- 世界史未履修問題と日本史必修化問題
「世界史未履修問題」 が全国の高校で騒がれたのは教育基本法の改定が国会に上程され議論されていた2006年の秋のことである。 私は 「世界史A」 の教科書の執筆者の一人だったから、 それなりに 「世界史必修の問題」 に通じていたつもりだったが、 なぜ、 あの年にあれほど 「世界史未履修問題」 が大きく取り上げられたのか、 大いに違和感を抱いたことを覚えている。 なぜならば、 世界史必修が始まった当時から、 実際には全高校では実施されていないことは公然の秘密だったからである。 「世界史A」 の教科書を高校生に買わせて、 実際にはその時間に受験用の日本史や世界史を教えている学校が多いと聞いていた。 そんなことを教育委員会が知らないはずはなかった。 結局、 なぜ、 誰が、 あの時期に 「世界史未履修問題」 を突如として全国で問題し始めたのか、 われわれは聞くことが出来なかった。
そもそも世界史がなぜ必修になったのかについて、 当時、 われわれ歴史研究者や教育者には 「グローバリゼーションへの適応」 という思いつきのような根拠以上のものは示されなかった。 ある特定の歴史家がその政治的影響力を利用し、 大した抵抗もなく一気に 「世界史必修」 を実現したと言うのがもっぱらの定説になっていた。
実は、 このたびの 「世界史未履修問題」 で広く世間で話題にされるようになった高校生の 「歴史離れ」 は、 大学教育の現場ではすでにかなり前から深刻な問題として取り上げられ始めていた。 少なくとも社会科学の分野の授業では、 一定程度の世界史的な知識を必要としているのだが、 全体として学生の歴史に関する関心と知識が乏しくなっているだけでなく、 個々の学生の間の格差がますます著しくなってきているために、 その授業運営がかつてなく難しくなっていたのである。 その意味では、 「世界史未履修問題」 は、 社会全体で高校生の歴史教育について考える機会を与え、 大学教育をも考え直すよいきっかけとなったのかもしれない。
ところが、 この 「世界史未履修問題」 をきっかけに唐突に出てきたのが、 「日本史必修問題」 である。 何であれ、 歴史をもっときちんと勉強させねばならないと言うのは結構な話なのだが、 ここにはそれ以外の何かの意図を感ぜざるを得ない。 それは、 この提言が、 教育界からではなく、 神奈川県の知事や議会からその声が発せられ、 実行に移されようとしている点からもうかがえる。 多くの教育者が恐れているのは、 この政策が、 教育基本法の改定の背後に見え隠れしている 「排外主義的ナショナリズム」 の促進につながることである。
教育や学問の現場の検討を踏まえてその教育内容が決められるのではなく、 政治や宗教の世界が学校教育を支配する事例は世界にいくらもあったし、 現在もある。 まず頭に浮かぶのは戦前の日本やナチス・ドイツ、 社会主義諸国の事例であろう。 私の専門分野であるアメリカ史にそのひとつの例を求めれば、 1920年代以来繰り返し行われてきた 「進化論」 教育の禁止をめぐる問題がある。 自然科学の分野での 「進化論」 の正当性はすでにもはや否定しようがなかったが、 一般庶民に、 それを教育するとなると話は単純ではない。 この社会には 「人は神によって創造された」 との建前がなお深く根をはっており、 強力な政治的影響力を維持しているからである。
このような政治や宗教の教育への直接的介入は、 深刻な被害を社会にもたらすことが少なくなかった。 特に歴史教育は、 情念的な復讐心や独断的自民族中心主義を掻き立てる役割を果たしてきたから、 戦争や内乱、 テロを支える民衆のエネルギーとなり大きな悲劇をもたらすことが多々あった。 しかし、 学問の流れと外れたイデオロギー的目的をもった教育の無理強いは、 遅かれ早かれ破綻し、 長続きはしない。
