教育研究所公開研究会に参加して


多くのイチャモンと疑問のぶつけ合いを

新 倉 京 子
テーマT  「教員の意識をめぐって」
 研究会の前半では、 後期再編校の状況も交えながら、 「私が早期退職をした理由」 (『ねざす』 40号)、 「高校教育改革と多様性」 (『ねざす』 45号)、 2003年の教育研究所独自調査 『 「教育改革期における教員の意識」 調査』、 1994年の教育研究所調査レポート 『教員の生きがいと健康』 を題材に、 教員の意識をテーマとして報告と討論が行われた。
 1994年調査では、 「疲れやストレスを感じている」 教員はまだ半数近くであり、 「辞めたいと思っている」 のも 1 割でしかなかったが、 2003年調査では、 「教員を辞めたいと思う」 と 「いつも感じる」 「ときどき感じる」 という回答が51.4%にのぼっている。
 報告者からは、 再編校での、 生徒の実情よりも外部向けPRが先行しがちな学校づくりや、 事故の当事者がいる場でその事故を研修材料として取り上げるような事故防止会議といった事例が紹介され、 高校再編や教員管理の強化に絡む課題が 「与えられたことをこなすだけの奴隷化する教師」 の 「爆発する怒りと諦念」 を生み出していく状況が語られた。 他にも人事考課、 教員免許更新制など多くの課題が指摘されたが、 一方、 「県民の立場からすれば教師達の半数が辞めたがっているような学校に自分の子どもを通わせたいと思うだろうか」、 「若い世代の先生方が希望を持てるような職場にしていく努力をしなくて良いのか」、 「自分達で職場をつくる、 変えていくという意識が薄れているのではないか」 といった疑問も投げかけられた。
  「辞めたい、 ではなく、 自分達で職場をつくろう、 変えようとする意識を持つことが大切」 という意見については、 実際に辞めてしまった私としては 「何も言えない」 というのが率直な感想である。 更に言えば、 職場をどのようにしていきたいかを話しあうわずかな時間さえ取ることが難しく、 その意欲も消え失せてしまいそうな現状であることも十分承知している。 総括教諭や企画会議の導入、 教員評価の給与への反映、 事故防止や諸般の説明責任を果たすための管理強化と自主規制など、 職場の同僚関係を微妙に変化させ、 教員を疲弊させる要素は年々増えるばかりである。

 しかし、 それだからこそ 「辞めたいと感ずる原因は何なのか」 「何が自分達で変えられることなのか」 を同僚と語りあうことが大切なのだと改めて思う。 この厳しい状況の下で、 もしかしたら、 同僚と語り合うどころか、 理不尽な制度に対する不満をその制度の中で共に苦労しているはずの同僚にぶつけ、 互いを傷つけあうようなことも起きているかも知れない。 そして、 更に疲弊の度合いを深めているといったこともあるのではないだろうか。 私自身は、 多忙な職場にあっても常に細やかな気遣いを見せて下さった多くの同僚に支えられてきた。 それでも、 私自身の限界から、 自分の気持を同僚に率直に話したり、 職場をどう変えられるのかを前向きに考えたりすることがなかなか出来ないまま、 仕事に追われる中で結局辞めることを選択してしまった。 これはそのような私自身に対する反省を込めての感想でもある。
 また、 討論の後半には、 外の方々が教員に向ける視線の厳しさと教員の意識の差も話題になった。 教員に向けられる批判や要望の中には傾聴すべきものもあるが、 私たちが考えている以上に現場のことは外に伝わっていない。 高校の教育活動、 教員の仕事が外の方々にどう受けとめられているのかを知ることも、 またその上で必要に応じて反論する、 丁寧に実情を伝えていくことも必要であると感じている。
 働きづらい職場を更に働きづらくするのではなく、 働きづらさを少しでも軽減していくための手がかりを模索するために、 そして教員のおかれている状況と課題を外の方々により正しく理解してもらうためにも、 教員の意識のみならず、 勤務実態なども含めた調査を、 高校教育研究所のような機関が試みていくことは実は大変重要な意味を持つのではないだろうか。

