特集 : シンポジウム「17歳〜高校生の生活実態と学校」
 
 高校生のかかえる大変さ

浜崎:皆さん、こんにちは。柿生西高校の浜崎と申します。今まで中堅校といわれる高校2校を経験しまして、昨年春から、柿生西高校に勤めております。柿生西高校は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、県下でも有数の“底辺校”とか“課題集中校”とか言われる学校で、教師の目から見て指導が大変な生徒がたくさんいる学校です。
 例えば、茶髪・ピアスは多いですし、校舎内を土足で歩いたり、私服で登校して来たりする生徒もいます。授業中も廊下にいて授業に出ない、いわゆる“廊下組”というふうに言われる生徒も少なくありません。昨年春赴任早々、すごくびっくりしたのは、校門の外に売店があるのですが、売店の前の地べたに座り込んでカップラーメンを啜るたくさんの生徒たちを見たときのこと。もちろん授業中のことです。何という大変な学校に来てしまったんだろうか、何という生徒なんだろう、と思いました。
 でもその後、彼らと接する時間が段々多くなるにつれまして、好き放題にしているように見える彼らですが、彼らが大変なもの、辛いものをたくさん抱えているんだということが私にも見えてきました。
 彼らが抱えている大変さというのは、柿生西の生徒については見えやすい形で現れてくるのですが、他の高校の生徒とも共通する部分が少なくないような気がしています。まだ一年半しかいない私に、彼らの何が分かっているのか、という思いはあるのですが、今の時点での私なりの視点ということでご勘弁をいただいて、今日は高校生自身が抱えている大変さということについて、柿生西の生徒の話を中心に、お話をしたいと思います。
 高校生が付き合う友人の範囲が狭くなっているということを感じていらっしゃる先生が多いのではないかと思うんですが、高校生がクラスの中で仲のよい友人以外の人とどういうふうに付き合っているのか、尋ねてみたことがあります。それは、ある進学校の一年生の女子だったんですが、こういうふうに話をしてくれました。
 クラスの中の人間関係には、仲のよい人、ちょっと仲のよい人、全然分からない人、の三段階があるというのですね。ちょっと仲のよい人というのは、筆記用具を忘れたときに、「鉛筆を貸して」と頼めたり、予習をしていないときに、「ちょっとノートを見せてよ」というふうに頼めるような人のことで、全然分からない人というのは、道で逢ってもこの人誰だっけな、と思うくらい何も分からない人だ、というんです。
 柿生西の生徒を見ていますと、中間の、ちょっと仲のよい人というのが少なくて、全然分からない人というのが多いという印象を受けました。生徒に「先生、ちょっと鉛筆貸してよ」と頼まれることが多いんですが、鉛筆を貸してくれるような、ちょっと仲のよい友人を彼らは持たない様子です。
 そうすると、もしもクラスの中の親しい友人との間にトラブルがあったとき、他に入れるグループがないんです。入れるグループがないということは、多くの場合、教室に入れない、あるいは、学校に来られないということにつながってきます。
 例えば、昨年教えていたクラスに、仲のよい二人組の女子がいました。遅刻してくるのも一緒、サボるのも一緒、という具合で、いつもくっついていたんですけど、あるとき、片方の生徒がパッタリと来なくなったんです。相棒の女の子に、「彼女、最近来ないみたいだけれど、どうしたのかしら」と聞いたわけですが、そうしたら、彼女はひどく冷たい様子で、「知らない」と答えました。それでクラスのほかの女の子に聞いてみたら、「えっ、そうだっけ」というふうに言いまして、彼女が学校を休んでいるということを気に留めていないわけなんです。担任の先生にお伺いしましたら、実は、その仲のよかった相棒の女の子と喧嘩をしてしまって、学校に来られなくなっているんだ、ということが分かりました。
 彼女がそういう状況になってずっと学校を休んでいるときに、そのことを心配してくれる友人というのはクラスの中に誰もいなかったわけです。しばらくして、彼女はその喧嘩した友人とまた仲直りをして、学校に出てくるようになりました。でも、その後もまた同じようなことが繰り返されたりして、結局欠課時間数がかさんで、進級することができませんでした。
