寄稿 | |
技高は二度、 「廃校」 となった 技高廃校30年 (6) | |
綿引 光友 | |
15 技高生から見た技高制度 (つづき) (4) 苦悩の 4 年間 1 年次は技高生と訓練生、 2 年以降は技高生と社会人 (労働者) というように、 4 年間、 二重身分を背負わされた彼らが、 自身の高校生活をふりかえり、 どのように総括し、 表現しているかを見てみよう。 とはいえ、 彼らの意見・考え方は十人十色であり、 さまざまな夢を抱き、 あるいは失望し、 かつまた悩みながら、 波乱に満ちた 4 年間を過ごしてきた。 したがって、 これからいくつか紹介する技高生の声はあくまでも一例にすぎない。 卒業を目前にして文集などに書いたひとことの中には、 「一生のあやまち」 「 4 年間の損」 「無駄な 4 年間」 さらには 「地獄のような 4 年間」 (1) などといった過激な表現が見られる場合もある。 このような表現が適切かどうかわからないが、 多くの生徒たちが悩み、 苦しんだことは紛れもない事実であろう。 以下に続けて 4 人の技高生の作文を引用する (2) 。 「ふりかえってみて、 だらだらと 4 年間過ごしてしまった僕。 学校へ何しに行くというと、 人に聞かれると、 勉強しに行くと言う。 実際は、 休日、 骨休めみたいなものだった。 4 年間、 僕は何を学び、 何を得たのだろう。 得たことよりも、 自分自身をだめにしに行ったようなもんだ」 「この 4 年間、 つまらない学校生活だった。 最初のうちは、 胸をはずませながら来たものだが、 2 年からはただ学校へ来るのが目的で、 勉強なんかそっちのけで先生をからかって遊んだ 4 年間だった。 (略) とにかく、 つまらなかった 4 年間。 職業についても、 そうだ。 この学校に入ったら、 1 つの職業になってしまう。 訓練所と技高を区別した方がよい。 俺たちは、 暗い人生をあゆんできた。 このような学校なんか、 つぶしたほうがよい」 「この学校に 4 年間いて、 感じたことを言うと、 実に苦しかった 4 年間だった。 最初はよくいじめられた。 何回かやめようと思ったこともあった。 しかし、 いじめられながらも、 よく 4 年間頑張れたと、 今、 4 年間を振り返ってつくづく感じている。 この苦しかった 4 年間の中で、 俺の得たものは何もない。 それは技高制度が悪かったからか、 それとも生徒自身が悪かったからか。 もっと学校側も考えてほしかった。 しかし、 学校だけを批判するのは間違いではないだろうか。 自己批判もすべきであると思う。 僕がこの学校生活 4 年間で感じたものは、 働きながら学ぶということが、 いかにつらく、 そしてきびしいかということを、 今、 卒業を前にして、 痛感した」 「思えば、 この 4 年間長いようで本当は短かったな! ついこの間、 入学したかと思ったら、 もう卒業である。 この 4 年間、 おれは一体、 何をして何を学んできたのだろうか。 ただ何もしないでだらだらと 4 年間を過ごしてしまったように思える。 今、 思うと、 実に貴重な時間をムダに過ごしてしまった。 おれは何とバカな愚か者なのだろうか。 『愚かなるもの、 汝の名は…』 (略) 人間、 おれって何とばかな生き物なのだろうか。 それは、 おれは、 自分で自分の首をしめているからだ! (略)」 そもそもが技高制度のしくみをよく知らされないまま、 入学してきた生徒が多かった (3) 上に、 複雑な技高制度の下で翻弄され、 4 年間の高校生活を過ごさねばならなかった。 それゆえに、 先の技高生の文に見受けられるように、 自信とやる気を喪失し、 自身を責め、 自暴自棄に陥る者さえ出て来たことは非常に残念なことであった。 それに対して、 多くの教員たちは、 技高制度の矛盾と困難に負けないよう励まし続けたが、 彼らにはなかなか理解してもらえず、 無力感に苛まれることもしばしばだった。 資料 1 に示した 1 コマ漫画 (4) は、 技高制度の重みに喘いでいる技高生の姿を実にリアルに描いている。 また、 技高生ブルースの 9 番には 「大事な青春むだにして/給料袋に身をたくし/まるで川原の枯れすすき/こんなオレたちに誰がした」 (5) とある。 「誰が?」 との問いかけに対する答えを引き出すことはなかなか困難だが、 自分自身を一方的に責めるだけでなく、 問題の本質に迫ってほしいとの期待感も私たちは、 抱いていた。 (5) マイナスをプラスに転じて 4 年間の技高生活をネガティブに捉える生徒も多いが、 一方では、 多くの楽しい思い出とともに、 何ものにも代え難いほどのものをつかみ、 前向きに生きていこうとの決意を書く者もいる。 以下の 2 つの文は、 文化祭時に書かれ、 教室に掲げられた意見表明 (6) である。 4 年間の高校生活をふりかえり、 「青春の光と影」 とのクラステーマにそれぞれの生徒が迫ったものだが、 借り物ではない自身のことばで綴られ、 共感を呼んだ。 