教師と研修
金 沢 信 之

1.はじめに

 岡崎神奈川県知事が、『アメリカ教育使節団報告書』で考えられた民主主義教育の本質からそれた現状を総点検するために、本報告書を読み返すことを勧めている(1)。講談社学術文庫に収められた本報告書の訳者であり解説の村井氏の文章を引用し、この報告書は教育勅語体制の崩壊に引き続く空白の中に日本の教育の新しい方向を示した文書であると紹介している。
 この報告には次のような有名な叙述がある。「教師たると行政官たるとを問わず、教育者といふもの々職務について、こ々に教訓とすべきことがあるのである。教師の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ十分に現される。この空気をつくり出すことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくることではない。」(2)
 しかし、現実には自由な空気が日々薄れつつあるのではないか。精神科医の野田正彰氏は70年代初めから80年代にかけて、生徒との関係と学校管理の仕事の狭間で葛藤する多くの教師達を診察し、自分が大学の研究職に移ったその後十五年間にも病気休職・精神疾患の教師は少しずつ増加していることを心配していると言う。
 教員の管理強化は凄まじい勢いで進行している。それは決して子ども達に良い影響をあたえることはないだろう。野田氏は次のようにも言う。「先生達の自我を歪めておいて、子供たちが気付かないと思っているのだろうか。思考を途絶した先生を見ながら、子供たちはつまらない社会で生きていくための『小さな世界』を探している。自閉化した小さな世界は砂のように、大きな『教育』を崩し続けるだろう。」(3)
 民主主義教育からそれた現状の行き着く先がここにある。教育には自由な空気が必要である。教員管理の強化がこの空気を奪うのであれば、一番の犠牲者は世界を「つまらない社会」と考えることになってしまう子ども達である。

2.状況

 @教師の専門性を否定する新自由主義
 80年代以降のアメリカでは、教育について「教師の専門性向上政策」と「新自由主義的“教員”政策」が並存している(4)。
 現在、日本で進行している教員管理の強化は後者の特徴を示すものだ。この政策の特徴は、「政府が教育内容の水準を決定し、学校が、その水準達成に向けて、教育内容以外の様々な基準に縛られることなく自立的に自ら運営ないしは経営し、その達成度に応じて政府から学校への財政的資源の配分がなされる仕組み」である(5)。この特徴を強く持つのが営利企業によって運営されるチャータースクール(CS)である。このCSは随意に教師を解雇でき、能力給を導入できる。また、学校運営者がカリキュラムを決定し、その実行を教師に命令する。研修の内容や実施の可否も学校運営者に委ねられる。前者の政策では是認される教師の労働者・専門職としての地位を犠牲にすることで、営利団体に学校市場が開放しやすくなるのである(6)。
 1987年に臨教審(臨時教育審議会)が第4次答申を出し、それを受けて教育課程審議会答申・教育職員養成審議会答申(教養審)が出された。この教育臨調路線は自由化論を基調とし、教育の公費部門削減と教育への民間活力導入が企図されていた。まさにアメリカの新自由主義の影響を色濃く受けていた(7)。教養審は教員養成と研修制度を大幅に改変し、特に研修制度では初任者研修をはじめとした行政研修の強化へと道を開いた。
 学区が拡大し、あるいは廃止され、学校が自由に選択できるようになりつつある。(それは見せかけであり、誰もが自分の行きたい学校に行けるわけではない。)このことによって生じる学校間の競争と行政研修の強化に見られる教員統制政策はまさに一体となって、日本の公立学校を営利企業に運営されるアメリカのCSに近づけていく。「サービス受給者のニーズへの応答性を欠く専門的自立性に代わって、学校の説明責任と親による選択を基礎とする学校経営を導入することによって応答性を確保する」ことで教職は自立した専門性を失っていく(8)。教師は教育をサービスと考える経営者に雇われる労働者となり、教育全般に対する判断や決定権を喪失することになる。

