特集   道徳教育・シチズンシップ教育
道 徳 教 育 の 課 題
  政治教育・市民性の教育とも関連して  
 
藤 田 昌 士
  1. 子どもの生活現実とモラル発達の土壌
    1. 競争と格差
        「競争の教育」 という言葉は決して新しいものではない。 久冨善之氏の 『競争の教育』 (労働旬報社) が発表されたのは1993年のことである。 その後、 1990年代末から2000年代初めにかけての労働者派遣法 「改正」 を経て、 いまや競争の教育は、 正社員のポストを求めての 「椅子とり」 競争としての様相を呈するにいたった。 湯浅誠氏がいうように、 20年近く前の1990年代前半には、 正社員のイスは10人に 8 つ以上あった。 いまは労働者全体に占める非正規率は38%、 正社員のイスは10人に 6 つしかない。 しかも、 15歳から24歳の若者では非正規率はほぼ 5 割、 女性の場合は全年齢を通じて 5 割を超えている 1 。
       しかし、 その競争は公正なものではない。 そのことは、 文部科学省の 「平成20年度学習費調査」 によって世帯の年間収入階層別に補助学習費 (子どもの家庭教師や通塾のために保護者が負担している費用) の年額 (平成20年度の 1 年間。 平均値) をみると明らかである。 ここでの表示は省略するが、 ほとんど例外なく、 年間収入階層が高まるにつれ、 補助学習費も増加している。 最高額 (39万 2 千円。 私立小学校、 年間収入1,200万円以上) は最低額 ( 5 万 4 千円。 公立小学校、 年間収入400万円未満) の 7 倍強にもなる。 高等学校 (全日制) の場合をみると、 最高額は30万 4 千円 (私立、 年間収入1,200万円以上)、 最低額は 7 万 9 千円 (公立、 年間収入400万円未満) である。
    2. 貧困とその世代間連鎖
       子どもにとって貧困とは何か。 子どもの貧困白書編集委員会編 『子どもの貧困白書』 に 「子どもの貧困とは」 と題してつぎのような定義がある 2 。
        「『子どもの貧困』 とは、 子どもが経済的困難と社会生活に必要なものの欠乏状態におかれ、 発達の諸段階におけるさまざまな機会が奪われた結果、 人生全体に影響を与えるほどの多くの不利を負ってしまうことです。 (中略) 人間形成の重要な時期である子ども時代を貧困のうちに過ごすことは、 成長・発達に大きな影響をおよぼし、 進学や就職における選択肢を狭め、 自ら望む人生を選び取ることができなくなる 『ライフチャンスの制約』 をもたらすおそれがあります。 子どもの 『いま』 と同時に将来をも脅かすもの、 それが 『子どもの貧困』 です」
       編者はさらに言葉を補って 「貧困の中心は経済的困難」 といっている。
       ここで 「相対的貧困率」 によって日本の現状をみる。 厚生労働省が2009年10月に発表したところによると、 2006年の日本の相対的貧困率は15.7%。 同時に発表された子どもの貧困率 (2006年) は14.2%であった。 1997年、 2000年、 2003年、 そして2006年にいたる年次推移をみると、 全体の貧困率、 子どもの貧困率ともに増加傾向にある。 同じく厚生労働省が 「貧困率の国際比較 (2000年代半ば)」 として示すところによると、 日本の相対的貧困率は14.9%で、 OECD30カ国中27位 (メキシコ18.4、 トルコ17.5、 米国17.1についで下から 4 番目)、 子どもの貧困率は30カ国中19位であるが、 大人が一人の 「子どもがいる現役世帯」 では30位 (つまり最下位) となっている。 ちなみに、 その数値は58.7%である。