とはいえ、 神奈川県議会でも高等学校における日本史必修が支持を受けていると言う事実は、 単に、 「排外主義的ナショナリズムの跳梁」 では説明できない事情を想像させる。 特定の政治家たちが近年の日本のイデオロギー状況の変化を 「チャンス到来」 と捉えようとしていることは疑いないが、 県民意識の中に彼らの提案を積極的に受け入れる何かを感じ取っていた政治家が多いことも事実であろう。 すなわち、 この人たちは、 近年の若者たちの社会意識ないし歴史意識に、 自分たちの理解をこえる恐るべき大きな変化が起こっていることを敏感に捉えているのではないだろうか。
かれこれ30年間、 大学教育の現場に立ってきた私は、 それぞれの時代の学生のそれぞれの変化を感じ取ってきたつもりだが、 この数年来、 かつてない急激な学生の変化に戸惑っている。 学生にはそれぞれ個性があり、 決して単純には比較できないのだが、 確かなことは、 近年の学生の格差社会に対する恐怖感は、 数年前の学生との比ではないほど深刻だと言うことである。 彼らの他人とのコミュニケーション能力は著しく劣化しているので彼らは自分だけでその恐怖に対処するしかない。 近頃の学生たちは、 友人とぶつかりあい理解しあい、 精神的に支え合うことが驚くほど不得意である。 他人との関係の中に自己を位置づけることが十分出来ないから、 自己を客観的に評価し確認するための葛藤期である思春期の到来が著しく遅くなっている。 しかも、 彼らの多くは、 この格差社会の歴史的脈絡が理解できない。 そのためにそれぞれの学生の孤立感、 緊張感はますます高まり、 精神障害を引き起こす者が急増している。
若者の、 共同体や歴史からのこの断絶現象は、 日本だけの現象ではないらしい。
- グローバリゼーションと共同体社会の 解体と子供たちの歴史意識の溶解
ニューヨークのマンハッタンで教えているアメリカの歴史家マーク・ネイソンが、 アメリカ歴史学会の教育雑誌 『マガジン・オブ・ヒストリー』 の最新号 (2008年 7 月号) で次のようなエッセイを書いている。
まず彼は、 若者の歴史からの断絶について次のような脈絡で説明する。
近年の若者たちには、 グローバリゼーションの進行による共同体の急激な解体の影響をまともに受けて、 家族や共同体の老人たちの昔話をゆっくり聞いて時を過ごす経験が著しく減り、 インターネットや携帯電話でのコミュニケーションの世界に浸ることを強いられているために、 すぐそばの人間が、 何を考え、 何を経験してきたかに関心を抱く余裕がなくなってしまった。 その結果、 歴史や共同体への帰属意識が希薄化し、 自分を歴史の中に位置づけることが困難になっている。 したがって、 今の若者たちの多くは、 競争社会に出た際に直面する困難に、 歴史意識や家族の支えなしで対処せねばならない。 若者の歴史からの断絶は単なる歴史教育の問題だけではなく、 グローバリゼーションによる社会構造の転換と深くかかわっており、 社会全体の大きな流れとなっていると彼は指摘しているのである。
そこで彼は、 まず学校での歴史教育の出発点として、 家族や隣人への聞き取りを積極的に取り入れることを提言している。 そして、 次に彼は次のような実践を紹介している。 地域の学校の教師たちが、 多様な民族的背景を持ち、 難民など貴重な経験をしてきた人々の聞き取りをもとに学校での歴史展示やイベントなどを住民の協力を得て実施し、 それを通じて解体しつつある地域社会の再建に取り組んでいると言うのである。 世界中から人々が集まってくるニューヨークの地域社会には、 まさに世界史の現在が詰まっている。 そこには、 独りよがりのエリート主義的アメリカ史像には満足できない若者たちの 「誇るべき」 歴史がある。 そうすることによって世界のなかの自らの生きる場が歴史の脈絡の中で捉えられ、 自らの親たちが苦しんできた歴史への誇りと同時に、 隣人たちの歴史への敬意も育まれると言うのである。
