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特集 : シンポジウム「高校生は今!」 |
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これはすでにもう80年前後に始まっている事態でありますが、この80年代を通じて様々な試行錯誤が子どもたちによってなされ、その結果、私が第四空間化と呼ぶような、家からも学校からも地域社会からも離脱するという指向が決定的になってまいりました。家庭内暴力もすぐに沈静していき、校内暴力もやっぱり二、三年でいったんは沈静していき、そして、時期的にいいますと80年代前半、前半と言うか82、83年まで家庭内暴力が話題になりますね。82、83、84、85と校内暴力が話題になります。86年には鹿川たけし君の自殺事件をきっかけにイジメに話題が移っていくわけですが、この86年前後というのはコンビニがたいへん急上昇した時期でありまして、当時コンビニに改造車で乗り付けたりしてうんこずわりしているヤンキーが話題になっておりまして、週刊誌で「深夜の誘蛾灯コンビニ」なんて話題が出ていた時期ですね。一年後にはですね、うんこずわりが体育ずわりになったんで、「脚力のなくなった若者たち」っていう話題が週刊誌をにぎわしていたような時期でありますが、このヤンキーも88年、89年にはコンビニの前から消えていくわけです。
つまり、何を意味しているかというと、家、学校、あるいは地域にしか自分たちの居場所がないと思っている子たちは、家が不愉快であれば家に関わる依存的暴力を振るうわけですね。これは家庭内暴力です。学校を自分たちの居場所にしたいと思ってる子どもたちはですね、学校が不愉快であれば、教員が不愉快であれば、やはりある種の依存的暴力を振るうわけですね。ヤンキーというのは、詳しい話はいたしませんが、これは反秩序的に見えまして、実はヤンキー、ヤンママ、ヤンパパになっていき、5年、10年たつと町内会でお祭りの重要な担い手になったりするようなですね、地域社会の、要するに、簡単に言えば、非常に重要な構成メンバーなんですね。ヤンキーっていうのは、地元というものの存在を前提にした裏地元と言うかですね、そういうものでありますが、これも次々消えていくんですね。つまり、家、学校、地域どうでもいいよ、どうでもいいよっていうのは、つまり、そうではない第四番目の空間が発見されてどうでもよくなっちゃうんですね。だから家で暴れるのも学校で暴れるのも、地域でうんこずわりしているのも、チョーかっこ悪いことになる。実際そういうマンガが当時描かれたりしているんですね。
第四空間ていうのは、主要には三つあります。いろいろな所で話題にすでに出ています、ひとつはストリートがありますね。ストリートというのは都会的現象でありまして、まあクラブとかいわゆるセンター街のような所があり、ここにたむろするわけです。ヤンキーのたむろとは違いまして、ヤンキーのような掟はありません。参入離脱はまったく自由。誰がいてもいなくてもあまり気にしないというタイプの流動性の高いコミュニケーションですね。そのストリートに集うのがいわゆるコギャル系と言われる子たちを代表とする人たちで、援助交際、最初このゾーンから始まったわけであります。
もう一つは、さっきコミケの話とかを速水さんがおっしゃっておりましたけども、そういうマンガとかアニメとかゲームのような仮想現実の中で自分の、あるいはその仮想現実を巡るコミュニケーションの中で自分の肯定感を獲得しようというタイプのそういうコミュニケーションで、このオタクメディアも第四空間ですね。
今のはそれぞれストリート系、ストリートはストリート系の子どもたち、オタクメディアはオタク系の子どもたちに対応していますが、中間派に対応するメディアとして最も重要なのは電話風俗、あるいはテレクラとか伝言ダイヤルのようなものでありますね。これはですね、誤解されていることが多いんですが、都会的現象ではありません。まず、テレクラのようなものは完全に地方的現象であります。例えば旭川市、人口36万人、テレクラが30軒あります。札幌市は人口160万人、テレクラが50軒あります。これは東京の人口密度からすると10倍存在することになります。南の福岡とかですね、その辺も同じことなんですけれども。なぜであるのか。要するに、ストリートのような、名前を捨ててですね自由になれる場所がない分、大人も子どももテレクラに集うっていうですね、現象が地方に存在するわけです。