 そうすると、まず、クラスの中に仲間を見つけるというのが大前提になります。その上で、少々気に入らないことがあっても、ほかに入れる場所はないわけですから、我慢をして仲間はずれにならないように、気を使いながらやっていく、ということが今の高校生に必要なのかもしれないと思っています。
 友達にどのくらい気を使っているかということなんですが、生徒の例を二つお話したいと思います。
 一つは廊下組の生徒の話です。廊下などでサボっている生徒に対して教師が声を掛けて対応しているんですが、そういうとき私は生徒の言い分をじっくり聞いて、「ああ、そうか。じゃあ、今は君は教室には行きたくないんだね」というふうにやっていたんですけど、あるとき、同僚の先生に「浜崎さん、それでは駄目なこともあるんですよ」というふうに言われました。というのは自分は、本当は授業に行きたいんだけど、友達に誘われて、仕方なくサボっている生徒が少なくないんですね。そうすると、教師がそこで「そうか、君の気持ちはわかるよ」というふうに言っていたのでは、授業に戻ることができないわけです。そこで、かなり厳しく指導して、もう絶対に許さないんだよ、というふうに言ってあげることが、その子を授業に戻させることになるわけです。
 もう一つはタバコの話です。校内のトイレなどでタバコを吸っていて、見つかって指導される生徒が時々います。学校でも我慢ができなくてタバコを吸ってしまうなんて、余程ヘビースモーカーの生徒なんだろうと思っていました。でも、そういう生徒の中には、家では全然吸わないんだけど、学校でだけ吸うという生徒もいるんですね。本当はタバコは吸いたくない、だけど学校では友達との付き合いでタバコを吸う自分というのを演じている、というわけなんです。
 今お話した二つのことは、もしかしたら、極端な例かもしれません。でも、柿生西高校以外の生徒も、友達に気を使うという状況は、それほど変わらないような気がします。その様子は高校生が携帯電話を使っている、その使い方から窺うことができます。
 昨年、川崎市の養護教諭の先生方が川崎市のほとんどすべての公立高校で携帯電話についての調査をなさっています。それによりますと、調査の時点で、川崎地区の公立高校の生徒の携帯電話またはPHSの所有率は76%でした。彼らがどういう使い方をしているか、印象的なことを申し上げますと、電話で話しているときに、切りたくても自分のほうから切れない、という生徒が約3割。メールを受けたらすぐに返事を出すようにしているという生徒が約7割。さらに寝るときも携帯電話の電源を切らないようにしているという生徒が8割を超えています。それには、いつも誰かとつながっていたいという気持ちがあるのではないか、という分析がなされているのですが、それだけではなくて、電話やメールが来たときに取らないと仲間はずれにされるとか、一度でも電話を取らないと、もう掛かってこない気がするとか、そういう高校生の声がよせられています。電話でとても楽しそうに話しているように見えるのですが、実は彼らは結構大変なのではないかというふうに思っています。
 さらに、その調査によりますと、電話で話すほうが直接話すよりも話しやすいと感じている生徒が約3割、メールのほうが言いたいことが言えると感じている生徒が4割となっています。
 ということは、普段の友人との付き合いではなかなか本音を言うことができないんだけれど、顔を見ない携帯電話なら、言えるかもしれないとか、文字の通信のメールなら伝えられるかもしれないとか、そう思っているのではないかということなんです。
 メールや携帯電話を使うことで、自分の気持ちをオブラートで包んで、相手を傷つけないように、また自分も傷つかないように、高校生は気を使っているのかもしれないと思います。それは多分すごく大変で、彼らにとって疲れることなのではないかという気がしています。
 そういうふうにして、苦労して居場所を確保した教室というのは、彼らにとってどういう学びの場になっているのか、次は授業中の様子についてお話をしたいと思います。
 柿生西高校の授業で普通に見られる風景として、漫画・ウォークマン・携帯電話があり、廊下組の生徒もいます。今までで一番すごいなあと思ったのは、教室の後ろで、ピクニック等で使うレジャーシートを敷いて熟睡している生徒がいたんです。さすがにこれはすごいと思って、起こしたんですけれど、今日は欠席扱いでいいから寝かせてくれ、ということで、彼女たちは一時間中寝ていました。
