映画に観る教育と社会[10] |
[李纓監督 靖国 YASUKUNI] |
手島 純 |
靖国神社にて 2008年 8 月15日正午、 私は靖国神社の境内にいた。 もちろん靖国参拝に行ったわけではない。 この日の靖国神社の様子を自分の目で確かめたかったからだ。 李纓 (リ・イー) 監督作品 「靖国 YASUKUNI」 が映し出す 8 月15日の異常な様子を、 映像を通してではなく、 自分の体験として確認したかったからである。 当日、 九段下駅で降車すると、 駅はいつもとは違っていた。 駅から靖国神社方面への案内が喧しく叫ばれ、 要所には機動隊が待機していた。 神社へ到る歩道では、 ビラが配られている。 「ゼッタイ反対! 外人参政権」 「総理、 閣僚は、 靖國神社に参拝し、 美しい国日本の再生を」 などという普段は目にしないビラが手渡される。 参道は混み合い、 日本兵の恰好をした者がいたり、 天皇陛下万歳と書かれたのぼりが翻ったり、 右翼の一団が闊歩したりしている。 異様な雰囲気である。 境内では集会も行われていて、 靖国参拝をしない政治家をヒステリックに非難していた。 これはいわゆる 「祝祭的空間」 とでもよばれるものだろうが、 私には異様で滑稽、 コスプレショーとでもいうべき空間であった。 映画 「靖国」 映画の冒頭、 刀匠刈谷直治氏が刀を作る姿が映し出される。 ナレーションもなく、 刀作りの作業過程が丹念になぞられる。 靖国神社の御神体が実は刀で (靖国神社側は、 御神体は 「神剣及び神鏡」 であると主張している)、 ここに登場する人物は現役最後の靖国刀刀匠であるという。 この刀匠を丹念に描くことで、 李纓監督は冷静に靖国を描写する姿勢を示している。 中国人監督ゆえに日本の侵略戦争を糾弾するシーンが横溢しているのかという予想は、 見事に裏切られる。 そして、 私が実際に見てきた風景が映し出される。 しかし、 映画では私の体験以上に 「祝祭的空間」 がデフォルメされて記録されている。 星条旗をかかげるアメリカ人や日本政府と靖国神社に抗議する台湾・韓国の戦争遺族たちが登場し、 それらを巡っての混乱も同時に映し出される。 合祀取り下げを求めてきた真宗遺族会事務局長へのインタビューも行われ靖国をめぐる主張が交錯する。 さらに靖国神社のあり方に抗議する若者が殴られ排除されるシーンも映し出され、 ものものしく映画は展開する。 私のように 8 月15日のわずかな時間を靖国で費やしたのではなく、 この映画は10年の歳月を費やして撮られたものだ。 何年かの 8 月15日の様子を凝縮して編集したものだから、 濃度は高い。 しかし、 その喧噪を倦むかのように、 映像は再度、 刀匠に焦点を当てる。 静と動が丹念に織り込まれている。 映画の最後に李監督は中国人捕虜が刀で斬られている何枚かのスティール写真を挟み込み、 靖国神社の御神体が刀であることの意味と問題性を観客に迫っていく。 映画 「靖国」 をめぐる騒動 この映画が話題になったのは、 映画の内容というより、 映画上映にまつわる騒動ゆえであった。 本作に 「日本芸術文化振興会」 の芸術文化振興基金から750万円の助成金があったことを国会議員の稲田朋美氏が問題にしたことから、 騒動は始まった。 一部の国会議員が試写会を要求したところ、 配給会社は 「検閲」 だと反発した。 産経新聞・週刊新潮などがこの映画の問題性を指摘し、 さらに右翼団体が街宣車を使って上映予定の映画館に抗議活動をしたため、 上映を取りやめる映画館がでてきた。 さらに先の刀匠の刈谷氏が映画から 「自分の映像を一切外してほしい」 と語ったが、 正式な削除要求はしていないとか、 このことは政治家圧力ゆえのことだなどという言説が飛びかい、 また、 靖国神社側からも撮影許可の手続きがされていない映画だなどの話が浮上し、 マスメディアを賑わした。 そもそも映画も観ないで映画を論じる愚にあきれてしまうが、 あきれてばかりいられない。 こうした情緒的な風潮がファシズムの温床になるのだろう。 結果的にはむしろ映画の話題性が増し、 上映館が増えるということになった。 私が映画館に行ったときもほぼ満員状態で、 熱気すら感じられた。 一方、 上映中に何かハプニング、 たとえば以前あったようにスクリーンが切られるとかがないのだろうかという不安もあった。 しかし、 そんな不安も吸引して、 刀匠のシーンからはじまるこの映画は冷静さを観客に求めているようですらあった。 新右翼 「一水会」 の鈴木邦夫が 「これは 『愛日映画』 だ」 と絶賛した所以でもあろう。 ドキュメンタリー映画の底力 ドキュメンタリー映画に魅せられるのは、 何気なく認識する現実の奥底に入り込んで、 私たちの目の曇りを取り除いてくれるからである。 映画 「靖国」 は、 靖国神社に関してのイデオロギー論争に終始して置き忘れている 8 月15日の風景と刀匠の作業をメインに、 靖国神社論争を包囲した。 混沌とした 8 月15日の境内のように映画上映をとりまく状況も混沌としていたが、 それを予測してこの映画全体が演出されているのかとも思う。 この映画を取りまく喧噪の最中、 水俣を撮り続けたドキュメンタリー作家の土本典昭が 6 月に亡くなった。 水俣の奥深く入り込み水俣を表現した人物だ。 ひとりの偉大なドキュメンタリー作家を喪失し、 また、 ひとりのドキュメンタリー作家を得た。 映画 「靖国」 は私にとってはそんな位置を占める映画だった。 |
(てしま じゅん 教育研究所員) |
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