あと、子どもたちで言えば、昨今の売春、援助交際においては、ストリート系の子たちはもう電話は一切使いませんね。基本的に使わないと言っていいです。街頭で声をかけ、かけられてっていうふうに、さっき速水さんの方から紹介していただいたような形態が完全に主流になっています。
しかし、淫行規定導入の気運の盛り上がり、東京都に関して、そういうこともありましてね、男の人たちが、補導されるようなコギャルを相手にすると、渡した携帯番号から足がついたりして、検挙されてしまう可能性もあったりするんでですね。学級委員をやっていたりするような、あるいは受験校にいたりするような、けっして補導されようもない、目に青いコンタクト入れてたりしないようなですね、そういう子たちに、「コギャルには1万5千円しか払わないけど、君だったら10万円、20万円も惜しくない」みたいなコミュニケーションが最近大量に盛り上がっております。
こういう子たちはどこで探すのかというと、街で声かけられることもあるんですけども、やっぱり電話を頼ることが多いですね。それはなぜかというと、コギャルと違って、コギャルはネットワークを持っていない。こういう子たち、つまり委員長さん、学級委員長タイプというふうに言いましょうか、この人たちはですね、援助交際していることがばれると親も教員も友だちもたいへんショックが大きいので、まず個人営業するんですね。こういう人たちは、従って電話を使う以外に手がない。まあ、今日は売春の話じゃありませんのでいいんですけれども、要するに第四空間化っていうのがどんどん進行する。
売春の動機、あるいは他の、クスリに関する動機、さまざまな、その子どもたちのコミュニケーションの動機っていうのは、一つには、肯定感の獲得ですよね。どこで肯定感が獲得できるのか。あるいはどういうコミュニケーションで肯定感が獲得できるのかっていうことに関する試行錯誤の結果として、先ほど申し上げたような三つの空間が発見され、それに従って教室内も分化していくということがあったわけなんです。
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ここで申し上げたいことはですね、こういう現象も、実は適応的学習現象ですね。つまり、実は学校というのはですね、皆さんがお考えになっていらっしゃるよりも実はたいへん無理のある空間なので、ちょっと結論的なことを申し上げますと、私たちの立場から言いますと、学校の教員や親にできることはこれからますます少なくなっていくので、いろんなことを断念された方が、僕は、いいというふうな立場であるわけですね。
例えば、学校というのは、日本だけではなくて、世界的に考えてみて、伝統とまったく反した仕組みであるわけです。多くの共同体においては、学校のかわりに通過儀礼というのがありまして、子どもが大人になるときに一週間や一ヶ月間非日常的な空間に隔離されて、そこでもまれて、日常に再着陸したときには新しい感受性の地平を獲得しているというふうなタイプの、これは人類、何万年、何千年とやってきたんですね。これをやめて、学校教育をしました。
学校教育を導入した理由は人材の動機付けと選別のためです。単純な社会と違って、子どもと大人しかいないわけではありませんね。大人にもホワイトカラー、ブルーカラー。ブルーカラーにも熟練工も単純労働者もいる。ホワイトカラーにも事務職、営業職、研究職、いろいろある。これを選別し、動機付けるためには長い期間が必要です。そこで学校教育が導入されましたが、無理があるんですね、元々、伝統的に考えて。しかしこの無理を吸収していたのがビルティンクスロマン、成長のロマン、あるいは大人になることの夢です。
つまり、義務教育期間だらだら6年も9年も続くが、おもしろくないに決まってるわけです。しかし、これは立派な大人になるために必要な期間だというふうに考えられていた時期がありました。これを我慢すると自分は立派な大人になれる。社会のために役立つ。あるいは、エゴイストであれば、立身出世できる。つまりそういう学校的な期間を我慢することによる利得が感じられていたときには、この、いわゆる義務教育課程の矛盾というのは、先進諸国どこでも充分に吸収されていたわけであります。