       ところで、 『子どもの貧困白書』 は 「子どもの貧困」 についての先の定義につづいて 「貧困がもたらす不利は、 年齢とともに蓄積されていき、 子どものさまざまな可能性と選択肢を制約します。 貧困にある子どもは、 『高校卒業』 『大学進学』 や 『正社員としての就職』 などの道が閉ざされることが多く、 その結果不安定労働・生活に陥り、 おとなになってからも継続して貧困の中におかれる可能性があります」 3 と述べている。 「貧困の世代間連鎖」 といわれる問題である。 大阪府堺市健康福祉局理事の道中隆氏の調査によれば、 生活保護受給者 (世帯主) が育った家庭も生活保護を受けていたという世帯は、 390世帯中98世帯 (25.1%) にのぼっている。 そのうち母子世帯については、 106世帯中43世帯 (40.6%) が二世代続けて生活保護を受けていた4。 また、 埼玉県の場合であるが、 進学校の生徒の父親は会社員が55%、 公務員・教員が15%など正規雇用が90%、 いわゆる底辺校の生徒の父親は会社員が27%、 公務員・教員が 2.6%など正規雇用が53%で進学校の生徒の 6 割以下、 という調査結果がある5。 これまた、 「貧困の世代間連鎖」 (家庭の経済的貧困およびそれに起因する低学力という二重の困難による進学機会の剥奪、 その結果としての不安定就労) を推測させるものといえる。
    3. 「自己責任論」
       上述のような日本の子どもをとりまく生活現実の中で、 湯浅誠氏のたとえを借りるならば、 「イスとりゲーム」 でイスの数の足りなさに眼を向ける 「構造的な見方」 ではなくて、 座れなかったことをもっぱら自分の努力の足りなさのせいにする 「自己責任論」 ( 「がんばり地獄」) が蔓延している 6 。 雑誌 『教育』 2002年12月号に掲載された東海林智氏 (サンデー毎日記者) の 「若者がフリーターになったのは個人の責任か」 という論文は、 現下の労働問題に即して 「自己責任論」 を批判した比較的早い時期のものであったと思う。 その論文の中で東海林氏はフリーターや日雇い労働者、 野宿生活者の取材経験をとおして 「個人に責任を問う無責任」 を指摘している。
    4. 若者の 「社会的縁辺化」 と無力感
       中西新太郎氏によれば、 「社会的縁辺化」 とは日本の青少年層が社会的経済的に周辺の位置に置かれることを指している 7 。 その端的な例は、 若者たちのほぼ 5 割を占める非正規労働である。 その 「社会的縁辺化」 は若者たちの無力感につながっている。 中西氏による次のような指摘にも注目したい。
        「『若者は自由気ままだ』 というあふれかえる言説 (中略) にたいして、 『無力さ』 への指摘は少ない。 しかし、 青少年に公共社会の構成員であることを徹底的に断念させ、 忌避させる点でも、 日本の社会はきわだった特質をそなえている。 青少年の生活と意識とは、 普通の状態では、 公的、 社会的な意味で無視されていても平気でいられるように方向づけられている」 8
       その無力感にかかわることとして、 筆者は、 国連・子どもの権利委員会の第 3 回 「最終見解」 (2010年 6 月) が、 前回にひきつづく 「懸念」 として 「子どもを権利をもった人間として尊重しない伝統的な見方が子どもの意見を重んじることをいちじるしく制約している」 と述べ、 そこから 「締約国 (日本のこと 筆者注) は、 学校、 その他の子ども施設、 家庭、 地域社会、 裁判所、 行政組織さらには政策決定の過程など、 すべての場で、 子どもが彼あるいは彼女に影響を及ぼすすべての事柄において十分に意見を表明する権利を促進するための措置を強化すること」を 「勧告」 していることにも注目したい (43〜44項)。
    5. 子どもの孤独と不安
       国連・子どもの権利委員会は、 第 1 回、 第 2 回にひきつづき第 3 回の 「最終見解」 でも 「高度に競争的な学校環境が学齢期の子どもの間にみられるいじめ、 精神的疾患、 不登校、 ドロップ・アウトや自殺につながる」 ことなどへの 「懸念」 を表明すると同時に、 締約国 (日本) が 「過度に競争的な環境」 によって生じる否定的な結果を避けるために学校制度その他を再検討することを 「勧告」 している (70〜71項)。
       おそらくはその 「過度に競争的な環境」 にも因るものであろう、 日本の子どもについてはつぎのような調査結果が示されている。 2007年、 国連児童基金 (ユニセフ) がOECD加盟国を対象に実施した子どもの 「幸福度」 に関する調査によると、 「自分は孤独だと感じるか」 という質問 (対象は15歳) に対して 「はい」 と答えた割合は日本が29.8%で、 回答のあった24カ国中で最も多い。 次いで多かったのはアイスランドで10.3%、 最も少なかったのはオランダで 2.9 %であった。
