計画的戦略と創発的戦略

中田 正敏
 5 年間お世話になった大学の研究室を引き払うことになった。 撤退の期日が示されているし、 資料や書籍の量も段ボール箱で想定30箱なので計画を立てざるを得ない。 大まかにどのようなものは捨てる、 古本屋に売る、 学生用にゼミ室に寄付する、 家に持ち帰るという分類をして、 期間を設定し処理をすることにした。 整然とした完璧なプランができた。
 しかし、 やってみると、 仕事をしながらの分類は容易ではなく、 その日の気分、 興味関心によってかなり分類の基準がブレる。 部屋に基準を掲示して機械的に分類をすることにしたが、 自分が分類作業の道具にされたようで、 本末転倒的であり気分が悪い。
 そこで、 そもそも現在ある資料や書籍はその時々の興味関心、 気分によって収集してきたのであるということにして、 整理する場合も直感で分類することにした。
 先日、 生き残った資料と改めて対面してみると意味があるものが残っている。 というより、 今の興味関心で意味をもたせる構えで見ているからだろう。 計画されたものと実現されたものはかなり違ってしまった。
 計画と言えば、 最近は学校をいろいろな仕事の関係で訪問する機会があるが、 グランドデザインとか、 中長期計画とか、 学校経営計画等のプランを示して説明していただくことが多い。 計画を示す資料が基礎となると、 どうしても計画通り着々と進行中であるという少し硬めでフォーマルな文脈が主流となる傾向があるようだ。
 しかし、 ややインフォーマルな説明の場面もあり、 学校の中での人間関係がふと感じられる瞬間があり、 計画とはややずれているものの、 というより、 ずれているからだろうと思うのだが、 とても興味深い動きが進行していることがうっすらと把握できることがある。
 実際の現場の中で創造的に生成しつつあるものを語る時の、 説明してくれる方々は生き生きとしていて、 複数の方が説明してくれる場合には、 掛け合い風の雰囲気の中でそれが伝わってくる。 そして、 話は、 「今の話は、 学校説明というのとはちょっと違うのかもしれませんけれど」 という言い方で締めくくられることが多い。
 計画を進めていく中で、 それに対応して内発的な動きがあるのだが、 肯定的に言語化することはあまりなされない。 意図された計画とは外れるからだろうか。 計画をつくると、 その通りにできるかどうかが重要な観点となり、 実践が滞ると、 その要因として関わる人々の意識の低さが問われ、 意識改革のための研修の必要性等が強調されて、 ともかくも当初のプランの通りにやっていくことが最優先される傾向がある。
 ところで、 支援に関する仕事をしている人は、 二者関係、 対人関係を基調にして経験を語り、 それを蓄積していくことが多く、 現場の中での出来事をマネジメント論のフレームで把握することはあまりない。
 マネジメント論の理論家でヘンリー・ミンツバーグという人がいる。 日本ではあまり読まれていないそうだ。 ミンツバーグの本を読むと、 とても示唆的で触発されるものが多く、 考える視座をつくってくれて何故か意欲がわいてくる。 しかし 「それだけわかったら、 後は、 自分で考えてみなさい」 とか言われて、 突然、 そこで終わりになる印象がある。 具体的な展開を示しくれないということで、 あまり読まれていないのかもしれない。
 しかし、 この理論家は、 先に触れた 「内発的な動き」 を言語化するための理論を提供してくれている。 学校にとって示唆的なものがあるかどうか、 考えてみたい。
 最近、 戦略という言葉が使われることが増えている。 支援の分野でも、 例えば、 支援の定義とは、 様々な資源を結びつけて、 計画的にやり繰りする戦略であるという定義も出てきている。
 戦略とはプランのことであるという常識的な答えがある。 ミンツバーグは、 「方向性、 将来へ向けてどうアクションをとるべきかという指針や方針、 ある地点からある地点に行くための進路」 という常識的な答えを聞いた上で、 その人が実際にとった戦略を聞いてみると 「ほとんど人が自分で言った戦略の定義 (戦略はプランである) を反故にして、 嬉々として答えること」 に着目している。
 つまり、 私はこのようにやってきたということを語る。 それはプランというよりも、 過去の経験を語る時に、 一貫した自分の行動、 そのパターンを生き生きと語るのである。
 将来を見据える 「プランとしての戦略」 と、 過去の行動を見る 「パターンとしての戦略」 がある。 前者を 「意図された戦略」、 後者を 「実現された戦略」 という言い方ができるとすると、 「実現された戦略」 は常に意図されたものでなければならないのだろうか。
 そこで 2 つの極論が出てくる。
 意図された戦略は完璧に実現されたのであり、 「実現された戦略」 は意図されたものとはまったく関係がなかったという極論について、 ミンツバーグは、 「完璧に実現できたのなら、 将来に対して鋭い洞察があったということになるし、 同時に予期せぬ出来事に対応しようという意思がなかったことにもなる」 と述べる。
 その対極として、 「意図された戦略」 はまったく実現されなかったという極論については、 「それは明らかに思慮が足りないと言える。 現実的には、 ある程度先のことを考えておきながら適宜対応していくということになるだろう」 と述べている。
 今、 いろいろな場で、 何故か、 あくまでも意図された戦略にこだわる考え方が蔓延しているのかもしれない。 しかし、 考え方としては、 実現された戦略は最初から明確に意図したものではなく、 その実践の中で行動の一つひとつが集積され、 そのつど学習する過程で戦略の一貫性やパターンが形成される。 ミンツバーグは、 こうした戦略を 「創発的戦略」 としている。
 意図された戦略の一部は 「実現されない戦略」 となるが、 一部は 「計画的戦略」 として維持存続され、 同時進行的に、 「実現されない戦略」 に換わって、 実際の現場では 「創発的戦略」 が生成し、 「計画的戦略」 と 「創発的戦略」 が組み合わされて 「実現された戦略」 になる。
 つまり、 一方的に計画的で、 その具体化のプロセスでまったく学習のない戦略はほとんどない。 しかし、 また、 一方的に創発的で、 コントロールのまったくない戦略もない。 現実的な戦略はすべてこの 2 つを併せ持たなければならない。 戦略は計画的に策定される、 と同時に創発的に形成されなければならない。 効果的な戦略というのは、 予期せぬ出来事への対応力と予測する能力を兼ね備えたこれら二つの戦略の組み合わせなのだ。
 このようなミンツバーグの戦略論で考えてみると、 二つの戦略の組み合わせが可能となるような場が組織には必要であることがわかる。 例えば、 施策として展開されてくる 「上から外部からの動き」 に対応して、 創発的な 「下から内部からの動き」 が交錯し新たなものが生成する場、 様々な社会資源の 「外から横からの動き」 を組み込めるような場を意図的に形成するマネジメント論が必要になってくる。 それは一方向的なリーダーシップ論とはかなり異なり、 多様な価値観をもつ人々が出会う場を不可欠なものとするマネジメントの様式であるだろう。 組織の中で創発的戦略が生成する場があるかどうかが組織論として問われるべきである。


 (なかた まさとし 教育研究所代表)
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