- 教育学系の大学院生のこと、 知っていますか?
少し前に、 「小保方・STAP問題」 が世間の注目を集めました。 そのときに、 いくつかの新聞によって、 昨今の理系の研究者が、 就職や研究費の獲得のために業績づくりに追い立てられているという報道がなされ、 これからの研究者の育成のために、 もっとゆとりある研究環境を形成することが大事なのだという指摘が主張されました【1】。 しかし、 このときにクローズアップされたのは、 当然のことながら、 渦中の小保方晴子さんと同じ理系の研究者についてであり、 文系の研究者の業界が、 どういう状況にあるのかということは、 ほとんど注目されることはありませんでした。 ですが、 文系の研究者も、 理系の研究者と同様に、 厳しい研究環境にあることは間違いないと思います。
そこで、 今回は、 文系の研究者のなかでも、 とくに教育学系の若手研究者 (=大学院生) に注目し、 そこから、 現在の研究者を取り巻く状況について考えてみたいと思います。 小中高校の教育現場にとって、 教育学系の大学院生がどういう研究環境にあるのかということは、 日々の教育実践とは関係のない次元の話題です。 ですが、 いまの大学院生たちが10年後、 20年後には、 教師たちと日本の教育界を伴走することになるのですから、 彼らがどういう下積み時代を送っているのかということを知ることで、 今後の教育界のあり方を考える一助になるのでしょう。
- 進学の理由と研究の動機について
そもそも、 教育学系の大学院生は、 どういった事情から大学院へ進学することにしたのでしょうか。 試みに、 40人の大学院生 (国立:16人、
私立:24人) を対象にして聞き取りをしてみると、 進学理由のパターンとして、(1)研究活動が好きで、 研究職【2】を志望し、 自分の興味のある分野についての研究を深めるため、
(2)変えなければならないと思う現実が目の前にあり、 研究活動によって変革を志向するため、 (3)教師になるため、 教員免許状 (専修免許状) を取得するため、
(4)就職活動などがうまくいかなかったため――という4点の方向性が存在するということがわかりました【3】。 ふつう、 大学院には、 修士課程 2
年 (博士前期課程) と博士課程 3 年 (博士後期課程) という、 ふたつの課程があるのですが、 (1)と(2)の人は、 博士課程まで進む傾向が強く、
(3)と84)の人は、 修士課程を修了すると、 そのまま大学院を去って、 学校現場に出たり、 企業に就職するという傾向が強いようです。 このうち、 研究者になるのは、
ほぼ、 (1)と(2)の人々です【4】。
この(1)と(2)の人々に共通することですが、 研究者として自立し、 研究職につくためには、 自分の専門とする分野の研究を積み上げねばなりません。 良質の論文や著書、 研究報告書をたくさん書き、 国内外の学会や研究会で日頃の研究成果を発表し、 学界に貢献すること、 ひいては、 それによって、 「公衆に奉仕すること」 が求められることになります【5】。
教育学系の研究というと、 学校のなかの教育実践に関することだけが目的なのだと認識されるかもしれませんが、 それだけではなく、 教育にまつわる心理学や哲学など、 研究の対象となるべきテーマは、 たくさんあります。 大学院生は、 以下のような大きな分野から具体的な個別のテーマを見つけて、 それぞれの研究を深めています。
- お金がかかる大学院生の日々
当然のことですが、 いずれのテーマも、 インターネットを使用したり、 一般向けの数冊の本を読んだ程度では、 研究と呼べるようなレヴェルに到達することはできませんから、 そうとう努力をして、 いろいろなことを調査していく必要があります。
たとえば、 カンボジアの工場労働者の少女と教育システムのかかわりについて研究をしている知人は、 カンボジアと日本を往復して、 インタビュー調査を実施していました。 また、 イギリスの学校給食をめぐる福祉国家の歴史について研究している知人は、 現地でしか手に入らない史料を手に入れるために、 イギリスまで足を運んでいました。 ふたりとも、 どこからも旅費など出ませんから、 自分でお金をかき集めて現地に向かうわけです。