       他方、 大阪教育文化センターによる 「第 3 回大阪子ども調査」 (2005 〜 6 年実施) によると、 「卒業後の進路」 「自分の健康」 など、高校生 ( 2 年生) が抱く各種の不安感の中で 「家計・生活費」 について 「不安」 と答えた者は31.4%、 「少し不安」 と答えた者は39.0%で、 合わせて約 7 割の生徒が生活費に不安感を抱いていることがわかる。 つぎに 「家計・生活費」 についての不安感と 「卒業後の進路」 についての不安感とをクロスさせてみると、 前者を 「不安」 とする者の中で後者も 「不安」 という者が64.5%、 「少し不安」 という者が28.3%で、 前者について 「全く不安でない」 と答えた者との間に大きな開きのあることがわかる。 その他、 「自己肯定感」 や 「努力すれば報われる社会か」 などの社会観・人間観においても、 生活費について不安感を抱く者の間に否定的な回答が多い 9 。
    6. 子どもの生活現実とモラル発達の土壌
       筆者は別の機会に、 私たちが子どもに語りかける 「ことば」 が根をおろす土壌 (精神的・心理的な土壌) への注目を欠いて、 ただことばだけの、 あるいは規範を押しつけるような 「道徳教育」 を考えるわけにはいかないと述べたことがある 10 。 その際、 モラルの発達の土壌として挙げたのは@ 自己肯定感あるいは自尊感情、 A 共同性あるいは共に生きようとする意志、 B 明日への希望あるいは生きるめあて、 さらにはこれらを包括してC 人間への信頼である。
       ところで、 「競争と格差」 をはじめとして上に挙げた子どもの生活現実 (その否定的側面) は、 たとえば 「競争の教育」 をとおして子どもの自尊感情をおとしめ、 共同性を引き裂き、 あるいは 「貧困」 をとおして子どもの未来への希望を奪うなど、 モラル発達の土壌を蝕むものといえる。 私たちは、 そのモラル発達の土壌にかかわって、 子どもを取り巻く生活現実への批判を深める必要がある。
  2. 「道徳教育」 批判
     戦後、 文部省は従来の道徳教育を 「反省」 して、 それは 「いかに既成の秩序に服従するかという個人の心術」 を作り上げようとするものであったと述べている 11 。 「服従訓練」 ともいうべきその旧来の体質はまだ克服されていない。 それどころか、 「国を愛する態度」 を要とする 「教育の目標」 (新教育基本法第 2 条) によって、 国家は 「道徳の教師」 としての様相を強めている。 「自己責任論」 はその 「道徳教育」 の変種といえる。
      「道徳教育」 については、 これを 「お説教、 おしつけ」 とする批判もある。 子どもの実生活・必要からの乖離をいうものである。 また、 その 「道徳教育」 にまつわることば主義、 形式主義については、 つぎのような衝撃的な 「証言」 がある。
      「2005年10月、 兵庫県姫路市の河川敷で野宿していた60歳の雨堤さんが中学、 高校生たちに殺害された。 雨堤さんは、 生活していた国道の橋の下で火炎ビンを投げつけられて焼死したのだった。 (中略) リーダー格の高校生は京都の高校に在学しており、 事件後の卒業式では卒業生代表として 『人としても思いやりを見失わず、 凛とした姿で生きていくことが必要だと思います』 という内容の答辞を読んでいた」 12
     さらに 「道徳」 特設以来、 「道徳教育」 は 「心情主義」 という言葉でも批判されてきた。 道徳性を認識から切り離し、 ある種の観念的な 「心情」 に封じ込めることを指す。 「心情」、 一般に感情は道徳的行為のバネをなすものとして、 道徳性の不可欠な一面をなす。 しかし、 その感情の発達は認識の発達とは相対的に独自な配慮に依存すると同時に、 認識と不可分なもの、 むしろ認識をくぐったものとしてもとらえる必要がある。
  3. 私たちがめざす道徳教育とは
    1. 子どもの安心を土台に
       前述のような子どもを取り巻く生活現実の中で、 道徳教育は子どもの安心を土台とする必要がある。 そのためには、子どもが安心して依存することのできる親・教師と子どもの関係を保障する必要がある。 「子どもは依存しつつ自立する」 (秋葉英則) 13 。 また、 道徳教育が 「安心の集団を子どもたちに確保すること」 を第一の仕事とする必要があることは、 奥平康照氏も指摘しているところである 14 。
