『紀要』を器用に作ってみよう
―「開かれた学校」時代の説明責任と『学校研究紀要』― 
綿 引 光 友

1.はじめに

 学生時代に地理学研究会という何ともお堅い研究サークルに所属し、共同調査報告書やサークル機関誌づくりに関わっていた影響もあって、研究集録を作ることが筆者にとって長年の夢であった。教員になってまもなく、学生時代に書いた雑文を「地理学のおと(ノート)」と題する小冊子(ガリ版刷り)にまとめた。とはいえ、学校という組織として、研究集録のようなものを作るとなると、個人や小さな学生サークルとは違い、当然のことながら簡単ではなかった。
 「できるところから始めよう」ということで、分会(組合)や教科で職場の取り組みや実践記録をまとめたこともあったが、なかなか継続させることは困難であった。「継続は力なり」との言い古された言葉があるが、それとは反対に、継続させるには莫大な力(エネルギー)が必要であることを痛感させられた。
 教科で研究実践誌の編集を約10年間続けていたときも、学校の研究紀要(以下、紀要と書く。本来はこれに二重カギ括弧をつけるべきだが、繁雑になるので省略した)
へと発展させたいとの個人的思いは持っていたものの、全体に提案する勇気も、さらにはそのような分掌や立場にもいなかったため、果たせなかった。予想どおり、筆者の転勤後、その研究実践誌は消滅した。
 このような何度かの挫折もあり、諦めかけていた頃に、たまたまO高校の紀要に目が止まった。さらにパイロット・スクールである神奈川総合高校でも、分厚い紀要を出していることを知り、筆者の長年の夢が実現できるかも知れないとの予感を感じさせてくれた。ちょうどその頃、ある管理職にそのような思いの一端を雑談で話したところ、「2〜3人でもいいから作ればよいではないか」と励ましのアドバイスをもらった。しかし、「出る杭は打たれる」との思いもあり、行動には移さなかった。
 その後、カリキュラム検討委員となり、その打ち合わせの場で、紀要づくりについて恐る恐る個人提案をしてみることにした。予想に反してすんなりと了承され、さらに委員会案として職員会議に諮ったが、反対意見もなく全体の了解を取り付けることができた。高校再編計画の発表が出されて以来、学校改革の機運が職場全体に少しずつ高まっていたことが幸いしたのかも知れない。提案からおよそ半年、年度末ぎりぎりに記念すべき第1号を出すことが出来た。
 この紀要の完成は、個人的にはおよそ30年来の悲願が実を結んだこととなるが、今後も継続して発行されるかどうかわからない。こうした経験を経て、県立高校においてどれくらいの学校で紀要が作られているか、調査してみようとの衝動にかられた。そこで、こうした学校出版物を所蔵している県立総合教育センター図書室(善行庁舎)と(財)高校教育会館県民図書室に何度か足を運び、各校の紀要を取り出してその刊行年や目次・内容などを調べ、この小論にまとめることになった。
 まずは、紀要の発行状況を年代順に並べ、目次を紹介しながら概観する。さらに、総合教育センター1階の書架には、県内の私立高校が出している紀要が並んでいることを発見したので、その発行状況にも若干ふれる。次いで、各校紀要の巻頭文などを引用し、どのような趣旨や経緯から刊行に至ったかを見ていきたい。最後に、「開かれた学校づくり」との関係から、紀要発行の意義について言及し、さらに費用をかけずに紀要が器用に作成できるノウハウを示すつもりである。

2.県立高校における紀要の発行状況

 両図書室で筆者が確認した県立高校発行の紀要は、19校分になった。いずれの図書室でも、各校から送られてきたものを学校別のボックスに整理・保管しているが、バックナンバーは必ずしも揃っていない。1〜2号しかないものや部分的にしか保管されていないものもあった。1冊だけ存在するが、その後は発行が途絶えてしまったのではないかと思われる紀要もあった。最新のものでも、2〜3年前に刊行されたものしか保管されていないので、今現在も継続して発行しているかどうかは確認できなかった。本来ならば、直接各学校に問い合わせて、確認すべきなのだろうが、今回は両図書室で目にすることができた紀要だけをもとに小文を展開せざるを得なかった。
 まずは19校で発行された紀要を創刊年順に並べ、一覧表にしてみた(85ページ)。この一覧表以外の学校でも紀要が刊行されているかも知れないが、それを抜きにして仮に19校と限定しても、県立高校のうち約8校に1校の割合で発行されている計算となる。そのうち、今日もなお続けて刊行している高校が何校になるか不明だが、恐らく数校近くにのぼると思われる。創刊年から3つの年代に分け、特徴的と思われる紀要について以下に紹介する。

