映画に観る教育と社会[14]

「告 白」
 
手 島   純

つぶやき
 忙殺されていた 1 学期 (2 期制の学校にはこんな語句はないけれど) が終了し、 どうにか夏休みに滑り込む。 それでも 7 月下旬はほぼ毎日出勤し、 8 月になってやっと息をつく。8 月上旬は、 教育会館で 「教職員のための夏季教育講座」 に出席、 おおいに刺激を受ける。 中身は割愛するとして、 研究者による真摯な教育研究は、 つまるところ 「現場」 の課題をすくい上げてくれると思ったことだ。 研修で行けるのだし、 もっと多くの教職員が参加すればいいのにと思う。 教員を多忙にさせることで 「思考停止」 に追い込むという戦略が実際に行われているという指摘もあった。 我々の仕事を相対化する必要があるだろう。
 確かに、 無駄なペーパーを書き、 役所のように起案をし、 時間を奪われ、 授業も行事もスケジュールとして 「消化」 するだけ……。 これでいいのか。

フィクションの臨場感とドキュメンタリーの嘘くささ
 そんな夏休みは、 とりつかれたように映画館に通った。 「ロストクライム 閃光」 「告白」 「BOX袴田事件 命とは」 「パリ20区、 僕たちのクラス」 「ザ・コーヴ」 「キャタピラー」 等を観た。 どれも、 高いお金を払う価値がある。 そのなかでも、 「パリ20区、 僕たちのクラス」 は出色のできだった。 教育の 「現実」 を美談にせずに、 ドキュメンタリータッチで教師と生徒の葛藤と交流を普通に描いて新鮮だった。 一方、 ドキュメンタリーであるはずの 「ザ・コーヴ」 は、 肝心のところが嘘くさく (殺されたイルカの血で入り江が真っ赤に染まるところ)、 これは 「イルカを殺すな」 というイデオロギーを伝えたいために、 映像を捏造したのではないかと疑いをもったくらいだ。 しかし、 報じられるように上映禁止を叫ぶべきではない。 太地町漁師の怒りは理解できるとしても、 表現の自由は守られねばならない。

「告白」 の戦慄
 学校が舞台だということではあるが、 そう期待もせずに中島哲也監督 「告白」 を観に行った。 しかし、 夏の怪談もののように幻惑され、 寒気さえ感じた映画だった。
 ひとりの女性教師森口 (松たか子) が告白をはじめる。
 私はシングルマザーです。 娘の愛美、 その父親にあたる人とは結婚するはずでした。 ……結婚式を目前に、 私は妊娠していることがわかり、 彼は健康診断でHIVに感染していることがわかりました。 ……子どもは生み、 でも結婚はしない。 それが私たちが出した結論です。 愛情のすべてを、 私は愛美に注ぎました。 …… (しかし、) 愛美は死にました。 でも (警察が判断したように、 誤ってプールに転落した) 事故死ではありません。 愛美はこのクラスの生徒に殺されたんです……。
 こうした告白から森口の復讐が始まる。 彼女が警察にことの真相を伝えないのは、 法の保護で未成年の加害者生徒には重罰が科せられないだろうから、 自らの手で復讐したいと考えたからだ。 映画は湊かなえの原作と同じように、 それぞれ告白の形をとりながら、 じわりじわりと加害者生徒を追いつめる。 話が入り組んでいるので、 詳しくは割愛するが、 カリスマ先生・いじめ・引きこもり・暴力など現在の教育を語る際のキーワードが登場しつつ、 物語は重層な復讐劇へと展開する。
 この映画は原作に忠実である。 私は映画を観た後に原作を読んだが、 映画でこんなに原作を踏襲しているのも珍しいなと思った。 しかし、 原作に比して、 映画の方がクライマックスは手厚く描かれている。 加害者のひとりである修哉 (西井幸人) は最終的に学校に爆弾を仕掛けて自らも含めた大量殺人を選ぼうとするが、 彼が押したスイッチは学校では不発で、 彼と別れたかけがえのない母を爆死させてしまうというシーンである。 それは映画がなんとしてもエンターテインメントとして映像で表現したかった見せ場だと、 了解する。
 それにしても、 この映画に戦慄を覚えるのは、 教師と生徒の関係をここまで敵対的に描きモチーフにするのかという点だ。 映画でみれば、 せいぜい 「バトルロワイヤル」 であろう。 それでも、 「バトルロワイヤル」 はありえない話として一蹴できようが、 この映画は非常にリアルだ。 「子どものために」 と言えば、 だれも反論できない親和的世界をぶっとばした。 教室のなかで、 しかも告白という手法で物語を展開させるのは原作通りだが、 それを映画に取り入れることで、 映画表現そのものにも斬新な印象を与えた。

「つぶやき」 から 「告白」 へ
 教師とは、 自分のことはさておいて、 子どものために仕事をする伝道師的な要素があった。 しかし、 とうとう、 教師は聞く側ではなく、 胸に秘めた悲壮な 「告白」 をする時代になったのである。 これだけコケにされている現実があるのだから聖職者ヅラばかりできない。 「告白」 は出るべきして世に出た。
  「教職員のための夏季教育講座」 の話にもどると、 一橋大学の中田康彦氏は 「教員管理を通じて教育の自由や学校自治が蝕まれようとしています。 教員管理には、 職務命令のような法的権力の行使、 人事考課や職層の階層化を通じた待遇の差別化だけではなく、 多忙化によって思考を奪うといった環境管理型権力の行使があります」 と述べ、 東大の本田由紀氏は日本の労働の現状が 「職務範囲の不明確さ、 それに伴う過重労働・長時間労働」 になっていると指摘している。 無限に働かされる状況は教員も同じだ。 いや加速している。
  「つぶやき」 から 「告白」 へと転換する時代、 実際 にこの映画のような事件 が起きる可能性をだれが止められるのだろうか。


(てしま じゅん 教育研究所員)
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