しかし、この、大人になることは良きことであるというロマンは、実は成熟社会が到来すると当然消えちゃうんですね。過渡的な近代というのは、巨大な欠乏があるので、時間が大変重要なファクターになります。未来が必ずこの欠乏を埋めてくれる。未来は明るい。そして、その大人は明るい未来を建設する重要な人間、ですね。未来が明るければ大人は立派になるわけですが、未来がなくなれば、つまり成熟社会になってしまえば、立派な大人というのは消えて行かざるを得ません。これはどこの国でもそういうことが生じているわけですね。そうすると、義務教育課程というのは、もともと抱えているその矛盾をそのもので引き受けざるを得なくなる。何も吸収してくれなくなってしまうんですね。
子どもたちはそういう状況に最も敏感に反応し、適応的学習を進めて、脱学校化ないし第四空間化を進展させた。学校幻想や家族幻想から自由になっていったわけですが、ところが大人はそうは行かないですね。大人の人生、人間の人生というのは記憶と結びついています。楽しかったクラス旅行、学年行事の思い出もあります。あるいは、僕自身も含めて、団地で幸せ家族を営んできたという思いもあったりしますから、こういうのから解脱するのはたいへんであります。ちゃんとした家族を生きてない若い人たち、ちゃんとした学校生活を行ってない若い人たちを見ると、「おかしいじゃないか」と。「俺たちの頃はできた」っていうですね、そういう見方で評価しがちになるわけです。
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私が最後に申し上げたいのは、やっぱり実存の問題ですね。つまり、世代的実存があるんですね。大人の人はそれぞれ、学校幻想や家族幻想と結びついた、良き生についての記憶や希望があるわけです。その実存の問題に関して言うと、若い人には若い人の実存があって、学校や家ではけっして満たされないようなコミュニケーションチャンスを他の第四空間で探し、そこに居場所を求めるというタイプの実存があり、この両者はけっして交わるところがないんですね。
この実存の問題と社会、あるいは社会にとって良きことの問題をやっぱり混同しない方がいいわけですね。学校幻想から離脱する若者たちが増えることは、学校の、要するに、旧制度を温存することに利害を持った人たちにとってはゆゆしきことであることになりますが、しかし、まあ、引いた地点から見ると、むしろこういう方向、成熟社会に学校幻想が離脱されていくことはまったく当然のことだというふうに言わなければならないように思うわけです。
つまり僕の立場から言いますと、今起こっていることは成熟社会化のプロセスで生じる当然の出来事の系列があり、そしてそこで生じてるさまざまな軋轢や対立、あるいは激高もですね、これは当然生じる世代的実存の対立であるという感じがいたします。そういうことでありますので、あまり今の若者たちはどうしなければいけないとかって思う必要はなく、どうにかなっていくのであるというふうに考えることが、まず重要であろうというふうに思うわけです。大人と子どもという図式を使ってね、あるいは青年、青少年、少女、未熟、社会を知らない、大人が何とかしてあげなければっていう図式があります。私はいろんな所で地方議会を傍聴したり、参考人として行ったりですね、いろんな所に出て顔を出して思うにつけてもですね、大人と子ども、例えば高校生をとっていいんですがね、どっちが社会を知っているのかっていう問題があるんですね。私は、援助交際をする少女たちがバカで、何も考えてないでそういうことをやってるんだっていう先入観が皆さんにあるとすると、それは相当に間違っていますね。援助交際の子がバカであるとするならば、大人にはもっと多くのバカがいるというふうに考えられ、少女たちもそういうふうに考えているわけですね。大人の側に優位性はありません。
流動性の高い社会に最も早く適応するのは若い人たちですね。若い人たちが一番現実を知っているんです。一番知らないのが年長者なんですね。私はよく本気で、年長者にはドラッグを解禁した方がいいんじゃないかって話をいたしますね。それはなぜかと言えば、流動性の高い社会で最も社会的不適応を起こすのは年長世代であるからです。年長世代の社会的不適応というふうに言えばいいんですが、ところが本人はそう思ってませんから、「俺が健全な社会のことを最もわかっているんだ」っていうふうなところからいろんな社会的施策がなされるとトンチンカンということになりがちなわけです。教育現場でそういうことが起こることはまったくゆゆしき事態でありますので、全体としてはそういう流れがあるんだっていうことの中で、いろんなことを見ていただくのがいいんではないかと思います。