(1)70年代に創刊された紀要
 今回の調査で創刊年が一番古かったのは、A高校の紀要(76年刊行)であった。しかしながら、この創刊号のあとがきに、「(あとがきの筆者が着任する)十数年前から紀要が発刊されていた」とあったので、その起源はさらに十数年前の1960年前後にさかのぼることができる。このA高校を含め、70年代に創刊された紀要は全部で4冊。参考までに、A高校の紀要(B5、22ページ、活版印刷)の目次を以下に示そう。
 あの頃のこと(校長)/自主的・自発的学習と学力・評価/授業でこちらが考えたこと/教員生活25年を経過して思うこと/どのように授業を進めたらよいか/わかろうとするとわかろうとさせる授業
 二番目に古いB高校の紀要は、「図書館紀要」とのタイトルが示すように、この中では唯一、図書館が発行する紀要である。最終号数が17号とあるように、今回調査の中では、20年以上と最も長く継続発行されている紀要である。創刊号の校長のことばを以下に引用する。
 「我々は夏季休業等々で他の公務員に比して研究の時間には恵まれ、その研究が教育的価値を有し、直接現場に役立つものはかなり我々の目にふれています。しかし、一校の先生方でこのような紀要を発刊することは大変なことであります。日頃の研さんがいかに立派であり、努力されているかが一読して伺えます」
 79年創刊のC高校も、少なくとも15号(93年)までは刊行されているから、これも少なくとも約15年は続いていることになる。

(2)80年代に創刊された紀要
 80年代に創刊された紀要は10校においてであり、全体の半数以上を占めている。そのうちの7校は同じ80年代に開校した新設校であり、うち6校が開校から1〜3年後に紀要が創刊されている。まえがきを読むと、開校当初から「研究紀要を毎年出そう」との機運がもりあがっていたと記された学校もある。学校づくりと併せて紀要づくりも進められていたことになる。
 中でも85〜6年頃に設立された3校の紀要は、「研究紀要」とのタイトルをつけず、「実践記録」とか「教育実践記録」との名称がつけられていた。年間の教育活動が詳細に記録され、古い言い方でいえば「学事報告集」ともいえる内容であった。
 L高校の場合、開校した年の4月末に「教職員の研究について(県立L高校研究集録要領)」なる文書が作られているが、その全文を以下に再録する。ただし、この文書がどういう経緯で提案され、実際にはどのように運用され、さらには実践化されていたかといった詳細はわからない。
目的:県立L高校の教職員として、生徒の指導に必要な専門的知識や技術あるいは人格性など高い資質と能力を養うために、校内研修の一環として各自テーマを決め、個人又は共同で研究を行う。
内容:内容・形式は自由とする。各教科の専門分野や生徒指導等でそれぞれ問題意識を持った領域について自由テーマを決める。ただし、テーマは、日常の教育実践にかかわりを持ち、われわれの指導力や学校の教育成果を高める上に有効に結びつき、相互の研修に役立つものであること。
期間:1年とする。
集録の作成:年度初めにテーマを決め研究を行い、年度末に研究結果をまとめ提出する。提出された研究を集録し冊子とする。
 なお、ここでは一覧表に入れなかったが、校内の有志が集まり、雑談会のようなイメージで始めた研究発表会の発表要旨をまとめた冊子も県民図書室から発見された。M高校の紀要は、職員文集が母体となって紀要へと発展したとのことだが、2号以下は見つからなかった。

(3)90年代以降に創刊された紀要
90年代以降に創刊された紀要は5校においてである。最新のバックナンバーを見ていないので一覧表には示されていないが、R高校を含む少なくとも3校では今も継続発行していると思われる。R高校の紀要冒頭には、紀要発行のねらいを「授業実践の記録、教材等を集積し、共有の財産とすると共に、それを広く問うことにより、これからの教育活動の一層の充実を図ること」(執筆者は校長ではなく、紀要の編集担当者と思われる)にあると記している。さらにその後には、「日々の苦闘とひとすじの希望が併せ窺えるこの『研究紀要』は、一つの到達点であると共に、新たな出発点でもある」との一節があった。紀要の本質を突いた実に重たい響きをもつことばである。
O高校の紀要(B5、36ページ)から、その目次を以下に掲げる。
研究紀要の発刊に寄せて(校長)/「死の教育」の必要性について/最後の百済王豊璋について/学習意欲を高めるために/多摩丘陵と文人たち/こどもをとりまくもの/社会科巡検レポート/パソコン教育ソフト(高校数学オールグラフ)/高校教師の主題と変奏
Q高校の紀要は19校中唯一、定時制で独自に出されたものだが、6号以降は出されていないとのことだ。