    2. 子どもの道徳性の発達を支える認識と感情への働きかけを
       前述のように、 「不公正な競争」 「貧困とその世代間連鎖」 「自己責任論」 「若者の 『社会的縁辺化』」 などの言葉に示される生活現実の中で、 道徳教育は、 それらの不公正と虚偽に立ち向かう科学的・批判的認識と感情 (自尊感情や共感能力、 正義感など) をどう育てるかという課題に直面している。 私たちがめざす道徳教育は、 子どもの自主的な価値選択と行為の能力 (彼らの 「内心の自由」 を実質化するもの) を育てることを基本に、 子どもが人権尊重を中心とする民主的諸価値を発見する過程を援助するものであるが、 その援助の核心をなすものは、 子どもの科学的な認識と人間的な感情の発達にたいする私たちの働きかけであるといえる。
       以下、 学校における教科指導 (総合学習を含む) と学校内外における生活指導の今日的な課題と考えられることを挙げるならば、 第一には、 社会権を基礎とする人権概念のとらえなおしとそこに内在する倫理を明らかにする必要がある。 これは中西新太郎氏の論文 15 に示唆されてのことであるが、 基本的人権の重要な内容をなす自由権については、 「思想・良心の自由」 のように私たちが譲り渡すことのできないものがあると同時に、 「利潤追求の自由」 のように、 国民の生存権をはじめとする社会権に照らして問いなおされるべきものもあるといえよう。 そしてその新たな人権概念に内在する倫理を、 筆者は中西氏とともに 「生の尊厳」、 さらには 「ともに生きる」 という言葉でとらえたい。
       第二には、 「自己責任論」 を乗り越えて個人の問題を社会とのかかわりでとらえる社会認識を育てる必要がある。 その課題に迫る実践例の一つとして、 筆者は生田武志ら 「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」 による授業づくり (ホームレス状態にある人々との対面に始まって派遣労働と低賃金についてのリアルな認識への発展、 生存権・社会権と社会保障制度への開眼を含む) に注目する16。
       第三には、 自尊感情・共感能力や正義感の発達を学校内外における教育実践の相対的に独自な課題とし、 それらを育む親・教師、 一般に大人と子どもとのかかわり、 さらには子どもどうしのかかわりを追求する必要がある。 たとえば共感能力の発達は、 親をはじめとして、 子どもに寄り添う共感的な他者の存在を不可欠な条件とする。 それと同時に、 感情の発達を認識の発達と切り離すことなく、 認識と感情が相互に働きかけ合いながら発達していく過程にも注目する必要がある。
       第四には、 子どもの参加と共同による学校づくりと地域づくりの体験の重要性をとりたてて強調したい。 さきには子どもが自立する過程で親や教師に依存し得ることの必要性を述べたが、 また逆に子どもが成長する過程には、 子どもが周囲の大人や仲間から当てにされる (たよりにされる) 経験も必要といえるだろう。 子どもの参加と共同による学校づくり・地域づくりは、 そのための重要な機会となる。
    3. 道徳教育から政治教育へ
       道徳教育がめざす人権尊重を中心とする民主的諸価値を国家・社会 (国際社会を含む) において現実のものとするためには、 それを担う主権者・地球市民としての力量にかかわって、 道徳教育を政治教育へと発展させ、 両者を統一的に追求することが必要である。 「人格の完成」 (人間性の開発) を基調に 「平和的な国家及び社会の形成者」 を育てることをうたった1947年教育基本法第 1 条 (教育の目的) の規定が、 すでにそのことを要求している。 また、 同法第 8 条第 1 項にいう政治教育が 「民主政治、 政党、 憲法、 地方自治等、 現代民主政治上の各種の制度についての知識」 「現実の政治の理解力、 及びこれに対する公正な批判力」 とともに 「民主国家の公民として必要な政治道徳及び政治信念など」 を含むものであることからも、 道徳教育と政治教育は不可分といえる 17 。