もちろん地域社会は、 単なる多様な外来者の寄せ集めではなく、 それ自体に長い歴史と伝統がある。 外来者がどのように排除され、 受け入れられ、 今までいた人たちがどのように出て行ったのかを含めて地域社会の歴史が作られていったのであろう。 そのいずれもが地域社会の歴史の担い手なのである。 このような地域社会の歴史を理解するためには、 より広い世界史の枠組みの把握が不可欠である。 身の回りの人々や地域社会の歴史理解は、 世界史の理解と相互補完的関係にある。
しかし、 これまでの歴史教育には、 身の回りの人々の歴史を自ら掘り起こし、 それを学問的に理解すると言う子供の主体性に依拠した教育実践が不足していたように思う。 特に日本の教育でその傾向が強いのは、 言うまでもなく 「歴史を暗記モノ」 にしてしまう入学試験と言う魔物のおかげである。 現実社会の生活の成り立ちに関する関心なしに無味乾燥な知識の詰め込みに耐えろと言うは酷である。
入学試験から解放されたはずの大学生の多くもなお長い間、 「暗記モノの歴史」 の亡霊に取りつかれている。 大学では、 「暗記モノの歴史」 に耐えきれなかった学生の多くは歴史の授業を選択しないのだが、 近年の大学教育は幅広く教養を身につけるとの趣旨でやむなく歴史を選択させられる学生も多い。 自ら 「暗記モノ」 を得意にしていると思っている学生もいる。 そのいずれもが我々大学の歴史教師にとっては、 歴史の面白さを知ってもらわねばならない大切な 「お客さん」 である。
そこで私が最近試みたある工夫をここで二つ紹介したい。 その一つは、 試験前に多くの例題を提示しておき、 別に一枚の白紙を配り、 それを 「公認のカンニングペーパー」 にすることを認めたことである。 ここに試験に答える際に必要だと思われることを何でも記入することを認める。 授業にきちんと出ていなかったり、 集中して聞いていなかったりする 「歴史は暗記モノ」 と思っている学生は、 インターネットなどに頼って試験前に一生懸命、 事実を調べ、 この用紙に書き込んで、 試験に臨む。 そのような学生は、 関連を問うたり、 比較したり、 観察してそこから問題を発見して論じたりする問題には、 惨めなほどに無力である。 だが多くの学生はこのような措置により、 「歴史は暗記モノ」 との恐怖感から解放され、 「考える歴史」 を楽しんでくれたようである。 「歴史がこんなに横につながっていることを知ってびっくりした」 と言う感想がいくつも寄せられた。
もう一つの工夫は、 学生に歴史を自ら再構成する作業に参加させることである。 今年は、 アメリカ南部奴隷制社会に生きていた特定の人物を登場人物に設定し、 自伝的短編小説を書くことをレポートに課した。 事前に当時のこの社会に生きた様々な立場の人々の意見や生活を示す翻訳された第1次史料を配布し、 それを出来るだけ多く用いることを奨励した。
結果は予想外の大成功だった。 一人の人間が特定の歴史社会に生きることに伴う無限の可能性を想像し、 その中から選択し、 歴史を組み立てる作業は、 多くの学生の知的興奮を呼び起こしたらしい。 もちろん通り一遍の紋切り型の人物を描いておしまいにしてしまう学生も決して少なくはなかったし、 当時の歴史段階ではありえない現代をそのまま歴史の中に持ち込んでしまうレポートも多々あった。 しかし、 想像力を巡らせて、 個人の願望や苦悩などの内面に立ち入り、 当時の日常生活の細部に目を配り、 人間関係を巧みに描いた見事な短編小説がいくつも提出された。 私は、 授業でもっともすぐれた作品の一つをその作者に朗読してもらった。 その授業の後の受講生たちの感想文は、 自分と同じ学生たちがそのような作品を書いたことへの驚きだった。 私もこのような優れた能力を持った学生が少なからずいることを充分理解していなかったが、 学生自身も学生仲間の能力に驚かされていた。 と同時に何が自分には欠け、 何ならば今後自分にもできそうなのかを感じ取ったようだった。 そして何よりも大事な成果は、 多くの学生が、 当時の人々の生活や生き方に親近感を抱き、 多くの疑問を抱くようになったことである。
