研究所員による 「書評」

『教員評価の社会学』

苅谷剛彦・金子真理子編著   岩波書店

 
大 島 真 夫

 本書は、 宮崎県における教員評価制度導入のプロセスをテーマにしたもので、 元東京大学 (現オックスフォード大学) 教授の苅谷剛彦氏を中心とした研究グループが 4 年にわたり実地調査を行った成果をまとめたものである。 昨年出版された岩波ブックレット 『教員評価』 の完全版とも言うべきもので、 紙幅の都合で記されなかったデータや分析などが追加され、 より詳しく論じられている。
 8 人による分担執筆で、 序章と終章を含めると全部で10章立てになっている。 問題の背景や分析の方法および視点などが序章から 2 章までで述べられていて、 3 章以降はやや各論めいた話題が続く。 新しい評価制度は教員のやる気を高めたのか、 人事行政にはどのような影響を及ぼしたのか、 抵抗感を持つ教員はどのような属性・考え方の人たちなのか、 教員の 教師としての成長 に本当に資する制度になっているのか、 といった点が考察されている。

 内容面での大きな特徴は、 全体が 「翻案」 というキーワードで貫かれている点にあるといってよいだろう。 共同研究グループのメンバーによる分担執筆の本というのは、 各章の内容がバラバラで本全体としての統一感を欠く傾向があるが、 本書ではそのようなことはない。 この 「翻案」 というのは、 辞書的には 「とくに、 小説・戯曲などについてい」 い、 「前人のおこなった事柄の趣向を変えること」 という意味である (広辞苑)。 本質的な部分は変更せずに具体的な表現を変えることで別の作品を作ることを指している。 これと似たようなことが宮崎県の教員評価制度導入の過程で起こったというのが、 本書の見立てである。
 宮崎県教委が主眼に置いたのは、 評価制度を人材育成に資するものにするという点であった。 「「職場で仕事の進め方や能力開発について話し合う機会は、 よほど意識的につくらない限り、 なかなかない」 ので 「評価を実施すること」 によって 「相談やアドバイスをする機会が生まれ (る)」」 という認識を県教委は持っていたため、 評価をめぐって教員間でコミュニケーションが取れる様になることをもっとも重視し、 それ以外の点については大胆に妥協したというのである。 県教委の進める案が実態にそぐわないとして現場の教員から反対が出されれば、 修正も辞さなかった。 それが、 「評価シートの形式」 や 「評価の処遇への反映」 といった極めて重要な問題にかかわるものであったとしてもである。 本書では、 県教委職員へのインタビュー調査からこうしたプロセスが明瞭に描き出されている。
 試行錯誤を重ねた上で実施された教員評価制度への評判は、 教員対象に行った質問紙調査やインタビュー調査の結果によれば、 おおむね良好ということであった。 教員間でのコミュニケーションも活発になったということである。 県教委が当初想定していた制度とは具体的な面でだいぶ異なるものとなったが、 評価制度導入の主眼は変わることなく、 結果として実現することになった。 かくして、 宮崎県の教員評価は、 「翻案」 というプロセスを経て、 人材育成に資する機会 (制度) として実施されるに至った。

