キーワードで読む戦後教育史 (14)

技高問題 (6)

 
杉山  宏

(十六)

 神高教第28回定期大会が、 1970年 7 月12日に磯子会館で開催された。 69年度は、 「多様化」 に反対する闘いでは技高に重点を置き、 その矛盾を徹底的に追求しながら制度改革を目指して対県教委交渉を発展させ、 「企業実習単位認定制度については廃止の方向」 「技高制度全般については、 71年度を目途にして再検討」 することを確約させた、 と報告されている。 また、 70年度においては、 技高対策会議 (1) を強化し、 技高制度の根本的改革を目指して県当局と交渉を進めると共に、 企業連携、 技能連携より生ずる矛盾の本質的解消を目指し、 登校形態についても改善するとしていた。 一方、 大会議案書は、 県の第三次総合計画を取り上げ、 基本計画の中に 「勤労青少年に対する教育に機会を拡充する」 と示しているが、 具体的整備計画では技高の新設、 企業内訓練施設と定通高校との連携等の 「多様化」 を一層促進しようとしていると指摘している。 第三次総合計画はその理由として 「勉学を続ける際の困難点を改善する」 等を挙げているが、 大会議案書では、 「教育の機会均等即ち多様化」 と言う論の下の後期中等教育政策は、 基本的には労働力対策となっており、 70年度は、 「多様化」 の実態と弊害を更に明らかにして行くとしていた。 また、 「技術高校の制度そのものについての検討と、 現在の技術高校を少しでも真の高校に近づける努力とを同時におこなっていく立場」 での交渉を進めたとしている。 実在する技高を基にその改善策を求め対県交渉を行う組合執行部が、 技高廃校に繋がる完全職訓分離を提案することは容易ではなかった。
 技高問題に関して、 神高教は報道関係者との連絡を密にしていったが、 その中で 『神奈川新聞』 が、 8 月24日、 「曲がりかどの県立技高」 という見出しで技高問題を特集したり、 また同月末 『読売新聞』 が、 技高一部校長の資格に問題がある点を指摘する等、 マスコミを通じて技高の実態の一部を明らかにさせることが出来た。
 神高教は、 教育が教育として成り立ち得ていない技高現場の実態に立って抜本改革へ向けて組織的準備を計るとともに、 県当局の技高問題研究会 (2) と7 月、 8 月、 9 月の 3 回に渡り連続的に交渉を組織し、 その中で、 県教委事務局段階の結論として、 現場実習制の廃止、 登校日数の一部拡大の方向を示さざるを得ない状態を作り出した。 県の研究会との交渉については、 研究会の結論の中に最大限組合の要求を反映させることが、 今後の闘いを有利にするものだと判断して行ったものであり、 その意味で、 登校形態改善の足がかりを県当局内部の検討結果に表現させたことは、 組合側にとって一応の成功であった。 このように制度そのものの改革へと交渉を発展させてきたが、 この段階においてなお、 神高教側は具体的改革案を確立し得ておらず、 またそのための充分な論議も進められていなかった。
 技高対策会議は、 自身の改革案を持たない闘争の限界を確認、 同時に、 神高教執行部は、 単なる現状への反対闘争だけでは、 学校現場の目指す方向とは別の方向へ改悪されてゆく危険性もあり、 神高教自身が抜本改革への具体的改革案を明確にしてゆくべき段階に入ったと判断した。 そのため10月23日、 11月20日の 2 回にわたり拡大技高対策会議を招集、 討議を発展させるためのたたき台として小室書記長が個人として改革私案を提出し、 本格的論議が開始された。 小室案は当初 「私案」 とされていたが、 技高対策会議において討議される中で、 やがて 「試案」 とされた。
 12月の第14回分会代表者会議においても、 神高教としての抜本改革案作成を拡大技高対策会議を中心にして進める方針が確認された。 小室試案の骨子は@全日制三年制、 A現場実習制廃止、 B職訓連携は残るが、 高校の立場に立ったカリキュラムの自主編成を行なう等を中心としたものであった。 試案は、 具体的討議を発展させるための叩き台として示されたものであり、 拡大技高対策会議では内部に自主カリキユラム編成小委と機構問題検討小委を設けて、 この小室試案に現実性があるのかどうか、 また、 試案の問題点はどこか等を究明するところから討議を開始することになった。 他方、 試案とは別の立場からの検討も併行して進められることにもなった。
 12月 7 日に神奈川県立高等学校教職員組合 (以下県立高教組と略記) が、 県議会に対し第七次教研集会の集約を踏まえて 「高校教育振興に関する請願」 を提出している。 請願書中に 「産業教育振興のため教育条件整備と教育制度の抜本的改革を行うこと」 という項があり、 「技術高校の教育条件整備と教育制度上の問題解決のための抜本的改善を行なうこと。 技術高校制度が施行されて 7 年を迎えているが、 その間、 制度上に多くの問題点を認められながらも改善がなされなかった。 設立当時の原点にかえって高次元の立場で次の改善をはかること」 とした後、 技高制度審議会の設置、 登校時間増、 教職員の待遇改善等を挙げている。 この時点で県立高教組は技高に対し抜本的改善の必要性を認めているが、 設立当時は高次元の立場に立っていたと評価していた。 しかし、 県立高教組の教研は64年の第二次集会で、 教育制度分科会を持ち、 「技術革新下における後期中等教育の諸問題」 として技術高校のことも取り上げており、 技高発足から間もない時期に教研で議題としている。 更に、 翌65年の教研でも同じ委員会を設け 「西ドイツにおける職業学校と我国における職業教育」 について討議し、 67年の教研集会は委員会方式を採り、 技術高校研究委員会が置かれ、 技高の設立の目的と性格・特色、 教育課程、 高校教育の多様化と技高についての論議が行われていた。 この様な経緯を経て県議会への請願となった。 12月15日県議会本会議において、 この請願は採択されている。