3.私立高校における紀要の発行状況

県立総合教育センター図書室1階の書架には、県立高校から出されている各種出版物だけでなく、横浜市立高校や県内にある私立高校から送られてきた紀要や記念誌等も学校別に整理・保管されている。今回の筆者の調査によって、紀要を発行していることが確認できた学校名を以下に掲げる(あいうえお順)。
 神奈川大学附属、関東学院六浦、慶応義塾、清泉女学院、相洋、日本女子大学附属、日本大学藤沢、フェリス女学院、武相学園、法政大女子、法政二高、横須賀学院、横浜英和学院(以上13校)
 これらの学校から出されている紀要のバックナンバーをみると、発行年が2000年以降のものが半数近くもあった。私立高校から総合教育センターへの送本が、県立高校よりも確実かつ定期的に行われていることが伺える。
 同センターで確認できた紀要は全部で13校分だったが、県内の私立高校数は76校なので、単純計算をすると約6校に1校となる。ただし、センターの図書室にある学校別ボックスはすべての私立高校分が揃っていなかったようなので、実際にはもっと多くの私立高校で紀要が出されているかも知れない。
 いずれにせよ、県立よりも私立高校の方が紀要を継続的に刊行しているような印象を覚えた。紀要は私学にとっては学校のPRにもなるし、印刷費用の捻出なども県立に比べれば容易と思われので、こうした差が生じるのではないだろうか。ここでは目次の例示は省略するが、大学などが発行する紀要のように、個人の研究論文を中心に編集したものが多かった。

4.巻頭言・まえがきからみる紀要発刊のねらい

 ここでは、先に紹介した県立高校の紀要の冒頭に掲載されている巻頭言やまえがきなどから、創刊に至った動機やねらいなどを引用する。これらまえがきのほとんどは校長の手によって書かれているが、研究や研修の重要性などについて説得力ある筆致で展開された文章も少なくなかった。たとえば、先にふれた創刊年がもっとも古いA高校の紀要まえがきには、「生徒には常日頃学校は勉学の場であるといってはいても、教師に勉強の姿勢がなくては、その言も迫力に欠ける」とズバリと核心を突くことばがあった。F高校の紀要にも、「学園は道を求めるものの集団であり、組織体である。師の真剣な学問並びに人生に対する求道の姿こそ、生徒は感得し、尊敬の念を持ち、『一期一会』の真剣勝負が展開されるものと思う」とある。これを書いた校長自身も著名な研究者でもあったから、こうした含蓄のあることばが書けたのだと思う。
 K高校のまえがきには、次のように書かれてあった。
 「思うにわれわれ人間が、何事であれ、『ものごとを記録する』という行為は『自分自身のとった言動や思考を整理・整とんすること』にあり、そこには、自然と『反省』が生まれ、『愛着の心』が湧いてきます。そしてまた、この『記録する』という行為は、どんな場合でも、『将来に向かって前進する』ために非常に役立つことになります。そういう意味で、この『記録する』という行為は、ものごとを『創り上げていく』場合に、必要欠くべからざるものです」
 このまえがきは、「記録する」ことの意義が非常にわかりやすく述べられており、共感を覚えた。筆者もことあるごとに、「記憶は消えるが、記録は残る」とのことばを用いながら、記録し、総括することが次へのステップ・アップに繋がるとの主張を繰り返し述べ、実践してきたからだ。
 O高校では、開校から十数年たって初めて紀要を発刊したとのことだが、その序文を引用する。
 「今年度から指導目標の一つとして平素の授業を大切にすることが掲げられています。授業を充実したものとするためには、お互いに切磋琢磨し専門性を高めることが不可欠でありますし、一つのチャンスを捉らえてこれまでの自己の歩みを確実にしておくことも大切かつ重要なことでもあります。(略)高等学校新学習指導要領も告示され、10年足らずで21世紀を迎える現在、々教員にとって研さんを積みそれを教育実践に生かしてゆくことが急務であります。それは、教員一人ひとりの研究活動に負うところが大であり、こうした研究紀要を積極的に活用され、学校における研究活動の一層の充実が図られるよう期待しています」
 教育公務員特例法を持ち出すまでもないが、教員が研究や研修に積極的に取り組むことの重要性について、G高校のまえがき(5号)は以下のように述べている。
 「どんな苦境におかれても、我々は学校の将来に希望の炎を掲げて前進していかなければなりません。どんな忙しい現実の中でも研究を行っていく余裕を見つけていかなければならないと思います」
 最後にもうひとつだけ引用することを許してもらいたい。これは開校した年度末に出された都立総合高校の紀要(1997年3月発行)の序文だが、紀要発刊の意義を2点にしぼり、わかりやすく記述している。
 「(略)私(校長−筆者)の手元には全国からお送りいただいた紀要等が十数冊ある。中味を拝見させていただくと、その多くは個人やグループによる研究論文であったり、教科や分掌等で取り組んだ実践報告である。それらは各学校での一年間の諸活動を総括したものであり、次年度以降の教育活動の改善に生かされていくものである。その意味で、研究紀要の発行は教育の質を高める上で、重要な役割を果たしているように思われる。
 二つ目に、本校のような教育改革を積極的に進めている学校に、特に求められる役割といったようなものがある、と私は思っている。(略)各年度ごとに成果や課題を明らかにしておくことが、本校にとっては2年後の学校の完成年度に向けて、あるいは5〜10年後の学校の在り方を総点検する場合に重要な手掛かりとなる」