「僕の青春は、 技術高校に入って、 大変身させられた感じである。 自分の意志ではなく、 惰性で学校へ来る感じである。 それは自分が悪いのはよく分かっているが、 自分をとりまく人々に左右されて、 自分の生き方をつかめなかったりした。 そんなことで悩んだり自分をいじめたりした。 そんな悩みの中で見つけたのは、 自分でやらなければ誰もしてくれない、 誰も助けてくれないことがわかっただけでも、 自分自身にプラスになったと思う。 若いうちに何でもやり、 自分の力で生き抜くことが大切なことだということがわかった。 (略)」 「(略) 特に、 若いうちだからこそ、 悪い環境であれば良い方向へと作っていくべきだ。 それをやろうとしない奴ほど、 社会又は学校が悪いなどと言い、 自分の責任を他へかぶせ、 同情をもらい、 狭い自分のカラへと閉じこもってしまう。 人を バネ にたとえて言うなら、 ある程度の所までのばしても、 また元へはもどるが、 そこをすぎてしまうと、 もう元へはもどれない、 あるいはそこで切れてしまう。 青春の光とは、 ただ楽しいことだとは思わない。 そして、 影とは苦しいことのようには思わない。 若い時だから遊んでやるというのもある。 しかし、 若い時だからこそ、 夢も希望もあるんだ。 それを実現するために努力するのではないだろうか。 そして、 数多くの人が壁に当たって落伍したかもしれない。 しかし、 それにも恐れず何度も何度も当たっていくところに若者の特権があり、 今、 苦しくても自分が勝つことを信じてゆくところにこそ、 影があるが、 それだけに光がまぶしい程さすのではないだろうか」 遊びに熱中したために、 留年 (原級留置) となり、 5 年かかって卒業したある生徒は以下のようにふり返っている。 「自分は人より 2 年間も多く過ごせたことは、 それだけ広い面で良い経験をしたと思う。 自分に子どもができたら、 胸をはって、 高校生活を 5 年もやったと自慢することができる。 (略) 高校生活で 『得たこと』 は、 何事も自分でやらなければ、 誰も助けてはくれない。 何事にも自分の力で…」 (7) (6) 技高廃校をどう受け止めたか 技高廃校を報じた72年11月 4 日の新聞報道は、 生徒や保護者にとってはまさに 「寝耳に水」 であった。 次の一文は、 技高OBが在校生に向けて書いたものである。 「さげすみ、 軽蔑し、 疑問を抱き、 半分あきらめムードで卒業した私。 けれども素直な気持ちで、 時には思い出を探そうとする。 なつかしい数多くの光景を…。 その時が私にとって心安まる時である。 あのニュースは、 私にとって非常なショックだった。 否、 技高の卒業生は、 皆ショックを受けたに違いない。 技高がなくなるという。 母校が消えてしまうという。 悲しいことである。 いくら姿かたちが残っても、 魂を奪われてしまうのだから。 私たちは、 ふるさとをなくしてしまった旅人になってしまった。 だが、 すべてが消滅するわけではない。 技高生として生活した事実は消えはしないのだ。 今思えば、 不平不満を言い放題の4年間だったかも知れない。 だが、 あの4年間は、 決して無駄ではなかった。 私は技高にいた時も、 そして職場で働く今も、 技高で身につけた技術に誇りを持っている。 自分の腕に自信を持っている。 私は、 在学生諸君にそうしろとは言えないし、 言おうとはしない。 しかし、 後輩の諸君が、 最後の技高の庭に、 立派に花を咲かせて欲しいと願う。 そのためには、 何事においても、 精一杯力を傾けて欲しい。 そうすれば、 おのずから諸君の青春は充実したものになると信じる。 そして、 そのことが、 卒業してからも、 永遠の友として思い浮かぶであろう」 (8) 同じ文集中には次のような詩もあった。 俺たちは忘れない 1972年11月 4 日 技高廃止を伝える新聞が 俺たち技高生の前に 大きく立ちふさがった 思えばあの日 純情な16歳の胸にかみしめたしあわせ 諸君は、 神奈川県が全国に誇る技 術高校に入学した。 諸君の前には、 輝 かしい技術者としての道がある ああ、 それも一時の夢 勤労学生という言葉の蔭で 俺たちの心はすさむ一方だった そして今 心のよりどころである学校さえも 俺たちの前から姿を消すと言うのだ 廃校を目前にした技高最後の卒業生に対して、 「技高廃校についてどう思うか」 とのアンケート (9) が行なわれているが、 その結果を紹介してみよう。 「悲しい」 「とてもさびしい」 「残念」 「無念」 と答えた者が最も多かった (10人) が、 それに続き、 「当然だ」 「もっともである」 「たいへんいいことだ」 「大賛成」 といった意見 ( 8 人) があった。 自分たちの卒業式が終われば、 学校がなくなるわけだが、 肯定的な受け止め方をしているように思われる。 逆に 「登校形式をかえて続けてほしい」 「反対」 「あんまりだ」 「なぜつぶすのか。 続けるべきだ」 といったように、 「廃校に反対」 との意思表示を明確に示した者はわずかだった。 