 そういうふうに、学ぼうという姿勢からは程遠い生徒の状況のもとで、私に何ができるんだろうか、昨年春はじめて柿生西で教えるようになったとき、すごく苦しみました。すごく苦しんで、とりあえず私にできるのは、分かりやすく授業をすることだろう、というふうに思いました。私は数学の教師なんですけれど、数学は生徒にとって最も嫌いで最も苦手な教科です。分数・小数の計算はもちろんのこと、二桁の掛け算割り算ももう怪しい感じがあります。それを教えようとすると、実は九九ができないんだということが分かったりします。小中学校を通じて、友達にバカにされてきたとか、分からないのに黒板の前に出されて無理矢理問題を解かされて非常に恥を掻いたという生徒もいたりして、非常に劣等感を持っています。それをほぐして、数学だってやればできるんだよ、ということを彼らに伝えたいと思いました。とりあえずそのことからはじめようと思ったわけです。
 それで一年間、基本的な、分かりやすいプリントを用意して、それを完成することを毎時間の課題とするという形でやりました。時間が経つうちには、はじめて数学が分かるようになったとか、はじめて数学が好きになったとか、そういうふうに言ってくれる生徒が少しずつですが、現れるようになりました。でも一年間終わって私が思ったのは、分かりやすく授業をするというだけでは、とてもやっていけないということでした。確かに分かりやすく説明をすることで、興味を持ってくれたり、喜んでくれる生徒が少なくありません。でも、そういう生徒がいる一方で、“分かる”とか“理解する”ということにも興味を示せない生徒がいるんですね。
 「こんなことをやって何になるの」とか、「赤点でなければ何でもいいんだ」と、何回も言われました。でも、声に出して、学ぶ意味が分からないと言ってくれるのは、まだましなほうかもしれないという気がします。重症なのは、毎時間真面目にプリントを提出してくれる生徒の中にも、学ぶことに無関心な生徒が少なくないような気がするからなんですね。
 彼らにとっては、学ぶことがイコールプリント提出になってしまったのかもしれません。もしもプリントなどの課題がなくて、やりたい人がやりなさいという授業をしたら、取り組む生徒は果たして何人いるだろうか―。もしかしたら誰もやらないのではないだろうか、という不安を感じました。
 それで、今年度は分かりやすいというだけではもう駄目だ、数学の面白さとか、できれば学ぶ楽しさをもう少し生徒に分かってほしいということで、いろいろな試みをしています。具体的には、グループを作らせて、そのグループの中で協力して作業をするとか、話し合うというのを時々入れています。仲間と協力して課題に取り組むということが、学ぶ楽しさにつながればいいな、というふうに思っているわけです。
 例えば、2学期は、2の3乗とか、4乗という指数の単元だったんですが、鼠講の仕組みを取り上げました。鼠講の実際の例を出して、どのくらい儲かるのか、というのをグループで計算させたり、どこがインチキなのかを話し合ってもらったりしました。そういう授業をすると、普段の授業に比べては、関心を持ってくれる生徒が多いかなという気がします。でも、やはり、無関心な生徒も少なくないんですね。
 原因として、一つは、私の選ぶ課題の拙さというか、教師が面白いと思うことと、生徒が面白いと思うことがずれているのかもしれないと思っています。もう一つは、もしかしたら、ある程度面白い課題であっても、授業の中、学びという文脈の中では、彼らは興味を示さないのかもしれない。それくらい学ぶことにウンザリしているのかもしれないな、ということです。
 では、課題集中校以外の生徒はどうでしょうか―。進学校の図書司書の友人がいるのですが、彼女から、最近漫画の貸し出し冊数が非常に増えているという話を聞いています。授業中に読んでいるとしか考えられないというんですね。だとしたら、授業に魅力を感じられなくて、学ぶ意味を見失っているのは、課題集中校だけの問題ではないのではないかと思います。
 ただそれが見えやすい形で現れるか、現れないか、それだけの違いではないか、というふうに思います。
 何故このような状況になってしまったのか、というのは、私には分からないことなのですが、小学校・中学校と教育を受けてきた結果が、今学ぶ意味を見出せないということにつながっているとしたら、高校生は本当に気の毒だな、と思います。そういう状況でも、授業は一日6時間あるわけですから、何でこんなことをやるんだろうと思っていても、6時間は我慢をして聞いていなければならないわけです。それは高校生にとってとても大変なことだろうし、特に、うちのような課題集中校の生徒にとっては大変なことだと思います。
