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特集 : シンポジウム「高校生は今!」 |
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そこでですね、さっきリボンのバケツの話をしましたが、定時制の巡回指導の話にちょっと戻りまして、じゃあタバコ吸ってもいいとは言わないけども、吸うならマナー守れなんてよく言いますよね。マナー守るどころかすごい例では、生徒は車で学校に乗り付けてきて、車の灰皿を窓開けてぽんぽん捨ててるわけね。「誰だよこれやったのは」なんて言っててもね「おれじゃねえよ」なんて、そういうことはざらだし、バケツ持って回っていくと「先生待って待って」とか言ってね、バケツを灰皿代わりにちょんちょんなんてやってる。
どうしてそうなのかなあって考えたときに、土足の問題と重なってくるんですけども、ここ数年定時制は土足でどかどか上がってくるのが当たり前になってまして、不思議なことに職員室の前だけは脱いで裸足で入るというほんとにおかしな話があるんですけども、土足をやめようって話を一、二回討論で集会でやったんだけども、年輩のお母さんが言うにはですね、「自分のうちには土足で入んないでしょう」って言うんですよね。「だから学校にも」って。これは通らないですよね。自分のうちだってひょっとしたら入らないかどうかわかんないぐらいな状況あんのに、自分のうちだってくず箱にゴミ入れてるかどうかわかんない状況ですもんね。そういう愛着みたいなものないですよね。今日はその愛着がないっていう話を一つのキーワードにしたいんですけども。
時間が迫ってきたので最後に一言、ものすごい不始末と言いますかね、不始末をしてると思うんですよね、今の大人は。子どもの不始末なんてかわいいものじゃない、非常に膨大な不始末をしてると思うんですね。さかのぼれば戦争責任きちっと処理してないっていう不始末があるし、南の方を見れば、自分たちの今の、平和と言えるのかどうかわからないけども、その平和の代償に沖縄っていうものを平然とおいてるし、北を見れば六ヶ所村に核のゴミの押しつけをしてるしと。そういう感じで、非常に心苦しい繁栄を享受してるんじゃないかと思うし、非常に後ろめたい平和じゃないかと思うんですよね。心苦しい繁栄だし、後ろめたい平和だっていうようなことをやっている、その不始末。そのつけを全部子どもにつけていくという状況があるような気がします。自由に今の生活をエンジョイしたいのはかまわないけれども、自由にエンジョイしたならばその自由は当然責任を持たなきゃいけないのに、いっさい責任をとらないまま不始末をしでかしてるのが今の大人だろう。大人が不始末のしっ放しの社会に対して子どもは愛着をもてないのではないか、と思うのです。
三橋:はい、どうもありがとうございました。 子どもの不始末ではなくて、大人の不始末だっていうことで、話はどうまとまるのだろうかと思いながらちょっと心配だったんですが、ちょっと時間をオーバーしましたが、内容は繰り返しません。
次の方にバトンタッチをしたいと思います。ジャーナリストの速水由紀子さん、お願いいたします。
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速水:どうもこんにちは。今日はわざわざお集まりいただいてありがとうございます。 私は、朝日新聞の『AERA』という雑誌がございまして、そこを中心にいろいろな記事を書いておりますが、特に、専門というわけではないんですけれども、高校生の問題、あるいは中学生とか、家族問題、あるいは女性の問題などが持ち分野と言いますか、得意な分野で、そういうわけでこちらに呼んでいただきました。
このイベントのタイトルが「高校生は今!」というタイトルなので、これにぜんぜん文句を付けるわけではないんですが、「高校生は今!」と言って、その高校生と言って出てくるような高校生というのはほんとに減ってきてると思います。その意味というのはですね、つまり高校に通っているということがその生徒の、実存の代表になるような子どもが、非常に減ってきてるということなんですよ。私は主に街でいろんな子に取材をしております。まあ、コギャルと言われるような女子高生も多いですし、あるいは、クスリをやっちゃうような高校生もいますし、どちらかというと高校を自分の生活の中心ではなく、高校は行かなきゃいけないけれども、「いや、俺の実存はそこにはないんだ」っていうような子たちが多いんですよ。女子にしてもそうなんですけど。私はむしろその子たちの方に今、救いがあるような気がしておりますので、その子たちのことを中心にお話します。
