■「発達を促す訓練にむかう」
Yさんは生まれた時2000グラムに満たない未熟児で生まれた。障害を持っていることが初めはなかなか分からなかった。7ヵ月の頃医師から「点頭てんかん」と診断された。
保育園や幼稚園の年齢になった頃、親としては、Yさんにはリハビリ・機能訓練がまず必要だと考えた。機能訓練を兼ねた保育園「ひよどり園」に週1日通わせた(「ひよどり園」は「障害」児通園施設である)。
慣れるにしたがって機能訓練1日、保育に1日と週2日通園させた。しかし就学のことを思うと、毎日のリズム的な生活習慣が大切ではないかということで、月曜日から土曜日まで通園させられるところはないかと探した。Yさんには目の障害があったこともあり、保育は「訓盲学院」に月曜日から土曜日まで通い、週に1回訓練にだけ「ひよどり園」に通わせた。
「訓盲学院」は横浜市中区にある私立専科学校である。幼稚部から高等部まであり、点字・鍼・マッサージなどの専門教育校であるが、その何年か前から肢体的な「障害」者の受け入れも始めていた。Yさんにとってこの目の訓練を取り入れたことが発達をもたらした。専門の先生が「障害」に応じて関わってくれることによって手の感覚が発達し、今まで寝返りしかできなかったYさんが肘這いで移動できるようになり、座位から立位までもできるようになった。「訓盲学院」は給食だったので食事の指導がされる。「盲」の人は手で感覚をたしかめるために手づかみで食事をする。Yさんもスプーンが使えなかったので、まず手づかみで食べることを覚えた。次にスプーンで食べられるようになった。
また毎日通うことで生活のリズムができた。(青木さんはこの時期の3年間がYさんにとって一番の成長期であったと回想する。Yさんの目に見える発達に親として励まされたと言われた。車で朝8時半に家を出て、1時間かけて送り、4時に帰宅する生活。帰宅までの時間は待機という形で、同じ立場のお母さん方と色々な話をしたり、外に出かけたり、手作りのものを作る作業をしたりで時間を使っていたという。「まるでお勤めしているようでした。夢中でしたね。今やれと言われてもできないでしょうね」と青木さんはなつかしそうに話をされた。)
Yさんの生活リズム習慣と機能訓練を途絶えさせるわけにいかない、またどう伸びていくかの期待感もあって養護学校へ進む道を選択した。(当時の地域の学校にはほとんど受け入れ体制はなかった)
■鎌倉養護学校へ入学
一番近くには本郷養護学校がある。ここは知的「障害」の子供中心に受け入れる学校ということで、見学はしたが、生活面・学習内容・設備面で肢体中心の訓練にはものたりないと思い、鎌倉養護学校に決めた。
しかし送迎バスで1時間はかかる遠路である。バスステーションがバス会社の都合で時々変更があり、家から20分かかる地点まで出て待たなければならない時もあった。(朝7時20分発という時もあった。)Yさんが体力的にどうかと心配したが、それまで中区まで通っていたこともあって大丈夫であった。(この頃Yさんは安定していた)
Yさんは「重度重複」と言われ、一番「障害」が重い状態である。「座位まではなんとか取れるが、保持ができない。前のめりになるのでその姿勢で何かをすることはできない。(丁度お訪ねした日も「ひだまりの家」の床の上で少し大きめのクッションにうつぶせになっている状態で音楽を聞いていた)また自分の意志を言葉で伝えることは難しい。何回か接して慣れてくると声のイントネーションや表情・態度でイエスなのかノーなのかを判断できるようになってくる。
食事・トイレを含め日常生活はすべて介助が必要である。 |
当初バスに乗せるときはお母さんが座席にシートベルトを付けそこにYさんを座らせてシートベルトで留めるまでやっていた。Yさんが5年生の時、青木さんが椎間板ヘルニアになり、手術で4カ月入院をした。その後リフトで車椅子が乗れるようになった。(青木さんには子どもさんがYさんの下に2歳下の男の子と8歳下の女の子がある。入院の間どうしようもないということでYさんは半年間秦野市にある国立神奈川病院の方に入所し、併設されている秦野養護学校に籍を移す体験をしている。この思いがけないアクシデントにYさんのお父さんも苦労された。秦野にはたまにしか行かれなかったが、Yさんはじっとがまんしている様子だったようである)
鎌倉養護の教育は一言で言うと「手厚い」という感じがする。マンツーマンに近い状態で学習面においても一人ひとりの子どもに応じたカリキュラムが用意され、その子どもに合った接し方がされる。設備面では移動一つを取っても、段差がなく広々としていて動きやすくできている。
