特集 : 問われる21世紀の高校像
 

選択科目の導入による柔軟な学校と学力保証

武田 麻佐子

 
 はじめに

 新しい学習指導要領による教育課程が2003年から実施される。学校五日制に伴って教育内容の精選がはかられ、卒業に必要な単位が74単位に減じられたこと、必修単位数減と多くの教科での選択必修化、「情報」や「総合的な学習の時間」の設定などが特徴といわれている。学校ごとの特色ある教育課程編成を可能にする、いわば従来から全国的にすすめられている、コース制・単位制高校・総合学科・中高連携など高校教育の多様化をいっそう推進する、基盤を作ったともいえよう。 
 また、神奈川県の発表した高校再編前期計画では、新しいタイプの学校としてのフレキシブルスクール、総合学科、専門コース制、専門高校の改編などが予定されている。それらの学校については、単位制度の運用・二期制の導入・授業の弾力的運用・科目を系列ごとに提示することなどが示されている。該当校は教育課程の検討中であるが、生徒の選択幅の拡大という方向の学校が多いと聞く。県の発行する中学生向け資料「輝け君の明日」でも「一人ひとりのよさが生かされる高校づくりのために…全ての高校が柔軟な学びのシステムの実現をめざしています」という言葉の下に、「選択中心の弾力的な教育課程」と記載されている。
 選択科目の大幅な導入、多様な学校づくりが、生徒の学力保障、自らの「学び」を豊かにすることと結びつくのか考えてみる必要があろう。元来、高校は単位制に基づくものであったし、従来から、課題集中校を始めとして、小集団での学習、大幅な選択科目の導入、再修得の制度など、職場からの実態にねざした改革がはかられ一定の成果を上げてきた。行政の高校「改革」プランがつぎつぎ出てくる今だからこそ、また、画一化への批判から選択科目導入が歓迎される傾向にある今だからこそ、職場からの教育課程編成と、保障すべき学力について今まで以上に検討していく必要がある。研究所を始めとする各機関で、何度も論じられてきたことであるが、あえて屋上屋を重ねてみたい。

 

1 高校改革の必要性

 高校改革において、頻繁に出てくるのが、「単位制・多様な選択科目・系列科目の設置・各学校の特色づくり」である。これは神奈川だけではなく、全国の潮流といえよう。
 従来の高校のあり方が生徒の実態とあわなくなった、若者像を大人がつかみきれていない、と言われはじめて久しい。いつの時代も若者は大人に理解されなかったし、社会に不満を抱いてきたが、現在、顕在化している若者をめぐる様々な現象は、学校に対する若者の不満と、都市化・情報化社会や社会構造の変化などが、複雑に絡み合ってでてきたのかもしれない。高校という場に働く教職員の多くは、旧制中学的な教養が成り立ち得た時代の人間であり、受験競争社会の中ではある程度の上位集団の中にいた人間が多い。自分を取り巻く教育環境に対しては、それほど強い疑念を抱かずにすんできた面もあるのかもしない。現状を見て、自分の経験してきた高校像との違いに愕然とする部分も多いのだろう。こんなはずではないと、高校入学適格者主義をとる者があろうし、何らかの改革で対応しようと考える者もあろう。世間の大人達も、若者を批判する者、学校のあり方を批判する者など様々だ。学校への批判の中では、画一化されている、個性を生かしていないなどの批判も大きい。
 一方で大学生の学力低下なども指摘されている。大学で授業が成り立たないとの話題にも事欠かない。大学入学者にふさわしい力や学習態度を求め高校の教育課程の問題と考える者もあろうし、入試科目などのシステムの問題と考える者もあろう。
 現状に対して、行政から、学校から、市民から、生徒自身から、世をあげて「学校改革を」という期待は大きい。それぞれの目指す改革は、立場や希求するものの違いもあり温度差が大きいが、何らかの改革が緊急に必要なことは、私たちも異論がない。その際、職場で学習者と接している私たちが、どのような視点を持っているか、現実をふまえてどのような学校づくりを行うか、力量が問われている。学校づくりについては、「ねざす」24号の所員の論文に詳しいが、現実には、具体的に高校をどうするのか、高校生にどのような力をつけさせられるかということを求められている。
 従来の画一化された教育への批判として、「多様なタイプ」の高校、「個性に応じた多様な選択科目」という、耳に心地よい言葉を歓迎する風潮になっている。では、果たして、それが本当に改革となるのだろうか。多様な・大幅な選択制度の導入の前提として何が必要なのかをかんがえてみたい。

