なぜ、ベンキョーが嫌いか
 
 

 強制・脅迫としてのベンキョー

 15人のメッセージをもとに、まずは「いつ頃からベンキョー嫌いになったか」について見てみよう。「小学校の頃から嫌い」(1年A、1年C、1年E)と言う者や「好きになったことは一度もない」(3年C)と答えた者もいるが、多くの者が中学校に入学してから「嫌いになった」としている。中学校では必ず定期テストがあり、その結果が高校受験に直接影響することもあって、「小学校の時のような知識を増やすための勉強から、いい成績をとるための勉強になってしまって…意欲がなくなってしまった」(2年C)とする生徒が少なくない。小学校までは「出来るとおもしろかった勉強」が、中学校さらには高校に行くにつれて、「出来ても楽しくはない勉強」(3年E)へと変質していくのである。 「テストがあるたびに泣きそうになりながら勉強」(1年D)しても、結果的に「テストで点数がとれない、わからない」(1年C)ということから自信をなくし、ベンキョーが嫌いになる。まさしくテストというものが、彼らにとっては「たった50分もの間に運命が変わってしまう」(3年C)《ブラックボックス》なのである。反対にテストでよい点数がとれても、「まわりが頭よすぎるので、80(点)ぐらいとっても、よくて5段階で3、悪いと2」(3年D)となってしまう。いわゆる中学校における相対評価は、彼らのやる気を奪い、「努力なんて無駄…どうせ勉強したって、私は駄目」(3年D)と思い込ませてしまうシステムといえるだろう。さらに、「わからないからおもしろくないし、おもしろくないからわかろうとしないといった悪循環の繰り返し」(3年A)が、ベンキョーから逃走する生徒を大量生産することにつながっていくのである。
 次いで「なぜ勉強が嫌いになったか」に関して、彼らはさまざまなことを語っているが、親や教師による「積み重なる強要」(1年A)を大きな要因の1つとして指摘する者が少なくなかった。小学校低学年のうちから習い事や学習塾などに行かされ、「勉強をしなければ○○をしてはいけない」(1年A、2年F)との「交換条件」や脅しによって、ベンキョーをさせられている。学校では「これを覚えなければ駄目だ」(3年E)と断定的に言われ、家では親から「勉強をしないと怒られる」(2年F)のである。「しかたがないから」(2年E、F)、「今だけがまん」(2年E)して嫌々ベンキョーに取り組むのだが、「そんなに束縛されたら誰でも嫌いになる」(2年F)との声は切実感にあふれている。「親が子を厳しく、良い子に育てようとする気持ちはわかるけど、子どもの意見も聞いてあげるべき」(2年D)との意見表明に、親や教師はどう応えたらよいだろうか。
 他方、「ほとんど役立つものなどない」(1年B)、「これからの人生であまり役にたたない」(3年B)、さらには「今やっている勉強が本当に自分の将来に役にたつのか」(2年G)と自問自答し、それで嫌いになったという生徒がいる。「勉強をしないと成績は下がるし、…将来が苦しくなる」(1年E)、「勉強しなくては…これから先の選択する幅が狭く、行きたいところにも行けない、つらい人生が待っている」(3年B)と理解しつつも、どうしてもベンキョーが好きになれないとの嘆きも聞こえる。さらには、「勉強というものが僕たち学生の価値を測定するものだ」と気づいた瞬間に「勉強が嫌いになった」(2年E)との鋭い指摘もあった。
 彼らは書いていないが、「勉強」という言葉にある種の「押し付け」を感じ取り、それに対して拒絶反応を示しているとみることもできる。そもそもこの「勉強」という語句はもとは「勤勉」を意味していた。それが今日のような「勤勉な学習」という意味に転化したのは、明治10年代といわれる。1877(明治10)年創刊の少年作文雑誌『頴才新誌』(毎週1万部発行の大ベストセラー週刊誌)には、勉強すれば「貧賎」の出身であっても「賢人」「高官」「富貴」になれるが、逆に勉強をしなければたとえ富貴の家に生まれても「愚人」「貧窮」「卑賎」になるという投稿が多かった。(1)
 こうしたベンキョーが立身出世に直結するとの考え方は、明治以来100年以上にわたって日本の学校教育のあり方に大きな影響を与えてきた。すなわち、「難行苦行の『勉強』をとおして、<生きる>こととは無縁な知識を貨幣のように蓄積し、その蓄積された『学力』を資本のように投資して、差別し排除しあう競争の社会を生き抜く」(2)ことが最大価値であるとされたのである。したがって、そこから差別・排除されないためには、金持ちが自分の財産を増やそうとするのと同様に、テストの点数や成績においていかに高得点を獲得するか血眼になってきた。「『成績』はつぎのステップに上がるための手段であり、『交換切符』」(3)であり、ベンキョーは「他の楽しみを得るために、その代価として耐え忍び、汗水流して登らなければならない難行苦行」(同上)にほかならない。この「難行苦行」をみごと乗り切った者は偏差値序列競争の「勝者」として顕彰されるが、ここで挫折した者は「敗者」となり、落伍者のレッテルを自ら貼りかつ貼られるのである。
 したがって、ベンキョーが好きで「受験戦争の勝者」となった者も、「やり方暗記主義」にもとづくベンキョーでは、「意味がわからないまま、ベンキョーができる」にすぎず、「代行思考」(直接経験を文字や図で「代行」する思考)は身につくが、新しいことを自分で探求していく力は育たない。そう考えると、「ベンキョーが嫌いだ」と訴える者の感覚の方が健全なのかもしれない。
 