(十七)
 
 神高教内部では、 抜本改革案作成へ向けて組織的研究、 討議が進められていった。 71年 1 月16日以降 4 回の技高対策会議において、 既に結論の出ている現場実習制廃止を71年度より実施に移させる必要性が検討された。 その結果、 廃止実現について意見統一がみられる一方、 廃止された単位をどこで消化すべきかが問題となった。 2 月 4 日の対策会議において、 (1) 6 単位を安易に職訓単位の追加認定にさせないため職場闘争を組織してゆく。 (2)執行部は対県交渉を組織して、 単位取り扱いの方向性を位置づける、 の 2 点が確認され、 県当局との交渉が連続的に組織されていった。 2 月12日の対県教委交渉において、 71年度からの現場実習制廃止とともに、 @現場実習制廃止により生じた 6 単位は高校側の単位であり、 新年度生からは 1 年で消化する、 A専門科目座学は、 今後教員担当を原則とし、 B 2 年以上はグループ指導方式等によって補充すること等の実現への努力を県教委に約束させた。 しかし、 同月27日の対策会議において再度検討の結果、 専門教科座学の教員担当は、 当面 2 年以上と関連の深いものに限ることとし、 そのための職場態勢を至急準備してゆくこととなった。 このような方針修正を含め、 県当局、 特に労働部との交渉に重点を置いて進めた。 労働部職業訓練課を中心に相当な抵抗があったが、 最終的には神高教方針を原則として認めさせることに成功し、 その実施時期を何時からにするかが主要な問題となっていった。 しかし、 3 月下旬段階において、 技高側にも充分な態勢が整わなかったこと等が理由とされ、 結論が一時保留されることになった。 そしてこの間、 二月県議会のおいて、 坂本正広議員 (共産党) の質問 「『一昼二夜』 の形態を改め、 差し当たり 2・3 年を全日制に改めるべきであります。 更に、 技術高校そのものを廃止して、 全日制普通高校或いは工業高校等に切り換える意志は無いのか」 に対し、 津田知事は 「全国に先駆けてやった。 全国的に高く評価されており誇り得る施策だ、 神奈川県は産業県であり、 産業が求める教育が必要、 産学協同は一般からも求められいる」 と答えている。
 71年 3 月 6 日付の 『高校神奈川』 は全面を使って、 3 月14日に開催される第 6 回神高教教研集会の特集号としていた。 後中教定通技問題分科会も、 分科会の設置理由、 後中教小委と定通技小委の経過と方向、 当日予想される討議の柱等かなり詳細な説明を同紙に記載しているが、 技高の文字は唯一か所、 定通技小委の本年度計画中に 「各課程 (普通、 工業、 技高) がどのように変えられようとしているかについて検討する」 とあるだけであり、 問題提起等は一切なかった。 しかし、 それ以前の教研集会では、 技高問題は重要課題として採り挙げられていた。 神奈川県を高校教育課程多様化の先進県と捉え、 68年度教研では、 従来、 後中教小委の中で論議されてきた定通技関係の諸問題を検討する場として、 新たに定通技小委として後中教小委から独立させ、 活動の場を拡げた。 