 A教師への批判的視線とIT化
 @で述べたような日本における新自由主義的政策の進行を容易にしている背景に社会一般の教師への批判的視線がある。「産業経済構造の再編、企業のリストラや日本的経営・雇用慣行の見直し、失業率の上昇と雇用の多様化・流動化、財政状況の悪化などが進むなかで、公的セクターのアカウンタビリティーや効率性が問われるようになり、公務員・学校職員の雇用条件・勤務条件に対して批判的視線が強まっている」(9)。
 旧来のように行政と教師の関係の中だけでは事態を解決できなくなりつつあるのも事実だ。市民に対する説明責任をどのように果たすのか。そして、教育において追求すべき効率性とは何か。もし、その効率性が必要とされ、それが他の業務と大きな違いがあるのなら、きちんと説明しなければならない。これを怠ればますます批判的な視線は強まり、予想もつかない速さで新自由主義的政策は教育に浸透してしまうだろう。
 さらに急速に進むIT化も無視できない。情報の共有化が進み学校の知識が陳腐化する可能性がある。学校とは何かという問いに答える用意も必要だろう。
 また、IT化は教師の研修にも多大な影響をあたえる。これまで、多くの教師は自らの努力(時間面、金銭面などにおいて)でコンピュータに関する自主研修を行ってきた。その結果として現在の学校におけるIT化があると言っても過言ではない。しかし、急速なIT化は校内にデジタルデバイドといった様相を生じさせる。行政・自主を問わず積極的に情報についての研修をつんだ教師とそうでない教師との間に分断が生じる可能性もある。だからといってIT化を避けることはできない。コンピュータに関する自主研修の必要性はIT化される社会の中できわだっている。ここに、自主研修とそれを補完する行政研修の関係がはっきり見える。
 IT化によって、かつては多くの教師が関わっていた業務が少数の教師によってなされる状況がある。これは教育が協同の営みであると考えたとき、危険な因子となる可能性が多分にありそうだ。IT化の問題点をはっきり認識しておく必要があるのはもちろんのことだ。

3.1980年代前後の研修政策

 70年代から80年代における研修政策の展開は前述した87年に終了する臨時教育審議会へとつながる。1966年にILO・ユネスコ共同の「教員の地位に関する勧告」で「教育の仕事は専門職」(六項)、「現職教育の重要性」(三一項)などが示された。これを契機に、文部省(当時)は教師に対する研修を政策的に重視しはじめた(10)。1979年には文部省の初等中等教育地方課に「教育研修企画官」が新設され、ますます行政研修が強化されることになる。
 70年代は今日の行政研修の雛形が形成された時期とも言える。「教員海外研修の増員」「教員の研修活動に対する実態調査」「教員の長期研修のための非常勤講師の国庫補助制度」「中堅教員研修の増員」「公立新規採用教員への全員研修開始(一般研修10日・授業研修10日)」「公立小・中・高教職5年程度経過教員研修開始」「公立高等学校新規採用教員全員研修開始(一般研修10日・授業研修10日)」「新学習指導要領趣旨徹底講習会」「兵庫・上越教育大学設置」などである(11)。
 70年代から80年代にかけて現行の研修政策に影響を与えたいくつかの文書が登場する。中教審答申(1971年)、教育改革第一次試案(中間報告、自民党文教制度調査会・1972年)、中教審答申(1978年)、教員の採用及び研修について(文部省初中局長通知・1982年)といった具合である。特に82年の文部省通知は研修政策の総まとめ的内容となっている。そこには採用から教員としての全期間を通した研修のありようが述べられている。教員生活全体を管理しようとする意図があるようだ。項目は、「T教員の採用について」の中に「@選考の方法・A試験の内容について・B採用の内定時期について」、「U教員の研修について」の中に、「@研修の体系的な整備充実について、A校内研修の充実について、B新任教員の研修について、C中堅教員の研修について、D管理職の研修について、E研修指導者の確保について」といった具合である。研修を行政研修だけで埋め尽くすばかりの勢いだ。自主研修にあてる時間の余裕が感じられない。

4.文部省(文部科学省)・教育白書に書かれた研修(12)