 

2 「学力」として保障すべきものは何か

 今まで私たちは、どのように「学力」や「学習」をとらえてきたのか。
神奈川県高等学校教職員組合の「高校教育問題総合検討委員会」は1991年に「学習疎外を超えて 強制・競争の教育から自立・協同の学習へ」と題した報告書で、「共通基礎の上に立った、大幅な選択科目の導入」「教育課程の概念を、教科を自然科学系・『ことば学』系などの系列に再編成した『タテのカリキュラム』と、それらを横断的にまたがる学際的総合的な学習テーマとしての『ヨコのカリキュラム』とする」という内容の考え方を示している。(具体的な教育課程の組み立ての詳細は、1998年にまとめられてた、「続・学習疎外を超えて」に詳しいので、是非、参照されたい。)
 この委員会報告では、卒業単位を80単位以上としている現行の学習指導要領において60単位程度を共通基礎として確保することを提言している。大幅な選択科目の導入といいながら少ないではないかという見方もあろうが、「民主主義社会を維持・発展させるためには、それを構成する一人一人が、必要最低限の教養を基礎にした共通の価値観(民主主義思想と)実践能力(民主主義的行動能力)を備えなければならない。」という根本理念があり、系統立てた学習としての教育課程の自主編成プランが前提である点を押さえておきたい。同報告書は下記のようにまとめている。

1.

誰もが、生存権・発達権・幸福追求権の根底を成す「教育への権利(学習権)」をもつ 。それを差別なく保障するためには、原則として、誰にも、教育への公平な機会と共通の学習内容が与えられねばならない。私たちは、図式的に言えば、高校教育の前半期までを共通基礎課程期間と考える。そして、後半から、自由選択制をとる。

2.

ただし、「共通教養の習得と個性的発達とを機械論的に仕分け、共通基礎は共通教科で 、個性的発達は選択教科でという捉え方」はしない。共通課程での学習の中でまず、子ども達の自由で多様な発想が大切にされ、自由で多様な学習への参加の仕方・学習目標への自由で多様なアプローチの道筋が保障され、学習集団内部の相互作用のうちに各生徒 が主体的・個性的に共通教養を獲得できるようにすべきである。そして、共通課程の学習の深化・発展としての自由選択科目の学習でも、そのことが、いっそう追究される必要が ある。

3.

生徒の個性を育てるとして、学校の「個性化・特色化」、すなわち学校別の教育課程の特殊化・種別化と、学習の「個別化」、すなわち一面では、学習から社会的要素を抜き取り、もっぱら個人的利益に学習の動機と成果を結びつけさせる教育課程政策、他面では、能力主義のもとで、何重にも階層化され細分化された教育目標に対応する教育課程政策(学力別学校編成・学級編成など)、が採用されている。しかし、それは、むしろ、学校単位で見れば新たな教育の、画一化であり、学校教育体系全体からみれば新たな教育的差別・選別システム化の方向である。