先に紹介した 「俺たちは忘れない」 の詩は、 廃校の事実を知った直後に書かれたものなので、 強い憤りが伝わってくる。 この詩とアンケートに記された意見とを比べると、 3 年余の時間的なズレがあることも影響していると考えられるが、 大きな落差が見られる。 16 技高志願者数の減少と中退問題 (1) 2 年連続で定員割れ 先に技高 1 期生の入試状況を一覧表で示した (10) が、 この時の志願倍率 (競争率) は 4 技高平均で0.77倍だった。 志願受付が 4 月 4 日から 3 日間であったので、 いわゆる定員割れも止むをえないだろう。 ここで改めて、 1 年目も含めた技高の学校別入試競争率を資料 3 (68ページ) に整理した。 2 年目の64年度は、 平均で2.30倍という突出した倍率を記録している。 学校別で見ると、 川崎が3.81倍と驚異的ともいえる数字を残し、 さらに 3 技高 (平塚・大船・追浜) において 2 倍を越える競争率となった。 細かく学科別にみると、 川崎では建築製図の6.93倍を筆頭に、 電気工作5.33倍、 機械工作5.0倍、 機械製図3.50倍と続いている。 また、 平塚・機械工作 (4.03倍)、 大船・電子技術 (3.75倍) でも 3 倍を越える高倍率となった。 翌65年度は、 前年の反動からか、 7 技高の平均倍率は2.30から1.41倍へと急降下した。 66年度はやや持ち直し、 1.59倍となった。 しかしながら、 翌67年度以降は1.1倍前後に低迷し、 ついに71年度には0.96倍と定員割れを起こした。 続く72年度は0.90倍とさらに落ち込み、 結局、 2 年連続の定員割れとなった。 71年度は 7 技高中 3 校 (川崎、 秦野、 大船) において定員割れがみられたが、 72年度にはさらに増え、 相模原を除く 6 校で志願者数が定員に達しなかった (11) のであった。 2 年続けての定員割れは、 「技高廃校の引き金の 1 つになった」 と笹尾氏も後に認めている (12) 。 定員割れ現象に関して、 高教組は当時、 次のように分析している。 「昨年 (71年―筆者) の技高応募生徒数は、 技高開設以来はじめて定員を下回ったが、 これは決して偶然の現象ではない。 すでに数年前より夜間定時制の生徒減は顕著にあらわれていたが、 全日制を中心とする高校進学率の急速な高まりの中で、 全日制志願者の一部が一見全日制的印象を与える技高の応募率を保障してきたものにすぎず、 技高そのものが主体的に選択されてきたものではない。 したがって本県中卒進学希望者が数のうえで停滞したことによってまず応募減が技高にあらわれたものであり、 第二次高校生急増後に技高生の急激な減少があらわれる可能性がつよい」 (13) 定員割れを起こした直後の71年 5 月31日、 県教委は 「技術高等学校における現場実習の取扱いについて」 (通知) を出した。 その経緯や詳細についてはすでに述べた (14) ところであるが、 現場実習単位制度の廃止は、 技高制度の根幹を揺るがすものとなり、 その後の抜本改革に向けた取組みに弾みをつける契機となった。 (2) 10年間で約 3 千人が退学 「『技術高校』 といっても、 他の人にはちょっとわからない。 働きながら学ぶところは、 夜学と同じだが、 技術高校は一昼二夜である。 この一昼二夜を 3 年間続けるのだから、 とても大変だと思う。 会社が終わってから学校へ通う。 本当につらいし、 忍耐力がいる。 あと 2 年と 2 ヵ月ほど通うのだが、 続くかどうか自信がない。 2 年になって働くようになったら、 急に学校を休む時が多くなった。 休みだけではない。 遅刻も早退も多くなってしまった。 これではいけないと思うのだが、 精神・肉体共に疲れてしまい、 ついつい休んでしまう。 (略)」 (15) 4 年間、 毎晩通学しなければならない、 いわゆる夜間定時制と比べ、 技高の 2 年次以降は一昼二夜通学となるので、 「これは、 健康的にも、 また勉学の条件としても、 一つの改善」 (16) となると県教委は説明しているが、 実際にはそうではないことが上述した技高生 ( 2 年生) の文から読み取ることができる。 「負担軽減」 には決してならなかった。 変則的な通学形態のため、 週に 1 日ある昼間通学日 (現場実習単位制度との関係からか、 有給扱いとなる企業が多かったようだ) が、 技高生にとって 「息抜きの時間」 となる場合もあった。 「こんな学校にいても…」 と言って、 自ら学校を辞めていく生徒も少なくなかった。 そこで、 以下では、 技高生がどれくらい学校を去っていったかを追跡してみる。 当時、 中退に関する実態調査に取り組んだ技高があったらしい (17) が、 7 技高全体の実態はわからない。 ところで 『神奈川県立の技術高等学校史』 には、 学校別となっているが、 入学年度別生徒状況という項目があり、 年度別・学科別の入学定員、 志願者・入学者数、 学年進行にともなう生徒数変化、 さらには卒業者数がわかるデータが掲載されている。 