 ベンキョーから学び合う授業への転換

 「授業開始早々、最前列で居眠りする生徒。漫画を読む生徒やスポーツ新聞を広げる生徒も。壁にゴムボールをぶつけて楽しむ生徒がいる。…20数人の生徒のうちまともに話を聞いているのは4、5人だ」
 これは「毎日新聞」連載の「新・教育の森−課題集中校から−」からの引用(3)だが、「課題集中校」に限らず、学校生活の中核を占めるはずの授業が成立しないと言われて久しい。上記の授業風景を生み出す背景には、学校間格差を温存したままの入試制度をはじめとしたさまざまな要因があるが、こうした状況下での授業は教師にとっても生徒にとっても苦痛以外の何物でもないだろう。
 「どうせ…だから」「別にぃ」といった言葉を吐き捨て、学習に取り組もうとしない生徒たちを前に、「酸性土壌には何を蒔いても無駄!」(5)と諦めたり、生徒の努力不足ややる気のなさに責任転嫁を図ることはたやすい。しかしながら、教育課程の見直しや学級定員の削減・小集団学習の導入などとともに、「一方向的な授業のあり方を変革するような実践の研究」(6)が急務といえよう。
 21世紀も目前に迫り、教育を取り巻く社会が大きく変貌を遂げたにもかかわらず、学校における授業方法は明治以来ほとんど変わっていない。すなわち、あいかわらず教室内では、教師が一方的に説明し、伝達する一斉授業(これを「チョーク・アンド・トーク」と呼ぶ(7))が主流を占めていることだ。国立教育研究所が公表した1995年度の国際学力到達度比較テストによると、日本では79%が一斉授業方式で行われているが、これは世界41カ国の平均(59%)と比べ、ダントツに高い数値となっている(8)。知識注入型の一斉授業から、自主的な学びを重視し、生徒と教師がともに学ぶ知識獲得型の授業へとシフトしていくことが重要である。このことに関連して都立高校教師から大学へ移籍した吉田和子は「時代認識を鋭くして、子どもや大人の生活の事実の中から、新しい世紀に生きるに必要な自分たちの学びとは何かを、生徒とともに大胆に問いあう授業実践」(9)と表現している。
 小学校教師の室田明美は「教師の精神と身体が固定化されることなく、ありのままの子どもを見つめ、向かい合い、子どもの声を聞く姿勢の中から、教師は大きくなっていく。ありのままの子どもとありのままの教師が学習財を通じて、ぶつかりあい、納得しあいながら、一緒に追求していく営みが、学びである」(10)としている。ここで示された「学び」のあり方は、小学校だけの問題ではなく、高校においてあてはめることができる視点である。さらに次のような指摘もある。「教師は案外と子どもの話を聞いていない。自分の枠にとらわれて、その枠を壊されるのが面倒なのだ。学習が本当に子どものものになるには、教師の枠を壊す子どもの声に謙虚である必要がある。すると、子どもは、本来持っている知的エネルギーを発揮する」(同上)と。
 生徒を静かにさせ、教科書どおりに授業を進め、板書し、それをノートにとらせ、わかりやすく解説し、その理解度をテストする−こうした「枠にとらわれた」授業からの脱却が緊急に求められている。生徒の切実な要求や願いをもとに、「生きるための学び」や「学び方を学ぶ学び」の実現をめざし、どのような授業を創り出したらよいかも含め教師と子ども・生徒が「ぶつかりあい、納得しあいながら、一緒に追求していく」ことが必要だろう。
 

