●特集 U●  教育の場における情報管理システム
教育現場に強いられる不条理
 −新聞記事を中心に−
 手島 純

はじめに
 本稿では、 校務情報管理システムからやや離れ、 周辺に生起している問題に言及することで、 校務情報管理システムもふくめたさまざまな問題を論じたい。 この場合の周辺とは教育現場であり、 生起している問題とは、 そこで強いられている不条理である。

OECD調査
 経済協力開発機構 (OECD) による中学教員の勤務環境に関する国際調査結果は衝撃的であった。 日本の中学教員の勤務時間は最長なのに、 自信は最低だというのである。 事務仕事や部活動指導に追われ、 土日の出勤も多いのに、 社会的に高く評価されているとは思っていないという結果報告である。
 不登校・いじめなどの教育問題や指導力不足教員への批判から、 教員バッシングが続き、 とうとう教員免許更新制も施行されてしまった。 そんな状況下でのOECD結果である。 この結果をどう考えるかは非常に重要である。 教師の資質を高めようとするさまざまな試みが、 実は教師の社会的地位を低め、 それが教員志望の学生のレベルの低下に結びつく。 負のスパイラルとして、 教員の質の低下が実は決定的になる。

国会でも
 同僚から、 新聞切抜きのコピーを渡された。 相次ぐ不祥事・事故に関して参考にできる内容が書かれているということであった。 それは、 あるNPO事務局長の意見である (2014年 8 月14日付け読売新聞 「論点」)。 一部分を引用してみたい。

 法案条文や国会配布資料などに 「ミス」 が相次いで国会審議がストップ、 幹部が処分を受けた厚生労働省は、 「業務適正化推進チーム」 を発足させ、 7 月に再発防止策を取りまとめた。
 防止策の柱は、 @チェックリストを作る A職員の意識改革を徹底する−といった仕事の基本ともいえるごく初歩的な内容だ。これで本当に再発は防げるのだろうか。
 答えは 「ノー」 だろう。
 本質的な問題に触れていないからだ。 一つの答えは、 厚労省の業務量に組織体制が追い付いていないことにある。
     …… 中略 ……
 ミスはあってはならない。 しかし多くの場合、 ミスは 「悪い個人」 ではなく 「悪いシステム」 により引き起こされる。 「気を引き締める」 だけでは問題は解決しない。 関係者の冷静な議論を求めたい。

 どこでも同じようなミスがおきているなと思う。 加えて、 どこでも同じような対応策が提案されている。 ミスがおきるとその防止策が練られるが、 システムを問題とすることはほとんどない。
 神奈川県では成績ミスを防ぐために考えられた成績処理シートなるものが統一的に導入された。 しかし、 それは成績作業過程を増やすために、 逆にミスを誘発する危険がある。 ミスをなくすために作業量を増やすのではなく、 システムを再考する必要がある。 増築に増築を重ねた老舗旅館が迷路のようになってしまい、 非常事態に耐えられなくなるように、 事故防止が迷路のようになってしまっていると思われる。

事故防止の観点は
 都立高校での入試採点ミスが新聞紙上を賑わし、 「あってはならないこと」 と断罪されたことは記憶に新しい。 採点ミスは 2 年間で2000件を超え、 本来合格であるのに不合格になった者が昨・今春の入試で22人にのぼったことが分かった。 ミスさえなければ合格した者もいたのだから、 その罪は大きい。 しかし、 それを入試担当者や採点者に対して一元的に責任をなすりつければ、 問題が終わるわけではない。 東京都の場合、 採点・点検期間が 3 日しかなかったのだ。 かなり無理な入試日程で、 しかも、 その間も生徒は登校し、 授業が進められていたというのだから驚きである。 採点ミスをしてくださいというような日程になっていた。 まさに 「悪いシステム」 上での入試採点ミス事件である。
 採点にかかわった教員は処分されなかったが、 校長は処分された。 しかし、 この入試日程を考案した者が 「戦犯」 なのである。 A級戦犯こそ裁かれるべきである。
 2014年 8 月23日付朝日新聞に 「盗撮の県職員 停職 3 ヵ月に」 という見出しの記事が載った。 懲戒処分になった神奈川県の男性職員が 「仕事上のストレスを発散するスリルを味わいたかった」 と話したとある。 ストレスがあるからといって、 違法行為は許されないが、 この 「ストレス」 を軽視しては、 同じような事件が起きる可能性を否定できない。
 私は、 近年起きているさまざまな事故・不祥事の防止策が 「意識改革」 に収斂され、 そのためのまた新しい仕組みが作られていくだけでは、 問題の解決からは逆に遠のいていくのではないかと考える。 事故防止会議は確かに頻繁に行われている。 しかし、 指導と啓蒙の繰り返しに、 私はイソップ物語の 「狼が来た」 という話を思い出す。 イソップ物語の話は、 「ウソを言ってはいけない」 ということではなく、 繰り返し同じことを言うと、 人はそれに反応しなくなるという逸話でもある。
 さらに、 事故防止会議の講師の問題がある。 現役時代に体罰を加えることが知られた人が、 何の自己反省も表明しないまま体罰防止を説いたり、 まともな分析もしないまま精神主義を繰り返したりする事故防止会議に出た経験がある。 事故防止会議をやればいいというものではない。 それこそ質が問われている。
  「20代と50代の教員に事故が多い」 と言う講師に、 私は 「30代、 40代の教員そのものが少ないからそうなるわけで、 人数ではなく割合の問題なのではないか」 と質問したが、 そんな基本的な質問にもまともに答えてもらえなかった。
 情報公開ということで、 膨大な定期試験をコピーしたことは、 記憶に新しい。 試験の用紙がなかったら、 転勤した教員まで呼んで、 すべての試験をコピーした。 何のためか説明されないまま、 黙々と作業をした。 しかし、 そのコピーがある学習塾の商売に関係があることをマスコミが報道して、 作業の内容は判明した。 その作業を強いられたすべての人に不信感が充満した。
 情報公開とは本来こうしたことに使われるべきではないと誰もが思うだろう。 しかし、 制度の隙間をつかれ、 違う用途に利用されている。 情報公開制度は必要であるが、 その制度を支える倫理が喪失している。

