対象から主体へのパラダイム・シフト
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中田 正敏 |
近所に畑を貸してくれる人がいて、 野菜作りをしたことがある。 苗を売っている店に行くと、 いろいろな種類の苗があり、 どのような収穫があるか、
カタログが教えてくれる。 じっくり吟味をした上で、 よさそうな苗を植えてみたが、 よく育たなかった。 ふりかえってみると、 土づくりが手抜きだったのである。
以後、 これに懲りて、 ひたすら土壌改良に専念した。 結果、 あまり苗にこだわらなくても、 よく育つようになった。 これによく似た景色がある。 教育書の販売コーナーにいくと教科教育、 性教育に始まり、 特別支援教育、 キャリア教育、 情報教育、 安全教育、 防災教育、 食育などの本が並んでいる。 それぞれに啓発本があり、 先進校のモデルケースが紹介され、 子どもたちが学ぶ様子が描かれていて、 その実践の成果も示される。 カタログ的なつくりになっている。 モデル校としての優れた実践があり、 それを取り入れると上手くいくという発想がある。 先進校を訪問し、 これなら、 できそうだというものを持ち帰る。 単品導入主義である。 たぶん根づかないような気がする。 成功例にはいろいろな要素が複雑に絡み合っており、 中には意図せざる結果として成果を挙げているものもあるかもしれない。 直線的な因果関係を想定することは難しいものが多い。 それぞれの学校組織には土壌のように表面からは見えない独自の部分がある。 それを考えずに、 「苗」 を植え付けることにはリスクがつきまとう。 いっそのこと、 他の学校の全体をそっくり模倣することができればよいのかもしれないが、 それは不可能であろうし、 できたとしてもどこか気味が悪い。 また、 単品のみを導入し、 最初は上手く動くことができたとしても、 それは導入した学校の何かの要素と偶然に一致したという可能性も高く、 土壌が合わなければ、 早晩枯れてしまうこともある。 先進校の優れた実践を参考にするためには、 今、 現在、 自分の学校の組織的取り組みの土壌がどうなっているのか、 について分析できていなければならない。 例えば、 学校組織全体で支援に取り組むというテーマがある。 そこでは、 まず、 対象について言及されることが多かった。 「特別支援教育の推進について (通知)」 では、 「特別支援教育は、 これまでの特殊教育の対象の障害だけでなく、 知的遅れのない発達障害も含めて、 特別な支援を必要とする幼児児童生徒が在籍するすべての学校において実施されるべきである」 とし、 これまでより範囲の広い対象について語っている。 神奈川県の支援教育でも、 「神奈川における支援教育の対象となる子どもは、 基本的に、 障害のあるなしに関わらず、 すべての子どもたちである。」 としつつ、 「いわゆる障害児や学習障害児、 注意欠陥/多動性児、 高機能自閉症児、 軽度の病弱児等の障害児教育と通常の教育の狭間にいる子どもたち、 心因性の背景をもつ不登校児、 集団への不適応児、 対人関係のとりにくい子どもたち」 を 「まず、 支援教育の対象として優先的に位置付け、 様々な働きかけを行うことが必要」 としている。 対象としては、 国の特別支援教育よりも幅広く考えている。 そして、 次には、 システムとして、 コーディネーターや校内委員会や個別の支援計画などの優れた実践例やモデルケースが考察の対象とされてきた。 しかし、 そうしたものが根付いていると考えられる土壌そのものについてはほとんど語られることがなかった。 ところで、 組織の土壌はどうすれば分析できるのだろうか。 L.S.ヴィゴツキーはものごとを考える時に分析単位に着目することの重要さを指摘している。 例えば、 水を水素と酸素にまで分解してしまうと分析単位としては水の分析としては行き過ぎになる場合があるという指摘をしている。 対象の問題に限定してしまうのは分解のし過ぎであり、 もう少し分析単位を広く取るとどうなるのか?ヴィゴツキーの提案は、 《主体→対象》ではなく、 それに媒介を加えた《主体→媒介→対象》という分析単位である。 例えば人は地図なしに見知らぬ街に入り込むと、 必ず、 実際に歩き回って探索活動を始める。 それは 「頭の中の地図」 をつくるためである。 それが出来ていくと、 ある段階でその 「地図」 の中で考え始め、 しだいに探索活動をしなくなってくる。 そして、 何らかの契機で、 その 「地図」 が正しいのかどうかを吟味するための探索行動を始める。 その地図がどうも違うようだということに気づいた人は新しい地図の必要性を感じるだろう。 ここでの 「頭の中の地図」 が媒介である。 媒介は対象を把握するために不可欠なものであるが故に、 人は探索活動によってそれを獲得することをめざし、 その媒介によって操られ、 その媒介の限界にも気づき、 それを転換することもある。 「学校組織全体で取り組む」 という言葉は教育改革についての語りの中で頻繁に言及される。 追求すべてき理想として語られ、 教職員の動き全体については 「一枚岩」 というような、 やや単純かつ静態的な表現になってしまうこともある。 そうではなく、 学校組織全体の動きを動態的に把握しようとする時、 《主体→媒介→対象》という分析単位を使うと、 言い換えると、 主体、 媒介、 対象という言葉を使うとするとどうなるだろうか? 教職員が生徒を 「困った生徒」 として、 あたかもそれが実体であるかのように捉えることがある。 これは《主体→媒介》の構図である。 しかし、 教職員は主体であり、 ある特定の媒介によって対象である生徒を把握しているという構図で考えると、 教職員は主体としてある特定の価値基準を媒介として 「困った生徒」 を構成していることに気づく。 それに気づくのは対話のプロセスの途上であることが多い。 生徒の背景を知ることによって、 教職員は一定の尺度で生徒を個体として把握するという媒介を破棄して、 ある関係性の中で苦境に陥っている生徒を対象として把握できる媒介を得る。 こうした媒介の転換の瞬間は、 同時に生徒の気持ちになって考えることができる時でもある。 そこでは、 生徒を対象ではなく、 主体として考えることが可能となる。 対象が主体に転換するのである。 そして、 教職員が生徒と共にいる、 つまり、 「私たち」 という主体が成立する。 その中で、 生徒は、 これまで、 地図のようなものを手にしていなかったために、 つまり、 媒介がないために対象がうまく把握できていなかったのだという事実が発見される。 そこで、 生徒と共に、 生徒には感情移入しつつも、 一定の距離を置きつつ、 使えそうな 「地図」 としての媒介をみつける努力をすることになる。 こうしたコンテキストの中で、 様々な資源が開発され、 それらの資源を扱う手順が明確化されれば、 それらを媒介にして苦境を離脱する支援の手立てが創り出される。 その時、 初めて他校の試みが参考になるし、 有効性も明らかになる。 そして、 媒介の転換、 対象から主体への転換が組織的土壌の内部で進んでいる限り、 支援を創出する動きは駆動され、 スパイラル風に持続することができる。 《主体→媒介→対象》という枠組みを使わずに、 学校組織の土壌の中で進行する動きを把握することは難しいだろう。 国連は 「障害のある人の権利条約」 に関連して、 慈善とか、 治療などの働きかけの対象ではなく、 社会の積極的に参加するメンバーとして、 権利の主体として考えていく枠組みを示している。 対象から主体へのパラダイム・シフトに着目する必要がある。 その萌芽は組織の土壌の中の動きにある。 |
(なかた まさとし 教育研究所代表) |
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