こういう子たちがどこにその子たちの生活の拠点、あるいは気持ちの上で拠点があるかというと、たとえばゲーマー。ゲームで、ものすごく何百万点も、ゲーセンで「ウォー」って言われるような、そういうふうになって毎日通い詰めて友だちを作っていって、イヴェントに出て全国大会に優勝してとかですね、そういうのが自分の道になってるような子。あるいはオタク系と言われるマンガ。コミケに行ったりですね、とにかくアニメ見まくって友だちとそういう話しかしない。あるいは、いわゆるコスプレと言うんですか、そういう衣装を着てみたりとか。あるいはラッパー。ヒップホップのクラブに通ってみたり。高校は行くんだけれども、「私は高校生」っていう意識はあまりないんですよね。「俺はゲーマーだよ」「俺はオタクだよ」オタクだよって言う人はあんまりいないんですけれどもね。まあ「アニメオタクだよ」「私はクラバーよ」っていうようなそういう実存で生きているわけです。
だから高校生って大人、社会が言った場合にたぶん「俺はちがうぜ」っていうふうに思っちゃう子たちが、今すごく増えてるんですよ。それはむしろ私はいいことだと思ってるんです。それはなぜかというと、高校生、今までの言い方で言う高校生、保護しなければいけない、育成しなければいけない、管理しなければいけない、そうでないと高校生はやっていけないんだというイメージが今までありましたね。ところが彼らまったくそういう意識ないんです。「俺はもうぜんぜん保護される必要はない。べつに自分のやりたいことやって楽しんでるんだし、お金も自分でバイトして稼いでるんだし、管理される必要も育成される必要もない」っていうふうに思ってる子たちが非常に増えてきてます。そういう子たちを、私の提案ですが、たとえば未成年前世代とかですね、昔ながらのティーンエイジャーとかって呼んだ方が、彼らにとってはむしろ実存の意識に近いんじゃないかなって思っています。
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そうなってきた一つの理由として高校生の大学生化っていうことがありますね。ここ十年ぐらい高校生がもう昔の高校生とまったく変わってきて、一昔前のほんとに自由な大学生と生活が非常に似かよってきました。それはなぜかというと、高校を一歩出れば、たとえば、バイトも、ある制約はあるにしろ風俗をやっちゃう子たちもいっぱいいますし、それはバレない程度でですね。あるいはコンビニでもバイトできます。どこでもバイトできます。コンパもやります。深夜までオールでコンパをやる。あるいはパーティーをやる。あるいは仲間とちょっと麻薬をやっちゃう。これはいけないことですが、やってる子たちはいっぱいいます。そういうですね、自己決定すべき場っていうんですか、つまり与えられた自由っていうのが、ありあまる自由が今の高校生にはあるんですよ。現実に、まあこれは都会の子たちの方がより多いわけですが、地方に行くとそんなに自由の許容範囲ってのは広くないと思いますが、ただ時間の使い方としては、昔の高校生に比べれば今の高校生は自分の時間を非常に、親の目の届かない、あるいは親の目をかくれていろんなことをやっています。そのキャパシティーっていうのは昔の高校生に比べたらたぶん十倍ぐらい活動範囲というのは広がってると思います。そうすると当然意識もいろいろ変わってきますね。稼げるお金の額も変わってきますし。
私は援助交際をずっと取材しているんですが、援助交際、もちろんやってほしくない。けれども、援助交際でたとえば5万円かせげる。コンビニで一週間あるいは一ヶ月やってもせいぜい2万。2万でできることと10万でできることはぜんぜん違うんですね。だからそれによってやっぱり行動範囲っていうのはどうしても変わってきちゃう。その結果引き起こされることも変わってくる。それは最初に頭から「援助交際いけないんだ」って言う以前に、そうやって変わってきたから、その子はどうなるんだろうっていうふうに考えた方が建設的ではないかと思います。
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私、たぶん来月ぐらいに紀伊国屋書店から出る『性における自己決定の重要さ』というタイトルの本に、こちらにいる宮台さんも一緒に執筆を参加しているんですが、そこで私がいちばんテーマにしていることが、この彼らのセーフとアウトのジャッジ能力ということなんですよ。
