教育研究所公開研究会に参加して |
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7月24日、 労働プラザで公開研究会を開いた。 テーマは次の通りである。
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小 山 博 美 | ||||
逆風の中で 去る 7 月24日午後、 教育研究所の公開研究会が行われた。 会場は狭く、 参加者で一杯であった。 レポート発表の一つに2003年に当研究所が行った独自調査 「教育改革期における教員の意識調査」 と教育研究所教育白書94 「教員の生きがいと健康」 があった。 94年当時、 私は教職員ではない立場で所員として関わっていたこともあり、 関心を持って参加した。 今に始まったことではないが、 最近教職員など公務員へのバッシングを強く感じる。 特に子どもが通う学校現場に対しては手厳しい。 理由の一つに、 子どもの教育に対しては思い入れが強いということがある。 発表した所員、 手島さんのレポートの中に、 『ねざす』 40号、 川崎さんの寄稿 「『理不尽な思い』 が年々強くなり、 ついに (学校) をやめる決心をすることにまでなった…(略) 『あなたはなぜ辞めないんですか?』 …」 また、 参加者の一人から 「今、 世間は、 教員が生き生きすることを望んでいるんですか?生徒からは先生もどうせ公務員なんでしょ、 と言われ、 外からはまた不祥事か、 等と軽蔑されて…」 というような発言があり、 少なからず衝撃を受けた。 思わず、 「そんな風に思わない方がよい。 今、 生徒の70%以上が自己肯定感を持っていないと最近知って、 驚いている。 身近にいる親や先生が自己肯定感を持っていないからではないか」 と言った。 現在のバッシング風潮に対して、 教職員の立場から反論する機会はないのか。 身をもって必要な立場を表現することはできないものなのか。 できないとすれば問題は深刻ではないか、 と考えさせられる。 失敗を重ねる 私は今に至るまで32年間、 児童養護施設の子どもとつきあってきた。 親を失った子ども、 虐待を受けた子ども、 望まれないで誕生してきた子ども、 育てられないからと預けられた子ども、 などなど。 夏休みと冬休みの間、 1 週間づつ短期里親として子どもを預かり、 時々面会もする。 当初施設から預かってもらえないかと依頼を受けたとき、 うまくいかなければ辞めればいいと軽い気持ちであった。 接してみて、 この子たちは次々に人から人へと手渡され、 おとなになるまでの成長を誰が見届けるのかと考えたとき、 突き上げるものがあった。 途中で投げ出してはならないと決心した。 10人の子どもと関わってきたが、 笑いと涙、 力不足と後悔、 そして失敗の連続であったと言える。 いまだに行方がわからない子どもが 2 人 (高校途中で施設を飛び出す)、 そして 1 人の少年の死。 その子どもは 3 歳のとき、 頭から血を流しているところを保護され、 我が家には小学 1 年生の夏休みからやってきた。 様々な反抗をへてようやく17歳になった今春、 無免許運転によるバイク事故で逝ってしまった。 本人は高校には行かず、 中学を卒業と同時に中華料理屋さんに就職をしたが、 1 週間で辞めてしまった。 事故に遭うまで 7 カ所の職場を転々として、 飛び出すたびに我が家に転がり込んできた。 夜中に出たり入ったり、 帰らない日もある。 勝手気ままな振る舞いに私は 「これがルールだ!一宿一飯、 お風呂付き!」 と宣言した。 そして最後に宅配便の会社に雇ってもらい、 7 カ月を彼なりに踏ん張り通した。 何とかなるかと思った矢先の事故死であった。 この時ばかりはむなしさで立ち上がる力を失った。 生徒とともにある学校現場 人として生きていくための様々な知識や力量を育むには学習が必要と考えるが、 それ以上に必要なことは多くの人との関わりと体験活動があってこそと思っている。 教職員の皆さんには、 目前にいつも多彩な生徒がいる。 また、 厳しいバッシングがあるとはいうものの、 外から見て言えることは当事者が考えている以上に、 仕事の内容においても働く職場としてもまだまだ大きな魅力を持っている。 教員自身がそもそもの原点である、 「なぜ学校が、 教師が必要なのか。」 をきちんと説明できるだろうか。 また、 「今の教職員の問題点はどこにあるのか」 ということを出し合ったことがあるだろうか。 そこでこそ、 外部の人の力を借りて、 共に考えてみてはどうだろうか。 その作業によって、 理解者も広がっていくと思うのだが。 教職員自身が自己責任感に追い詰められたり、 閉鎖的な中に追い詰められてはならないと思う。 と同時に、 生徒の目線で考えていくことが重要であり、 それらができるゆとりを何とか捻出してほしいと考える。 最後に。 公務員・教職員は明日にリストラが迫っているわけではない。 孤立して進むのではなく、 チームとして活動できることを願っている。 エールを送り続けたい。 |
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(おやま ひろみ 茅ヶ崎市在住 元研究所員) |
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