生徒との話ができる関係性について
〜意図せざる機能不全〜
 

中 田 正 敏
 事務仕事ばかりが増えて、 生徒と話をする機会はめっきり減ったという声を聴くようになって久しい。 仕事全体の中で事務仕事の比率が増えていくと、 膨大な仕事に対応して、 サクサクとこなすという流儀が広がる。 例えば、 仕事をサクっとやる、 という表現があるが、 これには、 あまり深く考えずにサッサとすます、 という意味が込められているようだ。

 その一方で、 生徒一人ひとりを理解するためには生徒と話をすることが大事であることも従来から強調されている。 例えば、 学習指導要領解説においても、 障害のある生徒の指導に関して、 「特に、 教職員の理解の在り方や指導の姿勢が、 生徒に大きく影響することに十分留意し、 学校や学級内における温かい人間関係づくりに努めること」 を求めている。 さらに、 同じことは生徒指導一般についても求められている。 「教師と生徒との信頼関係は、 日頃の人間的な触れ合いと生徒と共に歩む教師の姿勢…などを通じて形成されていく」 という表現がある。

 生徒理解のためには生徒と話をすることが不可欠である。 生徒と話をすること、 生徒の話に耳を傾けることは、 その生徒の声に一定の感情を移入させる局面がある。 寄り添うという言葉で表現される局面である。
 しかし、 それだけではなく、 その先に、 その生徒の背後にある環境、 その生徒が置かれている人間関係などを生徒の苦境として対象化して、 共に話ができる関係性の中で考えることにより具体的な支援に至る局面がある。
 重要なのは、 生徒一人ひとりの違いを把握するという理解に留まるのではなく、 どのような具体的な関係性の中で、 具体的で適切な支援をどのように進めるのか、 というレベルで問題を解決することである。 こうした機能が学校組織には不可欠であり、 そのような認識自体は否定されているわけではない。 しかし、 実際には、 様々な学校をめぐる動きの中で、 こうした機能が不全化しつつある状況がある。

 ところで、 教育の分野で最近、 語られる改革論は、 「意識改革」 という言葉を語って締め括られることが多い。 そのほとんどは、 人の個体としての意識の在り方のみに着目し、 人と人とのあいだの関係性をあまり意識してはいない。
そこで、 現場での関係性を起点とした改革論の可能性について少し考えてみたい。

 フィンランドの郵便局の改革の話がある。【1】
 競合する事業の出現に、 郵便配達という仕事をしている人たちは危機感を抱く。 彼らは、 このままでは、 自分たちの仕事を失ってしまうという認識のもとに、 自分たちの現場から、 ある研究事業の枠組みを活用して、 内側から改革を自分たち自身で考え始める。 仕事は中断できないので、 仕事を続けながら、 できることを考える。
 そして、 今の仕事の枠組みを少し広げてみることにした。 それは、 高齢化が進む地域の中で、 郵便を配達する折に、 受け取り手の健康状態の確認もするということである。 そのような確認は地域のケアにおいて重要な課題であった。 しかし、 実際には、 その担い手がいなかったのである。 これは、 従来の配達ルールを活用して新たな業務を付加する形で、 配達業務と高齢者の保健医療業務とが結びついた改革であるが、 この改革は、 当初は不慣れな職員が高齢者とどのような関係性をもてば、 的確に状況が把握できるのか、 という不安もあった。 試みが実施され、 配達する人と受け取る人とのあいだで形成されるフロントラインにおいて様々な実践知を重ねることによって改革が地道に進行した。

 この改革では、 従来の仕事に、 話ができる関係性の空間が付加された。 おそらく、 従来から配達している時に、 気がかりな場合には、 郵便の受け取り手の安否の確認を仕事の範囲を超えてやることがあったのだろう。 しかし、 これまでの業務の延長線上に、 これまでは逸脱した非公式的な関係性であったものが新たに位置付けられて、 システムとして組み立てることによって実質的な改革が生成したのである。 これは従来の仕事の改革というよりは、 仕事の拡張というイメージで進めたことが、 結果的に改革に結びついたという点が興味深い。 現在、 進展しつつある何らかの改革の軌道に、 生徒と話ができる場、 教職員同士が話ができる場を付加する工夫をして、 実質的な改革に変換する可能性を吟味すべきである。
 
 次に、 アメリカの病院改革の話である。【2】 マクロレベルの保健医療施策としては議会の人々や行政の人々が担当し、 その施策に基づくメゾシステムの病院運営は病院経営の担当者が担当し、 マイクロレベルの最前線のケアは医師、 看護師、 その他の専門家、 患者、 家族によって構成されている。 マクロレベルの施策が決定されると、 メゾシステムがその通知を受け、 マイクロシステムが指示通りに事を運べるように努力するという図式で構想される改革もある。
 しかし、 実際の病室における出来事が、 ケアの質、 ケアの満足度に深く関係しているという事実に着目し、 そこを起点とする改革もある。 ケアの質は、 実際には、 患者と家族と病院スタッフが実際に出会う場で決まる。 つまり、 フロントラインの動きによって左右される。 ところで、 このマイクロシステムとしてのフロントラインとしての現場の在り方は、 病院組織 (メゾシステム)、 医療行政の施策 (マクロシステム) によって色濃く影響を受けている。 この状況は、 底辺にマイクロシステムが位置づく三角形としてイメージすることが可能である。 しかし、 むしろ逆三角形をイメージし、 その上の辺に支援の質を左右するマイクロシステムを位置付け、 それがうまく機能するようにメゾシステムが再構成され、 さらにそうしたメゾシステムが機能することを狙ったマクロシステムが存在するという構図も考えられる。 こうした下支えの構造で考えるほうが実質的なものを生成することができる。

 この事例では、 患者と医療関係者の関係性が改革の中心に位置付けられている。
せっかく生れた萌芽もシステム的な支援がなければ、 個別分散的に潰える危険性がある。 実際の現場でケアをする人とケアされる人の関係性が着目され、 それがシステム全体として支えられることによって、 すぐれた実践知が蓄積される空間が持続可能な形で保持されていることが興味深い。

 学校においては、 生徒との話が出来る場は実質的支援に結びつくマイクロシステムであり、 それが危うくなりつつある。 教育における支援の質ということに限って考えても、 話ができる場 (マイクロシステム) の確保のために、 学校というメゾシステムが機能し、 教育行政というマクロシステムがそれを促進するという全体的なシステムが成り立つか、 否か、 が問われるのである。

 最近、 生徒と接する機会がめっきり減ったという状況はマイクロシステムにおける現象である。 おそらく、 意図せざる結果として、 事務的な仕事のみがサクサクと進む中で、 学校組織における重要な機能のひとつが確実に脆弱化しているのではないか。

 とは言え、 生徒との話ができる関係性は個別分散的にではあるが、 依然として存在している。 それらを何らかの改革の軌道上に萌芽として位置付けることや、 そうした萌芽的な関係性を組織全体としてシステム的に確保することを追究する必要がある。 何らかの形で話ができる空間を意図的に組織に持ち込むことが、 実質的な改革が生れる契機となる。

【1】Engestrom,Y. (2008). From teams to knots.  Cambridge University Press
【2】Nelson, E. C., Batalden, P. B. &Godfrey, M.M  (2007). Quality by Deseign. Jossey Bass


 (なかた まさとし 教育研究所代表)
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