同小委は、 68年度教研集会では、 定通技問題分科会を開き、 多様化政策は、 技能訓練を前面に押し出し、 企業の 「すぐに役に立つ労働力」 の要求を公教育に押し付けるものであるとし、 「高校教育の立て直しは定通技高から」 としていた。 69年度の集会では、 後中教小委と定通技小委が共同で多様化問題分科会を開き、 「神奈川における高校多様化の実態ー多様化の柱としての技術高の実態を中心として」 をこの分科会の柱の一つとして、 技高からの報告を基に話し合っていた。 70年 5 月に教研定通技問題小委編で 『神奈川における定時制・通信制・技術高校の実態と課題』 と題する 「高校多様化」 白書を出した。 現場からの数多くの報告を踏まえ、 64.3%の生徒が退学したいと思ったことがあるとか、 技高制度が教育を人間の選別養成へと歪めている等、 技高の現状と問題点を明らかにしている。 だが、 これ等の努力があっても技高問題が神高教全体の問題として意識されるまでには至らなかった。
 同 3 月12日、 県立高教組は、 管理部長交渉を行ない、 部長から 「71年 4 月 1 日段階からの現場実習廃止」 は有り得ないことを確認したとして、 「現場実習廃止の線当面撤回へ」 と題した交渉記録を 3 月15日付 『高校ニュース』 (県立高教組機関紙 (3) ) 紙上に掲載している。 交渉内容で 「技高創立当初の精神を生かすためにも、 抜本的改正を図るべき時ではないか」 と教組側が技高創立時の考えの正しさを示しながらの問いに対し、 部長は 「趣旨はよく理解できるが、 実際に動き出すとなると難しい問題が多すぎる」 と答えている。 また、 教組側が、 改革案として委員会はどの様なことを考えているかとの問に対し、 部長は 「技高制度については、 労働部あたりの考え方として寮・育英制度をからませた全日制の形態あたりも検討されており、 県内の子弟を対象とした現在の技高が制度的に行きづまりの状態にあるとの認識は、 関係各方面で大体一致している」 と応じている。
 神高教は、 4 月 6、 10、 22日に対策会議を開き、 討議した結果、 単位消化については当面各学校の可能な方法で行う方向へ再度方針修正を行い、 これに基づき 4 月30日と 5 月18日に県教委交渉を組織した結果、 71年度からの企業現場実習廃止について最終的正式決定を得ることに成功したのであった。 5 月31日付教育長指示は 「技術高校においては、 職場における仕事を現場実習として認めていたが、 情勢の変化等によりすべての生徒の職場における仕事を現場実習として認めることは、 学習指導要領に示されている内容からみて、 そぐわない面がでてきている」 と廃止理由を述べている。 この現場実習廃止は、 技高制度抜本改革の第一歩であり、 これから後、 職訓連携問題解決に目標を集中し得る条件が整っていった。 同時に、 訓練校との連携に重大な間題性のあることを県当局に確認させることに成功したのであった。