一方、 日本のことを研究する人も、 お金がかからなくて済むというわけではありません。 知人のひとりは、 戦前の教育制度に関する研究していますが、 研究に使用するための史料は、 地方の図書館にあったりするので、 それを閲覧するために、 自費で出張をしています。 それに、 閲覧した史料をコピーするにしても、 貴重なものの場合は、 1 枚30円や50円という割高の場合もあるので、 200枚とか、 400枚とか、 大量にコピーして帰ってくると、 数万円は、 すぐ吹っ飛んでしまうのです。 私の場合は、 おもに、 戦後の教育雑誌を使用した研究なので、 わりと史料は集めやすいのですが、 それでも、 教育雑誌を創刊から終刊までひと揃えで300冊ぐらい買い求めると、 もうそれだけで、 20万円近くの出費です。 研究には、 お金がかかるものなのです。
もちろん、 それ以外にも、 学費も支払わなければなりません。 近年の日本学生支援機構による 「学生生活調査」 (2013:2014) を参考にすると、 平均して、 国立大学では、 約50万円、 私立大学では、 約80万円の年間学費が設定されています。 いずれも、 けっして気軽に支払える金額ではないと思います。
これらの研究費や学費を確保するために、 多くの人がアルバイトや小中高校の教育現場で非常勤講師などを経験しながら研究を続けています。 もちろん、 奨学金を借りる人もいます。 少し前、 新聞報道にて、 父親が借金を抱えていて、 日本学生支援機構から、 学部と大学院の通年で、 約600万円も奨学金を借り入れた国立大学の大学院生の事例が取り上げられていましたが【6】、 そういうふうに、 奨学金という名の借金を背負ってまで、 研究を続けている人もいるのです。
かつては、 大学教員になれば奨学金は返還免除になっていましたが、 いまでは、 そういうシステムがなくなってしまったので、 「特に優れた業績による返還免除」 というシステムを利用し、 奨学金の貸与期間中に書き上げた論文の本数などで業績を評価してもらい、 奨学金の返還免除をねらうことになります。 ただし、 返還免除になる人の数は限られていますから、 ほかの人よりも業績をあげるために競争をすることになります。 一面では、 それは研究全体を活性化させ、 より優れた研究成果を生み出すために効果のあるやり方かもしれません。 しかし、 その欠点として、 内容の薄い研究の量産 (=質の低下) や時間のかかる研究分野への関心の低下といった事態を招くこともあります。
他方、 家族から金銭的な支援を受けて大学院に進む人もいますが、 この場合は、 その代償として、 周囲から、 「すねかじり」 などと蔑まれることもあるでしょう。 あるいは、 かつて流行語のように語られた、 「高学歴ワーキングプア」 や 「高学歴ニート」 というレッテルを貼られることもあるかもしれません7。 いずれにしても、 なにかしらの〈志〉がないと、 やってはいけない世界だということに間違いはないと思います。
- 研究を続けることができる理由は?
大学院生は、 お金がもうかるような職種には目もくれず、 あえて、 お金と時間を投資して、 大学院に進学してきました。 では、 なぜ、 大学院生は、
こうまでして研究をするために大学院にやってきたのでしょうか。 それには、 先に述べた進学の理由のうち、 (2)のパターンに手がかりがあると思います。
研究者をめざしている大学院生は、 多かれ少なかれ、 この世のなかの、 なにかを変えたいという〈志〉を持っています。 それは、 たとえば、 当事者研究をしている人が、 いちばんわかりやすいかもしれません。 当事者研究をしている人は、 自分自身が、 「いじめ」 や児童虐待、 スクールハラスメントなどを体験していたりします。 あるいは、 性的マイノリティであったり、 難病をかかえていたりすることもありますし、 社会や学校から落ちこぼされた経験を持っていたりもします。 そうした自身の身体に刻まれた経験から、 変えなければならない現実の存在を意識し、 それに対峙するために研究をスタートすることで、 お金と時間を惜しまずに、 研究を続けることができるのです。 あるいは、 研究という実践を通して、 人々になにかを伝えたいとか、 学界の構造を変えたいとか、 学問のあり方を変えたいとか、 そういうことを考えている人もいるようです。 みな、 なにかしらの変革を志向する〈志〉を持ち、 下積み時代を送っているのです。
そのように見てくると、 大学院生というものは、 漫画家や小説家、 芸人や職人などと同じように、 〈志〉のために、 下積み時代を送っている人たちなのだと理解することができるのではないでしょうか。 そうやって考えてみた場合、 彼らがお金や時間をつぎ込んで、 マニアックな分野の探究に没入していく姿にも説明がつくかと思います。
