特集 : 問われる21世紀の高校像
 

推薦入試を考える――内申書の問題を中心にして――

本間 正吾

 
 はじめに

 全国的にみるならば、推薦入試制度は、高校へ入学するための、ごくふつうのルートとなってきている。かつては一部の高校にかぎられていた推薦入試も、いまでは多くの県で、普通科を含む、すべての学科、すべての高校に広げられてきている。この流れの中で、神奈川県は、専門コースと単位制以外の普通科には、推薦入試を実施しない、数少ない県のひとつにとどまってきた。だが、その神奈川県も、推薦入試を、段階的に導入しながら、いずれは普通科をふくむすべての高校へ広げようとする方向がしめされた。そして、来年度(2001年度)の入試においては、18の普通科高校が、あらたに推薦入試導入に踏み切ることが公表された。
 神奈川でも、普通科への推薦入試導入は、行政の側から、これまでもたびたび提起されてきたものであった。たとえば、現行の高校入試制度の枠組をさだめた「神奈川県公立高等学校入学者選抜制度改正大綱」においても、「(推薦入試の導入に関し)専門コース以外の普通科については、今後の課題とし、引きつづき検討いたします」という説明がつけられていた。ただ、この言い方がしめしているように、この段階では、普通科全体への推薦入試の拡大は、今後の検討をへた上で提起がなされるもの、とされていたのである。
 ところが、昨年の夏、神奈川の県立高校の姿を大きくかえようとする、「県立高校改革推進計画」が公表され、その中に、普通科への推薦入試導入の予定も、「『前期計画』期間に普通科の推薦制度を導入」と、書き記されていた(第7章の4「入学者選抜制度改善の推進と通学区域の検討」)。今回の普通科への段階的な推薦入試導入の公表は、この計画にそったものといえるかもしれない。だが、この間、普通科への推薦入試導入について検討がなされた、という発表はなかった。そして、段階的導入という名の下で、推薦入試導入の責任は、各学校現場に負わさることになってしまったのである。
 高校入試における推薦制度とは、とくに検討も加えることなしに導入したり、拡大したりすることが許されるような、かんたんなものなのだろうか。先行する他県の様子等を見ながら、ここで推薦入試についての若干の検討を試みてみたい。
 

1 期待を裏切る推薦入試

 推薦入試には、魅力がある。少子化のすすむ中で、多くの大学、短大が、学生確保のために、推薦入試を導入してきた。高校にとっても、推薦入試は、生徒確保の切り札という期待をもたせる。他の選抜方法に比べ、早い時期におこなわれる推薦の場合には、その定員枠まで、受験生はくるだろう。しかも、様々な条件をつければ、それなりの「レベル」の生徒を確保できるだろう。高校側の期待はふくらむ。
 一方、受験生とその保護者にとっても、推薦入試は魅力あふれる制度である。うまくいけば、早い段階で合格の切符を手にすることができる。かりに推薦で合格できなくても、まだ先がある。受験のチャンスを広げるという意味でも、推薦入試は魅力ある制度に見えるだろう。
さらに、中学校の側から見ても、推薦制の魅力は十分にある。受験生を送り出す側にとってみれば、ひとりでも多くの生徒を、可能なかぎり希望どおりの進路、少なくとも希望に近い進路にすすませたいだろう。そんな立場から見たとき、いままでの入試制度とは違った可能性を開くものとして、推薦入試は利用価値のある制度に見えるかもしれない。
 だが、こうした期待は、現実の中では、ほとんど裏切られることになる。その例として、「偏差値追放」を掲げて全国的な「高校入試改革」の先駆けとなった、埼玉県の状況を見てみたい。埼玉県の県立高校の教員である小川洋氏は、大都市周辺の社会構造を分析した上で、その構造をまったく理解することなくすすめられた、「入試改革」の結末をこうとらえている。
 

推薦入試拡大などの公立高校の入試改革は、どのような影響を与えたのだろう。
二つの新しい変化がもたらされたと考えられる。一つは、推薦入試を利用した生徒集めの動きであり、もう一つは、学力上位層生徒の公立高校離れの現象である。

(『なぜ 公立高校はだめになったのか』亜紀書房P.153)

