いま見たように、推薦入試で勝ち残るためには、なんといってもふだんの成績や態度、つまり「内申書」の内容がよくなければならない。子どもも保護者もそう思うことになる。そこで、『高校合格100%ブックス新・調査書対策 内申UP方程式』という、直截な表題の参考書が登場することになる。
この参考書を開くと、そこには、「先生の目の表情に注意!」「発言は語尾までハッキリと!」「先生の目を見て話しを聞くと集中できるし、熱意も伝わる」・・・わかりやすい注意がならんでいる(P.44「各教科の学習の記録 実戦編C」)。
こうしたアドバイスには、それなりの裏付けもあるようである。この参考書の「内申UP応援団」というページ(P.48〜49)には、「中学の先生が明かすホンネ」と称するものが載せられている。そこには、「先生の話をしっかりと目で見て聞き、わかったことはうなずくと、やる気が伝わってくる」「積極的に授業に参加している。よく質問をする」ような生徒が、「内申をよくしてあげたくなる生徒」としてあげられている。反対に、「そんな気が起こらない生徒」は、「授業態度が目に余る子」「態度がよくない子」などとされている。受験参考書によると、生徒が送るシグナルを教員はきちんと受け止めるてくれるようになっているのである。これは、約束事といってもよい。評価される側と評価する側の間に、暗黙の約束ができあがっているという前提があるからこそ、こんなマニュアル本も成立するのである。
もちろん、現場で生徒の指導にあたっている中学校の教員の「ホンネ」が、この記述どおりだとは思わない。また、中学校の教員が、好んでこんな約束事を成立させているとも思わない。しかし、推薦へと生徒を送り出す立場を考えるならば、中学校の教員は、公平な立場で、細心の注意を払って「内申書」をつくらなければならない。中学校の担任は、一人ひとりの生徒について、どういう「優れた資質」、どういう「優れた特性」があるのか、細大もらさず、客観的、公平に、事実を把握し記録しなければならない。しかも、校外の活動にいたるまで、その把握しなければならない範囲は広がっている。そんな立場に、中学校の教員は立たされている。
公平であり、客観的であろうとすればするほど、生徒の行動や言葉に対し、教員が下す判断は、形式的にならざるをえなくなる。しかも、その判断は、自分だけが納得してすむものではない。他の教員も納得できるもの、どの教員でも同じ判断を下すようなもの、さらに外に対しても説明がつくものでなければならない。そんな判断を、中学校の教員は、生徒から、保護者から、そして高校側から、要求されるのである。もし、「個性豊かに」、生徒の言動を見、判断する教員がいたら、どうなるだろう。おそらく、その判断は一貫しない信頼性を欠くものとされてしまうだろう。公平で、客観的であろうとするならば、教員の判断は、みずからの個性的見方を排し、事実のみを拾い上げてくだすものでなければならなくなる。
だから、受験参考書にもこんなアドバイスが書かれることになる。「役員がだめなら、委員長、副委員長に(「内申UP方程式」 P.69)」「学校行事の実行委員長になろう(同P.70)」「(部活は)3年間つづけよう(同P.72)」。つまり具体的な事実を残すことが必要だと、参考書は説くのである。そして、先輩たちも、「株あげ」という言葉をつかって、日常の活動の大切さを説く。「学級日誌はすみずみまで書き、黒板や教室をきれいにしたり、とにかくクラスのために働きまくる(同P.79)」。何よりも、目に見える事実を積み上げることが大事である。これらの事実を、中学校の教員はもらすことなく観察、記録して、内申書を作成するのである。だから、先輩はこうもアドバイスする。
気をつけたのは、廊下などで先生に会ったら、きちんとあいさつをすること。登下校でももちろん!それから、チャイム着席、忘れ物をなくすこと。掃除の時間はきちんと掃除に専念することも大切。先生はそんな何気ないことも見落とさないよ。
(同書P.78) |
ところで、ここまで書き連ねてきた、中学校の教員と生徒の動きを作り出した責任は、もともとは高校の側にあるだろう。高校側が「よい子」を望んでいる、という前提があるからこそ、あるいはそう信じているからこそ、中学校の生徒、教員のマニュアル化がおこるのである。そして、「よい子」というあいまいな存在は、高校の側が示す「推薦の基準」なるものによって、「よい事実」を積み重ねる者として、客観的に比較可能な存在になるのである。その意味で、高校の側の責任は重い。
結局のところ、高校側の期待に応えようとして、中学校の教員は事実を拾い上げ、「内申書」を作成し、高校におくる。一方、高校側も、おくられてきた「内申書」を、公平、客観的に読み、評価する。また、推薦入試につきものの面接でも、面接者は、生徒の態度と言葉を、公平、客観的に理解し、評価しなければならない。そうした評価を下すことが、合格者を決める側、高校の側の責任の果たし方でもある。そして、高校の側が下す判断が、公平であり、客観的な、説明のつくものであろうとしたとき、「内申書」であろうが、面接であろうが、評価の方法は、事実のみを拾い出し、それを比較する、形式的なものになってしまうのである。