特集 : 「総合的な学習の時間」が迫ってくる
 

総合学習の歴史と展望

綿引 光友

 
1.はじめに

 小・中学校では、 「総合的な学習の時間」 の全面実施まであと半年あまりとなった。 高校の場合、 もう 1 年あとの2003年度の実施となるが、 今秋には 「新教育課程表案」 を県に提出しなければならないとのことだから、 この 「総合的な学習の時間」 についての本格的な検討が急務となっている。 
 新指導要領の目玉でもある 「総合的な学習の時間」 の実施を目前にして、 どこの職場・学校でも大慌てのことと思われるが、 その 「時間」 そのものが当時はかなり唐突に提起されたといわれる。 しかも 「総合学習」 という言葉をあえて使用せず、 「総合的な学習の時間」 というネーミングにしたことも、 この 「時間」 のねらいをあいまいで、 わかりづらいものにしている。 
 いうまでもなく総合学習という名称は、 かつて中央教育課程検討委員会 (日教組が委嘱) が作成した 「教育課程改革試案」 に登場し、 議論を呼んだものである。 この 「試案」 には総合学習が出て来た背景として、 「明治以降、 大正・昭和期を通じ、 日本の民間教育運動の遺産を継承し、 それを今日的に発展させようとするもの」 と説明し、 次のような言葉で結ばれている。 「こうした実践の歴史を総括するとき、 今日、改めて、 総合学習を積極的に推進することによって、 積年の諸先輩の努力に応えるとともに、 より発展的な展開への契機にしたいと考える」 1)
 本稿では、 中央教育課程検討委員会が示した 「教育課程改革試案」 の内容にふれながら、 約1世紀にもおよぶ総合学習の歴史を概観し、 その歴史から何を学びとったらよいか考えてみたい。 さらに、 「総合的な学習の時間」 新設のねらいにもふれてみたい。

 

2.総合学習の源流

  総合学習の源流の 1 つは、 戦後のコア・カリキュラム運動に求めることができる。 このコア・カリキュラム運動はアメリカのヴァージニア・プランなどの影響をうけたとされるが、 それよりもさらに溯ること数十年、 すなわち今日からおよそ 1 世紀近く前にすでに、 総合学習の源流とみられる取り組みが見られたのである。 
 
(1) 高等師範附小の遠足
  最も古いものとしては、 高等師範学校附属小学校訓導・樋口勘次郎が書いた 『統合主義 新教授法』 (1899年) に紹介され、 当時広く影響を及ぼした実践に溯ることができる。 樋口は、 1886年11月、 2 年生の遠足 (上野・池の端〜飛鳥山) に取り組むにあたって、 遠足は 「遊山」 ではなく 「世界を大学校」 ととらえ、 「すべての物を、 その社会の中にて、 他の各員と相互関係の状態に於いて観察」 させることが目的だとした。 
 これは子どもの自己活動を中心とし、 教科をこえて総合的な学習をめざすものであり、 この遠足を通して学んだ 「子どもの学問」 は、 動物学、 植物学、 農業、 商業、 工業、 地理、 地質、 人類学、 物理学、 詩、 修身、 作文におよぶものだというのである。 
 
(2) 長野師範附小の研究学級
  長野師範附属小学校における試みが記された淀川茂重の 『研究学級の経過』 (1925年) に、 次の言葉がある。 「教育は行きづまっている。 教科目も教授時間も法によって規定され、 教材の選択も分量も排列も国定教科書によって決定されている。 教育はその内容も形式もすでに規定されている。 だから、 研究といへば、 所定の教科は所定の時間にどれだけの教材を教授すべきか、 それはいかにして可能であるかの範囲しかゆるされていない」 と。 しかし、 そうした 「行きづまり」 の中にありながらも、 「児童の生活をおもんじ、 児童はその生活から学ぶ事である。 児童はみづから歩んでいく。 わたしたちは児童をあゆませる。 そこに教育を発見し創造することである」 との考え方に到達し、 「児童が学習しつつある教科の綜合は、 やがて児童生活の総体でなければならない」 とある。 
 生活体験を重視する総合学習を展開した研究学級の実践と研究 (1917〜37年) は、 外部の参観を断るという方針もあって、 校内にとどまり、 広く影響を及ぼすまでには至らなかった。 
 
(3) 奈良女子高等師範附小の合科学習
 1920年から、 木下竹次主事のもとで展開された奈良女子高等師範附属小学校で実践された 「合科学習」 は、 授業参観、 学習研究会、 雑誌などによって知られるところとなり、 全国的に大きな影響を与えた。 木下竹次は20余年にわたって同校の主事を務め、 同校を新教育運動のメッカとした。 木下は、 当時教育用語としてはあまり使用されなかった 「学習」 という言葉を用い、 その著 『学習原論』 (1923年) の中で 「他律的教育から自立的学習へ」 を説いた。 「学習は、 学習者が生活から出発して生活によって生活の向上を図るものである」 とし、 分科主義による生活の分断を否定し、 「生活単位」 を学習の題材にする 「合科学習」 =生活学習を主張した。 
 職員会では事務的な内容は最小限にとどめ、 実践に関する論議を行う日常的な研究の場とした。 月に 2 回程度研究授業が行われ、 授業批評会が持たれた。 一方、 実践の基盤となる教養を豊かにすることが求められ、 読書会や講演会、 映画鑑賞などへの参加を積極的に勧めたといわれる。 