 生徒の「学び」を重視して教育課程を組み立てる視点がここに示されているといえよう。「共通基礎」という言葉の中には、読み書きに代表される生活の基盤となる学力ばかりでなく、抽象的な言い方にはなるが、自分が自分として、そして市民社会の構成員として成長していくための学びというものが込められている。もちろん、「共通」だからと言って、全ての生徒に難しい積分の問題を解かせようというのではない。また、共通だから簡単な計算の範囲を出なくてよいといっているわけでもない。かけ算のできない高校生も、受験に対応した問題を要求する生徒もいる現状の中でも、一人一人が数学的な考え方を身につけ利用できるように、教科の目標や学習の構造自体を組み立て直すことを提起しているのである。
 特色のある科目設定は、ある場合には、担当者個人の力量に追うところが多かった。保障すべき「学力」の視点から、学校全体の共通理解としての教育課程編成を考えてみることが必要だろう。また、「系」の導入もさかんで、多くの学校においては、それを目玉にしつつ、系列で縛るものではない(選択はどの系からでも自由)としているようだが、単に内容をわかりやすくするためだけに系という語句を使うのではなく、系ごとそして各教科科目との有機的な結びつきを構築しておく必要もあろう。
 高校教育前半期での共通基礎、その発展としての多様な選択が提起されているが、そこについては、より柔軟に考えてみたい。前半期において、基礎を学びつつ、同時に発展的な内容を学ぶことや、後半期においても、発展的な内容を学んでいく中で新たに自分にとって基礎として重要なものに気づくこと、いったん学習した科目を新たに学び直す必要を感じる可能性もあること、教科外活動を含めた高校教育全体で培われてくる「学力」もあることなど、「学び」のパターンは、一律ではない。それ故に、段階的なパターンや類型でくくるのではなく、場合によっては学年を越えて、あるいはくくられた系列を越えて、選択が可能であるしくみ、選択科目履修後にも基礎科目に立ち戻れる可能性も求められていると考える。
 

3 生徒の学力保障のための選択科目を

 今までも相当数の学校で選択科目が設置されてきた。しかし、それらが受験・就職のためという実用面を超えて、生徒自身の「学び」となり得てきただろうか。
 たとえば、家庭科の選択として、食物・被服・保育などの科目が設置されてきた。しかし、ある学校では、3年次になると受験科目以外は選択したがらず講座は成立しない、ある学校では、他に選択したいものがないという消極的な学習者が集中する、あるいは、教員が確保できず泣く泣く閉講した、などの話も多い。せっかく選択科目を置こうとしても、学校間格差の顕著な現状の中では、その格差を広げてしまう働きを担う可能性もある。進学者の多い学校では、入試科目に基づいた科目の設置に傾く可能性もあるし、格差構造の中でよい生徒を集めたいと考える学校は、より進学向けのカリキュラムに近くなっていく可能性もある。個性の重視であったはずの選択科目の導入が、新たな学校間格差や、学校内の格差による振り分けの機能を果たしてしまうこともあり得る。
 今回の学習指導要領改訂の必履修の縮減等についてみておきたい。 全ての生徒に履修させる教科科目は、たとえば、国語という教科で言えば、従来の国語T(4単位)に対して「国語表現T(2単位)および国語総合(4単位)のうちから1科目」というように減じている。「情報」などの新たな科目があることと卒業単位数の減を行う必要があるものの、全体的には必履修科目を減じ、生徒が選択できる余地を大きくしたものといえる。共通基礎はそれぞれの科目において再構成されるべきものであり、単位数の多少=共通基礎の多少というように単純にはとらえられないにしろ、教育課程の設定の仕方によっては、自由な選択という名の下に基礎の切り下げ、あるいは個性に応じたという名の下に新たな能力的選別になってしまう可能性も考えておいた方がよいかもしれない。
 また、学習指導要領にある科目を、全て設定し自由に選択させるとしても、培う「学力」や教科相互の系統性の再考をせず、従来の科目の読み替えにすぎない内容展開では、新たな改革とはなりにくいのであろう。
 総合学科については、「『産業社会と人間』及び専門教育に関する教科科目を合わせて25単位以上設け、生徒が普通教育及び専門教育に関する多様な各教科・科目から主体的に選択履修できるようにすること。その際、生徒が選択履修するにあたっての指針となるよう、体系制や専門性等において相互に関連する教科・科目によって構成される科目群を複数設けるとともに、必要に応じ、それら以外の各教科・科目を設け、生徒が自由に選択履修できるようにすること。」と述べられている。多様な科目の設定が可能であるが、一方で生徒の主体的な選択をサポートする体制が重要となってくる。
 フレキシブルスクールのような大幅に拡大された選択科目や、福祉・環境・国際など系列の導入は、学校独自の科目の導入を行いやすくし、生徒の意欲を引き出すものかもしれないが、「保障すべき学力」とでもいったものを、学校の共通理解としておくことなしに目的を達成することは難しいのではないか。

 