 教育白書の研修に関わる部分の記述の特徴から、文部科学省の研修政策の変遷を辿ってみたい。「わが(我が)国の教育水準」は数年おきに刊行され、「我が国の文教施策」は毎年刊行されている。後者については特徴的と思われる年度のものを紹介した。
 「『わが国の教育水準』第3章 教員の確保と教育条件の整備1教員構成(1)現職教育(1964)」には「教員の資質向上のためには、教員自身の研修とともに、それを助ける現職教育が必要である」とある。教員自身の研修(自主研修と考えられる)と現職教育が区別されているのが特徴である。現職教育とは自主研修を補完する行政研修とも読める。
 「『わが国の教育水準』第3章 教職員の充実と物的条件の整備 1教職員の確保と教員の勤務条件 (5)教員の養成と現職教育 C現職教育(1970)」には「教員の資質向上のための施策については、わが国では文部省および都道府県教育委員会が、民間教育研究団体の助成や研修会、講習会の開催等を通じて従来から特に力を注いでいる。研修会や講習会のおもなものとしては、校長・教頭等研修講座、教育課程研究集会や各教科等の研修等がある。また、大学を利用して行なわれる現職教育としては、初等学校教員や中等学校教員を国立大学に一定期間派遣して研修させる制度や産業教育内地留学生、特殊教育教員内地留学生の制度がある。」とあり、現職教育としての行政研修のみがその内容となっている。
 「『我が国の教育水準』第3章 教職員5教員の養成と研修(2)教員の研修(1975)」には「教員の資質の向上のためには,教員自身による研修とともにそれを助ける研修制度の整備が必要である。文部省及び都道府県教育委員会は従来から教員の資質向上を目的とする各種の研修会、講習会等の開催に力を入れてきており、その内容についても改善が図られている。」とあり、再び教員自身による研修という表現が登場している。現職教育という表現が消え、教員自身による研修とそれを助ける行政研修の整備の必要性が述べられている点が特徴的である。 
 「『我が国の教育水準』第1章 戦後30年の教育の推移第3節教職員4教員の養成と研修(3)教員の研修(1980)」には「教員の資質の向上のための施策については、国及び都道府県教育委員会が、教育研究団体への助成や研修会、講習会の開催等を通じて従来から特に力を注いでおり、その内容についても改善充実が図られている。(一部略)教員が自発的に研修グループを結成して教育実践研究活動を行うグループ研究に対して助成を行つている。」とあり、行政研修のみに言及したものとなっている。ただ、「自主的に研修グループ」という表現があるが、研修の内容が「教育実践研究活動」に限定された印象となり、自主研修のイメージからは遠い。
 「『我が国の文教施策』第II部 文教施策動向と展開第2章初等中等教育の改善・充実第9節教員の資質能力の向上(1988)」の「2責任者研究制度の創設と初任者研究の試行」には、「(1) 教員の研修について」として、「昭和62年12月の教育職員養成審議会答申において、初任者研修制度の創設及び現職研修の体系的整備方策が提言されている。」とあり、初任者研修が初めて登場した。研修も現職研修と表現され、「(3)現職研修の充実」の項では、「教職生活のそれぞれの時期」における行政研修の必要性に触れている。採用から教員の全期間を行政研修で管理しようとしているようだ。
 「『我が国の文教施策』第T部 初等中等教育の課題と展望第2章初等中等教育充実のための施策の展開第14節教員の資質能力の向上(1989)」には「3初任者研修制度の創設」で初任者研修について記述され、「4教員の現職研修」には「教員はその職責を遂行するために、絶えず研修を行う必要があり、また、任命権者側も教員の研修に関して計画を立てて、その実施に努めなければならない。」という記述がある。この部分は教員自身の研修と任命権者がわの行政研修をはっきり分離していると読めなくもない。
 「『我が国の文教施策』第2部 文教施策の動向と展開第2章初等中等教育の一層の充実のために第9節魅力ある優れた教員の確保 3)研修の見直しと大学院修学休業制度(i) 教員研修の見直し(2002)」には研修の見直しという視点での記述があり、そこには次のような部分がある。
 「今後は、教員研修の一層の充実を図るため、各教育委員会などの関係者の協力を得ながら、以下のような取組を進めることとしています。
 (ア) 職務を通じて発見した課題を教員自身で解決していくことができるよう、教員の自主的・主体的な研修活動を一層奨励・支援していきます。
 (イ) 「生きる力」の育成、情報化、国際化への対応、いじめ、不登校、いわゆる「学級崩壊」など、今日の学校が直面している様々な課題に適切に対応していくことができるよう、教員のニーズに応じた選択型の研修の導入、参加型・体験型の研修の推進など、研修の内容・方法を一層充実させていきます。
 (ウ) 教員が社会の構成員としてその視野を広げ、その成果を学校教育の充実に還元することができるよう、民間企業をはじめ学校外の施設に教員を派遣して行う社会体験研修について、地域社会と連携しながらその一層の充実に努めていきます。」(下線筆者)
 (イ)・(ウ)が行政研修のイメージとしても(ア)は自主研修のそれである。現在、学校現場で「自主的・主体的な研修」が実施されていないとしたら、それは少なくとも文部科学省の施策である「研修の見直し」から外れたものである。70年代から80年代、そして90年代へと行政研修が強化されてきたことから考えると、見直しのポイントは(ア)にあるのだろう。そういう視点で学校現場の点検が必要だ。なお、この見直しの方向は1999年の教員養成審議会第三次答申「養成と採用・研修との連携の円滑化」を受けてのものである。