- 大学院改革のもたらしたもの
どこの職種でも、 下積み時代が厳しいものであることは間違いないので、 大学院生も、 例外なく、 ある程度の苦労は引き取るべきでしょう。 ただ、 ここ20年ぐらい、 こうした下積み時代の環境が、 少しずつ悪化し、 大学院生たちが苦労を引き取ることが難しくなってきているという状況もあります。
1991 (平成 3 ) 年に打ち出された大学院重点化という教育政策によって、 大学院は大学院生を定員どおりに受け入れることになりました。 それまで、 大学院修了後の就職数を考慮して、 大学院は定員以下の人数しか受け入れていませんでしたが、 この政策をきっかけとして、 1990年前後には 9 万 8 千人程度であった大学院生の数が、 2006 (平成18) 年前後には26万人を突破することになりました。 この政策は、 大学院生の就職口を確保することを配慮せずに、 あまりにも性急に大学院生を増やすことになったので、 2009 (平成21) 年になってから方針転換がなされました。 しかし、 それでも、 ひとたび増えた院卒者の数が急激に減ることはありません。
教育社会学者の竹内洋さん (元・京都大学教員) は、 下のような表を提示して、 年度ごとの大学教員への就職のしやすさを比較しています。 この表は、 正確な求人と求職の割合を示しているものではありませんが、 全体の傾向を知るうえで、 とても便利なものです。 これを見ると、 研究者を志望する大学院生の就職口が、 いかに少なくなっているか、 いかに競争率が上がっているかということが、 よくわかるのではないでしょうか。
2009年の段階で、 文部科学省の官僚である今泉柔剛さんは、 大学院重点化という教育政策について、 「博士の増加は間違いではなかった」 としつつ、 就職口が見つからないのは、 「大学院生自身や大学院教育、 産業界・社会」 などにも原因があるとコメントしています【8】。 ですが、 竹内さんの提示するような表を見れば、 もう、 大学院生自身がどう努力をしても、 どうにもならないところまで社会の状況が推移しているということは明白です。 それに少子化の流れも現状を悪化させました。 大学や短期大学が、 どんどん規模を縮小していくなかで、 研究職の数は減ってゆき、 競争率が高まっていくことになるのです。 とくに、 最近では、 「特任」 や 「特命」 という研究職の数も増えています。 「特任教授」 や 「特命助教」 と呼ばれるポストがそれです。 これらは、 任期つきのポストのことを指しています。 「特任」 や 「特命」 のポストは、 一応は専任の研究職であり、 非常勤よりも待遇はいいのですが、 任期が切れたあとのことは、 どうなるかわからないので、 先行きが不透明なことに間違いはありません。
- 教育改革の予期せぬ効果?
また、 以上のような事情と並走して、 90年以降、 教員養成課程に対する教育改革も、 どんどん進められています。 とくに、 「教育荒廃」 のイメージによって、 「教育再生」 が主張され、 「ダメ教師」 をつくらないために、 大学における教員養成課程を改革しようという主張も加速するようになりました【9】。 これは、 現状のままでは、 「ダメ教師」 が産出されかねないという問題意識から生じたものでしょうが、 その背景には、 以下のような発想もあるようです。 これは、 改革を求める側の典型的な語りのひとつです。
日本の教育学者たちは、 教育学部を出て、 小・中・高の教職経験もなく、 そのまま助手、 講師、 准教授として、 観念的哲学的に教育学を研究する。 そして多くの教育学者は、 それぞれの教育研究において、 現場の教育指導とは無関係に観念的に高度な研究を行なう。 … 〔中略〕 … 賢明な識者たちは、 もはや切除しかない教育学部 ということになるのである。 わが国の教育学を まとも にする第 1 の要件は、 小・中・高校の教職経験なしで教育学部の教授となってはならないことである。 第 2 は、 教育は科学であることを認識して、 教育仮説を主張するときはそのエビデンス (事実証拠) なしで、 観念的な教育論を学校現場に不用意に押し付けてはならないということである。
(加藤十八 編著 『ゼロトレランスからノーイクスキュースへ』 学事出版、 2009:18‐19頁)