 ここまで、高校生の抱えている大変さということで、友人関係のことと、授業の様子をお話してきました。柿生西の生徒は、それに加えて、家庭の大変さというものを抱えています。経済的に苦しいということだけではなくて、家族に病人がいるとか、両親が離婚しているとか、親から暴力を振るわれて育ってきているとか、碌に食事を作ってもらえていないという、虐待が疑われる生徒も少なくないんですね。そういう生徒の状況の前では、学校に目が向かないというか、学校どころではないんだ、という生徒がいて、辞めていってしまうというのはある程度仕方のないことなのかな、という気がしています。
 でもそういう生徒は昔からいたと思うんですけれど、柿生西でもここ数年退学していく生徒が非常に増えています。今から10年前、1990年のときは、卒業していく生徒の割合が85%でした。91年、92年はそれが70%台に下がりました。93年度からはずっと60%台になっています。今年の3年生は特にひどい状況になっているんですが、今各クラスの生徒は21人ということで、入学したときのほぼ半数に近い状況になっています。
 そういう中の一人なんですが、今年の6月、3年生の男子が退学していきました。折角ここまで来て後少しなのにという思いで、担任の先生をはじめとして、先生方や友達みんながかなり引き止めました。でも彼の決心を変えることはできなかったわけです。彼はこういうふうに言ったんですね。「僕がやりたい仕事に高校卒業の資格は必要ないんだ。後半年なのは分かっているんだけれど、もうつまらなくてこれ以上我慢できないんだ」
 今高校生の退学率が上昇しているという裏には、彼のように感じる生徒が増えているということがあるのではないかという気がしています。
 最後に、私の同僚の先生方の話をさせていただきたいと思います。今日最初に、柿生西は指導が大変な生徒がたくさんいる学校だという話をしました。でもそれは柿生西の先生方にとって、それほど重要なことではないという気がしています。確かに生徒指導の件数は多いですし、そういう対応に追われたり、生徒の家に夜遅く電話をしたりというのは大変なことなんですが、それは辛いこととは違うような気がしています。それよりも、生徒が櫛の歯が欠けるようにぼろぼろと辞めていくんですが、そのことが辛いのだ、ということをある担任の先生が仰っていました。それは多分課題集中校の先生方が皆さん同じように抱えている辛さなのではないかと思います。
 今、柿生西では再編計画に従って総合学科になるための準備が進められています。総合学科になれば、このような問題が解決するのか、私には分かりません。でも準備を進めながら、今先生方が考えているのは、生徒にとって少しでも居心地のいい、魅力的な学校にしたいということなんです。生徒にとって魅力的な学校になって、辞めていく生徒が一人でも二人でも少なくなってくれれば、ということなのではないかというふうに思っています。
 たくさんの大変さを抱えている今の高校生にとって、居心地のよい、魅力的な学校というのはどういう学校なのか、そして、そのために、私たちに何ができるのか、今日のシンポジウムでそういうことのヒントが少しでも見つかるといいな、と思っています。
 拙い話でしたが、一生懸命聞いていただいてありがとうございました。(拍手)

本間:どうもありがとうございました。現場の教員という視点からのお話でした。では、小畠さん、お願いいたします。
 

 低い自己肯定感

小畠:スクールカウンセラーをしております小畠です。よろしくお願いします。皆さんもよくご存知だと思うんですけれども、1995年から始まった文部省の「スクールカウンセラー研究委託事業」が今年2000年3月、5年目を迎えて、いよいよ変わることになりました。
 来年度、文部省からは5年計画で全国のすべての中学に配置をするということで、話が来ているんですが、ということは、私、これまで小学校・高校でスクールカウンセラーをしてきましたけれど、いよいよお別れなのかな、という気持ちもあって、こういうシンポジストとしてのお話を二つ返事で、というのもおかしいですが―。私も高校生のそばにいて、いろいろと悩みを一緒に分かち合ってきた、先生とも手に手を携えてがんばってきたすクールカウンセラーの私がここでお話をしなくちゃいけないんじゃないか、やはり、話すべきなのではないかと思って、ここに座っております。