三橋: はい、どうもありがとうございました。学校はどうかしようと思っちゃいけないというお話でしたが。
さあ、これから残った時間を会場の方々も含めて議論ができれば幸いなんですが。「高校生は今!」というテーマで話し合いを続けていきたいと思います。まずご質問、質問がありましたら挙手をお願いします。
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高尾:教育産業に携わっている者です。塾関係というふうに見ていただいて結構だと思います。
宮台さんのお話の中で、非常におもしろいと思って、逆に言うと、いわゆる中教審なんかで言われている第四領域の拡大とかですね、学校を小さくしようというような動きから考えると、こういった流れはある意味で自然なのかなと。塾っていう立場にいるとですね、利害が非常に関わる部分もあるんですけれども。その意味では、ほんとに学校の先生方がたいへんなこといろんなことをすべて抱え込んでるなっていう、今日改めてお話をお聴きして感じたわけですけれども。
宮台さんの話で、世代の問題があるという部分で、もう一つ僕が気になっているのは、階層の問題はどうなんだろうと。今日話に出てきてるその「高校生は」っていう切り口自体はどうなのかっていうご指摘もいろいろありましたけれども、高校生っていってもいろんな階層があるわけですね、実際に。その学校の中でのいくつかの層。
例えば、こないだたまたまICUの高校生のシンポジウムがあって、それは学生が行ってるものでしたけども、そういった部分での高校生っていう位置づけとだいぶ違う、いろんなランクがあるだろうと。そういう場合に階層っていう問題はどういうふうに見たらいいのかということはどのようにお考えでしょう。
三橋:質問が出ましたのでよろしくお願いします。
宮台:階層っていう概念をどうとらえるかによって変わってきますが、例えばですね、いくつかのサンプルとしてあげますと、ある種の学歴幻想みたいなようなものは、学年が上であればあるほど離脱の度合いが高くなってますよね。例えば大学生はかつての大学生とは比較にならないぐらい学歴幻想からの離脱が進み、高校生、特に受験校などでもそういうことは、逆に皆さんのお考えになっているのとは反するかもしれませんがですね、かなり離脱が進んでますね。それはもう、私いろんなとこで発言させていただいておりますが、東大で6年間非常勤をやってきて、ことバブル経済以降のですね、その東大生の自信喪失の度合いというのは恐るべきものがあるのですね。
実はその、例えば20年まえに私が大学に行った頃、東大に入ったり早稲田や慶応に入ったりするということは、実はさしてコストのかかることではありませんでした。つまり、だいたい一年間の受験勉強で入って来るのが標準でした。今そういうのはまったくいません。つまり東大や早稲田や慶応にいる、あるいは都立大にいるということは一生懸命受験勉強やってきたということの証であるわけです。逆に言えば、コストをかけている以上機会費用が生じてるんですね。受験勉強に使う時間を別のことに使っていればできたはずのことを失っているわけです。
実は、このことのコンプレックスというのは今の大学生に非常に深刻になっていまして、例えば、速水さんの方からすでに出ましたように、高校生であればですね、もう8割、9割バイトをするというふうな状態になっています。受験生はなかなかバイトしませんけれども、バイトをしてそこで人間関係を広げる。ストリートで、コミケで、あるいは電話を使って、インターネットを使って、いろんな所に人間関係を広げ、大人と出会い、いろんなコミュニケーションのスキルを身につけてくるわけですね。
