- 「道徳」 の難しさと面白さは表裏
「学校における道徳教育は、 道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行われるものであり……」 学習指導要領の総則でこう述べられている。 学校で過ごす全ての時間が教育活動の一環であり、 全ての教育活動は根本のどこかで道徳教育と結びついているというわけだ。 道徳教育の推進は学校教育全体を指すと言っても過言ないだろう。
かといって道徳は画一した基準として存在するものではない。 各教科のように、 明確な指導事項の項目があるわけではない。 各教科の学習指導要領には、 それぞれその単元に於いて学ぶ事柄が具体的に書かれている。 私は理科の教員なので、 中学校 1 年で教える光・音についての中学校学習指導要領の記述をここに書くが、 「(ア) 光の反射・屈折:光の反射や屈折の実験を行い、 光が水やガラスなどの物質の境界面で反射、 屈折するときの規則性を見いだすこと。」 とある。 クリアするべき学習課題はそこに書かれている。 それをもって私達は生徒を判断することができる。 「この子は反射の規則性は分かるけど、 屈折については分かっていないな」 など。 さて道徳の学習指導要領をひもとき、 内容項目 1 − (1) 「望ましい生活習慣の確立」 の記述を見てみると、 「望ましい生活習慣を身に付け、 心身の健康の増進を図り、 節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする」 とある。 あくまで漠然とした記述になっている。
ここに道徳教育の難しさがある。 難しさとはすなわち、 「漠然とした価値項目の内容」 である。 上記の望ましい生活習慣の確立を例に挙げれば、 いったい望ましい生活習慣とはなんなのか、 心身の健康の増進の具体的なレベルはどんなものなのか、 はたまた調和のある生活とは、 といった抽象的なものを根拠にしてしか、 生徒自身に当たっていくしかできない難しさである。 抽象的な考えや抽象的な言葉はなかなか生徒に入っていかない。 発達段階での抽象的な思考のレベルもあるが、 単におもしろくないこともあるだろう。 後述するが、 道徳の時間で多くの先生方が困難を覚えるのも価値項目の目標にどう迫るのか、 というところである。
但し、 ここが道徳教育のおもしろみでもあると私は思う。 抽象的な教材をどうやって分かりやすくするか、 考えることによりその先生の個性や想いがどんどんその教材を成長させていくからである。 単純に具体的に例を当ててやる。 似たような例の話を考える、 または探す。 自分の体験を取り入れる、 生徒自身が考えていることを引き出し、 教材に生かす…。 同じ道徳の教材を道徳の時間で行っても、 それぞれの先生方のやり方で進め方も内容も全く異なってくる。 生徒への響き方もまた違う。 指導要領の中身自身が明確でないために、 むしろ生徒と向き合う教員一人一人の個性が存分に発揮される。 それぞれの教員が価値項目の内容を自分なりに把握し、 担当のクラスの現状を踏まえて、 さらに内容を推敲して授業やそれぞれの時間で生徒にぶつけていく。 先にも書いたが、 道徳教育は学校の教育活動全体で進めていく。 生徒に対して全ての先生方が自分の持ちうる経験・知識を生かして全ての機会で道徳教育を進めていく、 これはとても素晴らしいことなのではないかと私は思う。
- 正解のない教科科目
道徳教育を推進していく上で、 それぞれの教員が独自の考えや思いを持って当たるということを踏まえて考えていくと、 そこに一つの方向性が見えてくる。 「正解を求めない」、 「正解を提示しない」 生徒への指導の仕方を探っていくということである。
道徳に答えを求めないのは当たり前の事で、 それは人の生き方に絶対的な正解がなく、 道徳とは人の生きる道筋そのものだからである。 道徳とは、 生きていく上で物事を 「どういうふうに考えるか」 の指針とも言い換えることができる。 それゆえ、 道徳は一人一人の心の中にある正邪・公正の基準となるもので、 それは一人一人に差がある。 だからこそ、 学校教育で一括して教えるような答えは存在しない。
私が勤務する学校でも、 道徳の時間が置かれている。 ここで私達教員がついやりがちなことが、 「正解」 を教え込むような、 または生徒からムリに正解を引き出そうとする道徳の指導なのだ。 確かにそれは簡単な指導で済む。 先生が 「これが正しい考え方」 であると公言してしまえば、 それで終わる。 ただ、 それがどうしてまさに正しい考え方と言えるのか。 それ以外は全くの間違った考え方であるのか、 私は考えざるを得ない。 生徒の中にも同じように考える者もあるだろう。 道徳に答えはないのだから。