 ここにいらっしゃる皆さんは学校の先生じゃないかと思うんです。私は学校の先生ではなくて、職業柄か、人の話を引き出すのが得意なわけで、お話をするのがとても苦手なものですから、言葉が足りないところとか、いろいろ分かりにくいところがありますけれど、後で質問してくださると嬉しいです。
 これから、私がカウンセラーとしてカウンセリングルームから見た高校生の話をしたいと思います。私は98年から2年間、スクールカウンセラーとして職業高校へ行きました。そこでさまざまな相談があったわけなんですけれども―。子どもたちはいろんな相談があるんですけれども、どうもその相談は本当の相談じゃないな、と思うことが多々ありました。
 あ、生徒のためにもいっぱい話さなくちゃ、と思って、緊張しています。カウンセラーとして入ってきたときに、みんなは、「小畠さん、元気?」とか―。今では、“オッハー”という感じで、カウンセリングルームに入ってくるんですけど―。
 みんなはいろんな相談を持ってくるんですけど、結局、子どもたちが本当に語りたいこと、それは、自分がいじめられた経験じゃないのかな、と思うことがたくさんありました。
 子どもたちと話をしていると、それからの人間関係が変わっていくんですね。子どもたちは私の前ではいろんなことを話すんですけれども、きっと、先生の前で、また親にも、友達にもそういった姿は見せていないんじゃないかと思います。
 で、私は子どもたちと話をしていると、本当に自分が好きじゃない、大っ嫌い、そういうことをたくさん聞きました。話をしていると、自分のことを取るに足りない人間だ、自分は生まれてこなければよかったんだ、そのように何人もの生徒から聞きます。自己肯定感が低いな―。“どうしてこんなに自分が惨めで、廻りの人たちはみんなまともで、いい人たちばかりなのだ”、と、そういうふうに思っているんですね。そういうことを聞いて、本当に悲しくて、どうしたらいいのかな、と思いました。
 私は、県立高校2年間を勤めて、この4月から、また新たに2校のスクールカウンセラーをしているんですけれども、4月にカウンセリング委員会の先生に、私はまずクラス訪問をしたいという話をしました。カウンセリング委員会の先生たちは快く理解し、引き受けてくださり、全校の先生たちに了解をいただいて、管理職の方も認めていただきまして、1年生から3年生まで全部のクラスを廻らせていただくことにしました。
 授業一コマをいただくということはとても大変なことだと思うんです。それを、快く引き受けてくださり、本当に嬉しいと思います。私がどうしてクラス訪問をしたいかと言いますと、ご存知のように、今年は一年間しかないんです。一年間で私に何ができるのかな―。二年間でも足りなかったものを、一年間の間で、どれだけみんなと関わって、私にできる限りのことができるのかな、ということで悩みました。
 それで苦肉の策として、私のほうから打って出るという暴挙に出ました。1年生には仲間作りのエンカウンターグループをしました。それは、前任校で友人関係で悩んでいる子どもが多く、自己肯定感が低いということもあって、自分を出すことが怖い、出せない、ということで、友達を作ることが本当に難しいんです。私は、早く友達を作ってほしい―。
 1年生の相談が4月、5月、6月と目まぐるしくありましたので、私は1年生には、仲間作りのエンカウンターを是非やりたいということで参りました。一つの高校は全学年廻りました。つい先日、もう一つの学校も全部のクラスを廻り終えたところです。
 そこで私が経験したことをお話したいと思います。1年生のエンカウンターだったんですけれども、これは前任校でもしておりまして、3校で同じことをしました。これには学校差がありました。正直に言いますと、前任校でやったエンカウンターグループは、私は、よくやったなという感じだったんですね。
 というのは、担任の先生が1年間で私と仲良くなって私をよく受け入れ、活用してしてくれていたところでのクラス出張だったので、とても和気藹々と―。子どもたちも、自分をごく自然な形で出すことができました。今度の2校なんですけれども、私が感じたのは、もうこの高校2年生に上がるまでに、学校に対して、教師に対して、大人に対して、不信感をかなり強く持っているんだなあ、ということを肌で感じました。