ところが、そのコストをかけていい大学に入って来た連中の中には、まさにそこで失ってしまったものが多いという意識を持った人が大勢おります。それでもバブル崩壊まではですね、「いや、コストをかけた分の実りは将来返ってくる」とか思えたわけでありますが、それがなくなりました。つまり、失楽園オヤジと同じ状況なんですね。あると思ったものがないということに気が付いてきたときに、非常に不安が増大してまして、僕が非常勤やったりしますと、もうすぐに、質問といっても結局身の上相談なんですね。「宮台さんのおっしゃったように、僕は地方県立高出身で、いろんなものを犠牲にしてきましたが、僕はこれからどうやって生きていったらいいんでしょう」っていう、いきなりそこに話が落ちるんですね。
こういう現象は実はその、東大生自身にもよく自覚されています。例えば、受験校で言いますと、僕は麻布というとこにいましたが、麻布の空手部のOBなんですが、10ぐらい前にですね、空手部の学生がですね、東大受験の勉強をしなくなったっていうんでですね。親が僕を呼んで説教をしてくれっていうふうに依頼されたんですね。それで、行って説教しようと思いました。「親がそう言っとるぞ」と。「お前ら勉強したら東大入れるのになんで勉強しないんだ」っていうふうにとりあえず言ってみたんですね。「いや、宮台さんね、先輩」とか言うんですね。「僕はね、遊んでても早稲田、慶応楽勝で入れるんですよ。で、今、僕はこういうふうにいい容姿でしょう。めっちゃくちゃもてるんですよ。今でもスポーツジムに通ってインストラクターのお姉ちゃんとねんごろになっていろいろ貢いでもらってるしですね、もう最高の高校生活なんですよ」って言うんですね。「宮台さん、これを犠牲にして東大受験の勉強をすることで得られるものはなんですか」って言うんですね。「んっ、いやあ、な、ないかもしれんなあ」っていうことですね。
つまり、こういう意識も広がってきてます。これはまあ、成熟社会の当然の現象であるというふうにも言うことができますね。つまり、実際に会社の中でですね、起こっている現象と対応しているわけです。東大卒で、あるいは一流大学卒で、採ってはみたけれども不登校と同じ状態になって、入社早々3ヶ月、6ヶ月、1年でやめちゃう人が本当に多いです。僕の学生にもそういうのがたくさんいます。全体として言うと、この問題が示しているのは学校幻想からの離脱が、実は高校生の問題ではなくてですね、高偏差値の所にいたるまで相当程度進んでいると。その中で、なお「官僚になって俺は偉くなるんだ」とか思ってる人間は、友だちから「ああ、あの官僚君はさあ」みたいに揶揄されているというふうな状況があって、僕はこれは日本の人材調達っていう観点からすればゆゆしき事態が起こっているとは思います。つまり、功罪両面がありますが、全体としてはいいことが起こってるだろうなと思うんですね。
ところがその階層っていうことにからんでもう一つちょっと深刻な面があります。それはですね、都市と地方の落差ですね。実際イジメもですね、トンチンカンな教育評論家が「こんなイジメが起こるのは子どもたちが自然から隔離されて人工的な環境にいるからなんです」とか言っていますが、これは統計的には違いますね。イジメが激烈なのは田舎です。
例えば僕が単位制高校の取材をするときも、なんで新宿の山吹を取材せずに静岡県立中央高校を取材するかというと、あそこはもともと激烈な場所だったからですね。新宿などのような場所は、他の都立高を含めまして、べつにイジメはさほど深刻ではありません。なぜかと言えば、イジメは娯楽なんですね。イジメよりも楽しい娯楽があれば子どもはイジメにさほど拘泥しません。地方にはイジメよりも楽しい娯楽がありませんのでイジメに楽しみを見いだすことになるという極めて単純な構造があるんですが、その意味でも、地方と都市の落差の広がりというのは、たぶんこれからますます重要な問題になってくるかもしれないなあというふうに思ってるところです。
三橋:他に質問、ご意見含めて。はい、どうぞ。
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遠藤:非常勤講師をしております。僕自身は宮台さんのお話をよく聞きに行かせてもらってまして、それで、子どもたちの声を生で聞かなきゃいけないということをよく実感しまして、授業中なんか通してですね、生徒たちにいろんな意見を書いてもらうってことをしてるんですが、その中からいくつかお話しさせていただきたいと思うんですが。