振り返ってみて葛藤があったと言えば、学校というところは小学部から中学部・高等部へと進むにつれて区切りがある。対応の変化がはっきりと出てくる。その変化の大きさに親としてついて行かれなかった。親の側からすると子どもは何歳になっても子どもである。子どもが中学部になっても中学生になったという意識はあるが、小学生の続きである。先生の方は中学部の先生が中学生として対応し、中学生として尊重し、本人の意志を待っている状態で接している。それが親からすると急につき放され、何もしてくれないのではないかという気持ちにさせられた。高等部でもそこは進路に向けての3年間という学校側の指導が前面に出ていたようだった。今になって考えてみると、親というのはいつも子供と1対1で関わっているので、生活の中に子どもとの行動・リズムができてしまっている。本人の意志を待つ、引き出すことが苦手なところがある。先生ともお互いにもう少しじっくりと話し合う機会を設けて意見交換が必要であった。
それにしても養護学校の場合は先生方が現場を離れるのが難しい状態にある。親側の意見や考えを話し合う場がPTA実行委員会だと思うが、親はなかなか本音を先生方に伝えない。自分の中で処理してしまっている人もあった。
子どもの「障害」はそれぞれに違う。医療的な介護が必要な子どももいる。学校で対応しきれない場合は親が学校に出向いて対応している。医師や看護婦が常時対応してくれたら、養護学校を必要としている人の受け入れはもっと広がっていくのではないか。現在「ひだまりの家」にも、丁度医療介護を必要としているメンバーがいて、看護婦さんが付いている。
■「ひだまりの家」をつくった
Yさんの「障害」は重い。何か作業ができるという子どもではない。卒業に当ってはどちらかというと、医療がともなった通所施設を希望していた。当時はどこも常に定員いっぱいで何人も待機の状態であった。もし通えるようになっても月に数回というのが実情であった。養護学校でせっかく生活のリズムができているのに、月に何回というのは在宅と同じである。毎日通うことが今のYさんの安定につながっていると考え、金沢区の作業所を探した。しかし車椅子の移動が難しかったり、広さがなかったり、金沢区には重い「障害」者の作業所はないということが分かった。
高等部3年の頃から少しづつ作業所を作る準備をしていこうと、同じ悩みを持っている人(他の養護学校に通っている)が何人かいたので、「作業所をつくるために一緒に努力してみませんか」と声をかけた。一方で青木さんはYさんが高等部に進んだ頃、金沢福祉センターを利用して在宅の「障害」を持っている人と週に1回活動に関わるようになっていた。現在「ひだまりの家」に参加してくれているボランテイアの人たちとそこでつながり、週1回の活動を基本に作業所をやっていこうとする自信にもつながった。1年間の準備を経て開所にこぎつけた。(青木さんは運営委員長として関わっている。)「ひだまりの家」の活動は、メンバーと職員・ボランテイアの人とで活動の中味、スケジュールなどを決めている。運営委員会はメンバーの代表、職員、家族会、地域の人、行政関係者等で構成されている。
(この日、「ひだまりの家」にはメンバーが7、8人と職員・ボランテイアの人たちが話し合いをしていた。日常は外の買い物に出かけたり、アルミ缶つぶしやレザークラフト・木工などの作業をしているそうである。知っている他の作業所と比べると建物は新しく明るい。玄関ホールまでスロープになっていたり、居心地がよさそうであった。2階の1室にはリサイクルショップが週2回開かれていて、その売上金がメンバーの工賃に当てられているそうである。ただ新建のそこそこ大きな一戸建てのため家賃が30万円かかっている。家賃補助が17万5千円(1998年度補助金)しかなく助成金の中から当てているそうで、かなり苦しい運営ではないかと思いながら、見させていただいた)
■少しでも巾広い関係の中で
Yさんが中学生の頃反抗期になって母親を拒絶した。「障害」のある子どもにそういうことはないと思っていたためそれは驚きであった。精神面ではっきり発達しているではないか。
今Yさんは20歳の反抗期である。20歳の男性として関わろうと考えている。親離れの時期がいずれ来るであろう。家庭を離れた遠くの施設でもよい所があればそれも選択肢に入れ、近くにグループホームができればそれも頭の中に入れる。
また、このままなのかも知れない。今のうちからYさんが外に出られるという状態にしていくことが望ましいと考えている。年に1回は横浜療病園という病院と併設の施設に1週間程度の入所体験もしている。Yさんが今後25歳、30歳と年齢を重ねる節目にどうあったらよいのか考えていこうと思っている。
(青木保子さんのお話をお聞きして、Yさんの今や将来について「こうあってほしい」という希望が強く伝わってくる。「Yは音楽が好きなんです。誰の目にも音楽を聞いていればご機嫌な状態ですが、私はできるだけ他のことに意識・関心を向けさせるようにしています。『ひだまり』の職員にも『音楽だけで過ごさせないで』と言っているのです」と言われた。そこには、Yさんにできるだけ他者との関係で過ごさせたい、他のことに関心を持ってもらいたいという願いを強く感じさせられた)
もう1人、鎌倉養護学校を卒業して茅ヶ崎市の福祉法人施設に通所されているSさんについて取材させていただいた。 |