また、 答えを決めてしまうことによって引き起こされる、 価値観の強制が私はとても不安である。 私達教員は絶対の存在ではない。 また万人に対応する価値観など、 この世の中にはないのだ。 日本は過去に大きな過ちを犯した。 第 2 次世界大戦である。 この頃の教育はまさに価値観の強制で成り立っている。 戦争に反対するものが非国民と呼ばれるような考え方、 国の為に死ぬことがあたかも素晴らしいとされる考え方、 これはまさしく価値観の強制の情け容赦ない成果と言わざるを得ない。 私は、 教員一人一人が心してかからなければいけないのは、 道徳に答えを決めてしまわない心持ちであると思う。 私達の教育活動が知らず知らずのうちに価値観の強制になっていないか、 それぞれが振り返ることが大切である。
このたび学習指導要領が改訂され、 道徳の内容項目が変わった。 現行23領域だった内容が細分化され、 24領域と数を増やした。 このまま細分化が続くと、 漠然としていた内容項目のとらえ方がどんどんと具体的になっていく。 具体的な内容には、 どうしても正解・不正解が見えてしまう。 上記の正解を求めない道徳の考え方とは全く真逆の方向に走って進んでいく可能性がある。 このまま見た目のわかりやすさのみを求めて内容項目の細分化を続けていくことには危険性が伴う。 私達はこのことに留意しながら、 今後の情勢にも注目していかなくてはいけない。
- 道徳の時間の進め方
では正解を求めないのならば、 道徳教育はどのように取り組むのか。 どうやって価値項目に迫り、 内容を充実させていくのか。 大切なのは 「生徒の意見の変容」 を生むような取り組みである。 人の生き方は千差万別、 それ故に道徳の形も個人のとらえ方によって人の数だけあるとは上記した。 ここで 「こうだ!」 と正解を提示するような道徳の形ではいけない。 私達が進めていきたいのは 「どう考える?」 と生徒に問いかけ、 問いかけによって生徒自身が自分で考え、 話し合い、 自己の意見を変容させることができる道徳の形である。
道徳の時間では、 それぞれの価値項目に適した資料が用意される。 資料を熟読させた後、 生徒には資料をどう考えるかを問う。 生徒は自分の道徳観に照らし合わせ、 その教材を読み込んで感想を書く。 その後、 生徒同士の意見を聞き合う時間を設ける。 ここがミソなのだ。 先にも書いたが道徳観はその生徒自身のもので、 40人の生徒がいれば40通りの考えがそこにはある。 生徒は互いの意見を交換することによって、 他の考えを知ることになる。 生徒は隣に座っている友達でさえ、 自分と違う意見を持っていると知る。 その中で自分の思っていたこと、 考えていたことが果たして正しいのか、 自分自身で自己を振り返ることになる。 振り返る事でこれまでの道徳観が少し揺らぎ、 「もしかして○○さんのこういう意見がいいのかも」 と迷うことになる。 自己の意見の変容は、 こういう意見交換の中からでしか出てこない。 また、 意見は変わらなくとも、 「自分と異なった」 意見があることを感じるだけでも、 効果は十分である。 世の中には様々な価値観があることを知れるわけだから。
ゆえに道徳の時間では、 なるべく多くの生徒の意見を発表できる形をとる。 とはいえ、 なかなか意見を全体の前で言える生徒は少ない。 全員の意見を見ることができるようにするには、 もう少し方法を替えて行ってやる必要がある。
私が主にやるのは、 感想文を単純に全員分コピーしてしまうやり方である。 時間は少しかかるが、 自分を含めたクラス全員の意見がそこで見ることができる。 単純に当てていくというやり方もまあある。 仲がよく、 上手く人間関係の出来ているクラスでは十分に行っていける方法である。 他にも黒板に意見を書いてもらったり、 グループで話し合わさせたりと方法は沢山だ。 どれも他の意見を知る、 そこで考えるというプロセスは同じである。
討論を行っても良い。 次々に意見を発表することも、 時には大切になってくる。 特に用いる教材の中で、 AとBの 2 つの意見が出てくることが容易に予想できるような対立教材を用いて、 価値項目に迫る場合にはこれもよい。 やはり話し合いの中で互いを尊重し、 「こんな意見もあったのか!」 と互いにうなずけるような姿勢が望ましいだろう。 道徳には正解はないのだから、 どんな意見でも聞き合ってほしいし、 その中でまた、 生徒は自分とは違う価値観を知ることになるだろう。
- 終わりに
日々感じていることや拙い実践等を書き連ねてきたが、 道徳教育は奥深く、
書くにつれて自分の未熟さを思い知ることになる。 道徳の時間の50分間を乗り切るための教材研究は、
自分の教科のものとは直接的には関わりがない。 生徒も正直成績の付かない教科ぐらいの捉えで、
道徳の時間を過ごすことになる。 それでも生徒を少しでも引きつけることができた授業を振り返ると、
生徒自身が考えて、 よく発言して、 それが楽しかったと感想で述べていた場面を思い出す。
これからも生徒に考え方を押しつけることなく、 生徒から考えを引き出していく様な新たな道徳教育の実践に取り組んでいきたい。
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