このように指摘する加藤さんが、 教育学部や教職課程において、 現場経験のある元教師を非常勤講師として大量に採用しているという現実や、 多くの専任教員たちも大学院生時代に、 教師として現場経験を持っているという現実を見落としていること、 ようするに、 自分自身が 「エビデンス」 なしの議論を展開している点は、 ここでは深掘りをしません。
注目したいのは、 引用文のなかで、 私が下線を引いた部分です。 この部分からもわかるように、 昨今の教員養成課程には、 小中高校における現場経験や実践的な指導力が求められています。 そして、 教員養成課程にそうしたものが求められているということは、 すなわち、 これから教員養成課程に教員として就職することになる大学院生にとって、 就職の条件としても現場経験や実践的な指導力が求められるのです。
ここ数年、 大学や短期大学、 専門学校などの教員の公募の条件に、 小中高校での現場経験を求める記述が増えてきました。 現場経験の有無が、 選考のひとつの基準として考えられるようになってきているのです。 それ自体は、 とくに悪いことではないと思います。 ただ、 これまでの教員養成課程では、 現場経験を持つ人と、 そうではない人が雑居している状態でしたが、 近年、 現場経験を持つ人が、 あるべき存在、 当然の姿であるかのようになっている気がしてなりません。
大学院生や若手の研究者のなかには、 「そのうち、 小中高校での現場経験がないと、 大学の教員になれないとか、 授業が持てなくなるという日が来るのではないか」 と心配をしている人たちもいます。 もしそうなったら、 教育実践や人とのコミュニケーションは不得手ながら、 研究に関しては、 一流のしごとをしている というような人々が、 研究職から疎外される可能性があるでしょう【10】。
また、 大学の教員養成課程には、 「道徳教育論」 や 「教育方法論」、 「社会科教育法」、 「理科教育法」 など、 さまざまな授業科目がありますが、 これらの科目を持つためには、 「○×年以内に、 ◇○本以内の著書、 または論文を書いていること」 というような条件 (=文部科学省による教職課程認定) をクリアする必要があります。 教員の学生への指導力というものは、 目には見えませんから、 教員養成の質保証を目に見えるかたちで評価するためには、 著書や論文、 学会報告などの数を指標とするしかないので、 そういうふうになるわけです。
そして、 当然のことながら、 こうした授業が担当できない人を大学や短期大学が教員として採用することはないので、 大学院生は、 修士論文や博士論文を書きながら【11】、 将来の就職のために、 教員養成の授業科目に関する論文も書き続ける必要があります。 それも、 「○×年以内に……」 という条件をクリアするために、 定期的に、 執筆を続けなくては意味がありません。 そして、 授業科目も、 1 コマだけを担当するということは非常勤の教員以外ではありえないので、 4 〜 5 コマは担当が可能な状態にしておく必要があります。 いちばんいいのは、 修士論文や博士論文で、 授業科目の内容と重なるテーマで論文が書けることです。 しかし、 現実には、 なかなかそうもいきません。 たとえば、 ハンセン病や性同一性障害の研究、 あるいは、 戦前の海軍水雷学校や江戸時代の商家の教育に関する研究をしている人はどうすればいいのでしょうか。 みずからの研究の知見をもとにして、 オリジナルの 「道徳教育論」 や 「社会科教育法」 の授業を展開することは可能です。 ですが、 それをシステムが認めているかというと、 そうでもありません。
もちろん、 システムによって、 ひとつの方向性を規定することは大事ですが、 その過度な強化によって、 教職課程認定を通るような分野の研究 (=得をする研究) と、 そうではない分野の研究 (=損をする研究) をつくってしまうことになります。 そうすると、 損をすると見なされた分野の研究は、 どんどん衰退の方向に向かっていくことになるでしょう。 実際に、 大学院生の間では、 そもそも授業科目の少ない教育史学や教育哲学は、 斜陽産業になりつつあると話題にされることがあります。 そういう分野を専攻していても、 研究するテーマによって担当できる授業科目は少ないですし、 なりよりも、 研究成果がまとめられるまでに、 かなりの年月が必要になる分野ですから、 そういうふうに言われるのです。