5.地方公務員法と教育公務員特例法の研修

 ここでは教育公務員と地方公務員における研修の違いについて概観したい。地方公務員法(地公法)・教育公務員特例法(特例法)はそれぞれ研修について次のように記述する。
教育公務員特例法
第三章研修
 (研修)
第一九条 教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。
2教育公務員の任命権者は、教育公務員の研修について、それに要する施設、研修を奨励するための方途その他研修に関する計画を樹立し、その実施に努めなければならない。
 (研修の機会)
第二十条 教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない。
2教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。
3 教育公務員は、任命権者の定めるところにより、現職のままで、長期にわたる研修を受けることができる。

地方公務員法
第三章 職員に適用される基準
第七節研修及び勤務成績の評定
 (研修)
第三十九条 職員には、その勤務能率の発揮及び増進のために、研修を受ける機会が与えられなければならない。
2 前項の研修は、任命権者が行うものとする。
3 人事委員会は、研修に関する計画の立案その他研修の方法について任命権者に勧告することができる。


 地公法によれば一般の公務員の研修目的は「職務能率の発揮及び増進」であり、そのための「研修は、任命権者が行うという」受動的なあり方になっている。それに比較して、特例法では「教育公務員はその職責を遂行するため絶えず研究と修養に努めなければならない。」とされ、教員の職務に固有な「職責」を遂行するため、自主的・主体的に研修を行うことが義務づけられているのである。
 また、特例法第二十条は教育公務員(学校教育法1条によると国・公立学校の学長、校長、園長、教員、部局長、ならびに教育委員会の教育長、指導主事ならびに2条の社会教育主事をいう。)の中でも特に教員は、「授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。」としている。教員に対する手厚い研修機会の保障はこの仕事の責任の重さを示すものである。なお、本属長とは校長のことであるが、この場合の承認とは特例法二十条二項の「授業に支障のない限り」を受けて、校長が「授業に支障がない」かどうかの判断をするものであろう。なお、「校長の承認を受けて」とは、校長に代表される学校教師集団の確認(職員会議)を受けてとの意味に解すべきである(13)。
 職員会議と校長の関係は、「(校長は)指導助言者および対外代表的表示権者」と考えるべきであろう(14)。さらに、先に紹介した『アメリカ教育使節団報告書』には職員会議(文中では教員会議)について次のように提議する箇所があることも付け加えておく。「各学校は、校長の支配を受けることなく、諸問題や、実際上の事項について、自由に討議する教員会議をもつべきである。」(15)