(十八)
  
 71年 6 月11日、 中教審は坂田道太文相に 「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」 を答申した。 67年 7 月に出された劒木亨弘文相の諮問に対する答申であった。 答申前文中に 「諮問は、 戦後の学制改革以来20年の実績を反省するとともに、 技術革新の急速な進展と国内的にも国際的にも急激な変動が予想される今後の時代における教育の在り方を展望し、 長期の見通しに立った基本的な文教政策について答申を求めたものである」 「この 4 年間にわたる審議は、 七 つの特別委員会の159回の会合と72回の小委員会、 5 回の公聴会、 70以上の関係諸団体・審議会・官公庁からの意見聴取10回の総会によって行なわれた」 と基本的な教育の文教政策についての答申であって、 慎重審議された結果であることを強調し、 「生涯教育の観点から全教育体系を総合的に整備すること、 教員の給与・処遇の改善について具体案を作成すること、 高等教育の新しい教育課程の類型を作り出すこと、 教育行政体制の再検討を行なうこと」 等を列挙して、 第三の教育改革と位置づけていた。
 71年 7 月に、 技高の溶接科について問題が起った。 即ち、 溶接作業について、 労働基準法第63条で18歳未満の者の就業は禁止されていたが、 2・3 年生の生徒で現実に就業し、 被害の出ている者がいた。 技高職員会議、 神高教の機関討議等を経て、 県会文教常任委員会討議等の結果、 72年度の溶接科生徒の就職指導に関して、 溶接業務に就かせないように行政指導がなされた。
 同 7 月に小室試案に対する自主カリキュラム編成小委 (川技、 相技、 大船技、 秦技が担当) から、 翌 8 月に機構問題検討小委 (追技、 平技、 横技が担当) から、 夫々報告がなされた。 カリキュラム小委は、 真の高校教育に相応しいカリキュラム、 単能工養成の否定と言う視点から必要希望単位の調査結果、 専門教科 (機械系) は45〜47単位、 普通教科は66〜75単位となったが、 3 年間の総単位数を108単位内に抑え、 1 年・2 年は各35単位、 3 年は20単位+実習17単位とする案を提示した。 そして条件として、 @学校側で持つ専門教科の一部を訓練校で認定する。 A訓練校側実習時間を600時間内に抑える。 B前項の実習内容が訓練法規に拘束されない。 等を示し、 また、 現行の学科を機械系、 電気系等に統合する、 と報告した。 機構検討小委は、 カリキュラム検討小委の報告を基に、 設置科は機械科、 電気科等とし、 3 年生の実習17単位において、 職訓校の設置科に合わせてコース別に分けるが、 このコース別に分かれたことで《文部省多様化路線》に乗らぬ様に、 《総合技術教育》への道を取り、 学校長が職訓校長を兼務するとし、 管理課、 指導課を廃止して各課長を置かず、 指導員を教諭と同様に校長の直接運営責任のもとにおく、 としていた。
 9 月30日、 神高教は 「現場実習廃止に伴う 5 単位の取り扱いについて」 「職場討議資料案の検討について」 の 2 項目について、 指示第62号を出している。 前者については、 拡大技高対策会議で討議した結果 「現場実習廃止に伴い不足する 5 単位は、 47年度入学生からは高校教員が全部あるいは一部を担当して 1 年次において行なっていく方針で対処することが決定された。 これにもとづき各分会は役員段階で10月16日の拡大技高対策会議までに次の諸点について具体的に検討されたい」 として 7 項目を列挙している。 @高校教員側として何単位程度担当していくことが可能か、 A担当可能な科目は何か、 また、 担当する場合内容変更の必要なのはどの点か、 B普通科目に切り替えて担当するのは可能か、 C夏休み中との関連問題があるか、 その場合 1 年次カリキュラムの改革が必要か、 D高校側職員の態勢はどうか、 E訓練校教員側が問題としている点はどういう点か、 Fその他の問題点、 としている。 後者については、 配付済みの職場討議資料案 「技高抜本改革をめざして職場討議をすすめよう」 について拡大技高対策会議の構成員が検討し、 次回会議で討議決定していく、 方針としている。
 同月、 神高教は、 技高の全面的改革を目指して、 職場討議を起こす資料として、 『技高問題解決のたたかいをふりかえって、 これまでの経過と中間的総括』 と題した討議用のパンフレットを発行していた。