価値の制度化
 哲学者で批評家のイヴァン・イリッチは、 『脱学校の社会』 のなかで次のように言う。

 医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、 同じようにして、 社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、 警察の保護が安全であるかのように、 武力の均衡が国の安全であるかのように、 あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。 健康、 学習、 権威、 独立、 創造といった価値は、 これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。

 この引用箇所は価値の制度化の説明であり、 とりわけ学校の問題を中心とする 「学校化」 社会の問題として展開される。 たとえば遅くまで職員室にいれば仕事をしていることと見なされ、 「生徒のために」 と何度も言えば生徒の立場に立っていると思われることも同じことである。 そして、 事故防止会議に目を向ければ、 「事故防止」 と多く唱えれば (事故防止会議を多くやれば) 事故防止につながると考えることも同じである。 過程と目的があいまいになっているのである。 こうした価値の制度化を進めれば、 「物質的な環境汚染、 社会の分極化、 および人々の心理的不能化をもたらす」 とイリッチは言う。
一元的に集約されたデータが漏れたら…
 さて、 話を校務情報処理システムに戻そう。
 仕事の能率化のためにデータを一元的に集約して、 成績作業過程を統一するということは理解できる。 観点別評価の導入で煩雑さが増え、 成績の客観性という視点からも統一的な成績処理やデータの効率的な集約は必要であろう。
 しかし、 紙ベースの時代にそう多くの問題があったとも思わないし、 そもそも評価権が教員から離れていっている。 教員が成績評価をして、 校長が単位認定をする科目修得のシステムは崩壊しつつある。 「パソコンが評価するのです」 とさえ言う教員もいる。
 そして、 それらのデータが流出したらどうなるのだろうか。 これはまさにビッグデータの流出である。 2000万件を超える個人情報を流出したベネッセの例を見るまでもなく、 何が起きるか分からない時代なのである。
 それにしてもベネッセの対応には唖然とする。 苦情処理を行うのは正社員ではない。 「毎日怒られる仕事」 を、 ベネッセの契約派遣が打ち切られた人に募集しているという。 時給1100円なのだそうだ ( 7 月22日付朝日新聞)。 結局尻ぬぐいするのは、 弱い立場の者なのか。

教員の仕事は 「シジュポスの神話」 ?
 最近の学校での 「仕事」 を見ると、 「シジュポス (シーシュポス) の神話」 を思い出す。 ここには不条理という問題が表されている。 シジュポスは神々の怒りを買い、 罰が与えられる。 その結果、 シジュポスが苦労して運び込んだ岩をまた元の場所に転がして、 シジュポスの仕事に意味を与えない罰を神は与えた。 これはカミュが同名の小説として描いていて、 有名である。
 何をやるにも起案がなされ、 伝票に書き込み、 学校見学に対応し、 保護者の無理難題に応え、 近隣の苦情に対応し、 その合間を縫って授業を行う。 パソコンが導入されて、 教員の事務仕事が軽減したのかというと、 反対に負担増になった。 こうした状況は、 何かをやっているからいいという価値の制度化に繋がり、 シジュポスの神話のように意味のないことをやらされ続けることにもなる。 不条理が蔓延してきている。
 観点別評価であっても校務情報処理システムであっても成績処理シートであっても、 それらが教員の本分である 「授業」 に意味があるかどうかを検証する必要があると思う。

    
 (てしま じゅん 教育研究所員)

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