6.初任者研修と研修

 初任者研修の導入がされる際、国会では研修について様々な議論があった。一体、研修が国会でどのように論じられていたのか。その一端を紹介する(16)。
 1988年5月19日の参議院文教委員会(「112回−参議院−文教委員会−11号1988/05/19」)、教科書問題を論じた後、初任者研修制度の議論になり、佐藤昭夫議員が教育基本法第六条「教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。」を引用し、国務大臣にそれを確認をする。

○国務大臣(中島源太郎君) 教育基本法の基本精神並びに特に第六条にお触れになりましたが、私もそのとおりと思います。
○佐藤昭夫君 昭和五十一年五月二十一日の最高裁の学テ判決であります。教育は、一人一人の子供の可能性を豊かに開花させる文化的な営みである。教員の創造性、自発性が十分尊重されなければならない。研修も、また自主性、自発性が十分尊重されなければならい。また、別項で、任免権者が研修を企画、立案するときも、教員の自主性、自発性を尊重する方向で行うべきであるという最高裁判決であります。この判決、御承知でしょうね。
○国務大臣(中島源太郎君)承知しております。
○佐藤昭夫君 そこで、問題の本法案とのかかわりでありますけれども、文部省は、けさ方からのこの議論を聞いておりますと、地方公務員法の第三十九条、これを持ち出して、行政研修もできるんだという言い方をしつつ、教員の研修の生命、根幹とも言うべき自主性、自発性、これを抑えたり、結果として教員の身分を不安定にするような研修制度、これを実施に移していこうというわけでありますけれども、こうしたことをめぐって、大きく言うと、ほかの方々も触れられておりますように、二つの重要な問題がある。一つは、この地方公務員法第三十九条、これによって行政研修ができるんだということで任名権者に対して初任者研修の実施を義務づけるということを法制化しようというわけであります。同僚議員の議論にもありましたように、行政研修の定めというのは、自主研修と同等、並列のものじゃない、行政研修は補完的なものだという位置づけをしているというこの議論、私も全く同意見であります。そこで確かめたいんですけれども、今回の法改正案、これは教特法十九条に定めているその第一項については何らいじろうとするものにはなっていませんから、すなわち教員の自主研修権、これを何ら否定するものでもないし弱めるものでもないというふうに理解をしてよろしいですね。
○政府委員(加戸守行君) 教育公務員特例法十九条一項で規定がございますように、教育公務員が「絶えず研究と修養に努めなければならない。」という基本的な精神あるいは理念そのものに対しましては、当然この考え方を変更するものではございません。
            (下線筆者)


 この議論で、行政研修が自主研修の補完的なものであることが確認されている。さらに最高裁判決を引用しながら、教員の自主性・自発性の重要さも確認された。また、地公法第三十九条との関係も整理された。もちろん、初任者研修の本質的な問題は残るのであるが、それは特例法十九条一項とは同等・並列ではないとも確認された。その後、初任者研修は同法第二十条二項に定められる。その文言の主語は「任命権者」となっており、同法十九条・二十条の主語が「教育公務員」・「教員」となっているのと大きな違いを見せている。
さらに議論は自主研修の時間的保障が初任者には充分では無いとの指摘へと展開する。

○佐藤昭夫君 だから、年間の相当日数がこの初任者研修という制度の枠のもとに義務づけられるというこういうことになれば、勢い自主研修、これの時間的ゆとりがなくなる、自主研修が弱まらざるを得ないということは明白じゃありませんか。
○政府委員(加戸守行君) 先生の御指摘で申し上げれば、初任者研修を受けない二年目以降の教員が行い得る自主研修に対します時間的なゆとりと同様なものは、初任者の場合につきましては、このような初任者研修を受けるためにそういった自主研修の時間には余裕はなくなることは事実であろうと思います。しかし、二年目以降におきましては同様の立場になるわけでございますし、また初任者研修を受けている時間帯といいますのは、今時間的なゆとりということを先生おっしゃいましたけれども、今の学校での授業日あるいは二百十日のそういった学校経営が行われる時間帯以外の余裕というのは、当然自主研修にも初任者にとっても活用し得る時間帯である。しかし、それは初任者研修を受けない教員に比べれば、確かにおっしゃるとおり時間的に余裕が減ることは事実でございます。        (下線筆者)


