「超管理社会」

 
教育研究所代表 佐々木 賢

 私の家のすぐ近くに、 四階建ての公団住宅群がある。 かって数百家族が住んでいたが、 建て替えのために全棟を取り壊すことになった。 これに先立ち、 区域全体を高さ 3 メートルの塀で囲いだした。
 ただ囲うだけではなく密閉するのだ。 下に土嚢を積み、 その上に鼠も入れないようにプラスチック素材の塀を組み合わせる。 鍵がかけられた数カ所のゲートからしか中に入れない。 その区域には子どもの遊び場や小公園があり、 散歩道として恰好の場所だったが、 今は誰も入れない。
 工事中に事故が起こることを予防するためだということは分かる。 一時、 ホームレスの人たちが雨宿りしていたこともあるので、 その人たちを締め出す目的もある。 中には、 ノラ猫が数十匹いる。 猫に餌をやっていた一群の人たちがいて、 所々にある網状の塀から不安げに中を覗いている。
 猫好きでなくとも、 生き物が住んでいるのだから、 飢え死にしていくのを見るに忍びないのだ。 紙袋に包んだ餌を、 野球選手よろしく塀越しに投げ入れると、 猫が群れになって食べている。 感心なのは、 リーダー猫の指示に従って餌を食べ、 幼い猫に優先して食べさせていることだ。
 下の土嚢をほじって小さな穴を開け、 そこから棒で餌を押し込む人もいた。 その後業者によってより固い土嚢で塞がれ、 「猫に餌をやらないで下さい」 と市の看板が立てられた。 このような攻防戦があるのだが、 今のところ、 猫は全員生きている。
 それにしてもなぜこれほど密閉するのだろうか。 私が少年だった頃、 近所のそこここに空き家や空き地があり、 子どもたちが忍び込み、 探偵ゴッコをした。 時には大人に怒られて、 一目散に逃げた。 廃屋の二階から落ちて怪我をする子もいた。 でも、 多くの大人は無関心だった。 それほど隙間だらけの社会だった。
 工事作業員を非難するわけではない。 彼らは指示されたまま仕事をしたまでだ。 業者も非難できない。 彼らは事故を起こさないように配慮せざるをえないからだ。 こういう事態になったのは、 管理社会に入ったからだ。
 ドイツのナチ政府はワルシャワ等にゲットーを作った。 一区域を塀で囲い、 ユダヤ人が外に出ることを禁止した。 中で飢え死にする人もいたが、 法に反して、 食物を投げ入れる市民もいた。 ゲットーの管理に当たったドイツ人やユダヤ人協議会の人たちは、 ただ指示されたまま官僚的に仕事をしただけだ。 だから、 ハンナ・アーレントは 「ナチズムは官僚制と管理社会の極地にある」 と言ったのだ。 恐いのは、 隙のない管理社会にある。
 2008年 1 月、 10歳未満の40人の子どもたちのDNAサンプル (遺伝子情報) が国に登録されたと、 イギリスの新聞デイリー・メイル(08. 3.21) が伝えている。
 このDNAサンプルは犯罪に関わった際、 有罪か無罪かの判断をする時の参考にするという。 既にイングランドとウエールズでは18歳以下のDNAサンプル450万人分、 16歳以下の15万人分が司法省に登録されている。 来年には10歳から18歳まで150万人分が予定されている。
 ロンドンの科学捜査庁長官は 「将来犯罪の予測は 5 歳から必要」 といい、 警察庁長官は 「将来は 5 歳の全データを確保する」 と述べている。 また警察署長協会長は 「予見的なデータ収集は市民のため」 といい、 家庭教育局は 「小学校からのデータ収集を検討中である」 と述べている。
 市民や人権団体が怒っている。 犯罪予防とはいえ、 遺伝子で人間を判断するのは優生思想だし、 データの収集には犯罪者だけではなく、 容疑者も含んでいるから、 偏見も入りやすい。 監視網の野放図な拡大は、 まるで悪魔にとりつかれた政策のようだと激怒している。
 実はDNAデータ問題に先立ち、 もう一つの問題がある。 2008年 2 月、 政府は全英の14歳の個人データをIT化すると発表した (ロンドン・タイムズ08年 2 月13日)。
 データ化されるのは第一に全国一斉テストの成績、 第二に退学歴、 第三に学校追放歴である。 このデータは高卒や大卒の時期に、 国民健康保険や国民兵役や地方自治体や大学や就職先の企業が使うという。
 データの収集と保管はMIAP(Managing Information Across Partners)が行う。 これは政府の代理機関であり、 政府と情報を共有し、 市民に情報提供するものだが、 市民から情報を強制的に収集する権限を与えられていて、 データを永久保管する。
 MIAPのスポークスマンは次のように語っている。 「データは学習技能省の管轄下に置かれ、 40の預かり機関が分散保管する。 目的は教育や訓練の支援にあり、 キャリアガイダンスとして使う。 これは徴税や政府の情報管理とは違う。 個人もこのデータをネットで検索できるが、 パスワードは保護されている」 と。
 これに対して、 教員組合や人権団体が以下のような理由で反対している。 「このようなBig Brother Approach (肉親以外で、 ヤクザの兄貴分が弟分を保護する態度) がなぜ必要か」、 「個人情報を管理する権限は政府にはない」、 「成績まで記載する必要性がない」 「データが売り渡される危険性がある。 「過去に健康保険や年金の2500万人分のデータを紛失した、 IT災害の教訓をいかせ、 政府の責任は重大だ」
 PTA連合会長マーガレット・モリシィは次のように語っている。 「MIAP計画で14歳の全情報を収集し登録するのは、 正に恐怖である。 まるで、 子どもに二人の保護者がいるようだ。 家庭と政府と」。
 マーガレットの言うように、 DNAデータや14歳データの政府保管は恐怖である。 国民総管理体制ができつつあるからだ。 だがもう一つ、 見落としてはならない問題がある。 マーガレットは 「家庭と政府と」 といったが、 タイムズの記事の随所に、 企業が顔をだしている。 このデータは商売の道具として使われる可能性を秘めている。
 なぜ私企業の臭いのするMIAPという機関が絡むのか。 今の経済世界はWTO率いる金融資本連合体が世界制覇した時代と見た方がいい。 政府はその代理人でしかない。 金融資本は世界の 1 %に満たない超富裕層を利するために動いている。 政府による超管理体制は超格差をもたらすに違いない。
 ワルシャワ・ゲットーや工事中の団地の囲い込みはハード管理であって、 目に見える。 だが、 ITによるデータ収集はソフト管理で目に見えない。 共通するのは官僚制であって、 担当官が事務的に仕事を進め、 何の疑いを持たない点にある。
 処理する仕事に忠実であればあるほど、 扱う対象が生身の動物や人間であり、 感情や命をもっていることを忘れてしまう。 それに優生思想が加わり、 大量虐殺を可能にした。 この過去の苦い歴史を忘れてはならない。
 科学捜査庁や家庭教育省や警察署長協会や学習技能省やMIAPや40の預かり機関の職員は、 恐らくナチと同じ道を歩みつつあることを意識していないであろう。 さらに、 恐いのは無関心な大衆がいて、 意識的な市民や人権団体の活動が宙に浮くことだ。
  「快適な消費生活」 と 「安全な町」 という企業と体制のキャッチフレーズに惑わされない民衆がいつ生まれるのか。 それに気づく道は険しいが、 我々にとって必要なのは、 確たる歴史認識と現状認識と地域の人間関係の再構築ではなかろうか。

(ささき けん)
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