めている人も多い。

田中:養護には進路の専任職員が3人いる。養護学校を卒業していく子どもにとって進路はまさに重要で卒業後が一生である。20人の子どもが卒業するとしても20人すべてに行かれる場所があるわけではない。それも毎年引き受けてくれる施設など無いに等しい。新らしく作るということも必要になってくる。

伊藤:施設を作るにしても立ち上がりの時から50人の規模で申請したら、その定員を満たして申請しないと行政から認可されない性質を持っている。スタート時からほとんどいっぱいで、欠員が出ない限り入れない。次々と作らなければならない。企業からの求人もあっても1人か2人で、それも毎年というわけにはいかない。毎年新たに企業を開拓していかなければならない状況で、3人の専任職員がいても追いつかない状態である。また就職をしても就職先でうまくいかないこともある。初めはよくても勤めて7年もするとそれまで何とかやっていても上司が替わったり、本人の配置替えがあったり、新しい作業が入ったりで、体力的精神的についていかれない状況に追いつめられる。やめてしまうということになる。

■いじめについて
永田:校内の場合は教員も多いので表に現れてはこないが、登下校中には、問題になるようなケースもある。

伊藤:10年前はもっと大変な状況であった。教員が1人で8人位の子どもをみていた時代で問題行動の激しい子どももいた。今そういうことでは乱暴する子どもは少ない。どこにいってしまったのかという感じさえする。しかし教員の目の届かない所でいじめや暴力の可能性はある。将来的には子どもは社会に出ていくわけで、今のようにマンツーマンの状態で対応していくことはできないのである。

校長:養護学校の外の人からは「養護の子どもたちは純粋でいいですね。悩みが無くて、幸福ですね」という人がいる。とんでもない。「障害」を持っている子どもはシャイだし、悩みも人一倍ある。劣等感、優越感もある。子ども同士でも、私の方がハンデイが軽いとか重いとかいうこともはっきり意識を持っている。外部の人には分からないだろうが、生徒はナイーブで鋭い。本校では日常的な授業の中でも「仲良くしよう。思いやりを持とう」としょっちゅう言っているので、生徒はそうしなければならないと思っているようだ。

田中:どちらかというと高等部B(知的障害)に来た生徒はいじめられた体験のある子どもが多い。ある卒業した生徒で「心理的適応」という部分で在校時関わっていた子どもであるが「さんざんいじめられてむしゃくしゃした。だから傘で人をたたいた」と言っていた。たたいたことだけでみるといじめた側であるが、その前にいじめられたという強烈な記憶が何回もあって、それが出てしまったということである。

■職員の課題
校長:学校運営の立場からなんとかしなければならないと考えていることは、医療的な問題である。理想的なことで言えば保健室に看護婦が常駐してほしい。できたら医師にも常駐してほしいと願っている。単独で無理であるなら隣の養護学校と掛け持ちでもよい。現実の子どもの中には急変するような状態の子どももいる。酸素ボンベを持ったり、経管栄養の子どもがいる。入学の許可は校長がすることになっているが、養護学校で入学不許可はできない。看護婦・医師の常駐がなければ医療的な部分も教師がやらざるをえない。医師・看護婦の配置がなされている県もある。神奈川県では教師の医療的なケアを許可していない。しかし目の前に必要としている子どもがいるわけである。親にやってもらったり、一部教職員が関わったり、あくまで学校長の責任でという状態は問題である。

永田:教員や介助の人には腰痛の人がかなりいると思う。自分自身も高等部3年の男子が多いクラスだった時に、この仕事が続けられるかなと思う時期があった。クラスの同僚が皆で協力してくれたのでその時期をしのげた。普通校でも時間的にオーバーワークだったり、肉体的にも精神的にも大変なところはあると思うが、ここはどちらかというと肉体的に大変である。

伊藤:トイレの介護など1回のトイレ介助に、ベッドから車椅子そしてトイレへと6回の揚げ降ろしをする場合があり、担当職員にはかなりきつい状況になる。
 また普通校は初めに教科ありで進めるが、養護は先に子どもありきで子どもを見てから決める。その子どもの教育内容を全部頭の中に入れておかなければいけない。かなりの緊張をともなっている。そこに先程の医療的な責任も負わされてくると負担は大きい。どこかにはっきり線を引いてもらいたい。OTPTのような仕事もあり、現場責任で解決できない問題は少なくしていきたい。

