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歴史の学びを通じて考えたこと |
吉田 美波 |
私は大学 4 年生です。 今の大学には 2 年次から編入学をしたため、 他の人たちよりも少し長く大学に通っています。 編入以前の大学では体育会系の硬式テニス部で毎日ラケットを持たない日はないという生活でした。 ただ、 大学で世界史の勉強をしたいという気持ちがあったので、 西洋史ゼミに所属し、 毎週出されるレポート課題をなんとかこなしながら空いた時間は図書館で過ごすといった 4 年間を送っていました。 雨の日は屋内でトレーニングをした後、 図書館にこもり、 閉館時間まで英語論文と格闘するということもありました。 体力的に厳しかったという実感は今でも忘れられませんが、 それ以上に世界史と本気で向き合える時間はとても貴重なものとなり、 歴史学を教えてくださった先生方の言葉は今でも自分のなかに強い信念として残っています。 編入学をした後は、 社会科の教員を目指したいという思いから教育学の勉強を続けてきました。 埃っぽい図書館の中で一人黙々と勉強することが当たり前だった自分にとって、 「学びたい」 という強い熱意を持った人たちと過ごせる環境はとても新鮮なものでした。 同じ文献を読んだとしても、 人によって印象に残る部分や解釈は大きく異なってくる。 それをオープンに語り合えることはとても楽しいです。 時には議論が白熱して緊張感が高まってしまうこともありますが、 そうした中でも他者の意見を受け入れる寛容さと自己の信念を持ち続ける強さが混ざり合っていくと、 最後にはその場が穏やかな達成感に包まれていくのです。 これまでに、 そうした貴重な瞬間に何度も遭遇しました。 多くの人たちとの出会いは、 「対話」 から生まれる学びの大切さを教えてくれました。 さて、 勉強会が終わって団らんの時間を過ごしていました。 ゼミの仲間の一人から突然 「どうして歴史を勉強してきたの?」 と質問されました。 内心では 「またか…」 という思いがしていました。 これまでも 「私は世界史を勉強しています」 というお話をすると、 そうした質問をされることがありました。 「過去のことを勉強して何になるの?」 といった少し辛辣な形で投げかけられることもあります。 追い打ちをかけるように 「過去のことを勉強しても何の役にも立たないじゃないか」 などと言われると、 もはや返す言葉がなくなってしまう。 こうした質問をされた時、 歴史を勉強してきたことの意味が試されているのだと感じます。 ただ、 今の自分には相手に納得してもらえるような、 簡潔で説得力のある言葉が見つかっていません。 これはとても悔しいことです。 過去の歴史を勉強しても役には立たないのでしょうか。 私は決してそうは思いません。 むしろ、 政治や経済の先行きが見えにくい今だからこそ、 人々の間で暗雲とした雰囲気が流れているこうした時代だからこそ、 過去の歴史を学ぶ必要性は増していると思います。 現代社会は一体どのような方向へむかうのか、 人々の心の中にある漠然とした不安や焦燥は、 今日の社会情勢に暗い影を落としているような気がしてなりません。 そしてそれはいつから始まったのだろう…と考えていて、 私の目には2001年 9 月11日に旅客機が世界貿易センタービルに衝突したあの瞬間の映像が浮かんできました。 私は当時中学一年生でしたが、 あのライブ映像が次々とテレビの画面を流れていくのを見て、 何やらとんでもないことが起きているのだということはわかりました。 21世紀に入って国際社会が混迷を増す中で、 私たちは歴史に対する姿勢を見つめなおす必要性に迫られています。 歴史をめぐる議論や考えは国際情勢や文化に対する認識と深く関わっているため、 さまざまな意見と立場があり、 非常にデリケートな問題でもある。 しかし、 だからこそ歴史について学び、 話し合うことが必要なのだと思います。 かつて20世紀の歴史学者E.H.カーは 「歴史とは…現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」 であると述べました (『歴史とは何か』 岩波書店 清水幾太郎訳、 1962年、 40頁)。 歴史を学ぶことは、 過去に生きた人々との 「対話」 でもある。 そして現代社会の困難を解決していくために自分とは異なる歴史や文化を持った人たちとも 「対話」 し続けることで、 現代を生きる私たちは未来に向けた新たな一歩を踏み出せるのではないでしょうか。 私は歴史を学ぶことの大切さを多くの人たちに知ってほしい。 だから、 これからも歴史を学び続けていきたいと強く思います。 |
(よしだ みなみ 青山学院大学) |
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