 初任者には自主研修の時間的ゆとりは減少するが、二年目以降は問題ないとする見解である。さて、現在の学校現場において自主研修の実態はどうなっているのだろうか。二年目以降は充分に行われているのだろうか。この議論の展開に従えば、採用二年目以降は自主研修が充分実施できる環境になっているはずである。
次の文教委員会でもこの議論は続けられ、政府委員は初任者研修と自主的・自発的な研修の違いを認めている。


7.職務専念義務免除と研修

 これまで見てきたように、行政は自主研修を否定する立場には立たない。しかし、自主研修の職務性を否定する扱いをすることで、実質的に自主研修を抑制する結果を生み出している。行政は60年代半ばごろから、服務上の取り扱いによって、研修を三分類する。それは「第一は、勤務そのものとして行われる職務命令による研修で、仮にこれを教師が拒否すれば懲戒処分の対象になるという。第二は、職務専念義務免除を受けて行う研修(教育公務員特例法二十条二項の研修)で、この場合は学校管理者(校長)が事前に研修内容を吟味し許可するかどうか決める。そして第三は、勤務時間外の教師の研修で、これは『法律的』には問題外で教師の自由である」(17)といった分類である。この見解は国会でも踏襲されている。2000年3月31日の衆議院文教委員会(147回-衆議院-文教委員会-10号2000/03/31○石井(郁)委員)、大学院への修学休業をめぐる法案審議の中で「さてそれで、今回の法案ですけれども、現職の小中高の教員の皆さんが身分を有したまま一年から三年間研修休業できるということでございますけれども、研修ということの服務上の取り扱いについて、ちょっと最初にお尋ねしていきたいのです。これは、調査室からいただいた資料によりますと、三つありまして、職務命令に基づく研修(職務研修)、二つ目には、勤務時間中の職務専念義務が免除され、給与を受けつつ自主的に行う研修(職専免研修)、それから三つ目に、勤務時間外に自主的に行う研修(自主研修)と、括弧づけで書いてありますが、三つあるというふうになっています。今回の研修というのは、この三つのどれに当たるというふうに考えていいのでしょうか。」という質問があり、前記の研修三分類が現在も踏襲されていることが窺える。
 なお、1949年の文部事務次官通達では「教特法二十条の規定による研修の場合は当然勤務と見るべきこと」とされ、1958年の行政実例も同条にもとづく夏休み中の自宅研修を勤務と見ていた(18)。
 さて、そもそも職専免とは何か。1990年に名古屋地裁で外国研修旅行を教育公務員特例法二十条に基づく研修として承認し、職務専念義務免除をもとめる措置要求に対してなされた裁判がある(19)。その中で職専免は「職務専念義務の免除がされた場合、職員は、勤務時間中であっても、その勤務時間及び注意力のすべてを職責遂行のために用いて職務に従事すべき義務から解放され、職務上の上司の直接の監督から離れ、右免除がされた目的の範囲内において一定の裁量の巾をもって時間使用をすることが許されることとなる。」(下線筆者)とした。この見解からすると、研修が職専免であるのなら、直接の監督者としての校長の承認や事後の校長への報告などが不要となる。つまり、教育公務員の職責として実施される職務としての研修を職専免で整理することはできない。まさに、職専免による研修という行政解釈は論理矛盾なのである。
 さらに同判例は、もし同法二十条二項によって研修が承認されない状態で研修に当該本人が参加すれば、実質的に休暇・休日を返上したことになるとし、研修承認の件は勤務条件と関連があるものとした。また、遠山国務大臣が154回衆議院・文部科学委員会(2002/05/22)で「特に教員につきましては、常に研鑽を積むということはその職務の一環であろうと思っておりまして、その意味で、自主研修の重要性といのは言うまでもないわけでございます(下線筆者)」と答弁し、自主研修の職務性を認めている。
 以上のような自主研修をめぐる状況は次のように整理できるだろう。「教師の自主的な計画にもとづく『自主研修』は、行政解釈におけるように職務研修と区別されるべきでないどころか、まさにそれ自体が職務研修にほかならないのである。本務である教育について職務命令を受けない保証が教師の『教育権(教育基本法10条、学校法28条6項)』であるが、それとならんで職務としての教育研究についても原則として職務命令を受けない『自主研修』の保障がなければならない。」(20) 