私のまわりには教育史学を専攻する研究者や大学院生が多いのですが、 彼らは、 いつも、 分厚い辞書を片手に、 「くずし字」 を読んで江戸時代の史料を解読したり、 ひとつの史料を 1 年ぐらいかけて丁寧に分析したりしています。 歴史研究は、 そういう積み重ねの必要な学問なので、 なかなか研究成果が出てくるものではありません。 ですが、 現在、 博士論文を書いて博士号が取得できないと、 ほとんどの研究者は、 専任の研究職にはつけないので、 よほどの努力がないかぎり、 この分野で生活をしていくことは厳しくなります。 そうなってくると、 教育史学や教育哲学の研究で生きていくことはやめようと判断する人が出てきても、 しかたがないことです。
東京大学教育学部の 「史哲」 (= 「教育史・教育哲学コース」 の略称) が日本の 「戦後教育学」 の代表のように語られていることは、 ひとつの象徴だと思いますが、 教育史学や教育哲学は、 これまで日本の教育研究の花形でした。 しかし、 いまや、 教育史学や教育哲学を正面から研究し、 それを学生や大学院生に教授することが難しい状況も生まれつつあるのです【12】。 そうすると、 結果的に、 教育史学や教育哲学の研究は衰退し、 ひいては、 教師になる若者たちも、 オーソドックスな教育史学や教育哲学に、 知識として触れないままに現場に巣立っていくことになるかもしれません。 それは、 教育改革の予期せぬ帰結であると見ることもできるのではないでしょうか。 自分の生まれ育った国の教育の歴史や教育をめぐる哲学の知識に触れたことのない学生が教壇に立ったり、 大学院生が研究者として活動することを願っている人など、 おそらくいないはずなのに 。
- まとめとして
身近な話題ということもあり、 ついつい口数が多くなってしまいました。 竹内洋さんは、 自身の大学院生時代を回顧して、 「いまの大学院生から比べれば天国のような時代だった」 と総括しています【13】。 うらやましいことです。 しかし、 社会全体が予算と人手の不足に悩まされているなかで、 大学院生の研究環境だけを、 そうした 「天国」 の時代の水準までに引き戻せと気やすく主張する気はありません。 おそらく、 そうした時代は、 もう二度とやってこないでしょう。 ほかにお金をかけるべき分野もたくさんあります。
けれど、 贔屓目で見ているのかもしれませんが、 教育学系の大学院生は、 変えなければならない現実と対峙している人も多いですし、 「教育」 という世界に身を置いているからこそ、 そうした環境でも、〈志〉を捨てずに、 良心的な方法論で研究を続けているほうだと思います。 ほとんど収入にはならないにもかかわらず、 学童保育を手伝っていたり、 研究の時間を削ってまで、 非常勤先の高校や専門学校の授業づくりに追われている人が少なからずいます【14】。 それはまるで、 「教師聖職論」 を背負っている学校教育現場の教師のような働きぶりです。 そういう人たちの背中を見ると、 あとさきを考えない教育改革によって、 今以上に状況が悪化することは、 なんとしても避けてもらいたいと願わずにはいられません。
先日、 とある地方の国立大学の廊下を歩いているときに、 壁に貼られた啓発ポスターを発見しました。 写真を見てください。 これは、 大学の教職員組合が作成したものだそうです。 これを見たときに、 「次世代に……」 の部分に、 主語がないのは、 意図的なのかと、 ふと、 考えたてしまいました。 大学の経営陣や教職員、 政治家や国民など、 主語は、 いろいろと思いつきます。 どのような社会問題もそうですが、 主語に自分自身をあてはめる人の数が増えれば、 希望も増すものです。
最後に、 大学紛争や原子力研究によって、 「知」 のあり方が問われた時期の 「学問論」 から以下の文章を結びとして引用したいと思います。
今日わたしたちは、 書物がありあまるほどに存在し、 教師や研究者の存在も別に珍しくはないというような社会に住んでいて、 これを当たり前のことのように思っている。
… 〔中略〕 … しかし学問知識と国家社会との結びつきは、 一方では未来小説やSF小説に描かれているような、 明るい可能性を含んでいるけれども、
他面では断絶の暗い可能性があることを、 やはり忘れずにいなければならないと思うのである。 そしてそのような危険のなかで学問を守りそだてて行く努力を、