 一方でみんなフルーツバスケットは久しぶりに楽しいな、中学校の楽しい思い出―。あった、あった、合唱祭で、とか、とても話は盛り上がった―。ところが、もう1校は、自分を出すことがとても怖い、辛い―。円になるんですけれども、本当に向き合えない、そういう子どもたちがたくさんいました。こう、4人グループになるときに真正面を見ていられないんですね。みんながそれぞれの方向に少しずつ角度を変えます。子どもたちが自分を出すことに辛そうな顔―。私は、ああ、こんなことをしちゃいけなかったかな、一つの学校を終えたとき、本当に感じました。
 2学年には、私は、バームテストと「自尊心の自己診断チェック」というのを持ってクラスを廻りました。どうして自己診断チェックなのかと申しますと、私はその前任校の2年間で、本当に子どもたちの自尊心が低い、何故こんなにも、自分が取るに足りない人間だ、駄目な人間だ、と思っているんだろう、本当に悲しい思いでいっぱいだったので、クラスに行って、自尊心とはこういうことなんだよ、自尊心って、自分でどうにでも変えていけるんだよ、そのためにはこうしようよ、ということを、カウンセラーらしからぬ行為なんですけれども、私はみんなに訴えるつもりで行きました。
 子どもたちは、自己診断チェックなど心理テストが大好きで、行くと、うるさいクラスもシンとなって、自己診断、心理テストをとても楽しんでやります。これが私の狙いなんですけれども、「私の心理を分析してほしい」ということで、みんながその紙を持って私のところに来るんです。私はそれを手がかりとして、「ふむ、ふむ、あなたは、ね」という感じで、段々その子どもの中のいろんなものを引き出していく―。本当にこれは名案だ、と私はちょっと思っているんですけれども、そういう形で子どもたちの、自分についてどう思っているかをかなり探ることができたかな、と私は思います。
 私が先生にお話したいことは、こういうことがあるんです。クラス訪問の前に、担任の先生が私のところに来てくださって、「うちのクラスでちょっと気になっている子、配慮を要する子はこういう子です」というような事前の打ち合わせがあります。そのときに聞いた子どもの話―。クラスへ行ってみると、私はどうも違うぞ、と思うんですね。私は自己診断チェックのところで、私がチェックしているところがあります、子どもには言っていないんですけれど。
 自尊心チェックの中で、3番と4番という項目があるんですけれど、「自分の感情・気持ちを他人に隠そうとしますか」という項目と、「他人とあまり親密になるのは嫌だなと思いますか」という項目なんです。
 意外なことに「親密」という言葉が分からなくて、どこのクラスでも「親密って何ですか」と聞かれて、えっという感じでびっくりしちゃったんですけれども、どの学校でもあったものですから、すぐ「仲良く」というふうに変えたんです。私も高校に行って、言葉が小学校のスクールカウンセラーをしていて、同じ言葉を使ったほうがいいんだなあ、って感じました。
 私は子どもたちに自己診断だから、回収もしないし、人に見せなくてもいいんだよというんですが、私は全員のところを見て、その3番、4番の項目をチェックして廻っています。そして分かったことは、先生が心配だなと思っている子どもはみんな、そこにバツをつけているんです。先生から、問題ない、この子はおとなしくて真面目で、頑張っているよ、と言われている子どもはそこにマルをつけています。
 その後の子どもたちの、振り返り用紙を見ますと、その真面目で頑張っている子どもは、自分はいかに自尊心が低いかということが分かった、自分は前向きになろうと思っているけれども、なれない自分がわかった、と書かれています。
 私はその2校の子どもの振り返り用紙をまた、数日前に全部見直したんですけれども、みんな人に気を使って、自分を隠して、うまく合わせなくちゃいけないと思っている子どもたちがそんなところにたくさんエネルギーを使っているんです。そんなところにエネルギーを使っていて、どうして、勉強や部活動や、いろんなことにエネルギーを持っていけるのかな、と本当に思います。何故こんなにも人に気を使ったり、自分に自信が持てなくて、おどおどと取り繕わなくちゃいけないのかな、本当に悲しいと思います。