まずですね、以前、今の大人、教師も含めてですね、信頼できるかっていう話を生徒たちにアンケートしたんですね。僕の行ってる学校は普通の、ちょうどまん中の辺の学校なんですが、約七割の子が「大人、教師は信じられない」というふうに答えました。例えば、具体的に教師を例にあげると、「生徒にタバコは吸うなと言ってるのに教師は職員室でぷかぷか吸っている」あるいは「制服をきちっと着ろと言ってるのに教師はぜんぜん普段着で来ている」と。「なんでなんだ」と。「それは子どものことを、生徒をやっぱりバカにしてるんではないか」というような意見、そういった意見が非常に多かったです。そういうことがありました。
あとですね、福富先生が、今の生徒がすごく話をしたがっているという話をおっしゃてましたけれども、実際それは僕なんかも強く感じるんです。例えば、「私は実は育ての親と産みの親が違うんです」とか、あるいは「新興宗教に家族が入ってて困る」とか、あるいは「援助交際をしてる」なんて話をしてくれる子もいます。もちろん「他の先生には一度も話したことがありません」て言うんですね。僕自身は非常勤ですから、相談されてもなかなかいろいろ対応できないんですが、担任の先生でもなく、現場の毎日学校行く先生でもないのに、こんな話をして来るっていうのは、やっぱり子どもたちの話をですね、もっと聞いてあげなきゃいけないんじゃないかなっていうのはつくづく強く感じます。
もう一つだけ例をあげさせていただきますと、授業の中で私、速水さんの『AERA』の記事をよく使わせていただくんですね。なかなかきわどいような話もあるんですが、そうしますと、普段、居眠りしたり本読んだりおしゃべりしたりしている生徒が、恐ろしいぐらいにシーンとして、みんな聞いてくれるんですよ、授業を。それで、感想書いてもらうと、「実は今まで、たしかに悪い悪いと親とか先生には言われてるんだけれども、だから悪いと思ってたけれども、どうして悪いか考えたことがなかった」とか、「マスコミでいろいろ聞いたりするけれども、ほんとはこういうことだったんだ」と。ほんとにわかってるかどうかはわかんないですが、「でも少しは、私も悪いと思うようになりました」とか、あと「こういう話を、とにかく親とか学校の先生はまったくしてくれない」と。「悪い悪いって言うけれども何が悪いんだ」と。「どこまでやったらばほんとに自分は危険なのかっていうのがまったく実はわからない」っていうそういう話もよく生徒から聞きます。
だから、やっぱり今の学校っていうのは、もうちょっと教師が話をちゃんと聞いてあげることとですね。正確な情報をもっと包み隠さず教えてあげなきゃいけないんじゃないかと。そういう授業をすると、普段聞かないような生徒でもきちっと黙って授業を聞くという、そういう現象があるっていうことを一つ、僕の意見というか、現場を通して感じたことということでお話しさせていただきました。
三橋:はい、ありがとうございました。
他にいかがでしょうか。はい、それじゃそちらお願いします。
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安藤:高校3年生の息子がおります母親です。うちの息子は今高校3年生で、いわゆる進学校というところに通っていたんですけども、今年の6月からアメリカの方に1年間のホームステイに行ってしまいまして、必然的に受験体制からははずれてしまったわけなんです。
この子が1年生に入るときに進路指導というのがすぐありまして、そこへ行きましたら、入学式の3倍ぐらいの人が来ていまして。それはなぜかっていうと、ほとんどがお父さんとお母さんと一緒に来て、ほんとに熱心に、どういう大学を受験したらいいかとか、推薦をとるにはどうしたらいいかとかいうようなお話を聞いていらっしゃるんですね。
先生方の煽りかたっていうのもすごいものがありまして、とにかく1年生からでも予備校に行かせてくれというふうなことをいろいろおっしゃってるわけです。それで、毎回その進路指導っていうとほんとにすごい熱気で、ちょっと遅れて行くともう座る椅子がないというぐらいに体育館が膨れ上がらんばかりになってるっていうふうな状態があります。授業の時にも先生方がどんどん子どもを煽り立てて。