 「推薦入試を利用した生徒集めの動き」とは、いわゆる「青田買い」をさしている。小川氏によると、埼玉県でも、あるいは同じように推薦制度を導入した大分県でも、公立高校による運動部選手等の「青田買い」が横行する結果になった。「特色ある生徒」を入学させるという推薦入試制度の主旨からすれば、「青田買い」が起こることは、必然的結果といえるかもしれない。
 一方、埼玉県のいわゆる上位校においては、受験生の取消率が大幅に上昇した。それは、小川氏によると、94年から96年にかけて、毎年およそ5パーセントの上昇であった。定員の二割までが推薦入試の枠とされ、一般入試の枠が狭まり、受験生の不安が広がったこと、また調査書の形式の変更により、選抜基準が見えにくくなったこと、このふたつが重なったところに、小川氏は上位校敬遠の原因を見ている(前掲書P.155〜156)。調査書の形式の変更とは、とくに「観点別評価」が二次選考で重視されることになったことをさしている。結局、「学力」にそれなりの自信をもつ受験生は、合否の基準が不透明になった県立の上位校をあえて受けることなく、自分の「学力」で確実に合格できる見通しの立つ私学へと流れてしまったのである。結果、埼玉県の公立高校にとって、推薦入試とは、私学と争って運動部の選手などを、「青田買い」する以外の意味は持たなくなってしまったのである。
 受験生と保護者にとっても、推薦入試の意味は見えなくなる。推薦入試を推奨する立場からは、「生徒の特性や長所に着目」するのだから、どんな生徒にも可能性はあると言うかもしれない。しかし、これほど不明瞭な基準はない。「学力によらない選抜」という主旨を徹底すればするほど、基準は複雑で理解しがたいものになる。そして、推薦入試の合格者を決める現実の場面では、受験生の特性や長所の記述は、高校側によって相対的に評価されざるをえなくなる。なぜならば、推薦入試での合格者数にも、当然一定の定員枠が存在するからである。
 結局、受験生の目から見ても、推薦で安心して合格の切符を手にすることができるのは、「特色ある生徒」として認められた一部の生徒、「青田買い」の対象となるような生徒だけということになってしまう。大部分の受験生にとって、推薦入試は、たんに入試の一部前倒しという以上の意味は持たなくなってしまう。むしろ、推薦で確実に合格できるという自信をもてない、ふつうの受験生にとっては、推薦の枠が設定され、一般入試の枠が狭まることにより、高校入試全体への不安が広がるだけの結果に終わってしまうのである。
 そして、おそらく推薦入試によって、もっとも難しい立場に立たされるのが、中学校であろう。推薦書の作成などの事務的作業の煩雑さよりも、どの高校の推薦を受けるように指導するか、これが難しい仕事になるだろう。もちろん、どの高校を受けるかは、受験生の希望に任せるという方法は、あり得るであろうし、それが賢明な方法かもしれない。しかし、受験生も保護者も、ただ受験することを望んでいるのではなく、合格することを望んでいるのである。どの高校なら推薦で合格可能か、どの高校なら合格が難しいのか、中学校の教員は助言を求められ、指導せざるをえなくなるだろう。しかも推薦での合格が魅力あるものであればあるほど、一般入試での合否可能性以上に、推薦入試の合否可能性についても、確度の高い見通しを求められることになるだろう。結局のところ、推薦入試においても、受験生を「振り分ける」技術を、中学校は要求されることになるのである。
  しかも、推薦入試の結果と一般入試の結果は、さほど大きくは変わらないだろう。教科学習の上で高い評価をうける生徒と、他の分野、生徒会活動や部活動などで成果を上げている生徒が一致している状況は、高校、中学の教員の多くが見ているところだろう。いまさらとは思うが、参考として、「授業への関心・部活への関心」という図を見てもらいたい。これは、高校生を対象としておこなった調査の結果であるが、世間で「学力の高い学校」とみられている学校ほど、授業への関心も、部活動への関心も高いのである。授業への関心だけが高く、他の活動には見向きもしない、というケースは、存在するとしてもあくまでも少数派なのである(詳しくは「教育白書2000」を参照されたい)。だから、ある受験参考書は、こうアドバイスしている。「進学校には、もと生徒会長とか、もと学級委員長とかいう優秀な活動歴を持つ受験生が集まりやすいので、成績中心の内申点で合否を判定せざるをえないのです(『100%ブックス高校入試 推薦で決める!』学習研究社)」。
 だが、期待が裏切られただけですむならば、まだことは深刻ではない。推薦入試のもっとも深刻な影響は、入試そのものとは別のところ、生徒の日常の生活の中にあらわれるのである。この辺りの状況をもう少し探ってみたい。