(十九)

 72年 1 月、 技高の実態を知らない新入生が、 入学後起こすトラブルを防止するため、 技高の実態を理解して貰おうと、 追浜技高分会は三浦半島教組各中学校分会宛 『技術高校への進路指導について』 という文書を送った。 しかし、 技高の実態を在りのまま伝えることが 「自分が勤務している学校を悪く言うのに耐えられない」 という理由で組合脱退者を生み出すという思わぬ結果となった。
 2 月に神高教は、 技高対策会議で、 現段階においては敢えて改革案の結論を出さずに、 我々の要求、 目標として確認しうる基本的観点に立って県当局との交渉を開始すべきであるし、 その交渉の中で改革への具体的可能性を更に追求し、 改革案の検討も更に進め、 一定の段階で結論を出してゆきたいと意向を示した。 技高対策会議で確認された交渉を進めるに当っての基本的観点は次の通りである。 @ 技高問題の中心は訓練校との連携及び企業との関係にある。 この二本の柱が教育上主要な障害であり、 連携のあり方を変えれば教育的に積極的な意義が認められるというものではなく、 基本的には訓練校、 企業から切り離すことが必要であり、 またそれが目標とされなければならない (現実の問題として改革案が論議される場合は、 この目標との関係でどういう、 位置づけにあるかが明確にされなければならない)。 A 登校形態は全日制にされなければならない。 B カリキュラムは高校の立場にたって編成されるものでなければならない。
 3 月 1 日、 神高教は、 前記71年 9 月のパンフに、 その後の経過や新資料を増補し、 『技術高校職場討議関係資料集』 として発行している。
 同 3 月、 社団法人日本経済調査協議会が土光敏夫を委員長とする委員会を設け、 教育に関する提言を行なった。 即ち、 「新しい産業社会における人間形成ー長期的観点からみた教育のあり方」 であり、 基本的認識として 「今やわが国は重化学工業化の段階から大きく前進して、 脱工業化 の段階に移行しつつある」 「新しい産業社会に発展しつつあるわが国の人間形成のあり方として、 『生涯学習』 の必要性をとくに強調し、 このための環境条件を速やかに整備すべきことを提唱する」 と述べ、 「企業における人間形成の尊重と学歴偏重の打破」 の項では、 「企業は従来、 企業のための教育に性急であった」 「従来の企業内における集団定型教育のお仕着せを排し、 企業の内外にわたって従業員が自由に費用の一部を負担して参加できる多彩な教育機会を提供することが望ましく、 企業はこの学習費用を補助し、 時間と場所についても配慮すべきである」 と企業に働く人々の自発的学習こそが有意義であるとしている。 産業界は、 60年代に唱えたマンパワー・ポリシーや教育投資論が批判の対象となり方向転換を余儀なくされていたが、 転換方向を生涯教育に求める動きが出て来た。
 5 月24日、 神高教は、 教育長・管理部長・指導部長と交渉を持ち 「技高制度を全面的に改革せよ」 と要求したが、 これを受け、 教育長は 「県新総合計画 (72年度中に基本方針作成) の中で解決の方向を見出すべく努力したい」 と回答していた。 この交渉では、 教育委員長と教育長宛に 『技術高校の制度抜本改革に関する申し入れ』 も行なっており、 同申し込みでは、 技高が設立以来10年を経過したのに、 矛盾は年毎に大きくなり制度崩壊は必至と指摘し、 箇条書きで抜本的改革を要求している。 