卒業者数を入学者数で割れば卒業率が求められるので、 7 技高の年度別卒業率一覧を作成してみることにした (資料 4 )。 技高は卒業生を10回、 世に送り出して 「廃校」 となったが、 全体では入学者数8,410人に対して、 卒業者数は5,475人であった。 つまり卒業率は65.1%ということになる。 単純にはいかないが、 入学者数−卒業者数=中途退学者数と考えると中退者数は2,935人、 約 3 分の 1 の生徒が技高を辞めていったことになる。 現在の県立高校の規模 ( 1 学年 6 クラス) に置き換えると、 4 校分に匹敵する。 わずか10年余の間に県立高校 4 校が姿を消したと考えると、 驚きである。 (3) 3 人に 2 人が辞めた学科も 次に年度別に追っていくと、 入試競争率の傾向と似ており、 相関関係があるようにみえる。 1 期生 (63年度入学生) の卒業率は最低で52.7%。 逆に考えれば、 約 2 人に 1 人が中退したことになる。 入試の競争率が高かった64、 65年度入学生の卒業率はいずれも70%を越え、 続く66〜68年度入学生も65%を上回っていた。 ところが69年度以降の入学生の卒業率は65%を下回り、 3 分の 2 を切るようになった。 学校別では、 大船の70.8%が最大だったが、 最低が川崎の58.8%と、 10%以上の開きがあることがわかる。 さらに川崎について年度をたどり見ていくと、 卒業率が50%台だったのが10回中6回もあり、 50%を切った年度が2度あった。 平塚の場合、 63年度入学者数138人のうち卒業したのは58人、 卒業率は42.0%となるが、 これは7技高の最低記録となる。 川崎の場合、 細かく学科別に見てみると、 次に示すようにのべ 5 学科で卒業率が 3 分の 1 以下となっている。 裏返せば、 4 年間で 3 分の 2 の生徒が学校を去っていったことを意味する。 63年入学生 溶接科 34→11人 同上 建築製図科 17→ 4 人 69年入学生 機械仕上科 33→11人 71年入学生 機械仕上科 21→ 7 人 72年入学生 機械製図科 15→ 5 人 (数字の左が入学者数、 右が卒業数) (4) なぜ、 溶接科の卒業生が少ないのか 学科により卒業率に違いがあるのではないかと考え、 学科別に集計をし直してみたところ、 意外な事実が判明した。 技高には全部で10学科が設置されているが、 その中で最も卒業率が低かったのは、 建築製図科 (57.1%) である。 同学科は川崎だけにあったが、 63・64年度の 2 年間しか募集せず、 廃止されてしまったので、 これを除くと、 最も低率だったのは溶接科 (58.3%) であった。 反対に卒業率トップは機械製図科 (72.0%) であり、 溶接科と比べると、 10%以上の差異があることがわかった。 つまり、 技高における中途退学率が最も高かったのは建築製図科を除いて考えると、 溶接科になるとの事実が数字で証明される形となった。 溶接科が置かれていたのは 7 技高のうち、 川崎、 相模原、 平塚、 追浜の 4 校だが、 他学科以上に過酷な労働条件下で働かされていた (18) ことが退学者数を押し上げたとみることは、 あまりにも短絡的すぎるだろうか。 他方では、 4 技高すべてで行われていたかどうか確認できないが、 入試において、 他学科を希望していた生徒が溶接科に回されるというケースがあった。 すなわち、 溶接科には元々、 いわゆる不本意入学の生徒が存在していたために、 中退が多かったのではないかとする見方である。 以上は推測の域を出ない見解だが、 溶接科生徒の卒業率が他学科と比較すると、 数%以上 (最大で13.7%の差) の格差が見られるとの事実については再度確認しておきたい。 17 技高改革に取り組んだ教員たち (1) 若さゆえの純粋さと行動力 ある技高教員が書いた一文は、 技高闘争と教職員の関係を適確に表現しているように思う。 「技高はご承知のように誠に矛盾の多い学校で、 他校では考えられないような制度的欠陥を有し、 多くの教師はそのため悩み苦しんだものである。 にも拘わらず、 県教委は右も左もわからぬ新卒教師を次々に赴任させたのだから無定見・無責任といわざるを得ない。 もっとも技高の実態をよく知っている他校の教師は、 技高への転勤を敬遠したというのも事実であろう。 ところが技高の若い教師たちは、 若さ故に純粋で行動力に溢れ、 この技高の矛盾と真っ向から取り組み、 ついに技高解消の大きな原動力となったのであるから、 県教委にとって誠に皮肉な結果といわざるを得ないであろう」 (19) 73年度からの生徒募集がなくなった関係で、 わずか2年間しか在職できず、 転勤となったある教員は次のように述懐している。 「技高での 2 年間の生活は、 私の一生にとって非常に大きな意味を持つ 2 年間であった。 それというのは技高という場におかれた学校のあり方、 自分自身の教師としての態度、 人間としての生き方を今まで以上に深く考えることになったからである。 