- 横浜市立大学の歴史教員のささやかな試み
2 年ほど前、 ある若い歴史教員に 「うちの大学で世界史の補修授業をやりませんか」 と提案された。 彼は学生たちのあまりの無知に驚き、 これではまともな大学の専門教育はできないと危機感を抱いたのである。
そこで、 歴史の授業を担当している教員に自発的に集まってもらい、 当面、 現在ある科目のなかで、 歴史の基礎教育を行う科目はないか検討した。 横浜市立大学の 「改革」 による新カリキュラムでは、 「実学」 の印象から遠い 「学問的」 科目は大幅に削除され 「歴史」 と名のつく科目が激減したのだが、 われわれは、 わずかに残された科目の中で私が担当している 「歴史から今を知る」 と言う基礎教養講義を選び出し、 2007年後期からこれを歴史の基礎講義とする実験を試みることになった。
私は、 19、 20世紀を世界史的にどのように理解すべきかに焦点をあてた授業をとりあえず私一人で行うことを提案した。 そして次のような枠組みでこの授業を展開した。
- 特に20世紀の後半は人口が爆発的に増大した人類史上極めて特殊な時代であること。 その人口の半数以上がアジアに集中していること。
- 東アフリカで発生したホモ・サピエンスがどのような時代にどの地域に拡散したのか。 そして、 これらの各地域に拡散していた人類が大規模にお互いに出会うようになった近代世界システムはどのように形成されたか。
- ナポレオンのヨーロッパ征服戦争終結以来約100年のヨーロッパにおける平和の時代に、 アメリカ大陸諸国の独立と、 アジア・アフリカの植民地化がどのように進み、 先進資本主義諸国のナショナリズムと帝国主義がいかに抜き差しならない緊張状態に及んだか。
- その緊張関係の処理は、 第1次世界大戦から第 2 次世界大戦を経て冷戦終結までの 「総力戦体制」 の時代を通じて行われ、 かつてない数の戦争被害者と自然破壊を生み出し、 同時に、 爆発的に生産力が拡大され、 「豊かな社会」 を生み出すとともに、 大量の貧困人口をも生み出したこと。
- そしてグローバリゼーションの時代、 地球上にはどのような変化が生まれているのか。
この中で、 私は、 日本の歴史を近代世界成立・発展過程の中に位置づけ、 「鎖国と開国の世界史」 などのトピックを取り上げ、 日本を世界から孤立させて捉える事がないように努力した。 そもそも、 現代の歴史学は、 のちに 「先進資本主義国」 と呼ばれる国々のナショナリズムが昂揚する19世紀末以後に発展してきたものであり、 「世界史」 は、 各国の対抗関係を軸とした各国史の寄せ集めとして描かれることが避けられなかった。
しかし、 近年のグローバリゼーションを待つまでもなく、 歴史学の世界では1960年代以後、 様々なレベルでの 「世界システム」 の発展として歴史をとらえる見方が強まっていた。 そのような視点に立つならば、 われわれは日本の歴史を世界史の展開の中に位置づけて理解することがどうしても必要であり、 「日本対外国」 と言った発想を克服せねばならない。 「欧米と日本」 とか 「東洋と西洋」 と言った二分法で日本の歴史を描き出そうとすれば、 西洋近代の鏡でしか自らを見ることが出来なくなってしまい、 むやみに西洋に反発して 「武士道」 のような 「誇るべき日本文化」 を創作せねばならなくなる。 それは伝統的西洋中心主義の裏返しにすぎない。 「いくつもの国や地域の交錯する中での日本」 を理解する必要がある。
2007年後期の授業を終え、 教員仲間に私の授業経験を報告させていただき、 その結果、 2008年度には、 これを基礎として、 全体の枠組みに手を加えつつ、 それぞれの先生方に可能な範囲で、 授業を担当していただくことになった。