5.開かれた学校づくりと紀要

 S高校の紀要には、「学校はけっして特殊社会ではなく、だれが、いつ、どんな教育を、どのように実践しているのか、常に学校に訊ねる権利が存在します。学校評議員制度をはじめ地域社会への学校開放、公開授業など、今後、ますます学校の門は開かれなくてはなりません」とある。
 80年代早々に出されたE高校の紀要は、A5サイズで150ページを超える分厚さもさることながら、内容の密度の濃さにも驚いた。しかもそれが、PTAの手によって発行された紀要であるという事実に度肝を抜かれる思いだった。紀要発刊の動機は、「先生方の自主性と責任に基づいて行われる教育活動が正しく父母に伝えられ、わが子を思う父母の願いが先生方の正しい判断力によって汲み取られるような場」(巻頭言)を作ろうとしたところにあったという。巻頭言を踏まえ、編集後記は、「父母の教育参加は、まず第一に、その学校の有様を正しく知ることから始まらねばならないし、先生方は日々の教育活動を父母に示し、父母の願いを聞く必要があろう」と述べ、さらに「『紀要』は父母、先生方においてE高校を理解し、さらに素晴らしい学校にして行く討論の糸口となるだろう事を期待する」とのことばで締めくくられてあった。
 今から20年以上も前に、今日の開かれた学校づくりに通じる、「父母の教育参加」を大目標に据えて紀要が作られていたという事実は特筆に値する。ただ、翌年度のものはページ数も3分の1以下と大幅に減少したばかりでなく、PTA活動の記録と報告が中心となり、創刊号がめざした理想からはやや離れたものになってしまったことは残念であった。さらに、3号以降が刊行されているのかどうか不明である。
 今、あちこちで開かれた学校づくりが叫ばれ、学校評議員制度も動き出している。開かれた学校の究極的な目標は、よりよい学校づくりであり、教育の質的向上にほかならない。すなわち、開かれた学校とは、ともに創る学校であり、子どもを中心に据え、教師も親も共に学びあい、育ちあう関係を構築することでもある。そのためには、学校・家庭・地域の三者がそれぞれの果たすべき役割を十分に自覚しつつ、協力・共同していかねばならない。学校が困難な課題を抱えているとしたならば、それら課題や問題点を共有し、解決に向けた共同の取り組み(協働)を展開しなくてはならない。
  「学校おまかせ主義」や「学校絶対主義」の時代ではないし、学校の困難を教職員だけの力で解決できる時代でも決してない。三者(さらに子ども・生徒も含めれば四者)が協力・共同して、学校づくり・地域づくり・人間づくりに取り組んで初めて、学校や現代社会が抱える困難と矛盾を克服していくための端緒が開かれてくるのではないだろうか。また、こうした取り組みを紀要のような形で記録し、他の学校・地域と実践交流していけば、開かれた学校づくりはさらに進展していくであろう。
 「年間活動総括集」ともいうべき紀要は、学校評議員にもすすんで読んでいただき、助言や意見を述べてもらうための基本文献となるだろう。さらに、専門の研究者にも助言と指導を求めたらどうだろうか。そして、評議員や専門家のコメントも紀要に集録すれば、これだけでもりっぱな「学校評価」の一材料となるだろう。
 今年(2002年)5月2日付の教育長通知「平成14年度県立高等学校 学校運営の重点課題」には、「学校が地域住民の信頼に応え、家庭や地域と連携協力して一体となり、子どもの健やかな成長を図るため、より一層地域や社会に開かれた高校づくりを進めることが求められる」とあった。具体的には、「学校は、現在取り組んでいる一つ一つの教育活動のねらいを明確にするとともに、その結果についても説明責任があることを踏まえ、より一層充実した教育活動の展開に努める必要がある」と述べている。紀要は、この「説明責任」を果たすための重要な資料にもなるだろう。
 さらに教育長通知は、「各学校の教育方針や特色ある教育内容を中学生やその保護者、中学校、さらには広く県民に周知するとともに、地域の方々の高校に対する理解をより深め、高校が地域に親しまれ、地域社会の一員となることができるよう、積極的な情報発信に取り組む必要がある」とも述べている。「情報発信」の一例として、「ホームページや広報誌の活用」をあげているが、紀要も「教育方針・教育内容の周知」や「情報発信」に取り組むことが可能な有力な媒体の1つとなると思われる。

