●特集 T● 「神奈川の高校教育の未来を考える」
「県立高校改革推進協議会報告」 を読む
永田 裕之
はじめに
 私が勤務していた長後高校は1994年、 県教委の 「魅力と特色あるプラン」 にあわせて 「総合選択制高校」 作りに取り組むことになった。 「総合選択制高校」 というのは普通科のまま大幅な選択制カリキュラムを実施しようというものであったが、 県教委は、 普通科のままなら財政的な援助ができないという。 そこで1997年には総合学科に手を挙げ、 長後高校は、 県立高校改革推進計画 (以下 「高校改革」 と言う) の中で藤沢北高校と合併、 再編され、 藤沢総合高校となった。 私にとって、 長後高校の取り組みと総合学科作りは 「個を重視する」 という点で共通の理念を持つものであった。 国家・社会の必要に応じてマンパワー養成を行う、 ということではなく、 生徒個々人の必要に応じての学校作りだと思ったからである。
  「高校改革」 が終了してわずか数年、 じっくりと改革に取り組む間もないうちに、 今また、 新しい改革が提起されている。 その改革の方向を描いた 「県立高校改革推進協議会報告」 (以下 「協議会報告」 と言う) を 「個の重視」 という視点で読んでみたいと思う。 資料としては 「協議会報告」 の他、 WEBにアップされている協議会の議事録 (以下議事録という) を参照した。 なお、 「個の重視」 をはじめとして 「高校改革」 を支えた理念、 歴史的経過などについての全般的な検証は、 「ねざす」 の47、 48、 49号、 あるいはそれらをまとめた 「検証 高校改革推進計画」 (県民図書室所蔵)を参照してほしい。

  1. 「高校改革」 の特徴
     2000年から始まった 「高校改革」 の下敷きになった、 「県立高校将来構想検討協議会」 の答申 「これからの県立高校のあり方について」 は、 冒頭に 「多様で柔軟な高校教育の展開を行い、 個が生きる高校教育を実現する」 として 「そのため、 単位制普通科や総合学科、 新たな専門学科等特色ある学校を作るとともに全体として柔軟なシステムを実現する」 と提言した。 背景にあった中央の教育政策も含めて、 改革のベクトルは 「個の重視」 という方向に向いていた。
     学習観の転換と言われた 「新学力観」 もその一つだった。 知識や理解を共通に身につけることより子どもたちの主体的な学習を重視する学習観は、 総合的な学習や教科横断的な学校設定教科などで活かされると考えられていた。 集団の中で自分はどのあたりに位置しているかを示す相対評価ではなく、 個人内評価の重視を含んだ 「目標に準拠した評価」 は、 こうした学習観を下支えするはずであった。 個人内評価で物差しになるのはその子どもの学力である。

  2. 「協議会報告」 が拠って立つ、 二つの立場
      「協議会報告」 は 「高校改革」 の時とは違っておおむね方向の異なる二つのベクトルを持っているように思う。
    (1) インクルーシブな学校作り
     一つはインクルーシブな学校作りという方向で、 その特徴は個に即した教育ということだ。 特別支援学校では個別支援プログラムがつくられる。 どのような個性、 障害を持っていても個別の支援プログラムがあり、 それに沿った教育活動が行われるならば学校は限りなくインクルーシブな場所になる。 単位制はもともとさまざまな生徒たちを高校という教育機関に包摂していくために考え出された方式だ。 学習指導要領の基準に則って学校が認定したものなら 1 単位は 1 単位なのだ。 また学習指導要領は学校設定科目や総合的な学習の時間など、 学校単位のカリキュラムの幅を広げてきた。
     インクルーシブな学校作りというと、 私は多様な生徒が学んでいる学校をイメージする。 多様性という言葉を高校の現実で置き換えれば、 外国につながる生徒、 様々な進路を希望する生徒、 様々な感性を持った生徒、 様々な障害を持った生徒が学んでいる場所ということになる。 現在高校におかれている特別支援学校の分教室は、 障害を持った子どもたちが高校の敷地内で学んでいるという点から言えばインクルーシブな形態だ。 記事録によれば分教室のカリキュラムはすでに高校のカリキュラムに近いという。 だとするなら、 特別支援学校より高校の管理下に移す方が、 インクルーシブな形態にさらに近づくのではないだろうか。