校長:他の養護学校での現場時代の話であるが、肢体不自由児の学校であったので、腰を痛めてしまった。特に食事の介助は子どもの対面で真正面ならよいが、ちょっと横にずれている位置で食べさせたり抱えて食べさせたりする。子どもがずれてくる。子どもも不安定でいやなのか、口をあけてくれない。重複の「障害」の子ども担当のときはトイレへ自分がいきたい時なども行かれないようなことがよくあった。ほかの職員に頼みたいと思ってもその職員も手いっぱいの時もある。トイレに子どもを一緒につれて入ったこともあった。
 先程もちょっとふれていた職員の流動的なことであるが、3年で替わってもよいということになっている問題であるが、人事交流でよい面もある。当の先生方も3年で出ていくのは悪いなと考えている。あと1年か2年は養護にいようという人は多いのでその点救われる。しかし再びここへ来ようという人は少ない。養護学校教諭としての専門家ではないので、英語や理科の先生が幼稚園の先生になるようなところがある。できたら3月の段階で第二教育センターなどで1週間べったり研修を受けて来てほしい。辞令が下りない状態で現実にむずかしいが、4月新学期になってからの研修はその間他の教師も大変である。
 また教師の年齢が高くなっていることも体力的に大変である。腰を痛めている人も多く、授業で登山や水泳などやっているがきついと思う。

永田:言葉の出ない子どもと接していくこともあり、子どもが何を発しているのかを受け止めるのに1年以上はかかると思う。子どもとの付き合いも1年生から3年生まで持って初めて何らかの形でコミュニケーションができたという思いである。子どもが何を発しているか気付かなければ気付かないままで送り出すことはできる。見よう見まねでそれらしく子どもに対応することはできるが、子どもの発信を受け止め、本当に彼らと出会うには、時間がかかると思う。喜びを共感できるようになるには、価値観の変換が必要だと思う。 

■子どもとの前向きな関係を築きたい
校長:「共に学び共に育つ」と皆分かったように言うが、本当に分かっているのかを問いかけたい。通常の学校に行っている子どもたちもハンデイを持っている子どもだなということは認識する。しかし「何かしてあげる」というボランテイア感覚である。それを「共に学び共に育つ」ことだと思っている。養護の子どもたちは一人ひとり違う。彼らがどんな努力をしているか、どんなことに充実感を持っているか、それを分かることが自分の生き方への支えになったり、刺激になったりするのである。それが共に学び共に生きることだと思う。「障害」を持っている子どもたちは能力の150%頑張 っている。そのことをみんなが分かるようになってほしい。

永田:この学校はこうしていきたいという教育方針や共通理解されたシステムが小学部から高等部まであるとよいと思っている。マカトンならマカトン、ボリスならボリスを…、学校中にシンボルが貼ってあって全部同じことがやれたらとは思う。しかし実際1人、2人の子どもを担当し、コミュニケーションを取ることを考えるのに精一杯でなかなかむずかしい。結局は個別に対応することで終わってしまう。その繰り返しである。

校長:実際にマニュアルを作成してやっているところはある。ある施設は、靴下を履くときは必ず誰もが左側から履くように指導している。全員同じ方法でやらせている。それはそれでめきめき効果をあげている。また逆にすべてあるがままのところもある。例えば、排泄のしつけなども非人間的な考えだとして、臭くなってもしつけはしない施設もある。
 排泄が自分でできるようになることは親の願いということもある。私は中間的な考えである。あまり頑張らせることはよくない。しかし子どもが必要な頑張りをして充実感を持つことがよいと考えている。小指で軽く背中を押してやるイメージである。それがきっかけで子どもはできるようになることがある。

田中:子どもが持っているものに向き合うことが大切なことは養護学校に限らず普通校についても言えると思う。子どもに向き合えるのに充分な教員の時間的なゆとりとか人数に恵まれているとよいと思う。

 鎌倉養護学校の先生方のお話と施設を一巡させていただいただけでは、養護学校の一端さえ語ることはできないと思う。しかし一人ひとりの子どもに向き合おうとするまたは何をすることがよいのかを試行錯誤している先生方の姿が伝わってきた。一方で子どもたちはどういう感じを持っているのか。それを知ることが難しい。
 お話の中で2年前に卒業したYさんのお母さん青木さんが地域作業所「金沢ひだまりの家」を作られたというお話があった。青木さんが「障害」のあるお子さんを育てながら、前向きに地域社会で生活の場を広げようとされていることに心を動かされた。また、12年間Yさんが通われた鎌倉養護学校の教育内容にはどういう特長があったのか、親の立場からのお話をお聞きしたいと思い、横浜金沢区にある「ひだまりの家」を訪問した。

<<<ねざす目次
<<<23号目次>>>

次へ>>>