 (4) 明石女子師範附小の分団式教育法
「大正自由主義教育」 の一方の旗手といわれた及川平治も、 明石女子師範附属小学校 (1907 年着任) を舞台として、 「分団式教育法」 や生活単位を基本とする 「小学校カリキュラムの改革」 などを提唱し、 「カリキュラム改造全国講習会」 を開催 (1928〜32年) した。 及川が掲げた教育方針は 「児童本位の教育」 と称され、 「児童の直接経験を尊び児童自身の判断に訴える教育を施すこと」 が謳われていた。 
  及川は、 子どもの要求=学習動機こそが教育の出発点だとし、 生活体験を通じて知識や技能を習得させようとの考え方であったが、 後にまた紹介するが、 戦後のコア・カリキュラム論に引き継がれている。 彼は文部省の要請により、 1 年 4 カ月間、 欧米の教育視察にも赴いている。 
 ここまでに紹介した 「研究学級」 や 「合科学習」 などの取り組み2) を見ると、 たとえ 1 つの学校であっても、 教則や国定教科書による教育内容の統制支配を乗り越え、 今日にも通じるカリキュラム改革の実践が下からつくり上げられていたことに驚かされる。

3.戦時下の 「教育改革」 と国民   学校の 「綜合教授」

 その後、 「昭和」 に入ると、 先にふれた子ども本位の学習に対する文部省による規制が強められ、 さらに戦時体制に向けた 「教育改革」 の波に飲み込まれていった。 しかしながら、 1937年に設置された内閣総理大臣直属の教育審議会において、 奈良女子高等師範附属小学校の 「合科学習」 の是非が議論されたといわれる。 この答申によって国民学校の設置が盛り込まれるが、 初等国民学校の教科は 「国民科 (修身・国語・国史・地理)、 理数科 (算数・理科)、 体錬科 (武道・体操)、 芸能科 (音楽・習字・図画・作業・裁縫)」 の 4 教科 (高等国民学校の場合は、 これに 「実業科」 を加え 5 教科) に統合することが示されている。 
 しかも 「第 1 学年、 第 2 学年ニ付テハ周到ナル監督ノ下ニ全部又ハ一部ノ教科ノ綜合教授ヲナスコトヲ認ムルコト」 とある。 ここに 「綜合教授」 という言葉が見られるが、 おそらく 「綜合」 という用語が使われた最初ではないだろうか。 
  「この 『統合カリキュラム』 は、 (略) 現場の教員たちからは十分に理解されずに終わってしまった」 3)と言われる。 しかし敗戦の翌年、 すなわち 46年 7 月17日付け 「朝日新聞」 に 「自主的な実態教育へ 有望な低学年の綜合授業」 との見出しで、 先に述べた国民学校 「綜合教授」 の文部省指定の 「実験学校」 となった、 長野師範附属国民学校における授業の様子が紹介されている 4)。 
 同記事中には、 「問題の 『綜合授業』 である、 未分科の 1 年生には算術も読方も手工も渾然ひとつになつた綜合授業が適当だと、 数年前から公に定められてはゐるが、 まだ実施の域に入つてゐない」 とある。 このことが事実だとすれば、 「綜合教授」 は戦時体制下にあっては実現には至らなかったが、 「来春からスタートする新しい国民学校教育」 (同紙) の中で本格的に展開しようとの考え方が、 当時の文部省にあったと思われる。

4.戦後教育改革とコア・カリキュラム

(1) 文部省による 「教育革命」 の徹底
 「(略) 他の領域におけるよりもはるかに徹底して、 根本的、 革命的な改造を遂げてきた」 との書き出しで始まる 『日本における教育改革の進展』 (1950年 8 月、 第 2 次訪日アメリカ教育使節団に提出) と題する報告書は、 文部省が敗戦以来 5 年間、 戦後の教育改革にいかに積極的に取り組んできたかをまとめた総括文書である。 「今次の教育改革が、 われわれ日本国民における人間革命を、 将来しようする明確な理想にその根底を置いて、 計画化されているからである」 「教育改革のこのような根本的・徹底的な性格を、 われわれは、 教育基本法の制定のうちに、 具体的に見ることができる」 「これらの法律 (教育基本法のこと−筆者) の表現が過去の教育の偏向と誤りとを、 具体的にえぐり、 教育革命の方向を、 現実的な視角に立って提示していると断定できるのである」 といった記述を見るとき、 当時の文部省の教育改革にかける意気込みと、 「新日本の教育憲章たるこの画期的な法律」 であり 「精神革命の方向を示す」 (同報告書) とされた教育基本法に対する自負心が読み取れる。 
報告書の 「カリキュラムの改造と学習指導要領」 の項の冒頭には、 「小科目の分立を廃して、 大きな領域の教科に変えられたこと。 その代表的なものとして、 地理・歴史・公民などの教科が統合されて新たに社会科が設けられた」 と記されている。 その指導法としては、 「その土地の状況や児童生徒の興味と要求を考慮して単元を設定し、 教師と生徒との協力によってこれを展開する」 とあり、 さらにこのことが 「各教科にわたる学習指導方法の一大変革をもたらす契機となった」 とも書かれている。 最後は、 「児童生徒の社会的関心を高め、 その学習活動を活発にし、 自学自習の風を助長し、 それが他の教科の学習態度にもよい影響を及ぼしていることは争えない事実である」 との言葉でしめくくられている。 
 