即ち、 @訓練校との連携から生ずる諸問題については、 連携形態の改善によって解決される見通しはきわめてむずかしいものであり、 連携それ自体を再検討し、 切り離すべきである、 A登校形態は全日制とすること。 Bカリキュラムは本来の高校の立場にたったものとすること、 の 3 ヵ条であった。 また、 県立高教組が技高創立当初の精神を高く評価しているのに対し、 この申し入れでは 「本来その目的を異にした高校と訓練校の一体的運営およびカリキュラムの一貫性は技高教職員の10年の努力にもかかわらずいまだに不可能である」 としている。
 6 月17日、 技高対策会議は、 「技高改革闘争」 の決定的な時期を迎え、 技高問題を神高教全体の問題として捉えて欲しいという立場から 「『技高改革闘争』 に最大の支援を」 と題し 「全組合員への手紙」 の形で呼び掛け、 闘争の盛り上がりを図った。 「4 月、 他の高校生と同様に明るい希望に燃えて入学してくる生徒達、 だがそれも長くは続かない。 1 週間10時間しかない学校の教科時数、 単調極まりない訓練校の実習、 労働省編纂の浅薄な教科書による座学、 文部省の学校設置基準をも充たしていない劣悪な教育施設、 そしてなによりもわずか10日しかない夏休み、 入学して 3 ヶ月もすれば彼等は自分は普通の高校生ではないという事を自覚します」 と技高 1 年生が抱える問題点を指摘し、 次いで、 登校時間の少なさ、 教室不足で全校生徒が揃っての登校日がなく、 定まった自分の教室がない等の上級生が当面する問題点も列挙していた。 そして、 技高問題は即ち後期中等教育の多様化の問題であるとし、 「中教審の多様化構想は総資本の要求を全面的に受け入れたところの経済的発想に根ざしている事は周知の事実です。 即ち教育を労働力配置の問題としているところにあります。 従って、 その事は学校を階層化し、 そこに生徒を分配するものであり、 それは生徒の差別と選別を必然化することに他なりません」 とし、 更に、 こうした教育の結果は、 最も底辺に位置する技高に早期に、 先鋭的に現れる、 と述べ、 この技高問題は、 技高だけの問題ではなく、 教育界全体の問題として訴え、 技高闘争への協力を呼び掛けた。



(1) 64年に大船技、 川技、 65年に横技に分会が結成され、 同年8月と11月の2回、 3分会による連絡会議が開かれている。 以後、 連絡会議で技高問題に関する論議が行なわれたが、 67年に秦技、 追技、 平技の各分会が結成され技高対策会議が設置された。
註(2) 70年5月に、 神高教は県当局に技高制度の再検討に入ることを約束させ、 同時に技高問題検討機関の設置を要求した結果、 県教委は内部に技高問題研究会を設置した。 県立高教組は70年12月の県議会への請願で、 技高制度審議会の設置を求めている。
註(3) 県立高教組は前身の 『神奈川教育懇話会』 『神奈川県高等学校教職員連盟』 当時に、 『神教懇ニュース』 『神高連新聞』 『神高連ニュース』 を発行し、 現在の組合名では 『高校教育ニュース』 を発行しているが、 この 『ニュース』 と並行して、 情宣紙を出しているので、 『高校教育ニュース』 を機関紙とした。
(すぎやま ひろし 教育研究所共同研究員)
  「師」 たちよ、 「励まし上手・労わり上手」 に深く心を留められよ。

(こやま ふみお 教育研究所共同研究員)
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