テーマU 「総合学科に対する 『フツー科』 教員の疑問・イチャモン」
 後半は、 まずは 『ねざす』 45号の 「総合学科はどこに行く?」 をとりあげた、 「『総合学科』 はそれでも楽しいですか?〜 『フツー科』 教員の疑問・イチャモン〜」 と題する報告から始まった。 総合学科について熟知しているにもかかわらず、 あえて総合学科への疑問を提起して総合学科の課題を問いかけて下さったこの報告は大変に面白く、 このような形での討論がもっと日常的にできればと感じたが、 そのような時間すらとれないのが現在の職場であるとも思う。 ここでは、 その報告を振り返りながら感想を述べていきたい。

【そもそも文科省・県教委のやることが気にくわない。 第 4 次報告はもう古いのでは?】
 報告者からは、 日頃の教育行政への不信感が総合学科の理念を共有しようという意識を教員間に形成しづらい状況をつくり出しており、 現在も多くの教員が総合学科の骨格を示す 「高等学校教育の改革の推進について (第 4 次報告)」 の存在やその内容を知らないこと、 また、 統合再編に伴う学校間の軋轢や近年の学校組織の変化が、 学校づくりに様々な影響を与えていることなど指摘された。 また、 第 4 次報告自体がもう古いのでは、 という疑問も投げかけられた。
 総合学科が、 1991年の中央教育審議会答申に基づく 「上からの高校改革」 の一つであることは否定しようがない。 しかし、 神奈川県の総合学科への取り組みは、 上からの改革であると同時に、 『ねざす』 16号に鈴木市朗氏が書かれているように 「現実の学校の中に自分自身を見失い高校に通う意味を見いだすことができず、 ただ通過点としての高校3年間がすぎることをじっと待っている生徒たちが目の前にいる。 この生徒たちにとっての 『高校教育改革』 は、 教育制度や教育行政の問題ではなく、 彼ら彼女らとどのように向き合い、 どのような学校を作っていくのかという具体的な課題だと思う」 1 といった問題意識の上に立つものでもある。 「上からの改革」 理念は共有できなくても、 ここに述べられているような問題意識は教員が共有できないものではないだろう。
  「そもそも、 文科省・県教委のやることが気にくわない」 という感覚に共感はするが、 生徒たちと 「どのように向き合い、 どのような学校を作っていくのかという具体的な課題」 を考えていく一つの手がかりとしての 「第 4 次報告」 をその感覚と共にうち捨ててしまうのはもったいないというのが私の感想である。 「第 4 次報告」 は 「報告」 という形をとってはいるが、 1993年に法制化された総合学科の教育の枠組みを示すものであり、 「○○教育」 といったある時期のみに熱心に取り組まれる何らかのプロジェクトを提言するものとは異なる。 それは、 時代の変化と共に、 その運用面では修正される部分も多々持つだろうが、 総合学科の根幹を示すものであることに変わりはない。 何をやっているのかわからない総合学科としないためにも、 総合学科の趣旨をやはり 「第 4 次報告」 に立ち返って考えていくことが必要ではないかと考える。
 ただし、 「総合学科で働くなら第 4 次報告を読め」 と怒鳴られるように言われても、 誰も読む気にはなれないだろう (実際私もかつてはそうだった)。 総合学科での活動と第 4 次報告の内容とその趣旨とを結びつけながら、 伝えあい、 疑問を投げかけあえるような教員間の交流、 研修の場を持てる物理的、 時間的、 精神的余裕が是非とも必要だと思う。

【「普通科・職業科」 から 「普通科・総合学科・職業科」 という新たな序列ができるだけではないか?】
 ここでは、 総合学科が近年の 「学力低下」 問題や景気の悪化などを背景に、 進学実績の競争に走らざるを得ず、 そこに新たな序列化が進む可能性があるという問題提起があった。 しかし、 序列化の軸を大学進学実績やペーパーテストで測定できる普通教科の学力に限定するのではなく、 生徒の学びに向かう意欲や姿勢、 授業の充実度、 専門教育で養成される専門的な知識・技能などで考えていけば、 序列は次々と変化する可能性がある。 序列そのものは無くならないかも知れないが、 教員自身が序列化の軸を見直すまなざしを持つことはできるはずであるし、 このような序列を構築するまなざしを問い直せる人間を育てることも総合学科設立の趣旨の一つではなかっただろうか。
 また、 いわゆる 「学力低下」 問題が、 もともと 「食べやすいが芯のない 『おかゆ学科』」 との批判を受けていた総合学科への逆風を強めているという側面は否定できない。 しかし、 全国学力テストにしても、 過去の経緯を振り返ると、 それは、 教育制度や学習指導要領が改編された時期に、 その改編によりペーパーテストで測定できる普通教科の学力が低下したということを証明したい人たちによって、 その証明のために実施されてきたという見方もできる。 更に言えば、 現在のマルチプルチョイス方式の大学入試で優れた成績をあげるための学力が、 調査・研究という大学での学問に取り組む上での基礎学力となり得ているのかという問題もある。 高校生に何を伝えるのか、 どのような力をつけるのかということを基本に、 現在の序列を構築している 「学力」 そのものの検討も必要なのではないかと感じている。