    4. 市民性の教育と生徒参加
       今日、 欧米でいわれる市民性の教育 (citi-zenship education) は、 道徳教育と政治教育との不可分な関係にもとづき、 両者を併せ含んだものといえよう。 以下、 その市民性の教育を関心事としていうならば、 そこでは教科指導・教科外教育活動の役割とともに、 学校内外の生活の民主的な組み替えをめざす子どもの参加の位置・役割を明らかにする必要がある。 この点で注目されるのは、 市民性の教育に関する全米特別委員会の報告書 『責任ある市民性のための教育』 (1977年) が 「市民性の教育の目標としていわれていることに対して 『かくされたカリキュラム』  教師の言動や教室のきまりや生徒と教師、 生徒どうしの相互作用をとおしてなされる非公式の学習 が矛盾している場合があまりにも多い」 とし、 勧告事項の一つとして 「学校環境を公正で民主的なものにすることが不可欠である」 と述べていたことである 18 。
       また、 1992年、 スロバキアのニトラで 「ヨーロッパにおける民主的市民性のための教育 中等教育への新たな挑戦」 をテーマとして開かれた第 7 回ヨ−ロッパ教育研究所長会議の総括報告で、 フォ−ゲルマン (レスタ−大学教授) が 「教室や学校で起こるほとんどすべての事柄が民主的な市民性をめざす教育に関係している。 (中略) 学校が、 決定過程に関与するためのどのような機会を生徒に提供するか。 学校がどの程度に、 そのすべての市民 (生徒のこと 引用者注) のスキルと価値の発達のためにモデルとコンテキストを提供するような民主的な施設であるのか。 民主的な市民性の指導 (teaching) は反民主的な風土においては成り立ち得ない」 と述べていたことである 19 。
       さらにはイギリスの市民性に関する諮問委員会 (委員長バーナード・クリック、 ロンドン大学名誉教授) の最終報告書 「学校における市民性のための教育と民主主義の指導」 が 「学校のエートス、 組織、 構造や日々の活動が市民性の教育の効果にいちじるしい影響を及ぼす。 学校は、 そのエートスや組織や日々の活動が市民性の教育のねらいや目的とどの程度に合致しているかを考慮し、 かつ生徒が積極的な市民に成長するための機会を提供する必要がある」 「学校は、 生徒の意見があってしかるべき学校生活のすべての局面について生徒を討論や協議に参加させ、 可能なところでは生徒に学校運営における責任と経験をもたせるためにあらゆる努力を払うべきである」 と述べていることである 20 。
       これらの指摘を通じて、 いわゆる 「カリキュラムをとおしての市民性の教育」 と相互に支え合うものとして、 生徒参加による学校の風土・文化の民主的なものへの組み替えを求める見地を見いだすことができる。
  4. 社会改革と教育改革
     フランス革命前夜の啓蒙思想家ルソーの 『社会契約論』 と 『エミール』 という二つの著作にみられるように、 社会改革と教育改革はルソーにおける人間解放のための二つの筋道であった。 今日の子どもをとりまく生活現実は、 あらためてその二つの筋道を統一的に追求することを求めている。 北海道の小学校教師、 斉藤秀昭氏はつぎのようにいう。
     「教職員の責務は、 一義的には教室での日常実践であることは言うまでもありません。 しかし、 そこだけに閉じこもったままでは、 子どもの将来にわたるまでの人間的成長を保障しうることにならないことを、我々は身をもって経験しているところです。 /社会の不平等をそのままにしておいて、 教室で平等を語れるのか。 だからこそ、 必然的に我々教職員は、 社会改革の事業に参加する責務を担っていると考えるのです」 21
     ところで、 社会改革と教育改革との接点、 その一つは親・教師、 一般に大人が子どもに見せる 「後ろ姿」、 つまりは大人の生き方にあるといえよう。 埼玉の高校教師白鳥 勲氏は述べる。
      「(いま大人が心すべきことの一つは 引用者注) 信頼できる大人、 まねしたいと思う大人の存在です。 生徒たちはいまの社会の理不尽さを肌身で感じています。 その理不尽さを正すために行動する大人がいることが彼らの希望となります」 22 。