 3年生がどんなことをしたか、ちょっと付け加えますと、「Who Am I?テスト」という、きっと先生もご存知じゃないかと思うんですけど、“20の私”という、そういうテストをしています。それはアイデンティティを自分なりに捉えてみようということでやっているんですけれど、私はナントカです、その私はの後は全部空白になっていて、そこに自分は、私は、こういう人間です、ということを20項目書くんです。で、これにも学校差がありました。
 ある学校では、どの子どもたちもそうですけれど、10か9くらいまではパパッと書いてしまうんです。「私は何々学校の何年生です」「私は17歳です」表面的なところから入っていって、かなり内面的なところになると、苦しくて書けない。自分に向き合うのが辛いと思っている生徒がとてもいます。辛くて教室を出ていってしまう、書けなくて漫画を読んでしまう、お友達のを見て廻って自分の不安を紛らわす、隠そうとしている―。本当にいろんな生徒を見ました。
 ある学校では、1クラスやっただけで、子どもたちに辛い思いをさせるのは申し訳なかったと、それだけで止めました。後は別のカリキュラム―。カリキュラムというのはおかしいですね。他の心理テストに替えてやったんですけれども、自分に向き合うのが辛い、というのを本当に感じています。
 いろんな相談内容のこともたくさんお話したいなあ、と思っていたんですけれども、時間がなくなっちゃうので、何かそういうことがあったら、質問いただけたら、と思うんです。最後にお話したいのは、小学校でスクールカウンセラーをしていて感じていることです。
 小学校を卒業して、もうこれから小学校に行くことはなくなっちゃうのかなと思ってここで吐き出すわけじゃないですけれども、私が小学校で感じていることを話したいです。小学校に入って私は本当にショックでした。子どもたちが大切にされていない現実、これからどうなるのかなと思うんですけれど、小学校の先生たちに笑顔が本当に少ないんです。どうしてこんなに、子どもたちに笑顔を与えてあげられないのかな―。私と話をするときには、皆さんとても楽しそうに、人間的に、笑顔でお話をするのに、子どもたちの顔を見たときにどうして先生の顔をしてしまうんだろう、温かなあの笑顔が消えてしまうんだろうと感じます。
 小学校の子どもたち、いじめがたくさんあります。いじめの相談もたくさんあるし、先生についての相談、それから、親との問題―。小学生なのに、こんなに言葉で表現できるんだ、高校生とそんなに変わらないんだな、とびっくりします。小学生のこの時期、私見ていると、これでは自分がこれでいいんだ、ありのままの自分でいいんだ、というふうに思えない状況がたくさんあるんです。そういう中に6年いて、それから中学校―。高校に来たときには、自尊心なんかもうずたずただし、自己肯定感なんか、もう地に落ちちゃっているんだと思います。私はもう小学校から去らなくちゃいけないんですけど、後残された日々を、子どもたちに、「あなたたちはこれでいいんだよ、ありのままの自分でいいんだよ。もっとニコニコと元気で、自分の能力を信じてやっていこうよ」小さい子どもながらも、そういうSOSを出している子どもたち一人ひとりに語り掛けたい気持ちでいっぱいです。
 私はそういう小学生にたくさん出会って高校生を見ると、やっぱりな、だから私の目の前にいるんだな、と思います。教育改革といわれていますけれど、自分のことが大事に思えない、親を大事に思えない、学校も、社会も、この自分が生まれ育った日本も誇りを持てない、こういう子どもたちは悲しいなと思います。
 私たち大人がこれから真剣に考えて、子どもたちが自信を持って生き生きと生きていける、そういう社会というか、日本を作っていかなければいけない、それが私たちの使命なんだな、そういうふうに感じています。
 お話したいことはいっぱいあるんですけれども、これくらいで終わりたいと思います。ありがとうございました。(拍手)

本間:どうもありがとうございました。まだ語りたいことがあると思うんですが、われわれのほうで聞きたいこともまだまだ、というところですけれども、スクールカウンセラーという視点からの話ということでした。ここで、ちょっと雰囲気を変えて、刈谷さん、お願いします。

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