高校再編時における定時制高校の課題と展望

手島 純  

 
 

 はじめに

 現在進行中の高校再編計画の中で定時制高校の課題と展望を素描していくにあたって(本論は神奈川県を中心に論じていくが、当然全国の動向とは無縁ではない)、以下の3点に焦点を当てて論じていきたい。これらをぬきに現在の定時制の課題と展望は語り得ないと考えるからだ。
 第1に高校再編そのものの全体的把握である。高校再編とひとくくりに言っても、そこにはさまざまな理念がぶつかり合い、さらに個別具体的な形となって計画案が練られていくわけである。定時制もそのことと無縁ではありえず、全体的な展望の中で定時制の今後が議論されるのは当然である。
 第2に定時制高校の現状についての認識である。定時制高校が現在どのような状況になっているかの把握を抜きにしてその展望を語るのはまったく無意味である。時に制度改革は現状を無視することもあるので、その警鐘としても現状認識を原点にしたい。
 第3に定時制高校を歴史的視点で再度検討することである。歴史とはまさに未来のためのものであるからだ。後述するようにわれわれが現在問題として語る語句が歴史の中で内容が変容してきたということもある。例えば定通併修である。現在、定時制から通信制へのオファーという形で定通併修が語られているが、もともとそれは逆であった。定時制を語るキーワードを歴史的に押さえておく必要もある。
 以上3点を踏まえつつ本稿を展開していきたいが、それぞれを充分に検討する紙幅はない。それゆえ問題点を抽出する形で本稿を進めていきたい。
 

 高校再編計画の中の定時制高校

 「活力と魅力ある県立高校をめざして 県立高校改革推進計画・案」によると改革の基本方針は以下のようである。

1.多様で柔軟な高校教育の展開
2.地域や社会に開かれた高校づくり
3.活力ある教育活動を展開するための規模及び配置の適正化

 いわば、この3点を前提として、定時制において(および通信制も部分的に共通する)は、勤労青少年だけではなくさまざまな生徒が学んでいるゆえに、一人ひとりの興味・関心や学ぶ目的に応じた展開が一層求められと計画案は説明する。それゆえ多様な学習ニーズや生活スタイルに応じる柔軟な形態による教育活動の推進と新しいタイプの高校の設置が検討されているのである。
 具体的に柔軟な形態による教育活動とは三修制・課程間併修・実務代替・大検合格科目の単位認定などをさす。また、新しいタイプの高校とはフレキシブルスクール・単位制高校・総合学科などへの改編のことである。
 さて、今や教育改革は自明の理とされている。確かに、いじめ・不登校・校内暴力・中退、さらには学級崩壊など教育問題は出尽くしたかに見える状況があり、さらにさまざまな答申や提言が行われている中で教育改革は全国の時代の流れになっている。1991年の第14期中教審は「これまでどちらかと言えば画一的・硬直的な傾向が強かった高校教育について、生徒や社会の変化に柔軟に対応するとともに、生徒の個性の伸長を図ることを目指して、学習における選択の幅を拡大するなどさまざまな施策を検討した」と述べ、今日的な教育改革の理念を示唆した。
 こうした一連の改革に対して問題意識をもちえないで「なぜ、今ごろ急に」と言うのは論外としても、一見もっともなこの改革は、結果的に(理念的には正しいとしても)改善になるのかそれともその逆になるのかという疑問はもってしかるべしであろう。この点について警鐘を鳴らし続けている藤田英典の著書から、本稿の展開に関係する部分を2点だけ拾いあげてみたい。
 「教育とは少なくとも近代的な学校教育が始まってからこのかた、意図的・目的的な活動であり“善さ”への組織的な働きかけである」*がこの善さの中身は多様でしばしば矛盾や対立を含んでいるとする。牧歌的な学校生活を理想とする人もいれば、職業生活に役立つ学習を重視する人もいれば、規則と秩序ある学校生活を好ましいと考える人もいれば、受験競争を無用のものと考える人もいれば、逆に必要悪と考える人もいる。「したがって、実際に学校教育をどう改善するか、そのプランを考える場合、そうした多様な、しばしば相矛盾する理想像を調整することが課題となる。つまり、教育問題の多くは、その意味で、調整問題なのである」*。ところが、教育に関する実践的・政策的議論はほとんど例外なく「理想・当為」を実践しようという意図によって導かれていると藤田は指摘する。
 この指摘のように、ある意味での理想主義は現場の内実をもねじ曲げ猛進する。時に定時制のような小さな所帯は「理想」の犠牲になりやすい。例えば、「多様で柔軟な高校教育の展開」そのものに異論はないとしても、その理想のみが優先されてフレキシブルスクールのために定時制が「利用」され、そうでないものは「活力ある教育活動を展開するための規模及び配置の適正化」の基準で統廃合されるようなことがあるなら、それはまさに当為的誤謬である。むしろそうした「理想・当為」と、定時制が今まで積み上げてきた内実を、たとえ規模配置の適正化に欠けてもどう「調整」するかが必要なのである。
 さらに藤田は現在進められている高校の多様化に対してもまさに正鵠を射た指摘を行う。「しかし問題は、とくに中等教育段階では、どのように多様化しようとも、多様な課程・学校が一元的に序列付けられてしまうという点にある。この一元的序列化という問題は、中等教育の進学準備教育としての構造的位置に起因するものであり、高等教育が大衆化した社会では、程度の差はあれ、どの国も悩まされている問題である」*と。当たり前といえば当たり前の指摘なのだが、あまりに自明すぎてこの公理的ともいえる問題意識が教育改革案にはすっぽり抜けているように思われる。
 こうした藤田の指摘を考慮するなら、定時制は過去「一元的序列化」に組み込まれながらも、いわゆるオールタナティヴスクール(もうひとつの学校)としての役割も果たしてきた。そのことに焦点を当て、政策的理想ではなく現実を踏まえた改革こそ求められるべきだと、私は考える。