やはり貴重なものと考えなければならないのである。 … 〔中略〕 … 未来小説が描くような学問知識の受量の多い社会というのは、 われわれの社会が自由で、
しかも根底において安定した社会であることを前提としてはじめて、 これをわれわれの将来として期待することができるのだと言わなければならない。
(田中美知太郎 『学問論』 筑摩書房、 1969:207‐208頁)
《本文註》
【1】たとえば、 「成果主義、 不正の温床に」 ( 『東京新聞』 2014年4月9日付:朝刊) などがあります。 ただ、 「自然科学に比して、 人文・社会科学の博士課程修了者の雇用状況が大学教員のポスト数に決定的に依存」 (広渡清吾 「特集 人文社会科学の役割と責任」 『学術の動向』 文部科学省、 2007:550-557頁) しているため、 教育学系の大学院生の研究機関への就職率は、 理系に比較してまだ良好な程度になっています。
【2】聞き取り調査は、 日本教育学会や日本オーラル・ヒストリー学会、 教育史学会や教育思想史学会などの機会を利用して、 2014年7月から10月にかけて実施しました。
聞き取りの形式は、 「半構造化インタビュー」 の形式を採用し、 フィールド・ノーツに意見を記録しながら、 調査を進めました。 なお、 ちょうど、
この原稿を書き終えたときに、 教育科学研究会 『教育』 (第827号、 かもがわ出版、 2014) において、 「揺れ惑う科学研究」 という特集が組まれ、
舞田敏彦 「データでみる大学院のいま」、 山田りさ・篠田陽・吉田司・玉木勝章 「手記・若手研究者のいま」 という文章が掲載されました。 舞田さんは、
量的なアプローチから、 現在の大学院の問題性を指摘しています。 若手研究者たちは、 質的なアプローチから、 大学院生や非常勤講師の実態について、
事例を報告しています。 この原稿は、 後者の質的なアプローチの文章と重なる視点があると思いますので、 ご興味があれば、 あわせて参照していただければと思います。
【3】しかし、 厳密に言うと、 研究者の人々と研究職についている人々の資質は、 イコールの関係ではありません。 研究職についていなくとも、 あるいは、 修士号や博士号を取得していなかったとしても、 研究者のスキルを身につけている人はいるでしょうし、 反対に、 研究職についていても、 研究者としてのスキルが欠如している人はいるはずです。
【4】 「第8回全国院生生活実態調査」 (全国大学生活協同組合連合会、 2014) によると、 文系の大学院生の進学理由は、 上位5項目において、
(A) 「専門知識を身につけたかった」 (68.6%)、 (B) 「興味を深めたかった」 (60.2%)、 (C) 「資格を取るため」 (34.1%)、
(D) 「社会に出たくなかった」 (16.4%)、 (E) 「高い学歴が欲しかった」 (18.5%) という傾向を示しています。 (A) と
(B) は、 本レポートで指摘するところの@とAの傾向を、 (C) は、 Bの傾向を、 (D) と (E) は、 Cの傾向に重なると思います。
なお、 この量的調査は、 国公私立大学21校に在籍する大学院生を対象に実施され、 回答数は、 4,114人でした。
【5】池田美穂 「研究不正とどのように向き合うか?」 (『質的心理学フォーラム』 第6号、 日本質的心理学会、 2014) 19‐20頁。 池田さんは、 研究者の研究倫理上の公理を構成する要素として、 @ 「研究者どうしの信頼」、 A 「専門家に与えられた規範の遵守」、 B 「公衆に奉仕すること」 を挙げています。
《参考文献》 北野秋男 『ポスト ドクター 若手研究者養成の現状と課題』 (東信堂、 2015) 北野秋男 『日本のティーチング・アシスタント制度
大学教育の改善と人的資源の活用』 (風間書房、 2006) 永井憲一 監修 『憲法から大学の現在を問う』 (勁草書房、 2011) 両角亜希子
「大学院卒業後のキャリアパス」 (『現代の高等教育』 第552号、 IDE大学協会、 2013) 57‐63頁。 佐久間亜紀 「1990年代以降の教員養成カリキュラムの変容」
(『教育社会学研究』 第86集、 日本教育社会学会、 2010) 97‐112頁。/TD> 【6】 「奨学金、 返したいけど」 (『朝日新聞』 2012年3月17日付:朝刊)
【7】このあたりの事情は、 水月昭道 『高学歴ワーキングプア』 (光文社新書、 2007) に詳しくまとめられています。