      「協議会報告」 ではインクルーシブな学校作りについて様々な言及をしているが、 総体としてその方向は明確で、 「高校改革」 の方向性と同じだ。 インクルーシブな教育についてはすでに1990年代から提唱されてきたものだから当然なのかもしれない。
    (2) 質の高い教育 という考え方
     もう一つは 「質の高い」 教育というベクトルだ。
      「質の高い教育」 という言葉は一般的な意味で用いられているのではないので、 注意が必要だ。 高校教育の質 とか 質の保証 といった言葉が文部科学省などで議論されるようになったのは2008年頃からだ。 中教審の初等中等教育分科会は2011年から高校教育部会を設置し、 「高校教育の質の保証」 をテーマとして検討し始めた。 文部科学省はHPで次のように言っている。
      「(高等学校が) 本来求められている高等学校教育の質の保証に関する機能を十分に果たしていないため、 結果として、 生徒が高等学校の学習において何をどの程度修得したのかが見えにくくなっており、 中には、 高等学校の学習成果として期待される資質や能力、 態度を身に付けないまま卒業しているケースも見受けられる。」
     学校教育法などで、 高校教育の目標が規定し直されたので、 その目標が達成されているのかどうか、 評価しようということだ。 この考え方は 現在、 国の動向としてもっとも注目されている考え方で、 「協議会報告」 の中にも、 議事録の中にもたびたび登場する。 議事録を見ると今回の改革では 「主要なテーマとなる」 と捉えているメンバーもいる。 1990年代後半、 行政の文書には 「単位制」 とか 「主体的な学び」 という言葉がたびたび出てきたものだが、 そういった言葉はあまり使われなくなり、 「質の保証」 とか 「質の高い教育」 という言葉が使われるようになった。 中教審、高校教育部会の議事録を見ると議論は混迷しているように見えるが、 2014年の 6 月には審議のまとめが出された。 このまとめについては、 かなり立ち入った検討が必要だと思うが、 とりあえず具体策として出されているのは、 達成度テストを 「基礎」 と 「発展」 の二つに分けて行うということだ。 基礎レベルのテストは、 「外国語」 「数学」 「国語」 「地歴」 「公民」 「理科」 の教科別テストが想定されている。
     協議会で、 こうした流れに沿って出された提案は、 拾い出すと次のようなものだ。  
    1. 各学校段階で県内統一の学習達成の状況を調査する。
    2. すべての県立高校において科目ごとに共通テストを導入するなど統一基準により評価する。
    3. 5 教科の必履修科目の学習状況を測る県立高校生徒対象の学習達成度調査など全県統一の調査を行う。
    4. (学校設定教科、 科目に関連して) 学年制普通科高校においては、 まず学習指導要領に示された教科・科目の学習と内容の定着を重要事項とする学校作りを進める。
    5. 国際バカロレアの認定校を目指す拠点校の指定を目指す。
    6. 世界をリードするグローバル人材等を輩出できる学校作りを行う。
     神奈川では特別支援教育ではなく、 支援教育と言ってきたのだから、 もう少し違った発想があっても良いと思うが、 この部分は国の動きをそのまま繰り返しているだけだ。 むしろ文部科学省よりも率直に、 グローバル人材の育成とほぼ同義に質の高いという言葉を使っているメンバーもいる。 議事録を見ているとインクルーシブな学校作りはクリエイティブで、 という趣旨の発言もあるので、 学校を種別化してしまっているのだろう。 グローバル人材の育成という場合、 経済社会の発展に資する、 という目的が設定されてしまうので、 個別教育であるインクルーシブとは相性が悪いのではないだろうか。