今にして思えば忘れがたい日々であった。 どえらい2年間であった。 生徒達の多くは勉強の興味を失い、 半ば授業を放棄してしまっているようであった。 ひどくなげやりで荒んでみえる彼らの前で、 私は困惑しきった。 しかし彼らをみていくうちに、 何故彼らがそうなっているかがわかってきたように思う。 (略) こういう制度の中で、 重く劣等感の大きなかたまりを背負い込んでいる彼ら、 しかしよく彼らをながめてみると、 これまでのどの生徒たちより親しみやすく、 素朴で、 純粋な奴ばかりであった。 忘れがたい奴ばかりだった。 又、 技高という職場にも深いなつかしさがいつまでも残っている。 それは大きな技高問題をかかえて、 熱意をもってそれに取り組んでいる教師達の姿に感銘をうけて、 自分もこうしてはいられないという気になったからだ。 『技高がなくなる』 ということはさびしい。 しかし、 より良く世界は変わっていかねばならない」 (20) (2) 最後の卒業生へ 最後に、 最後の卒業生 (76年 3 月) を送り出す担任教員が 2 年間の苦しい胸の内を明かしながら書いた卒業文集から引用する。 「49年 4 月 5 日の始業式を終わって、 『思ったよりひどいクラス』 これが、 君達の担任となっての最初の感想です。 これは大変なクラスを持ってしまった、 これから1年間どうやってクラス作りをやるか、 考え込んでしまった。 どうにもこうにも決まらないうちに動きだしてしまったクラス。 叫べども答えず、 どなっても効果なし、 ただ茫然とたたずむのみ。 『誰か、 何とかしてくれ』 『誰でも良いから担任を代わってくれ』 心の中で叫び続けた日々…。 毎週毎週のロングホーム。 全然ホームルームにならない。 君達には、 話し合うという姿勢がなかった。 一方的に伝え、 一方的に話していくホームルームが続いていった。 そんな中で 3 名の仲間が、 クラスから去っていった。 12月24日A。 そして50年 1 月24日には、 B、 Cと続けて抜けてしまった。 果して彼らを救ってやることが、 できなかったのだろうか。 もっとクラスの意識を高めていたら、 きっと彼らも立ち直っていたことだろう。 それができなかったことが悔やまれる、 二度と繰り返してはならないのだ。 (略) 『修学旅行楽しかったなあ』 できることならもう一度君達と一緒に行ってみたいと思う。 でも、 そんな楽しさを吹き飛ばしてしまうかのように、 50年10月17日にDが、 学校を退学していった。 『どうしたんだD』 『どうしたんだみんな』 そんな思いを胸に、 1人の仲間を見送った。 まだまだ駄目だ、 クラスはバラバラだ。 卒業まであと4ヵ月、 もう一人も失ってはいけない。 一人も減らしてはいけない。 卒業が、 1 ヵ月弱に迫ったいま、 私は、 君達に、 お詫びとお礼を言いたい。 何もできずに、 何もしてやれずに 2 年間が過ぎてしまった。 それなのに、 何の苦情も言わずによく付いてきてくれた。 君達は、 いろいろなことを教えてくれました。 君達は素晴らしい生徒でした。 どこのどんな高校生と比較しても、 君達の素晴らしい人間性は、 劣りません。 これは一生涯失ってはならないものです。 それから、 もう一つ覚えておいて欲しいことがあります。 それは、 常に前向きの姿勢であって欲しいことです。 『前進』 今日の一歩は、 明日への一歩 (学級新聞より)」 (21) 72年10月に教員の技高経験年数を調査したことがあったが、 7 技高164人の教諭中、 実に半数以上の84人 (51.2%) が 3 年未満であった (22) 。 しかも新採用教員がそのほとんどを占めていたわけだが、 若さ故にというべきか、 技高の教員は生徒たちに正面から向き合い、 生徒から学び、 同時に、 その生徒たちのためにもと考え、 技高の制度改革に取り組み、 実践していった。 そしてそのためには、 同じ職場の教員同士が結束しなければならないことを知った。 先に引用した教員の告白にもあったように、 自分自身を含め、 教職員にとっても過酷で重たい技高制度ではあったが、 その中で学んだことは数限りなくあった。 中でも"奇術高校"のなぞ解きはなかなかスリリングで、 しかも教育法などについて自主研修に取り組む契機となるなど、 技高制度に感謝しなければならない側面もあったと心底思っている。 18 あとがき 足かけ 3 年に及ぶ長期連載となってしまった。 当初は 5 回で締めくくろうと考えていたが、 引用資料を多くしたこともあって、 さらに延長することになってしまった。 長い間、 貴重な誌面を ねざすジャック する形 (総ページ数は今回を含めると、 66ページ) となり、 まずもってここでお詫び申し上げる。 技高制度の問題点や技高の抜本改革に向けた取組みなど、 書き残しておかなければならないことがらは山ほどあるが、 それらは割愛し、 6 回にわたった連載のまとめをしたい。 