【「産業社会と人間」 って何ですか?】
 報告者からは、 総合学科原則履修科目の 「産業社会と人間」 は結局、 「企業にとって望ましい若年労働者」 を育てるだけのものではないかという疑問が出されたが、 それ以上にこの科目は、 総合学科の柱といわれながらどのような意味で柱なのかがよくわからないまま、 教員に強い負担感を与える科目となっている可能性があると思う。 また、 ポスト産業社会に入りつつある時代に 「産業社会と人間」 という名称はまさに 「古い」 との批判もある。 「職業と生活」 「我が国の産業の発展と社会の変化」 「進路と自己実現」 という学習内容の骨格は第 4 次報告に示されているが、 学習指導要領のような詳細な記述があるわけではない。 研究会の後半で取り上げられた 「職業・技術教育をどう考えるか」 (『ねざす』 16号) では、 「産業社会と人間」 は 「現在見る限りでは高総検や技教研が提起してきた職業・技術教育の基礎科目の内容とかけ離れているものの、 今後科目の内容を改善していくことによって、 普通科でも 『専門学科』 でも職業・技術教育の共通基礎科目として位置付けていくことができるのではないか」 2 と述べられているが、 時代の変化にあわせて教員自身の手でこの科目の内容を新たに構築する作業が求められているのではないだろうか。
 総合学科の課題としてしばしばあげられるのが、 この 「産業社会と人間」 や 「課題研究」 の指導のしにくさと、 系統性の無い、 まとまりのない科目選択という問題である。 しかし、 「産業社会と人間」 が社会や職業について学びながら自分の将来を考え、 その上で総合学科でのこれからの自分の学びを組み立てていく科目であることをふまえてその内容を検討していくならば、 この科目が報告者が懸念するようなものとはならないはずであるし、 そうならないように考えていくことが必要なのではないだろうか。
 また、 総合学科での学習をふまえて、 自分がこれから何にこだわって生きていきたいのか、 何をして社会に参加していくのか、 自分にできることは何なのかなどを考える 「課題研究」 は、 高校における自らの学びの総まとめである。 簡単に答えが見つかるものでは決してないが、 「産業社会と人間」 と 「課題研究」 への取り組みにより、 生徒それぞれの学びのコアを発見させ、 そこにさまざまな選択科目を有機的に結びつけていくような形をとることをめざすと考えれば、 総合学科を、 バラバラな科目を無目的に選択して安易に過ごす学校ではなく、 生徒それぞれの関心や課題に応じて自ら学び続ける力を育てられるような学校とする道筋も開けてくるのではないだろうか。
 総合学科生徒の満足度は、 「総合学科に進学してよかったか」 という問いに38.6%が 「そう思う」、 43.9%が 「まあそう思う」 と回答しているようにかなり高い。 3 しかし一方、 総合学科の校長に対して行われた調査では、 「総合学科は今後どのようになっていくと考えますか」 という質問に対して、 「改編、 廃止も起こり得る」 と回答した数は全体の 38.8%、 「特には増えない」 も45.4%にのぼるというデータもある。 4 生徒たちの満足度の背景には何があるのか、 総合学科の意義は何なのかなど、 更に多くのイチャモンと疑問のぶつけ合いの中で考えていきたい。


1 鈴木市朗 「『ねざす』 15号を読んで―高校改革を考える―」 『ねざす』 16号、 1995年、 p.84。
2 三橋正俊 「職業・技術教育をどう考えるか」 『ねざす』 16号、 1995年、 p.21。
3 2007年国立教育政策研究所 「今後の後期中等教育に関する調査研究」
4 南本長穂 「総合学科高校の成果を探る」 関西学院大学教職教育研究センター 『教職教育研究』 No.15、 2010年。

 
(にいくら きょうこ 元県立高校教員 横浜国立大学 大学院 教育学研究科)
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