ちょうど学年末の忙しい時期に、 横浜市立大学の平成20年度 「研究戦略プロジェクト事業」 の公募要領が公開され、 われわれの 「歴史から今を知る」 の授業を教科書として完成させるプロジェクトで応募すべきだとの声が上がり、 短期間に歴史教員全員の同意を得て、 一挙に分厚い応募書類を完成させて当局に提出した。 『大学 1 年生のための近現代史基礎13章』 と言うのがこの教科書のとりあえずのタイトルである。
われわれのプロジェクトにとって幸運なことに、 歴史教育に関して各界で大きな話題になっており、 神奈川県の日本史必修問題で 『神奈川新聞』 が特集を組み、 私は取材を受け、 自分の経験を話させてもらう機会を得たし、 日本学術会議では、 高校地理歴史教育に関する分科会が 「世界史未履修問題」 をめぐって全国シンポジウムを開催し、 日本史・世界史の統合や地理との関係強化などが話し合われた。 さらに私たちには、 高校の先生方とのコンタクトがあり、 「高大連携プロジェクト」 の一環であるとの大義名分を名乗ることが出来た。 そのため私はこのプロジェクトが採択される可能性は高いのではないかと内心思っていた。 案の定、 7 月初旬、 忘れた頃にわれわれのプロジェクトの採択が知らされ、 決して少なくはない予算がつくことになった。
もう後戻りはできない。 さっそく責任者に新たに若手教員が当てられて後期の授業構成案の検討が行われ、 この 9 月末から全歴史教員参加の授業を始める手筈が整った。
この授業を進める過程で、 県内の高校・大学教員ならびに全国の関係者 (可能なら海外の教育関係者) との経験交流を重ね、 それをもとに各担当者が原稿を書き、 大学 1 年生向けの近現代史を中心とした教科書を来年度末までに完成させる予定である。
参考までに現在までに決められた今年度の授業計画案を下に示しておきたい。
1. ガイダンス
2. 序論:近代世界の成立とグローバリゼーションの諸段階
3. 西欧覇権以前の 「世界」
4. 近代のはじまり 大航海時代から重商主義体制へ
5. 前近代の日本
6. 産業革命
7. 市民社会の形成とナショナリズム
8. 日本の開国
9. 欧米と日本における帝国主義の形成
10. 帝国主義とアジア・アフリカ
11. 二つの世界戦争とソ連社会主義の 「実験」
12. 第三世界の模索/植民地主義=人種主義批判の台頭
13. 高度経済成長と先進国社会の変貌
14. グローバリゼーションを考える
15. 試験 (問題作成:全教員)
この授業では、 毎回授業の末尾に学生に感想文・質問を書かせ、 次の授業のはじめの15分ほどで前回の担当者に、 それについてコメントないし回答をお願いする。 それに続いて当日の担当者が最適な図表や絵画、 写真、 DVD、 ビデオを用いるよう工夫しつつ約60分間講義を行うことになっている。 そして残りの時間を学生が感想文・質問を書く時間にあてる。 また、 授業を準備するに当たっては、 その授業に関する試験問題を事前に 2 題 (基礎的な事実に関するクイズ、 および論述問題) 作って、 授業に当たることを心がけることになっている。 試験問題は授業のヤマを決める上で極めて重要な鍵だからである。
なお、 今回は、 事前に学生に文献や史料を配布して予習をさせることは、 検討されていない。 授業の全体像が十分に明確であれば、 予習を前提として授業を進めることが出来るであろうが、 まだ全体として取り組める状況にはない。 これは教科書が完成した段階で実施できるようにしなければならないだろう。
このようなわれわれの試みは、 「自己責任社会」 「格差社会」 の進行過程で進んでいる共同体社会の急激な解体による 「若者の大河のような歴史離れ現象」 に対するささやかな抵抗にすぎない。 しかし、 入学試験と言う魔物から多少距離を置いている大学だからこそ可能な問題提起が幾分かは出来る可能性があると信じ、 われわれは、 その努力を続けていきたいと考えている。
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