 

2 「内申書」で決まる推薦入試

 たとえば、いま例に挙げた埼玉県では、推薦の「出願資格」は、県教委によりこんなふうに定められている。

 保護者とともに県内に居住し、平成12年3月に、県内の中学校を卒業する見込みの者で、次の条件を満たし、中学校長の推薦を得た者。
 1.「調査書」の記録が優良である者
 2.当該学校が定める推薦条件に適合する者

 埼玉県にかぎらず、どこでも「中学校の校長の推薦を受けたもの」という条件が必ずついている。「推薦」である以上、当然の項目、と言われるかもしれない。しかし、当事者である子どもや親にとっては、「校長先生の推薦を受ける」という言葉は重い。どうしたら、推薦を受けることができるのか、どうしたら、推薦を受けられなくなるのか。事実、推薦入試を先行的に導入した県では、PTAの役員の子は推薦を受けられる、というような噂がまことしやかに流れたという状況も報告されている(宮崎県)。希望どおりに推薦を受けるためには、少なくとも、学校の意向に反することだけはないようにしなければならない。「中学校長の推薦」の中身が抽象的であればあるほど、多くの子どもも親もこう考えざるをえないのである。
 さらに、「調査書」に言及しはじめたとき、子どもや親への、中学校の圧力はさらに増すことになる。いま例に挙げた埼玉県では、細かい基準は各学校現場にまかせているため、県の定めるところでは「調査書の記録が優良である者」というかんたんな表現になっている。しかし、そんなかんたんな表現であっても、日々の学習状況、態度や意欲が、調査書には記載される。テストで頑張ればよいだけではない。毎日の学校での生活全体が問われることになる。
 なかには、推薦の細かい基準を、県教委の段階で定めているところもある。たとえば、茨城県は、「次の条件を満たし、かつ中学校長の推薦する者」として、このような条件をあげている。

 

次の(ア)(イ)(ウ)のいずれかに該当すること。
(ア) 「リーダーとして優れた資質・実践力を有すること」
(イ) 「文化、芸術、体育及び奉仕活動等のうち、いずれかの分野において優れた資質・実績を有すること」
(ウ) 「調査書の学習の記録(「各教科の学習活動の記録」又は「選択教科の学習の記録」)に記載された内容に、秀でた特色があること。 

 もちろんどれかに該当すればいいとされている。だが、その言い方が通用するのは、現実に推薦を受ける最終段階、3年生になってのことである。どの分野で自分が「優れている」のか、何で自分が「秀でた特色」をしめすことができるのかわからない段階では、中学生はあらゆる分野で、とりあえず頑張っておかなければならないのである。しかも、中学生や保護者にとっては、推薦入試にどのように対処したらよいかは、なかなかわかりにくい。たとえば、学力検査への対処はかんたんである、「ともかく勉強しなさい」、これにつきるだろう。だが、推薦入試は、そうはいかないだろう。
 こうして、推薦入試にまつわる悩みに答えるかたちで、対処の仕方をマニュアル化した受験参考書が登場することになる。『高校合格100%ブックス 高校入試 推薦で決める 学習研究社』という参考書をここでみてみたい。
 この中には、「先生が推薦を勧める生徒・推薦できない生徒」というページがある。「志望校に合っている生徒」「明るく積極的な生徒」「将来をきちんと考えている生徒」「まじめで努力型の生徒」は推薦に向いているとされ、「成績がよくない」「目的がない」「高校の基準に達していない」「ふだんの行動に問題がある」生徒は推薦できないとされている(P.42〜43)。また「こんな人が推薦にピッタリ!」というコーナーもある。「気が強くプラス思考の人」「個性的な人」「内申がいい人」「声が大きい人」「意見をしっかりいえる人」「積極的な人」「生活態度がいい人」と、推薦に向いた生徒の類型が並べられている(P.50〜51)。
 生徒を推薦で送り出してきた、あるいは推薦で選考してきた、中学、高校の教員なら、これらの記述に、ためらいを感じながらも、ある程度はうなずくことになるだろう。たしかに「推薦に向いた生徒」と「推薦に向かない生徒」は存在する。推薦入試で成功するために、「向き」、「不向き」は考えなければならない。だから、推薦を意識する中学生は、「推薦に向いた生徒」になるため、平素から努力を重ねていなければならない。そして、おとなたちは、子どもにこういうことになるだろう。「推薦で高校へ行こうと思うなら、ふだんの生活が大事だよ」と。
 