     達成度テストが実現した場合、 一つの物差しで高校が種別化されることになる。 今のところ受験は希望制なので、 受験者が少ない学校というのが一番下に位置づけられるかもしれない。 テストをめぐって競争が行われることになるだろう。 生徒に応じた指導、 支援ではなく 「テストに応じた指導、 支援」 が求められるようになるのではないだろうか。 「人々の多様なあり方を相互に認める」 のではなく、 「テスト」 で結果を出すことが最優先課題になるだろう。 メンバーの一人は 「高校には高校の欲しい学力スタンダードがある」 と発言している。 つまりは、 そのスタンダードがなければ高校には包摂、 インクルージョンできないということだ。 「インクルーシブな学校作り」 とは全く相容れないのではないか。
     また、 目標に準拠した評価とも無縁だ。 目標に準拠した評価は教育評価だが、 高校教育の質が保証されているかどうかを見極めるためのテストは、 生徒をランクづけるためのものに過ぎない。 教育評価というのは教師の教え方、 教材、 カリキュラムを評価するのがその本来の姿ではなかったのか。 また、 学力を多角的に ( 4 観点で) 分析することがペーパーテストでできるのか、 なぜ 5 教科なのか、 など疑問はつきない。 もし、 目標に準拠した評価を放棄するというのなら、そう言うべきではないだろうか。
     議事録を読んでいてしばらく考え込んでしまった箇所がある。 メンバーの一人が定時制は独立させた方がよい、 という意見を述べている箇所である。 例として出されているのは進学重点校に定時制が併設されているケースだ。 定時制の生徒が誇りを持ち、 校長が進学重点校の学校作りに専念できるために、 定時制は別の場所を探して独立校で、 と主張している。 たしかに全定併置校はいろいろと大変だ。 しかし、 多様性を受け入れるというのは 「やっかいなこと」 を引き受けることだし、 グローバルな人材とは、 本来、 多様性を受け入れる資質を持つ人材なのではないだろうか。 より効率的な方法を考えるだけなら、 それはもう改革の名には値しないと思う。
     対照的な取り組みとして私が思い浮かべたのは川崎高校だ。 再編時、 「高校改革」 の一環として全定一体の学校行事を行っていた。 困難な取り組みだったと思うし、 その重要性もあまり理解されていなかったように感じたが、 改革の名にふさわしいインクルーシブな取り組みだったと思う。 (『「学校改革」 は希望を語り合うこと 川崎高校の場合』 ねざす45号2010年 山根俊彦)

  3. 「高校改革」 の10年を経て
     今回の協議会報告に至るまで、 「高校改革」 については教育庁内で少なくとも 2 回検証を行っている。 その検証の中で改革の中で生じた課題を挙げているが、 なぜそうなったのかという分析がない。 なぜそうなったのかという分析は一歩間違えると責任追究にもなりかねないから難しいのはわかるが、 それをしないと次につながらないのではないだろうか。
     例えば 「一部の総合学科高校においては普通科目を選択する傾向が強くなっている」 「単位制普通科高校と総合学科高校では学科としての違いがわかりにくくなっている」 (いずれも協議会報告 9 p) という指摘があるが、 なぜこうしたことが起こったのだろうか。 こうしたことこそ広く検討、 検証すべきではないだろうか。 私はいくつか原因を挙げることができるように思う。
     第一に学校は出発当初から 「良い生徒」 を集めるために躍起になったということだ。 総合学科の設立主旨の一つは、 「目的意識のはっきりしない生徒」 を肯定的に捉えてカリキュラムを編成するということだった。 そのためにこそ、 職業科目、 専門科目、 普通科目が幅広く選択できることが必要だったはずだ。 「良い生徒」 というのは、 はっきりしない概念だが、 実際には進学を希望する生徒の方が良い生徒ということになってしまった。 だから職業科目や特色ある科目の選択希望が減っていくのは必然だったと言える。