 神奈川県の先生方からすると、 教員評価制度は 「何をいまさら」 という話題かもしれない。 導入は他県よりも早く、 すでに 7 年が経過している。 しかも、 ここ 2 〜 3 年の間に注目を浴びているのは、 むしろ免許更新制の方である。 こうした点を踏まえながら、 本書を読んでの私の感想を以下で述べたい。
 第一に、 教員評価制度というのは今後どういう形で続いていくことになるのか、 という点である。 免許更新制の方は、 導入してまもなくであるにもかかわらず、 早くも存続か廃止かというような議論がなされるようになっている。 教員評価制度にしてみても、 処遇にまで反映させている県、 処遇には反映させず評価だけ行っている県、 そもそも教員評価制度を導入していない県というように、 現状において県ごとに対応にかなりの温度差がある。
 導入が叫ばれた当初は、 評価結果を処遇にまで反映させることが想定されていた。 2000年に教育改革国民会議 (小渕首相の私的諮問機関) が 「教育改革国民会議報告―教育を変える17の提案―」 を、 2002年に中教審が答申 「今後の教員免許制度の在り方について」 を、 それぞれ出して以降、 教員評価制度が全国に広まることになったが、 そのどちらもが人事や給与などの待遇と結びつけて教員評価制度を導入することを主張していた。 こうした経緯からすれば、 制度導入をさらに進めて、 今後は処遇にまで反映させる県が増えるかのようにも思える。
 ただ、 反対意見も大きい。 教員評価制度の根幹を成すのが目標管理制度という人事考課の仕組みであるが、 この仕組み自体、 その妥当性に疑問のまなざしが向けられるようにもなっている。 少し前のことだが、 ある大企業の話を取り上げた本がベストセラーになった。 それは、 人事管理制度改革の一環で目標管理制度を導入したものの、 うまく機能せずかえって社内に停滞をもたらし売上を大幅に減少させたというものであった。 こんな話が伝わってくると、 本当にこのまま教員評価制度を導入していって大丈夫なのかと不安に思えてくるのも無理はない。
 ひょっとすると、 教員評価制度は危うい位置にあるのかもしれないが、 一度始まった制度はそう簡単にやめられるものではないし、 さまざまな配慮から制度導入は所与として考えなければいけないということもあるのだろう。 だとすれば、 本書が紹介するような 「翻案」 というプロセスは、 ベストではないがよりましな方向性を示しているかもしれない。 宮崎県がしてきたように、 県教委と教員が議論を重ねてお互い納得できるような制度を作り運用していく、 という方向性である。 少なくとも 「やりすごし」 をするよりは、 生産的なものになるのではないかという印象を受けた。
 二つ目の感想は、 「教員の資質向上」 が錦の御旗になって次から次へと制度が作られていっている、 という点である。 この10年間に、 教員人事制度をめぐって教員評価制度と免許更新制という二つの大きな変化があったが、 思い起こせば免許更新制もその目的は 「その時々で教員として必要な資質能力が保持される」 というところにあった。 背景には、 「不適格教員の排除」 を目的として導入したがる勢力とのせめぎ合いがあって、 駆け引きの末にようやく 「資質能力の保持」 という点を落としどころにすることができた、 というような大人の事情ももしかしたらあったのかもしれない。
 しかし、 それにしても、 こうも 「資質」 が繰り返し出てくると、 いろいろと疑問が浮かんでくる。 具体的にはどういう資質が必要なのか、 それはなぜなのか、 現状ではその資質が不足しているということを示す実証的なデータはあるのか、 どういう教育を受ければその資質を身につけることができるのか、 といったことが、 きちんと議論されていないように思う。 教員評価、 免許更新講習、 研修というように、 資質向上のためにさまざまな制度を作るのなら、 それら制度間でどういう役割分担をするのかも示される必要があるだろう。
 そして、 「資質」 についてもう一つ疑問なのは、 仮に教員にはさまざまな資質が求められていてそれらが具体的に定義されていたとしても、 一人の教員がすべての資質を兼ね備えていなければいけないのか、 という点である。 2006年の中教審答申 「今後の教員養成・免許制度の在り方について」 には、 教員に求められる資質能力が列挙されており、 もしこれらすべてを兼ね備えたとすれば次のような人物となる。
 教員とは、 教育者としての使命感があり、 人間の成長・発達についての深い理解があり、 幼児・児童・生徒に対する教育的愛情があり、 教科等に関する専門的知識を持ち、 広く豊かな教養を備え、 これらを基盤とした実践的指導力を有し、 地球、 国家、 人間等に関する適切な理解があり、 豊かな人間性を備え、 国際社会で必要とされる基本的資質能力を持ち、 変化の時代を生きる社会人に求められる資質能力 (課題探求能力等に関わるもの、 人間関係に関わるもの、 社会の変化に適応するための知識及び技術) があり、 幼児・児童・生徒や教育の在り方に関する適切な理解ができ、 教職に対する愛着・誇り・一体感を持ち、 教科指導・生徒指導等のための知識技能及び態度を有し、 (まだまだ続くが、 以下省略)。
 現実のところ、 どういう制度を作ったとしても、 こういう超人を生み出すことはできないのではないか。 そもそも、 学校教育の現場にこういう超人は必要なのだろうか。 教員集団という視点で考えれば、 ある人が不得意なことを、 それを得意とする別の人がカバーできれば、 それで十分なのではないだろうか。 到達不可能な高みを想定して、 そこに至っていないからといって次から次へと新しい制度を作っていくというのは、 どうも不毛な気がしてならない。 資質向上の取り組みはほどほどにして、 現場で児童・生徒に向き合う時間を増やす方が、 児童・生徒にとってもはるかにいいのではないかと思う。 本書では十分に論じられていないようだが、 教員評価制度を資質向上と位置づけるのは一見するといいことのように思えるけれども、 資質向上という言葉が持つ問題性にも目を向ける必要があるのではないかと感じた次第である。


(おおしま まさお 教育研究所員)
ねざす目次にもどる