8.おわりに

 岡崎知事が紹介している『アメリカ教育使節団報告書』には次のような叙述もある。「活気のない学校というのは、教えるものが教え始める段階で学ぶのを止めてしまうような学校をいうのである。一方、活気あふれる学校というのは、その学校の教師が最初の準備を終え、自分の職業的義務を全面的に引き受けた時から、その職業上の学習をもっとも効果的に始めるような学校である。」(21) 
 活気のある学校づくりには自主研修の保障が欠かせない。文部科学省も研修の見直しを言い、自主研修の重要さを再確認した。だが、現実には自主研修は日々取りにくくなっている。海外語学研修が許可されない、地球温暖化についての研修が教組主催なので認められない、行政に批判的な団体への研修参加は認められないといった事態であることが新聞の投書欄に寄せられていた(22)。過去の判例では、教組教研の研修性がはっきり認められている(23)。また、行政の指示で校長が教組教研参加を認めなかったとしたら、それは行政が校長の裁量権を侵害したことになり、大きな問題であることも指摘されている(24)。もし、各職場で自主研修が行いにくいのであれば、当面の責任は校長にある。それが、教委の指導であれば校長の裁量権を侵すものであり教委の責任が問われる。 
 行政研修とは自主研修を補完するものである。私たちの職責・職務としての自主研修を再確認したい。そのために、自主研修の実施状況を調査し、自主研修が取りやすい状況をつくることが行政の責務であり、文部科学省の研修に対する見解に沿うものともなる。さらに、私たちは研修全般について説明責任を果たす義務も生じてきている。しかし、それは行政に対してではなく、広く一般社会に対してである。このことを避けて、教師への批判的視線を払拭することはできないであろう。


【註】

(1)「読後覚え書き」第5回 『教育月報』2000年 6月号
(2)『教師の研修権』神田修 三省堂・1988年 p95に有名な箇所として紹介されている
(3)『世界』2001年12月号〜2002年3月号・岩波書店 「させられる教育、途絶する教師」 野田正彰 引用は3月号p252
(4)『季刊教育法』133 エイデル出版・2002年 「アメリカにおける新自由主義教育改革と教師の地位」 世取山洋介 p27
(5) 同上p29
(6) 同上p33
(7)『季刊教育法』75 エイデル出版・1988年 p65対談・証言「教課審・教養審は『学校』をよくするか」中野光・堀尾輝久
(8) (4)に同じ p30
(9)『市民社会と教育』藤田英典 世織書房・2000年 p290
(10)『教師と教育改革』浪本勝年 エイデル出版・1985年 p76
(11) (10)に同じ p77からの表に詳しい
(12) 教育白書は文部科学省のHPを参考にした (http://wwwwp.mext.go.jp/)
(13)『教育権の理論』兼子仁 勁草書房・1987年 p58
(14)『教育法規事典』兼子仁・神田修編 北樹出版・1991年 p146
(15) (4)に同じ p84
(16) 発言内容はこの箇所以外も全て国会会議録検索システムを利用した (http://kokkai.ndl.go.jp/)
(17) (2)に同じ p184
(18) (13)に同じ p55
(19) 判例は「全国労働基準関係団体連合会」の「労働基準関係判例検索」を参考にし (http://www.zenkiren.or.jp/hanrei/)
(20) (13)に同じp55
(21)『アメリカ教育使節団報告書』全訳解説 村井実 講談社学術文庫・2001年p86
(22) 朝日新聞声欄 2002年8月31日及び9月10日
(23) (10)に同じ p93
(24) 教育判例百選(第三版) 別冊ジュリスト1181992年・有斐閣 p200 「教師による時間内校外自主研修」

  

(かなざわ のぶゆき 教育研究所員)
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