なぜ今ごろになって忘れられた過去を掘り起こし、 小論を連載するに至ったかについては、 まえがきでふれた。 その中で、 「技高産みの親」 である笹尾利男氏が 「技術高校の評価は、 後世の人々がしてくれるであろう」 と記したことに言及した。 この文が書かれたのは82年だから、 それからすでに 4 半世紀が経過したことになる。 技高創立 (63年) は今から45年前のことだから、 まもなく半世紀 (反省期?) 。 考えてみると、 技高の 1 期生たちが還暦を迎えた年に当たるのではないか。 2008年は新制高校が発足 (1948年) して60年目にあたるが、 本県の戦後教育史において、 技高はどのように記述されるのだろうか。 この連載は、 笹尾氏の重たい提起に応えようとするものではない。 とても個人でできるものでもないので、 集団作業による 「技高評価」 を早急にしなければならないと痛感している。 県民図書室には技高問題に関する資料がかなり収蔵されているが、 未整理であるし、 資料不足は否めない。 「技高評価」 の具体化のためには、 まずは埋もれた資料を関係者から集めなくてはならないだろう (23) 今夏、 ファイルに綴じ込まれた古い資料を整理していたところ、 「拡大技高対策会議次第」 (73年 3 月28日) と書かれた青焼きのレジメ 1 枚 (B 4 ) が出て来た。 日付を見るとすぐわかるのだが、 この会議は、 工業技術高校 (工技) が発足する 4 日前に開催されたことになる。 議題には、 以下の 3 項目が掲げられてあった。
「技高闘争をふりかえるとき、 なによりもまず逆境にもめげず力づよく生き成長していった多くの生徒たち、 困難な条件の中で他に劣らぬ教育の創造に情熱を傾けた教職員仲間の努力を見過ごすわけにはいかない。 悩み苦しんだ現場から、 やがて底力のある闘いが芽生え、 その闘いを神高教全体の闘いへと組織し、 県当局を揺り動かしていった経過の中に、 今なお、 心ある者は、 幾多の教訓をつかみとれるのではないか」 高教組全体で取り組む 「闘争史」 が無理ならば、 職場からみた闘争史を作成しようとの気運が高まり、 追浜技高分会では独自に 『職場づくりの歩み―追浜技高分会の記録―』 (B 4 判81ページ) を刊行した。 10年間でのべ分会員数38人、 最終年度 (75年度) はわずか 9 人という小さな分会であったが、 こうした記録づくりに取り組むことができたのも、 ともに技高闘争にかかわった仲間意識がそうさせたのだと思う。 当時を振り返ってみると、 よくここまでまとめられたと自分でも感心するが、 「今しかない」 との思いが強かったからかも知れない。 この 『職場づくりの歩み』 の巻頭に当時の中西龍臣高教組委員長が一文を寄せているが、 そこには、 技高闘争がその後の高校教育改革に組合として取り組む端緒となったと記している。 「この技高抜本改革闘争の成功が、 工業教育検討委員会を生み出し、 今また、 男女共学、 入学選抜方式、 学区制、 学校間格差、 過大学級、 職業校・普通校のあり方、 教育内容・制度など高校教育問題全般に及ぶ研究・検討を行い、 運動への道筋をつけるための 高校教育問題総合検討委員会 を発足させたのであります」 県が設置した後中協(後期中等教育研究協議会の略。 75年 3 月 8 日発足)の誕生と軌を一にして活動を開始した高総検(高校教育問題総合検討委員会の略)は、 「神奈川の高校教育制度を改革するための答申」 を高教組執行委員会に行うと同時に、 後中協への意見反映をはかろうとの役割も担っていた。 一方、 技高改革闘争の成功は、 厚木南の昼間定時制を廃課程(77年度から生徒募集停止)に追い込むたたかいにも継承されるなど、 60年代の 「高校多様化」 阻止のたたかいに大きな励ましを与えた。 『神奈川県立の技術高等学校史』 のまえがきにおいて、 当時の指導部長は 「社会情勢の変化 (全日制課程への進学率の上昇など)、 職業訓練と学校教育との調整のむずかしさ、 高等学校学習指導要領の改訂 (昭和48年度の第1学年生からは、 各教科以外の教育活動を授業時間割の中に位置づけるなど)」 の 3 点を技高改編の理由としてあげている。 別な個所では、 「 7 つの技術高等学校は、 相模原・大船・平塚に設けられる全日制課程の 3 つの工業技術高等学校にかたがわりされ、 発展的な解消のかたちをとるもの」 との解説があるが、 7 技高が 3 工技になる、 つまり 4 校が無くなるにもかかわらず、 なぜ、 「発展的な解消」 なのかわからない。 究極のところ、 技高は 「県民から見るならば、 小手先で作りあげた文字通りの 奇術高校」 (24) でしかなかったのかも知れない。 すでにふれたが、 わずか 3 ヵ月余で設立に至ったというのだから、 驚くほかはない。 十分な検討期間がなく、 しかも現場教員の意見は全く聞かずに開校されたが、 見切り発車 のツケはすべて、 生徒、 保護者さらには技高の教職員が負うことになった。 