映画に観る教育と社会(1)
手 島   純

 はじめに
 中学3年生の時に観た「2001年宇宙の旅」以来、映画に取り憑かれてしまった。アメリカンニューシネマ・ヌーベルヴァーク・東映ヤクザ映画・日活ロマンポルノ・ATG映画を浴びるように鑑賞し、名画を求めては、池袋文芸座や飯田橋佳作座、いまはなき新宿蠍座や銀座並木座に出かけていった。近年は映画も近場で観られるようになったが、やはり単館上映の小作品のなかにきらりと光る映画がある。それらを求めて渋谷へ新宿へというのは今も続いている。
 本誌は教育に関する冊子であるがゆえに映画のことを書くなど場違いのように思われるかもしれないが、学会誌にも書評、場合によっては映画評も載る今日である。当教育研究所も風呂敷を広げたい。ただ、場末の映画館を愛した私にとっては、本誌の片隅に目立たぬように掲載していただければ幸甚である。

 青春の息苦しさや閉塞感、それはどう表現されるか
 「十七歳」(今関あきよし監督)という映画ができた。これは井上路望の同名の原作本を映画化したものである。この原作者が神奈川県立高校の生徒時代に書いたものであるということもあり、必見の映画であった。三重県鳥羽に舞台が移され、いじめ・教師・学校・援助交際・家族・恋愛などをキーワードに17歳の女子高校生の怒りや葛藤が描かれている。ごく普通の高校生が感じる息苦しさがよく表現されていると思う。しかし、路望(滝裕可里)の「息苦しさ」を表現するため、髪の毛の色のことしか言わない教師(山口果林)を特に強調して登場させたのは少々戯画的であるように感じる。路望の母親役である秋吉久美子は、かつて「青春のけだるさ」をうまく表現してきたが、それは他者との関係ではなく自己自身のけだるさであった。
 高校生の青春を強烈に描いた作品に「青い春」(豊田利晃監督)がある。これはある男子高のなかで展開する不良たちの話だ。けっこうめちゃくちゃな話ではある(原作が漫画だからしょうがないか)。学校は落書きだらけ、教師は無能。キレタ生徒が仲間を殺す。番長を決めるのは「ベランダゲーム」といって、ベランダの外側でのけぞりながら手すりを離し、何回手を叩けるかを競うものだ。最後に手すりをつかまないと地上に真っ逆さま、死んでしまうといったゲームだ。このベランダゲームを制した番長の九條(松田龍平)は、しかし、ニヒルな男で特別に番を張るわけでもなく暴力的でもない。それがかえって幼なじみの青木(新井浩文)は気に入らず、九條に「おまえに出来ないことをしてやる」と言い放つ。青木は黒いスプレーで自分の影を塗り(これがシュールで暗示的)、「夢はパイロットでした」とつぶやいた後、ひとりベランダゲームをはじめる。青木は九條よりも多く手を叩くことができた。しかし、すでにベランダの手すりをにぎり返すことはできず、青木の身体は空中に。後は地上に激突するだけだった。
 この映画も高校生たちの「閉塞感」がテーマである。それを不良の世界に焼き付けて、いわば極端な形でデフォルメする。いくつかのエピソードが絡みながら展開するこの映画は、コラージュのようだ。それを松田龍平というキャラクターがうまくまとめている。大島渚の「御法度」で鮮烈にデビューした松田優作の遺児は、松本大洋の漫画「青い春」を不良たちのドラマで終わらせず、観る者に青春の不条理を想起させた。
 思春期や青春期の閉塞感を映画で表現する傾向は日本だけのことではない。最近では「17才のカルテ」(ジェームズ・マンゴールド監督)や「穴」(ニック・ハム監督)が記憶に新しい。特に、「穴」という映画は、ティーンエイジャーのいわば「心の闇」を描いた秀作である。よく言われる「心の闇」など実際には作り言葉のようだが、この映画に限ってそれは存在するように思う。複雑なストーリー性に富むこの映画の筋を簡単にまとめることはできないが、さわりは次のようになろう。
 イギリスでも名門パブリックスクールに通うリズ(ソーラ・パーチ)は3人のスクール生ともに行方不明になる。第二次世界大戦時の防空壕、それは世間からは忘れられた場所であり彼女たちには秘密の遊び場であるその穴に閉じこめられてしまったのだ。迎えにくる人も現れず、防空壕のふたを開けるカギもない。そこで、食料も食べ尽くし、極限状況に追い込まれる。実は、その閉じこめられた仲間のなかに、リズが想いを寄せる男性マイクがいる。その極限状況のなかでこそリズはマイクの心をつかみたい。すべてリズが仕組んだ設定。ところが、リズ以外は死んでしまい、彼女自身ぼろぼろになって防空壕からはい出てきて、精神科医にその一部始終を語る。真実は、しかし、その通りではなく、さらに巧妙な仕掛けがあった。
 この映画はサスペンス調にストーリーが展開していきつつ、リズの複雑な心に分けはいる。そして到達したかと思うと、また跳ね返され、さらに深いリズの心の闇を知ることになる。「穴」(THE HOLE)とは防空壕のことであり、リズの心のことなのだ。
 最近の日本の映画が得てして教師や学校を揶揄したり、ある時は漫画チックな対象にしながら、それとの関係のなかでティーンエイジャーの心を描くという手法をとるのに、「穴」や「17才のカルテ」はあくまで心そのものが主要なテーマだ。それゆえ、精神科医もよく登場するわけだが、この違いは映画の印象にも差異を与える。「十七歳」が息苦しさや閉塞感をいわば無理解な周辺に対置するゆえに逆に底の浅さが時々覗けてしまうのだが、「穴」は不可思議な心自体を対象に展開するためその闇の深さと不条理に打ちのめされる。
 
 ひとつの事件、ふたつの映画
 青春群像を描いたなどという言葉では表現できないが、紛れもなく30年前の若者たちの希望と挫折を描いた映画に「光の雨」(高橋伴明監督)がある。これは同時代を生きた立松和平の原作をもとに、やはり同時代を生きた高橋伴明監督の屈折した思いを、劇中劇ならぬ映画中映画として表現した。つまり「光の雨」という連合赤軍事件の映画自体と映画づくりのプロセスも同時に描いたもので、登場する連合赤軍の兵士は、兵士としての役の合間に俳優としてインタビューをうけたりもするという構造になっている。こうした手法により連合赤軍事件に至る複雑な若者たちの心情をよく表現できたと思う。また、この映画が秀逸なのは、たとえば映画を作ることを任された監督(大杉漣)が映画を作れなくなり逃亡するエピソードで、今日の団塊の世代の心情もくみ上げる。何より印象的であったのは、兵士役を終えた俳優たちが無邪気に雪合戦をするシーンだ。同じ世代の若者が、時代の空気によっては、人も殺すし戯れもする。このシーンは忘れられない。一方、同じ連赤を扱った「突入せよ!あさま山荘事件」(原田眞人監督)は羊頭狗肉の映画だった。これは「あさま山荘」でなくていい。「突入せよ!不法占拠事件」で充分だ。 鳴り物入りで上映された映画より、ひっそりと上映された「光の雨」が断然いい。

 
 (てしま じゅん  教育研究所員) 
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