6.おわりに

 今日も継続的に刊行されているかどうかは別にして、今回の筆者の調査によって、県立・私立あわせると30校を超す県内の高校で紀要が自主的に出されていることがわかった。このうち県立の場合、今現在も継続して発刊されている紀要は3校程度ではないかと思われるが、より多くの高校での自主的な取り組みを期待したい。
 そもそも紀要とは、「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」(『広辞苑(第4版)』)であるが、高校で発行する場合には、研究論文はもちろんだが、分掌や学年・委員会さらには教科、部活動などの活動報告や実践報告をメインにした内容とすればよいのではないだろうか。先に紹介したR高校の紀要には、いみじくも、「日々の苦闘とひとすじの希望が併せ窺えるこの『研究紀要』は、一つの到達点であると共に、新たな出発点でもある」とのことばがあった。出来上がったばかりの紀要を「新たな出発点」として、次年度の教育目標や方針を論議し、実践と研究に取り組めば、「日々の苦闘」の中に「ひとすじの希望」、いや、必ずや大きな希望を見い出すことができると確信する。名称も紀要では堅いイメージもするので、それぞれの学校で工夫し、それこそ個性的なネーミングをすればよいと思う。
 一番の問題は、お金と組織かも知れない。しかしながら、ワープロとパソコンが普及し、すぐれた印刷機(ローラーにインクをつけ、1枚1枚印刷した経験をもつ筆者には隔世の感あり)が各職場にあるのだから、労力は大変だが自前の編集・印刷が十分可能な環境にあるのではないか。したがって、あとは製本だけだが、これだけを業者に発注すれば、表紙の紙代を含めても数万円あれば紀要が出来上がるのである。
 組織については、やはり分掌なり委員会に位置づけないと継続的な発行は困難であろう。面倒なしごとが増えるので、「敬遠されることまちがいなし」だが、完成原稿(版下)の集約程度に限定すれば、印刷などは人海作戦でやればよいのである。
 以前いたある職場において、年度末の職員会議で2回に分けて、学年・分掌の反省をしたことがあった。校長のリーダーシップ(当時は、「鶴の一声」と言った)によって始まったものだが、回数を重ねるにつれて形式主義・事務主義に流れ、報告後の論議がほとんどなされなくなった。「年度末の忙しいときに、なんでこんなことを…」といった職場の空気も感じられ、尻すぼみとなった。
 管理主義の風圧が強まる今日、マンネリに陥ることなく、絶えずモチベーション・アップやパワー・アップを図っていくことは、学校全体にせよ、教職員個人個人にせよ、なかなか困難なことではあろう。しかしながら、本当の意味での「開かれた学校」(学校を「聖域」とし、「上から型にはめ込む」教育を推進してきたのは、明治以来の国策であったことを忘れてはいけない)を追求し、子ども・生徒を中心に据えた学校改革を保護者・地域の人々とも連帯し、下から作り上げていくしかない。

(わたひき みつとも 県立長後高校教諭) 
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