 おわりに

 夏休み中、突然、6年前の卒業生から手紙をもらった。卒業式の当日、私がホームルームで配布したメッセージを読み返し、「ぜひ会いたい」というものだった。その手紙の末尾は次のような言葉でしめくくられていた。「…先生は相変わらず、“現代社会”という授業で受験に必要なことではなく人として必要なことを教えているのでしょうね。私はとても“現社”の授業が好きでした…。どうかいつまでも素敵な、そして静かな闘志(思)を持った先生でいて下さい」
 この時の「現代社会」の授業というのは、担当教師が毎時間ごとの授業プランを事前に検討し、それをふまえて実践に移されたものであった。このような実践を「現代社会」の登場(1982年)以来およそ10年近く、職場の同僚教師とともに学び合い、創り出して来たことを今は「奇跡」だったのかも知れないと思う。12学級時代には「現代社会」の担当教師は4〜5人になったこともあったが、板書事項も盛り込んだいわゆる毎時間ごとの「指導案」を練りあげ、プリント資料も統一、さらに定期テスト問題の検討まで行っていた。もちろん、こうした取り組みの前提として、生徒の現状分析も行い、「生徒にとってわかって楽しい授業」とは何かを絶えず議論しながら進めた。このような教師集団による共同作業は、私自身にとっても「難行苦行」であったが、振り返ってみると、「授業とは何か」について大いに学んだ10年であった(11)。
 今私は、「共有財産」ともいうべき当時の授業実践を組み替え、「生徒に学ぶ」との原則を堅持しつつ新たな発想も加え授業づくりにチャレンジしているが、正直なところ行き詰まりを感じることも少なくない。本格的な授業改革に取り組むためには、教科をも越えた研究組織を校内外に作り、互いの実践を集団的に批判・検討しあうことが欠かせない。さらに、管理主義教育とは無縁の研究授業・授業公開研究会の開催などにも積極的に取り組む必要があるだろう。
 1月7日付「朝日新聞」に「学び合いの共同体を」と題する社説があり、新潟県の小千谷小学校における父母も参加しての授業づくりの取り組みが紹介されていた。学校の存在価値が問い直されている今日、学校を教師・保護者・生徒(子ども)、さらには地域の人たちによる「学び合いの共同体」へと構築していく取り組みを通じて、授業や学びのあり方をともに考えることができるであろう。この社説には、「もっと理想を語れ」との小見出しに続いて、「現実にしばられない想像力と創造力こそが、この社会を変える原動力になります」との一節があった。今、授業改革や学校改革を足元から進める上で学校現場に最も必要なことは、この「現実にしばられない想像力と創造力」にほかならない。もちろん、こうしたことを可能にするためには、「現場を縛らない」教育行政のあるべき姿が強く求められていることは言うまでもない。

(1) 竹内  洋『立身出世と日本人』NHK人間大学、1996年
(2) 佐藤 学『学びの身体技法』太郎次郎社、1997年
(3) 佐伯 胖『子どもが熱くなるもう一つの教室』岩波書店、1997年
(4) 「毎日新聞」(神奈川版)1997年11月21日
(5) 梅本 霊邦「授業をどうするか」『学校づくり最前線』神奈川県高教組、1997年
(6) 中野 和巳「『魅力ある高校』への展望」同上
(7) 渡部 淳「教え中心の授業から学び中心の授業へ」『講座・高校改革(2)』労働旬報社、1995年
(8) 前掲書(2)
(9) 吉田 和子「生活の場で生きることを学ぶ」『岩波講座・現代の教育(3)』岩波書店、1998年
(10) 室田 明美「子どもから学ぶ」同上
(11) 綿引 光友「教師が変われば、教育も変わる」『月刊・ホームルーム』1993年1月号

(わたひき みつとも、教育研究所員・県立都岡高校教諭)

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