ねざす談議(33) 「励まし上手」 「労わり上手」 |
小山 文雄 |
「師」 と呼ばれる人にとって大切な資質のひとつに 「励まし上手」 がある。 それは、 むろん 「労わり上手」 と表裏一体をなすものだが、 漱石先生はまさにその 「上手」 の一人であった。 たしかな省察とあわせながら、 まるごと弟子を取りこみ、 彼の中で彼の 「個」 と 「己」 を改めて発酵させる、 そこに答えもあれば次の問いも生まれる。 つまりはそれだ。 漱石門最晩年の弟子芥川龍之介から第四次 「新思潮」 を贈られ、 芥川作品 「鼻」 を読んだ漱石先生は、 早速芥川に手紙を書いた。 落着があり、 自然其侭の可笑味がおっとり出ている上品な趣、 材料の新しさ、 文章が要領を得てよく整っていることなどを激賞し、 こういうものを二三十も並べたら 「文壇で類のない作家になれます」 と予言した。 そして、 「然し 『鼻』 丈では恐らく多数の人の眼に触れないでせう触れてもみんなが黙過するでせうそんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい群衆は眼中に置かない方が身体の薬です」 と、 大いに励ました。 芥川はそれに従い 「芥川」 を発揮しつつずんずん進んでいった。 その時から二年が過ぎて、 北村初雄という未知の青年から、 中学卒業記念と銘うった詩集 『吾歳と春』 が送られたきた。 芥川のお礼の手紙に次の一節を見る。 「若い時は二度とはありません遠慮なくずんずんお進みなさい もしあなたの成長に邪魔になったらあなたに最も近かるべき先輩や友人を圧倒してもお進みなさい それが自然の意志なのです」 それから三年が過ぎて、 一高時代から芥川に師事してきた堀辰雄が詩二編を寄せた時、 お礼の手紙に芥川はこう書いた。 「あなたの芸術的心境はよくわかります。 或はあなたと会っただけではわからぬもの迄わかったかも知れません あなたの捉へ得たものをはなさずに、 そのままずんずんお進みなさい」 漱石先生の遺風はここにも吹き及んでいる。 そしてそこには北村に示した 「自然の意志」 から堀に語りかける 「捉へ得たもの」 への展開がある。 一般から具体へ、 それは芥川の成熟を示すもので、 そこに漂うのは 「我が同志」 という思いである。 真摯な励ましは同時に己れ自身への励ましともなる。 二年ほど後のことだが、 従弟葛巻義敏にあてた軽井沢からの絵葉書に、 「軽井沢は涼しくて、 ハイカラで、 うまいものが沢山あって、 天国のやうなり。 小穴、 佐々木夫婦が来てゐる上、 堀もゐる故、 一層賑やかなり」 の文言を見るが、 ここには漱石山房のはしくれとして世に出た芥川に、 「房」 (部屋)ならぬ窟 (ほらあな) としての 「我鬼窟」 (芥川の書斎) の形成が示され、 ここにも漱石先生の余風を見る。 前述のように 「励まし」 には常に方向性が伴わなければならない。 それはつづめて言えば当人の 「志」 の尊重にあると言ってよい。 「志意」 (精神、 考え)・「志趣」 (意気)・「志力」 (心のはたらきと才能) あわせての 「志」 をすくいあげての忠言こそが 「励まし」 なのだ。 「励まし」 と表裏一体をなすのが 「労わり」 だ。 いたわるの 「労」 はねぎらいを意味するが、 一方では疲労・労働の 「つかれる、 悩む、 こき使う」 の 「労」 でもある。 漢字はとかく多義だが、 いたわるは 「慰める」 であり 「ねんごろに扱う」 という意味だ。 「ねんごろ」 は 「懇」 それは誠 (まこと)・真心 (まごころ)、 よく 「せいこんこめて」 というあのせいこんは 「精魂」、 その類縁に 「誠懇」 (まごころ) もある。 ひっくるめて言えば、 「いたわる」 は慰め・いとおしむ、 一歩踏みこめば孟子の言う惻隠之心にもつながる。 芥川の許から巣立っていった作家に佐佐木茂索が居る。 年令は三歳半ほどの違いだが、 大正 8 年秋に 「おぢいさんとおばあさんの話」 でデビューし、 芥川は 「圧巻を為す」 と激賞した。 ところが一月半ほどして、 佐佐木からの手紙に 「書き飛ばす稽古」 をしているとあり、 芥川はすぐに返事を送り、 自分はかって 「書き飛ばす稽古をしてもう懲りごりした」 と告げ 「君幸に僕の愚を再する勿れ 私に思ふ君の短は伸び難きにあらずして伸び易きにあり 書き飛ばす稽古なぞした日にはこの短遂に補ふの日無からんとす……深く自ら重んじて文壇に充満する小乗嘗糞の徒 (自分のことのみ願って人にへつらい恥ない人) の真似する勿れ」 と切言した。 「伸び易き」 をあえて 「短」 とする、 その忠言としての深さを味ってほしい。 ここにもまた漱石先生が映って見えよう。 流風余韻あり、 か。 「師」 たちよ、 「励まし上手・労わり上手」 に深く心を留められよ。 |
(こやま ふみお 教育研究所共同研究員) |
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