うちの息子はホームステイに行くって自分で決めていたので、とりあえずその受験勉強はしなくてもいいんですが、その息子もついやらなければならないというふうに思ってしまうほどすごい先生のご指導があったらしいんです。うちの息子が行くということを聞きつけて、いろんな友だちが声をかけてくるんですけれども、「お前、何考えてんだよ、こんな時期にそんなとこ行って、どうすんだ」っていうふうなことを言われるって言うんですね。私のお友達のお母さんなんかも、「こんな時に行って大丈夫なの」とか、そういうふうなことを言う人もいて、非常にその受験体制というものにみんながドーと向かってるんだなあということをすごく強く感じました。
それでいて、ご指導していらっしゃる先生方も、「もっとしっかり勉強しろ。夏休みからやればいいと思ってたら大間違いだぞ」と言いながらも、「まあ、それほどまでにしていく大学でもないけどな」みたいな言い方をしたりして。子どもたちは本当に全精力というかエネルギーをそこに傾けなければならないと思いながらも、実はその目指してる大学が自分たちの思ってるようなすばらしいところじゃないんだとういうふうな絶望感にも満たされているんじゃないかなというふうな気がして、とてもかわいそうと言うか、深刻な問題なんじゃないかなというふうに感じました。そんなふうな母親の気持ちです。
三橋:はい、どうもありがとうございました。
いかがでしょう、他に。お二人手が上がった。じゃ、まん中の方、こちらの方から、はい。
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岡部:私は今高校生なんです。さっき言ってたことで、遠藤さんで したっけ、子どもたちの意見を聞くっていうんでアンケートをとったと言って、先生とか大人は信頼できないっていう、そのアンケートの理由が、なんかタバコとか普段着とか大人がやってるのに、どうして指導するんだとかって言ってたんですけど、そういうこと言う人は、ちょっとはっきり言って、よく理解してない人だと思うんで、それだけが高校生だと思われては困ります。
それから、イジメは娯楽だって、宮台さんがおっしゃってましたけど、イジメは娯楽じゃなくって、たぶん、私の感覚で言うと、社会とか、あと親からもらう不安とかストレスとかそういうものがたまって表に出てきたもので、自分の居場所を求めるっていうのにも関係あると思うんです。その居場所っていうのはなかなかみつからないというか、ないと不安なもので、それでその居場所っていうのを自分で定義づけるために人をイジメたりして、その優越感て言うか優越性でもって自分の存在意義っていうのをみつけようとしてるんじゃないかなっと思います。
それから、私はちょっと今日遅刻して来ちゃったんで、宮台さんの、お話しか聞いてないんですけど、このニュースレターに書いてある「高校生は今!」っていう速水さんの言葉の中で、「14歳から17歳まで」は、私今17なんですけど、すごい「キツイ時期」で、「彼らは世界に自分の存在価値を刻み付けるために、大人の想像の及ばない、様々な行為に走る」とか書いてありますけど、たぶん、だいたいあってるような気がするんだけど、でもちょっとニュアンスがちょっと違うかなっていう印象を受けました。
というのは、その「存在価値を刻み付ける」んじゃなくて、この時期はたぶん、今まで自分のすぐ近くの身の回りにしか目がいかなかった人たちだと思うんですよ、14歳ぐらいまでって。だけど、そこら辺の時期からは、やっと自分の中身に対して目がいくようになる時期なんじゃないかなって思います。だから、逆に、世界に働きかけようとかじゃなくて、逆に自分の内面に対して目がいく時期なんじゃないかなっていう、自分の存在っていうのを認識し始めるっていう時期だと思うんです。それで、その認識っていうか、自分というものが確立していくまでには結構時間がかかって、それはちょうどその、思春期とかそういうふうに言われてる時期のことだと思うんです。そこら辺の時期っていうのは自分が確立するまでの間だから、その間っていうのは、自分というものがまだわからない段階を歩んでるわけじゃないですか。自分が確立されるまでは結構長い期間あるから、その時期にその人間関係によって自分の位置っていうのを確かめられないと不安もたまるし、ストレスもたまるし、だから、ちょっとこれは、「そうかな?そうなのかなあ、うーん」てちょっと疑問に思ったところです。
三橋:はい、どうもありがとう。
えーと、宮台さん、その「娯楽じゃないよ」っていう点について。
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