3 歪められる学校現場

 いま見たように、推薦入試で勝ち残るためには、なんといってもふだんの成績や態度、つまり「内申書」の内容がよくなければならない。子どもも保護者もそう思うことになる。そこで、『高校合格100%ブックス新・調査書対策 内申UP方程式』という、直截な表題の参考書が登場することになる。
 この参考書を開くと、そこには、「先生の目の表情に注意!」「発言は語尾までハッキリと!」「先生の目を見て話しを聞くと集中できるし、熱意も伝わる」・・・わかりやすい注意がならんでいる(P.44「各教科の学習の記録 実戦編C」)。
 こうしたアドバイスには、それなりの裏付けもあるようである。この参考書の「内申UP応援団」というページ(P.48〜49)には、「中学の先生が明かすホンネ」と称するものが載せられている。そこには、「先生の話をしっかりと目で見て聞き、わかったことはうなずくと、やる気が伝わってくる」「積極的に授業に参加している。よく質問をする」ような生徒が、「内申をよくしてあげたくなる生徒」としてあげられている。反対に、「そんな気が起こらない生徒」は、「授業態度が目に余る子」「態度がよくない子」などとされている。受験参考書によると、生徒が送るシグナルを教員はきちんと受け止めてくれるようになっているのである。これは、約束事といってもよい。評価される側と評価する側の間に、暗黙の約束ができあがっているという前提があるからこそ、こんなマニュアル本も成立するのである。
 もちろん、現場で生徒の指導にあたっている中学校の教員の「ホンネ」が、この記述どおりだとは思わない。また、中学校の教員が、好んでこんな約束事を成立させているとも思わない。しかし、推薦へと生徒を送り出す立場を考えるならば、中学校の教員は、公平な立場で、細心の注意を払って「内申書」をつくらなければならない。中学校の担任は、一人ひとりの生徒について、どういう「優れた資質」、どういう「優れた特性」があるのか、細大もらさず、客観的、公平に、事実を把握し記録しなければならない。しかも、校外の活動にいたるまで、その把握しなければならない範囲は広がっている。そんな立場に、中学校の教員は立たされている。
 公平であり、客観的であろうとすればするほど、生徒の行動や言葉に対し、教員が下す判断は、形式的にならざるをえなくなる。しかも、その判断は、自分だけが納得してすむものではない。他の教員も納得できるもの、どの教員でも同じ判断を下すようなもの、さらに外に対しても説明がつくものでなければならない。そんな判断を、中学校の教員は、生徒から、保護者から、そして高校側から、要求されるのである。もし、「個性豊かに」、生徒の言動を見、判断する教員がいたら、どうなるだろう。おそらく、その判断は一貫しない信頼性を欠くものとされてしまうだろう。公平で、客観的であろうとするならば、教員の判断は、みずからの個性的見方を排し、事実のみを拾い上げてくだすものでなければならなくなる。
 だから、受験参考書にもこんなアドバイスが書かれることになる。「役員がだめなら、委員長、副委員長に(「内申UP方程式」 P.69)」「学校行事の実行委員長になろう(同P.70)」「(部活は)3年間つづけよう(同P.72)」。つまり具体的な事実を残すことが必要だと、参考書は説くのである。そして、先輩たちも、「株あげ」という言葉をつかって、日常の活動の大切さを説く。「学級日誌はすみずみまで書き、黒板や教室をきれいにしたり、とにかくクラスのために働きまくる(同P.79)」。何よりも、目に見える事実を積み上げることが大事である。これらの事実を、中学校の教員はもらすことなく観察、記録して、内申書を作成するのである。だから、先輩はこうもアドバイスする。