上層部から指示され、 企画立案に奔走した笹尾氏ら直接担当者の苦労は如何ばかりであったかと同情の念も湧いてくるが、 教育行政の大失策であったと断定せざるを得ないであろう。 生徒・保護者から見れば、 奇術 ではなく、 詐術 に見えたかもしれない。 「教育は何よりもまず子供たちのためにあり、 父母、 県民のものであるはず」 (25) という認識が行政に欠落していたのではないか。 しかも一旦制度が出来上がってしまうと、 その後、 現場から問題点を指摘されても責任逃れを繰り返し、 その非を認め、 改めようとはなかなか動かない。 技高廃校を告げる教育長通知には、 「社会情勢の変化に即応し、 (略) 発展的に改編する」 とあったが、 県当局の不作為には目を塞いだままだった。 今なら十分不祥事に匹敵するところだが、 残念ながら反省の弁は語られなかった。 「自分たちが推し進めてきた施策に誤りはない」 との思い上がりがあるのではないかとさえ思う。 行政自らが 「自己改革」 をしなければ、 真の改革は進まない。 奇しくも、 本年 4 月より、 県立東部総合職業技術校 (かなテクカレッジ) がオープンした。 前期高校再編計画の対象となった寛政高校の校舎を改修し、 元技高の追浜・川崎を含む 4 校 1 分校の職業技術校がここに統合された。 残る 4 校 (小田原・平塚・秦野・藤沢) も統合され、 かつて職業訓練所と呼ばれた高等職業技術校は、 東西 2 校の総合職業技術校に生まれ変わる。 高校再編を上回る大規模なリストラ策が職業訓練機関において進行している事実を、 対岸の火事と見てはならないだろう。 ところで、 2010年度をもって、 約10年に及んだ県立高校再編整備計画に一応の終止符が打たれる。 また、 この再編計画にはなかったが、 2010年にはひばりが丘高校の校舎を利用し、 3 部制の定時制高校が開校するという (26) 。 「多様化する生徒に対応するため」 とのことだが、 30年以上前に破綻した厚木南の昼間定時制 (会社の勤務にあわせ、 一週間交替で午前部と午後部があった) の再来 (当時の学区でいえば、 同じ県央学区) を思わせる。 技高や厚木南の反省と教訓は、 今日の高校再編計画に生かされているのだろうか。 そして何よりも、 「子どもたちのための学校」 という目標の実現をめざした、 学校づくり、 教育のあり方が追求されているのだろうか。 約5,500人を数える技高の卒業生たちは、 その後、 どのような人生を過ごしたのだろうか。 技高が廃校となり、 立ち寄る 「母校」 を二度も失った彼ら (いずれも50代) は、 今、 4 年間を過ごした技高のことをどう思っているのだろうか こうした思いを筆者はずっと持ち続けてきた。 また、 今後も変わることはないだろう。 筆者が技高で初めて送り出した卒業生の中には、 技高在学中から同じ会社でずっと働き続け、 まもなく早期退職を迎えようとしている者もいる。 そうした卒業生、 さらには途中で辞めていった生徒たちからも話を聞かなければ、 真の 「技高の評価」 はできないのかも知れない。 (おわり) 【注および参考文献】 (1) 大貫啓次・中村修・葉山繁・綿引光友 『これが高校か―差別・選別される高校生―』 73年 8 月。 (2) 県立追浜技術高校 『卒業文集・なかま―第 5 回卒業記念―』 72年 3 月。 (3) 拙稿 「技高は二度、 『廃校』 となった (5)」 『ねざす』 第41号 (2008年 5 月) の注 (17) を参照。 (4) 前掲書 (1) の54ページに掲載したもの。 元々は、 平塚技高の生徒会誌 『栞戸』 3 号から転載したものだが、 発行年は不明。 (5) 技高生ブルースの初出は川崎技高生徒会誌 『ともがき』 第 4 号 (70年 3 月) と思われるが、 そこには 3 年溶接科有志の作とある。 その後、 歌詞の一部が書き替えられたりしながら、 広まった。 たとえば、 川崎版の5 番は 「1 週間に一度の全日制/1 週間に二度の定時制/やっと芽が出た技高生/中途半端な技高生」 とあるが、 追浜版ではその後半が 「1 週間に六度の会社出勤/1 週間に一度の休みもない」 となった。 (6) 県立追浜技高 4 年機械工作科 「青春の光と影―昭和48年度フレンド祭の記録―」 74年 5 月。 (7) 県立追浜技術高校 『卒業文集・なかま―第 7 回卒業記念―』 74年 3 月。 (8) 県立横浜技術高校広報委員会 『ペンフ』 第 6 号、 73年。 (9) 県立追浜技術高校 『卒業文集・なかま―第 9 回卒業記念―』 76年 3 月。 (10) 拙稿 「技高は二度、 『廃校』 となった (4)」 『ねざす』 第40号 (2007年11月) の50ページに掲載した表。 (11) 7 技高でのべ28学科 (28クラス) あったが、 うち16学科で定員割れを起こした。 (12) 戦後教育史資料・座談会 「県立高等学校における専門教育の拡充整備のあとを振り返って」 (県立教育センター 『教育と文化』 第14号、 79年 3 月に収録) における発言。 (13) 神奈川高教組 『技術高校職場討議関係資料集』 72年 3 月。 (14) 拙稿 「技高は二度、 『廃校』 となった (1)」 『ねざす』 第37号、 2006年 5 月。 (15) 県立川崎技術高等学校 『ともがき』 第 4 号、 70年 3 月。 (16) 神奈川県教育委員会 『神奈川県立の技術高校』 65年11月。 (17) 県教委発行の 『県立高校 (定時制・通信制課程) の生徒指導研究集録・第 2 集』 (67年 3 月) に、 大船技高における退学生徒の実態調査資料があることを柏木操男氏が 『神奈川県戦後教育史研究』 第 3 号 (99年11月) で指摘している。 (18) 71年7月、 18歳未満の溶接科生徒が労働基準法第63条で禁止されている 「危険有害な作業」 (具体的にはアーク溶接) に従事していることが大問題となった。 それに関連し、 実態調査を実施したところ、 目や顔に火傷をしたり、 目が痛くて一晩中眠れなかったと訴える生徒が多数存在することがわかった。 組合でも県教委を追及し、 県議会でも取り上げられたが、 技高生の就職にあたり、 溶接業務につかせないよう行政指導がなされることで落着した。 この問題は生徒の安全にかかわる重大事だが、 『神奈川県立の技術高等学校史』 には溶接の 「よ」 の字も出てこない。 最近の流行語で言えば、 「偽装」 そのもの、 いや事実の隠ぺいと言ってよいかも知れない。 (19) (20) 神奈川高教組追浜技高分会 『職場づくりの歩み―追浜技高分会の記録―』 75年11月。 (21) 前掲書 (9)。 (22) 前掲書 (1) の73ページの表を参照。 (23) 筆者がもっとも気になっているのは、 県立総合教育センター内に保存されている笹尾氏からの寄贈資料だが、 伝え聞くところによると、 これも未整理のようだ。 廃棄処分されないことを祈るとともに、 「技高の評価」 に際しては、 これら資料の活用が不可欠であろう。 (24) 神奈川県高等学校教職員組合 『神高教30年史』 82年 3 月。 (25) 72年11月 4 日に開催された 「高教組技高抜本改革要求全員集会」 で採択された、 「県民へのアピール」 文にあった一節。 (26) 2008年2月21日付の毎日新聞 「相模版」。 たまたま同じ日の朝日新聞に連載されていた 「どこで学ぶ〈首都圏・中高のいま〉」 欄で、 「デュアルシステム」 に取り組む茨城県立日立工業高校の紹介記事があった。 「デュアルシステム」 (二重制度という意味) は、 大阪の布施北高 (07年12月 7 日付 「朝日新聞」 夕刊連載の 「人・脈・記―先生に出会うF―」 に紹介記事がある) や04年に新設された東京・六郷工科高などで取り入れられている。 記事によれば、 日立工高の場合、 週1日で年間30日、 通学しながら会社で実習をするという。 30年以上前に行われていた技高の現場実習制度を想起してしまうが、 今後どのように広がっていくのか注目していきたい。 《追記》 全く偶然ではあったが、 杉山宏氏の連載 「キーワードで読む戦後教育史」 の 「技高問題」 と同時連載となった。 お互いに話し合ったり、 相談したわけではない。 まさしく、 サプライズと言えるかもしれない。 杉山氏は 『神高教30年史』 『神高教50年史』 の両年史を編纂した経験をふまえ、 表題にあるように、 戦後教育史の中で技高をとらえ直すというマクロ的な視点から記述されている。 一方、 筆者の場合は、 5 年間、 技高に在職した経験をもとに書いたもので、 ミクロ的な叙述となっており、 この点に大きな違いがあると思われる。 技高を知らない方々には 「今、 どうして30年前の技高か?」 と思われる向きも多いかと思うが、 両者を読み比べ、 技高制度の問題点等について理解を深めていただければ幸いである。 さらに、 この 2 つの論稿を一資料としながら、 「技高の評価」 すなわち、 神奈川の高校教育史における意義についての検討がなされることを期待したい。 また、 余計なお世話と思われるだろうが、 前期再編計画によって 「統合」 され、 姿を消した工業技術高校 (工技) の総括もどこかでなされる必要があるのではないか。 「多忙化」 によって、 過去の 「多様化」 などについて振り返るゆとりなどはないかも知れないが、 資料が散逸しないうちに総括作業に取り組むべきではないだろうか。 杉山氏の連載は次号まで続くようだが、 連載が終わった段階で、 互いの論稿をもとに議論を深めたいと考えている。 できれば読者諸氏からも、 ご意見・ご批判を寄せていただければ、 これにまさる喜びはない。 |
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(2008.10.28) | |
(わたひき みつとも、 元県立高校教員) |
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