【8】 「就職漂流、 博士の末は」 (『朝日新聞』 2009年1月18日付:朝刊)
【9】 「教育荒廃」 というイメージは、 実態を反映したものではなく、 メディアやジャーナリストの言説によって煽られた虚構のものであるということは、 すでに多くの論者によって指摘されています。 実証的なデータにもとづく研究も積み上げられていますし、 そうしたイメージは、 完全にあやまりであるということが明らかになっています。 こうしたことは、 総論として、 広田照幸 『教育不信と教育依存の時代』 (紀伊國屋書店、 2005)、 『「愛国心」 のゆくえ』 (世織書房、 2005)、 苅谷剛彦 『教育改革の幻想』 (ちくま新書、 2002) などにまとめられています。
【10】現場から乖離した空論をふりまわし、 いわゆる 「象牙の塔」 に引きこもる研究者ばかりでは困りますが、 学校教育現場での勤務を経験していても、 優れた研究ができるかといえば、 そういうことはありません。 現場経験もあり、 研究も優れているという人材は、 なかなかいないものです。 理想の状態は、 やはり、 研究者と実践者の双方が同じ場所で雑居している状態ではないでしょうか。 お互いに足りないところは、 学会や研究会、 あるいは学内の教授会や委員会などの場を通して、 双方が補完しあえばそれでいいのです。 研究者と実践者を別個のものとして切り分けて把握することは、 人々の研究や実践を個人だけの所有物と見なすことにつながります。 研究や実践と、 そこから得られる知見は、 個人の所有物ではなく、 みなで共有し、 批判し、 補完しあう公共性のあるものだと思います。 個人の内側に理論と実践の一致を求める姿勢は、 研究や実践の成果を社会の共有の財産ではなく、 個人の所有物として矮小化させることになります。
【11】ただし、 博士論文は、 学術雑誌などに掲載された数本の論文をひとまとめにして提出することが条件になっていることが多いので、 それ自体を書き上げることも、 かなり厳しいものです。 まして、 そのほかに授業科目を担当するために論文を書くなど、 ほとんどの大学院生にとっては厳しいことでしょう。 近年の教育システムの都合上、 修士論文や博士論文にかけられる時間が、 かつてより少なくなっていることから、 「今の博士論文は昔の修士論文」 になってしまっているという意見もあると小笠原拓さんは記録しています (小笠原拓 「あとがき」 『近代日本における 「国語科」 の成立過程』 学文社、 2004:187頁)。
【12】教育哲学が教職必修科目から除外されたこと、 どのようにして教育史学や教育哲学が教員養成課程と関わりをもつべきなのかということについては、 林泰成・下司晶・古屋恵太・山名淳 編著 『教員養成を哲学する』 (東信堂、 2014) に多くの知見がまとめられています。
【13】竹内洋 「高学歴ワーキングプア 教養難民の系譜 (1)」 http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/university/001.html (2014年8月1日閲覧)
【14】教育学系以外の学問分野でもそうかもしれませんが、 教員のなかにも、 大学院生を個人的に支援する人が多くいます。 たとえば、 文部科学省の科学研究費で大学院生をアルバイト (研究助手) として雇用し、 生活を援助するなどという方法を取っている人もいるようです (「院に重点院生倍増、 目標達成も…」 『讀賣新聞』 2002年5月16日付:朝刊)。 ただ、 そうした方法も、 「研究費の不正使用ではないか?」 という管理の目が強まれば、 これから縮小の方向に向かっていくことと思います。
《参考文献》
北野秋男 『ポスト ドクター 若手研究者養成の現状と課題』 (東信堂、 2015)
北野秋男 『日本のティーチング・アシスタント制度 大学教育の改善と人的資源の活用』 (風間書房、 2006)
永井憲一 監修 『憲法から大学の現在を問う』 (勁草書房、 2011)
両角亜希子 「大学院卒業後のキャリアパス」 (『現代の高等教育』 第552号、 IDE大学協会、 2013) 57‐63頁。
佐久間亜紀 「1990年代以降の教員養成カリキュラムの変容」 (『教育社会学研究』 第86集、 日本教育社会学会、 2010) 97‐112頁。
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