 気をつけたのは、廊下などで先生に会ったら、きちんとあいさつをすること。登下校でももちろん!それから、チャイム着席、忘れ物をなくすこと。掃除の時間はきちんと掃除に専念することも大切。先生はそんな何気ないことも見落とさないよ。(同書P.78)

 ところで、ここまで書き連ねてきた、中学校の教員と生徒の動きを作り出した責任は、もともとは高校の側にあるだろう。高校側が「よい子」を望んでいる、という前提があるからこそ、あるいはそう信じているからこそ、中学校の生徒、教員のマニュアル化がおこるのである。そして、「よい子」というあいまいな存在は、高校の側が示す「推薦の基準」なるものによって、「よい事実」を積み重ねる者として、客観的に比較可能な存在になるのである。その意味で、高校の側の責任は重い。
 結局のところ、高校側の期待に応えようとして、中学校の教員は事実を拾い上げ、「内申書」を作成し、高校におくる。一方、高校側も、おくられてきた「内申書」を、公平、客観的に読み、評価する。また、推薦入試につきものの面接でも、面接者は、生徒の態度と言葉を、公平、客観的に理解し、評価しなければならない。そうした評価を下すことが、合格者を決める側、高校の側の責任の果たし方でもある。そして、高校の側が下す判断が、公平であり、客観的な、説明のつくものであろうとしたとき、「内申書」であろうが、面接であろうが、評価の方法は、事実のみを拾い出し、それを比較する、形式的なものになってしまうのである。

4 推薦入試の結末 

 受験参考書の記述をそのまま受け取ることはできない。また、中学生の多くが、逐一こんなマニュアル本を読んで行動していると言おうとしているわけでもない。しかし、参考書は、それなりに現実を反映したものであるはずである。そうでなければ参考書にはなりえない。そして、こうした参考書の記述から、現実がさほど離れたものではないことを知らせる中学生(埼玉県)の声もある。                       

 やはりいまの小中学校では、先生達と生徒の間に深い溝があるのだ、と思いました。でも、実態としては小学校と中学校では大きな違いがあります。高校進学のための「内申書」とういうやつです。
 私達が先生達を嫌うのには、たいていまともな理由があります。先生達の言動について、どう考えてもおかしい、と思うことは少なくないのです(具体的に書くと長くなるので省略)。
 そんな時、「それはなぜですか、おかしいじゃないですか」と意見できる場は、いまの中学生にどれほどあるのでしょう?私は中学生ともなれば、先生達に意見するのもありだと思います。もちろん自分達がいつも正しいと思っているわけではなく、その意見のほとんどがあげ足取りになってしまうでしょう。でも、まずそういった雰囲気・場が必要なのだと思います。言いたいことが言えなければ、心のなかから腐っていくのです。
 しかし、結局のところ「内申書」なのです。これによって私達は、先生達に直接意見する機会をいつも逸しているのです。たかが「内申書」に怯えるなんて、臆病だと分かっています。しかし今の中学校の先生達に、生徒の意見を前向きに聞き、それによって「内申書」に手を加えたりは絶対にしないと約束できるでしょうか。実際、内申書は先生達の武器になっているように思えてなりません。
 中学校で先生・生徒間の溝を埋めるとしたら、まず内申書の圧力を下げることではないかと思います。
 まだ十五歳ながら目上の人に媚びる卑屈な根性を覚えてしまったなんて、わが身ながら情けないです。二月九日に高校に推薦で合格しました。結局のところ、内申書を一番利用したのはこの私なのかもしれません。
『なぜ学級は崩壊するのか』(朝日新聞社会部編 教育資料出版会 P.42)
 