(2) 学習指導要領と社会科の誕生
 1947年 3 月、 「新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手びき」 として出された 「学習指導要領 一般編 (試案)」 には、 「教科課程はどうしてきめるか」 との節があり、 次のように説明されている。 長い引用となるが、 以下に抜粋する。 
「教科課程は、 このように、 社会の要求によつて考えられるべきものであり、 また児童青年の生活から考えられるべきものであるから、 社会の変化につれて、 また文化の発展につれて変わるべきものであるし、 厳密にいえば、 その地域の社会生活の特性により、 児童青年のその地域における生活の特性によつて、 地域的に異なるべきものである。 教育が地域地域の社会に適切なものとなるには、 どうしても、 そうならなくてはならないはずである。 だから、 教科課程は、 それぞれの学校で、 その地域の社会生活に即して教育の目標を吟味し、 その地域の児童青年の生活を考えてこれを定めるべきものである」 
この指導要領の下で、 「社会の要求」 と 「児童青年の生活」 を軸とした、 いわゆる 「コア・カリキュラム」 が生み出された 5)。 コア・カリキュラムとは、 「特定問題と特定領域をコア (中核課程) として、 各教科等の教育内容の統合をはかるカリキュラム」6)のことをさす。 
 一方、 当時の文部省において、 「国民教育の中心教科」 と位置づけられた社会科の創設に指導的役割を果たしたのは、 重松鷹泰 (のちにコア・カリキュラム連盟副委員長)、 上田薫 (のちに都留文科大学学長) らであった 7)。 彼らは、 アメリカの社会科 (ソーシャル・スタディーズ) に示唆を受けつつも、 戦前の 「合科学習」 や 「生活綴方」 などの教育実践の成果を 「新教育の花形教科」 である社会科教育に生かそうと尽力した。 
 
(3) 明石附小プランとコア・カリキュラム
 かつて及川平治のもとで 「分団式教育法」 に取り組んだ実績をもつ兵庫師範女子部附属明石小学校は、 46年 4 月から低学年の 「生活総合教育」 を復活させた。 翌47年には、 「カリキュラム改造の本陣に突入」 するとともに、 「社会科中心の総合学習」 の機運を醸成し、 48年、 「明石附小プラン」 を作成した。 この取り組みは、 全国的にも大きく注目を集め、 コア・カリキュラム連盟の結成 (48年10月、 のちの53年 6 月に生活教育連盟と改称) を促すことにもつながった。 49年 3 月、 同校は、 過去 3 年の研究成果を 『小学校のコア・カリキュラム』 と題する著作としてまとめた。 この書の序文には次のように記されている。 
「『新教育の幕を開かん、 人類の為に!』 というモットーのもと 『動的分団的教育』 を提唱し、 近代カリキュラムの構成に着手して容れられなかった故及川主事の遺業が、 はしなくも終戦と共に明石附小のスタッフに継承された。 新しい日本を育てる新しい教育を切り開き教育のほんとうの地方化と民主化をはかろうと祈念する我々の仕事は、 及川主事このかた明石に伝統の教育精神を礎石とする」 
当時、 この明石附小だけでなく、 「空腹の訴うるものなく青白き / 電燈のもとコア論たぎる」 「火の消えてストーブかこみコアカリを / 論じる部屋に吹雪まいこむ」8)といった短歌に表現されたような光景が全国の学校で見られた。 しかしながら、 「新教育」 の先駆ともなったコア・カリキュラム運動は、 わずか10年足らずで大きな 「逆風」 にさらされることとなった。 朝鮮戦争を契機とした、 いわゆる 「逆コース」 の中で、 実生活と結びついた教育への抑圧が強まったこともあるが、 現場教員のなかでも 「何をしてよいかわからない」 といった風潮が根強く残っていたこともその要因として考えられる。 
 追い打ちをかけるように、 53年頃から文部省によって道徳教育の徹底が叫ばれ、 「社会科廃止」 や 「社会科批判」 に便乗した社会科解体の動きが活発化した。 さらに58年の学習指導要領の改訂において、 「道徳」 の時間特設が強行される一方で、 「基礎学力の充実」 と 「科学技術教育の向上」 を目標とした 「系統学習」 が打ち出されたため、 従来の 「生活単元学習」、 すなわちコア・カリキュラムが排斥される運命となった。 同時に、 この学習指導要領から 「試案」 の 2 文字が消え、 「法的拘束力」 があるとされ、 これから以降、 教育内容に対する国家統制が強められた。

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