 定時制高校の実態

 次に定時制高校の実態について簡単に触れていきたい。実態を抜きにした改革などありえないからである。ただ、それに先立って、実態の変遷についての記述からはじめよう。定時制は時代による変化が著しいのである。その方法として制度史や実態調査比較などもあろうが、ここでは渡辺潔の論文を参考にしたい*。彼自身、当時定時制の教師であり、学校に保管してあった文集・学校新聞・文芸誌・パンフレット・卒業文集・自分史などの記述を通して、いわば時代時代の定時制の雰囲気を読みとていくという方法をとった。このことで、制度史等では見えない定時制高校の世界をつまびらかにしてくれた。以下、渡辺の論文より生徒の言葉をいくつかピックアップしていく(ただし、見出しは渡辺によるものである)。
 

貧しさの時代

夜学生に共通な宿命の一つは時間。学力向上の為に、日曜日に補習授業を行うことは効果のあることである。

 (1955年、学校新聞より)

 
中卒者・「金の卵」時代 

疲れてねむいが、明日の事を思えば今日のことは今日かたずけておかねば明日はもっとつらいかも知れない。そう思いながら読む本も、いつか一時をすぎ、二時近くなると字が重なって見えなくなる。書いている字もいつか角がなくなり棒か点のように感じられる。

(1961年、文芸誌より)

 
定時制高校の転換期

友よ、貴方は定時制に入って今日まで何を得ましたか。『友』『生き方』いろいろあるでしょう。私は、最初思っていたのとあまりにもイメージの違う定時制高校への失望がありました。アルコールを飲んで授業を受けていたり、おしゃべりをして授業を受けている人。いざテストになるとあわててさわぐ者。定時制に入るまでは、定時制とはもっとしっかりしているものと思っていたのだが・・・・

(1971年、文芸誌より)

 
全日制高校の受け皿としての定時制高校

四年間むだだった。いやいや毎日かよわせられていたのだから気がめいった。何の目的もないのに、何で行かなくっちゃいけないのかとつくづく思った。いつやめてもいいと思っていた。どうにでもなれと四年間すごした。

( 1979年、文集より)

 

中学時代には色々あった。友達と他の学校に行って門の前でケンカをしたりした。タバコは中一の時から仲間でやっていた。自分はシンナーはやらなかったけど、ウイスキーをコーラでわったのを昼休み仲間で飲んで授業をうけたこともある。今、自分だけ定時に来ていて、仲間に会えないのが一番つらい。

(1987年、自分史より)

 定時制が1970年ごろを起点として大きく変容する様子がよくわかる。渡辺はこうした定時制生徒の実態の変遷を読み解きながら、最後に「全日制高校非進学者や中退者の受け皿としてスラム化しつつある定時制高校がこのままであっていいはずはない」と締めくくる。
 生徒たちの文章は、まさにそれぞれの時代の定時制高校の実態を映す鏡であろう。若干の地域的誤差こそあれ、全国の定時制は同じような変遷を遂げてきた。
 しかし、今また定時制は新たな変遷を迎えようとしているのではないか。それは私自身が定時制高校に勤務して感じるものである。私自身は長く定時制に勤務しているわけではないが、書物や定時制に長く勤務する者の話などを総合して、またこの五年間ほどの自己の経験から推し測って感じるのである。確かに1970年以降の状態から大きく変貌したわけでは決してないだろう。ただ、子どもの総数が減少し全日制への入学者数も減ってきている昨今、あえて定時制に活路を見出す者をはじめ、不登校者・障害者・外国籍の者が増えてきたことである。彼ら彼女らの中には学ぶ意欲をもっている者もいるし、必ずしも不本意入学という言葉で括れる者たちだけではない。また、40歳以上の者も少ないが在籍している状況である。付言するなら、とても強く感じるのは家庭的理由(経済的理由も含まれるがそれだけではない)による入学ということである。社会階層の問題が浮かび上がってくる。
 こうしたことは私の近辺だけに起きているのではなく、少なくとも神奈川県全体の傾向の特徴を示していると思われる。1999年の神高教特別定時制対策会議による「今後の定時制教育像を求めてY 定時制生徒の生活実態」にも統計的に表れている。「全日制に入学できなかった不本意入学」は1993年から1998年で約10%減少したと報告する。定時制は規模を縮小しながらも、その内実も質的変化をしていると見るべきであろう。その内実を把握することこそ、定時制の教育改革へのメルクマールになるのではないかと考える。

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