     第二に、 普通科目こそ、 高等学校にふさわしい科目という常識から学校現場が抜け出せなかったことだ。 第一に述べたこととも関係するが、 「 5 教科」 こそ高校の中心科目という常識は強固なものがあった。 科目選択ガイダンスに際して 「普通の科目」 と 「普通ではない科目」 と表現しているのを聞いたこともある。 「普通ではない科目」 というのは学校設定教科・科目や普通科の教員にはなじみのうすい職業教育に関する科目だ。 学校現場では、 と書いたが、 それは校長を含めてだ。 校長の中にも、 高校といえば大学進学と考えている人も多く 「リーダーシップ」 が発揮されて改革が進まないケースもあった。 今回の協議会の検討では、 この常識が大手を振って復活しているように思う。 「高校には必要な学力スタンダードがある」 「 5 教科が中心」 という 「常識」 だ。
     第三に総合学科における専門科目のあり方についての検討が最初から不十分だったことだ。 神奈川の県立高校では最初のうち総合学科はすべてが普通科からの再編だった。 専門学科高校ではない、 新しいスタイルの専門教育とは何か、 ということは難しいと思うが、 意識的に検討することが必要だったのではないだろうか。
     大学進学実績の重視は、 学校種別を問わず2005年頃から強くなったように感じた。 進学重点校が注目されるようになってからだ。 進学実績を重視した総合学科というのは自殺行為だと思うが、 全国的には珍しくもないので、 そうした背景も後押ししたかもしれない。 普通科への専門教育の導入は、 これまでの高校教育にはなじみにくいことだったので、 遅々として進まなかったが、 進学実績の重視はおなじみだったので、 一気に高校全体を覆ってしまったように思う。
     今更、 とは思うが、 10年にわたる改革の検証をきちんと行うのが出発点なのではないか。
おわりに
 高校改革で重視された 「個の重視」 やインクルーシブな学校作りはパラダイムの転換を伴う。 百数十年の歴史によって作られてきた常識を変えるのだから難しいのも無理はないが、 だからこそ改革なのではないか。
 議事録を読んでいると 「時代の空気」 を多くの場面で感じる。 「高校改革」 の際には単位制がいわば 「はやり」 のようなものだった。 専門高校のコアは技術教育だ。 技術教育でどうして単位制なのか、 また、 ほぼ100%が大学進学希望者であることが予想される学校が単位制だったこともある。 学習の順序性がはっきりしている場合、 単位制にする意味はあまりないのに、 だ。 私も総合学科の立ち上げに際して学校の実態から単位制と学年制を柔軟に組み合わせることを準備委員会の席上、 主張して、 県側からびっくりするほど強い調子で否定されたことがある。 「総合学科は単位制」 というのが至上命令だったのだ (学習指導要領には総合学科は原則として単位制と書いてある)。 その単位制は メインストリーム から下ろされたようだ。 入れ替わって登場したのが、 「質保障」 だ。 その場合 「質」 というのは、 進学実績の上がること、 そしてグローバル人材などといったことと関連して語られるが、 私は、 中学校まで学校になじめなかった子どもたちを高校に 「つなぎ止めておく」 改革こそ質の高い教育なのだ、 と言いたくなる。
 この変化は世紀が変わる頃の学力低下批判と教育行政の方針転換の続きだ。 文部科学省は再三 理念は変わりません と言っていたのだが、 ようやく方針転換を明確にしたのだと思う。 教育行政の方針転換は、 いつもあいまいで、 なし崩しに進むので、 現場が振り回される。
 しかし、 「個の重視」 や 「多様性の承認」 は社会全体では今後も進んでいくにちがいない。 1990年代と同じように、 学校がその動きに取り残されないことを願う。
 (ながた ひろゆき 元県立高校教員)

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