     これらの発言に学びたい。

1湯浅誠 『どんとこい、 貧困!』 理論社、 2009年、 32〜33頁。
2.3 子どもの貧困白書編集委員会編 『子どもの貧困白書』 明石書店、 2009年、 10頁。
4 湯浅誠 『反貧困』 岩波新書、 2008年、 55頁。
5 青砥恭 「学校は不平等を再生産し続ける存在でいいのか」、 雑誌 『教育』 2010年 6 月号所収、 104頁。
6 前掲 『どんとこい!貧困』 第 1 章。
7.8 中西新太郎 『若者たちに何が起こっているのか』 花伝社、 2004年、 102頁、 270頁。
9 大阪教育文化センター 「第3回大阪子ども調査」 研究会編 『21世紀を生きる子どもたちからのメッセージ』 三学出版、 2010年、 300〜306頁。
10 拙稿 「共に生きる意志を育む道徳教育の創造を」、 さいたま教育文化研究所 『さいたまの教育と文化』 49号所収、 2008年、 15〜17頁。
11 文部省 『中等学校・青年学校公民教師用書』 1946年、 2 頁。
12 生田武志 「学校で野宿者問題の授業を」、 雑誌 『世界』 2008年 4 月号所収、 162〜 3 頁。
13 秋葉英則 「思春期の うずき にメスを」、 国立教育研究所内校内暴力問題研究会編 『校内暴力を中心とする少年非行克服への提言』 所収、 1984年、 28頁。
14 奥平康照 「子どもたちの道徳性が育つということ」、 田中孝彦・藤田和也・教育科学研究会編 『現実と向き合う教育学』 所収、 2010年、 84〜85頁。
15 中西新太郎 「あなたの売り物は何ですか?」、 雑誌 『教育』 2009年 9 月号所収、 国土社。
16 同全国ネットの授業づくりや神奈川県川崎市における 「野宿者」 問題の授業については、 同ネットによる出版物のほか、 北村年子 『ホームレス襲撃事件と子どもたち』 (太郎次郎社エディタス、 2009年) をも参照されたい。
17 教育法令研究会著 『教育基本法の解説』 国立書院、 1947年、 55頁。
18 National Task Force on Citizenship Education, Education for Resposible Citizenship, McGRAW
  -HILL, 1977, p.10, p.12.
19 Lynn Edwards, Pamela Munn & Ken Fogelman (eds.), Education for Democratic Citizenship in Europe−New Challenges for Secondary Education, SWETS & ZEITLINGER, 1994, p.8, p.18.
20 Education for citizenship and the teaching of democracy in schools : Final report of the Advi-sory Group on Citizenship, Qualifications and
 Curriculum Authority, 1998, p.55.
21 斉藤秀昭 「不安の中で生きる子どもたち〜地域社会が崩れようとしている中で〜」、 地域民主教育全国交流研究会編集 『現代と教育76』 所収、 桐書房、 2008年、 91頁。
22 白鳥 勲 「『いま』 を生きる高校生に共感と希望を」、 宮下与兵衛編 『子ども・学生の貧困と学ぶ権利の保障』 所収、 平和文化、 2010年、 25頁。

 
【藤田 昌士 (ふじた しょうじ)】 
 国立教育研究所 (現在の国立教育政策研究所) 研究室長、 福島大学教授、 立教大学教授等を歴任。 現在は教育科学研究会 「道徳と教育」 部会世話人。
 著作は 『講座日本の学力第11巻 道徳と教育』 (共編著、 日本標準、 1979年)、 『道徳教育   その歴史・現状・課題』 (エイデル研究所、 1985年)、 『日本の教育課題第 4 巻 生活の指導と懲戒・体罰』 (東京法令出版、 1996年)、 『学校教育と愛国心』 (学習の友社、 2008年) など。

  (ふじた しょうじ 元立教大学教授)
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