4 学習者がよりよい選択をするための支援を

 たとえば、食欲のない人間にどんなごちそうを出しても手を出さない。それがどのように厚いステーキであっても、食べたいと思わない限り単なる皿の上の物体にすぎない。また、バイキングメニューの中から食べたいものどうぞといわれても、自分の嗜好や食欲の度合いが全くわからなかったら、そして全く見たことのない料理であったら、何をどれくらい皿に取るのか判断にこまる。
 現状で、生徒の前に大幅な選択科目を並べた場合、似た状況が起こるのではないか。たくさんの科目はあるが、何もとりたくない、何をとるべきかわからない、といった生徒が大勢出てしまうのではないか。パターンを示されることを望み、そこに従って終わりにする生徒も出るだろう。もちろん、あまり食欲がなくても食べてみたら美味しかったという経験がないわけではない。人生には試行錯誤も必要だし、ましてや若い学習者には、失敗する権利もある。効率よくはなくても最終的に選択することができるとすればそれもよいかもしれない。しかし、在籍期間がそう長くはないことを考えると、全ての生徒に「はじめは食べる気がなくても寄り道をしながら、気長に試食して見ればいい」という方法が当てはまるわけではない。ましてや「体に合わなくても選んだ責任において食べろ」とはいえない。学習への内発性をどう喚起するか、 自分に必要な学習をどのように把握できるか、それぞれの科目内容を予測できるか、そういったことへの支援なくしては、主体的な選択は成り立たない。
 今まで以上に、学力保障のための支援体制が必要となってくる。ガイダンスの充実などが不可欠であろう。新しいタイプとされている学校は、新規中卒者、過年度卒業者(社会人も含む)、中退者、不登校経験者、他校からの転編入者など、様々な経歴を持つ人々を迎え入れることを想定させられている。現在の学級集団が、年齢がそう違わない一定の層で構成されていることの不自然さから考えれば、それはそれで意味のあることだろう。その際には、一人一人の経歴と学習要求を尊重した個別のガイダンスはよりいっそう重要になってくる。また、よかれあしかれ、技能連携・各種検定・ボランティアなど学校外で学んだものが、高等学校の単位として認定可能になってくる今後の方向を考えたとき、従来の一律説明型のガイダンスだけでは不十分だ。ガイダンス実施者と学習者の相互信頼関係に基づいて、学習者の経歴・到達段階や学習ニーズを把握することと、ガイダンス実施者の学力保障に対する理念がなければ、個別ガイダンスも、卒業単位数あわせと進路先相談に終始してしまう。ガイダンス実施者は学級担任とするだけでなく、全職員が相談をうけられる体制を作っておくことも必要だろう。そして、LHRや学校行事など教科外活動においても、他者との関わりを通じての自己発見をサポートすることも欠かせない。

 

5 全ての学校で教育課程の議論を

 高校づくりを考える動きは、様々な段階で久しくあった。にも関わらず、教育課程については、単位数の調整が中心となり、根本の構造を考えることはそれほどなされてこなかったのかもしれない。職場の多忙化、学校間格差の中で他校の教育課程と大きくずれたくないという思いなど、様々な要因が考えられる。また、せっかく議論してきたことも人的配置の問題、施設・設備の問題などで実現不可能であったことなどもあろう。
 しかし、「今」、改革に待ったをかけられない状況の中で、私たちの側からの改革(もちろんそこには、学習者としての生徒も含まれる)を考えとすれば、もう一度、教育課程についての理解をはかっていく必要があるだろう。選択科目の導入は、組み立てるべき教育課程と学習者支援の体制について十分に論議されることを前提にして考えれば、私たちの学校づくりにおいても、有効なものとなってこよう。「上」からの改革には一定の財政的保証もあるだろうし、目新しい「系」「総合的な学習」「選択」といった言葉が並べられているかもしれない。世論もそういった「改革」を喜んで受け入れるかもしれない。その時に、私たちが学校づくりについての明確な方向性を示すことができなければ、やってくる流れに唯々諾々と従うしかなくなる。再編の対象となった学校だけの問題ではなく、また、「情報」科目や「総合的な学習の時間」の検討といった学習指導要領の一部の問題だけではなく、全体のカリキュラム編成についての議論を、全ての学校ですすめていく必要があろう。

(たけだ まさこ 県立豊田高校教諭 研究所所員)

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