  ここに、内申書なり、推薦入試なりが持つ問題点のすべてが言い尽くされているのではないだろうか。この生徒は、結局は推薦を受けて、高校に合格することができた。また、これだけの文章を書く生徒である。十分に教員から、「高く評価される」生徒だったのではないだろうか。だからこそ、この生徒は、小学校と中学校を「大きく違う」と言うこともできたのかもしれない。これほど「高く評価される」ことのなかった生徒であれば、おそらく小学校のときでも、教員の評価は怖かっただろう。たとえ小学校であっても、いわゆる「通知表」をとおして、教員の評価は、親に伝えられ、それなりに子どもには、大きな圧力となっていたはずである。もしかしたら、この生徒も、実はそうだったのかもしれない。ただ、中学校における「内申書」の重さの前に、小学校の記憶は色あせてしまっただけかもしれない。そして、中学校における「内申書」の重みは、それが高校入試に生かされると言うところにある。推薦入試でも、一般入試でも、「内申書」は決定的な意味をもつ。この生徒をはじめ、生徒たちの目に、教員は「内申書」で武装したすがたで映るのである。
 教員に「評価されている」という意識を持つとき、教員と子どもたちの間には、「深い溝」ができる。子どもたちは、よりよい評価が得られるように、仮面をかぶる。十代前半の子どもにとっても、仮面をかぶることは可能だろう。なぜならば、先ほど見てきたように、教員のマニュアル化された評価がどのように下されるか、予想することができるからである。一方、仮面をかぶることのできなかった子どもたちは、学校の枠組みから脱落することになる。あるいは、仮面などかぶることをやめる子もいるだろう。もう、「内申」などどうでもいい、推薦などどうでもいい、と思った子どもにとっては、もはや仮面は必要がない。彼らには教員の持つ武器も、もう通じない。他方で、この投書の生徒のように、高く「評価される」ことに成功した子どもたちの心のなかには、「目上の人に媚びる卑屈な根性」を身につけたことへの、自虐的な思いだけが残ることになるのである。
 この投書は、「学級崩壊」について書かれたものであった。一部の荒れる生徒たちを前に、教員が立ちすくんでいても、大多数を占めるうふつうの生徒たち(おそらく先の投書を寄せた子も、ふつうの子、いやむしろよい子だっただろう)は、援助の手をさしのべないどころか、同情すらしないだろう。どんなに自分では「無力」だと思っている教員であっても、こどもたちの目には、「内申書」という強力な武器を持ち、どの子をどこに「推薦」しようか、あるいは「推薦」しまいか、と考えている、絶大な力を持つ権力者なのである。おそらく、「学級崩壊」とは、孤立した少数の生徒が、教室の中で暴れまわっているだけではないだろう。それならば、まだ対処のしようがあるだろう。孤立しているのは、教員であり、多くの生徒は、荒れている少数者と教員のまわりで、ただ傍観しているのではないか。ここに、現在の「学級崩壊」の深刻さがあるのではないだろうか。
 だが、もし、個々の教員がこの不愉快な役回りをやめたいと思っても、やめることはできないだろう。なぜならば、いまの制度のもとでは、「内申書」は書かねばならず、しかもその意味は、一連の「高校入試改革」によって、ますます重くなってきているからである。しかも、重要であればあるほど、先ほどのべたように、公平で、客観的で、漏れのない評価、マニュアル化された評価が要求されのである。それに対し、生徒は生徒で、仮面をかぶることで、自衛手段をとる。こうして、生徒と教員の間に、深く広い、見えない溝が掘られていくのである。
  

5 子どもたちの現実は

 もちろん、ここまでの指摘には反論があるだろう。一般入試の枠もあるのだから、推薦入試は、それを希望する者だけがめざせばよいのだ。だから、弊害は防げるはずだ。こういう反論もあるだろう。
 もし、推薦入試が一部の学校の、その定員のごく一部の生徒を選抜するだけの制度であれば、こういう言い方にも、一応の理はあるだろう。しかし、大部分の学校が採用する制度となり、定員の無視できない部分が推薦入試で決まるようになってしまえば、中学生のほとんどは、推薦を意識して中学校3年間を過ごさざるをえなくなるのである。だからこそ、普通科全体にまで推薦入試制度を広げることには、大きな問題があるのである。そして、そんな状況の下でなおかつ、一般入試の道もあると言っても、その言葉は推薦を落ちたときの慰めの言葉としての意味しかもたないだろう。
 あるいは、こういう反論もあり得るかもしれない。仮面と言おうとも、外見だけ繕っただけと言おうとも、「よい子」の姿を見せようとすることは、よいことではないか。あるいは、ボランティア活動にかかわる動機がどうあれ、はじめることはよいことではないか。首相の諮問機関である「教育改革国民会議」の主査のひとりである森隆夫氏も、新聞紙上での、「(奉仕活動を)無理やりやらせても効果が上がらないのでは」という質問に対し、こう答えている。「それでもかまわない。それが教育の不思議なところで、例えば、いやいや行った学校でも、後になってみれば、よい思い出になる(2000年8月13日 『朝日新聞』)」。
 だが、子どもたちは、「いやいや」やったことを覚えている。そして、自分が、「よい評価を受けようとしたこと」を、「内申書を利用したこと」を、子どもたちは知っている。わかっているからこそ、子どもたちは、深く傷つき、自分を責めることになるのである。おとなたちは、「いいことをして、それが評価されたんだから、いいじゃないか」と言うかもしれない。しかし、実際に競い合わされている子どもたちの間では、それではすまないだろう。ここでまた、先ほどの受験参考書を見てみる。         

 奉仕活動で、道路の清掃をしていた子の内申書には、そのことについて書いてあったらしく、入試の面接のとき、高校の先生にほめられたと言っていた。また、毎朝、昇降口の掃除をしていた子は、少々成績が悪かったにもかかわらず、見事希望の高校に合格したらしい。(内申UP方程式P.79)

  こういう見方があり、それが一定の説得力を持つ以上、たとえそんなつもりはなかったとしても、子どもたちは、「内申書を利用した」自分を責めることになってしまうのである。
  

最後に・・・どの道を選ぶのか

 これまでも文部省は、高校入試制度にかかわる通知等を、くりかえしだしてきた(84年の文部省通知「入学者選抜方法の改善についての通知」、93年に諮問機関「改革推進会議」が出した、「高等学校入学者選抜方法の改善について」等)。その中で、推薦入試は、積極的に活用すべき制度とされてきた。しかし、こうした通知や指導が、子どもたちの現実に目を向けたものかどうか、疑問を呈せざるを得ない。というのも、ここまで述べてきたように、推薦入試は、子どもたちの生活に暗い影をひろげる、危険な道を開く可能性が大きいからである。いまは、不登校生徒の増加、中途退学者の増加、深刻化が取りざたされる青少年の事件、いわゆる「学級崩壊」、等々、教育にかかわる問題は山積している。こんなときに、教員と生徒の間の溝を広げるなどということが、許されるはずもない。教員も、生徒も、いまは武器も仮面も捨て、率直に向き合わなければならないときのはずである。 
 97年度の公立高校の入選改変以後、神奈川でも、内申書の占める割合はいちじるしく拡大することになった。たしかに、普通科の場合は、定員の56%までは、数値で判断することになっている。だが、その部分であっても、内申書の比重は6割に達している。まして、残りのいわゆる「総合的な選考」の部分では、「調査書の評定以外の記載事項」まで活用することになっている。今度は、そこに推薦入試がかさなろうとしているのである。
 神奈川の公立高校が、いまおかれている状況を考えると、高校現場に残された選択の余地は、けっして大きくない。各高校は、学校間の競争にさらされ、しかも「特色づくり」という名の下で、その競争はますます加熱されている。各高校は、より「意欲の高い生徒」、より「特色のある生徒」を集めるための、工夫と努力を強いられようとしている。そんな中でさらに、推薦入試を実施するか否かの責任まで、各学校現場は負わされてしまったのである。
 しかし、どんな条件の下でも、中学生にかかる高校入試の圧力を、できるかぎり小さなものにとどめる工夫をすることは、高校の側の責任である。なぜなら、高校の側の動きにあわせて、中学校の教員と生徒、保護者は動いていくものだからである。その意味で、高校現場の責任は大きい。
 だが、各高校現場以上に、重い責任を負っているのは、行政である。結論から言ってしまえば、とりうる最善の道は、高校入試そのものを廃止することであろう。高校への入学を希望する子どもたちを、すべて受け入れるための物質的条件は、すでに整っている。残されているのは、政策上の決断だけである。だが、その道はいまのところ見えてはこない。もし高校入試を残したままでとりうる次善の道を探すなら、それは入試制度を複雑にしないことであろう。複雑になればなるほど、子どもたちに求められる条件は多様になり、不安は煽られる。その点、神奈川の現行入試制度は、全国的に見てもあまりにも複雑すぎるだろう。この改善は急務である。その上で、さらにどの道にすすもうとするのか。これからの神奈川の子どもたちの生活がどのようなものになるか、それはひとえに行政が、どの道を選ぶかにかかっている。
   

           (ほんま しょうご 県立田奈高校教諭 教育研究所所員)
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