これは私が街でいろんな子たちに話を聞いていちばん興味深かったんですけれども、こういう子がいました。女子高なんですけれども、まあ見かけはすごくかわいい普通のいわゆる女子高生コギャルタイプの女の子です。援助交際も時々するんですが、それはお食事をする、会話をする、そこまでで終わり。それ以上は絶対いやだ、気持ち悪い。オヤジは気持ち悪いから冗談じゃない。おうちは非常にいいおうちで、お母さんはボランティアでいろいろなお仕事をやってらっしゃるし、お父さんもとても理解のあるいいお父さんです。その子もほんとにいい子で、学級委員とかですね、クラスにおける、要するに人気者って言うんですか、誰とでも話せるタイプの子ですね。でも援助交際は食事まではやる。だけど、それよりも「私がほんとにやってるのはね、パクリなんだよ」って、その子が言うんですよ。「私はパクリは毎日やってるよ」って言うんです。朝学校に来るときにコンビニが途中にあるんですよ。そこで毎朝毎朝かならずパクッて、たとえばお菓子このぐらい紙袋にバカッて入れて、あるいは化粧品バカッと持ってきて、学校で配る、友だちに。毎日毎日やってるんですけど、そのコンビニの方がよっぽど目が行き届かないというか馬鹿というか、ぜんぜん気が付かれないそうなんですよ。でもいくら何でも毎日やると、どんなに額が、千円、2千円でも、一年やれば何十万、何百万になりますから、「よく、それって気が付かれない、怖くない?」とか言うんです。からない」って言うんですよ。
それどころじゃなくって、たとえばファッションの、洋服屋さんですね。女子高生に非常に人気のある、名前は言いませんが、お店があって、そこではもう女子高生がみんなガバガバ紙袋を持ってきて山のように、こうやって万引きをして帰ってる。まともに買う人の方が少ないんじゃないか。「だから私もやってるよ。でも悪いと思わないけどな」って言うんですよ。「援助交際で、最後まで行くのは、あなたは悪いと思うんだよね」「うん」「パクリで何十万とかパクるのは悪いことじゃないの?」って言うと「うん」って言うんですよ。それはどうしてなのかな。ものを盗むとか、万引きするっていうのは人の迷惑になります。人が生産して普通に売れば何十万かの利益になるものを横取りするわけですから、普通の良心で考えれば悪いこと、罪の意識を感じて夜眠れなかったとか、警察から電話くるんじゃないかとびくびくするとか、それがなんか普通の感覚ではないかと思うんですけれども、彼女の場合そのセーフとアウトの感覚っていうのがどこでどうなってそうなっているのか私にはどうしてもわからなかったんですよ。
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そこで、「じゃあね、その援助交際をするオジサンはどう思う?」ってきいたんですよ。彼女がテレクラで電話して、あるオジサンとお話ししてお食事をしてお金をもらったんですけれども、そのオジサンていうのが、どこの役所かは言いませんが、高級官僚なんですね、自分のその高級官僚として活躍しているときの写真をですね、いろいろ言うと支障があるんですけども、かなり重要なイヴェントの写真とかを見せてくれるんです、その子に。「俺の仕事はこういうもんだぞ」「あ、すごいねオジサン、こういうことやってるんだー」ってもうホステスのようにうまーくおだててお金をもらうんですが、「そういうオジサン、どう思う?やっぱりいやじゃない?」「うん、イヤだけど、私が中学生でね、何にも悪いことやってないときはそういうオヤジはいやだと思ったし、賄賂とか汚職とかやってるオヤジはいやだと思ったけど、パクリをやるようになったら、やっぱり人間て弱いからしょうがないんだよ。納得できるようになっちゃった」って言うんですよ。彼女は、高校二年生にして、もうそういう人間の弱さで許しちゃうってことを知っちゃったわけですよね。これはすごいことだなっていうか、いいか悪いかは私にはちょっと今判断がつかないんですけれども。
ただ、彼女自身が、じゃあ「パクリはいい、援助交際はここまでならいい、でも本番はアウト,NGだよ」っていう、そのジャッジっていうのは、彼女自身の生理から来てるんですよ。生理感覚、つまり、今まで生きてきて、こういう親がいて、こういう友だちがいて、こういう感情でけんかしたり、いろんなことをして、でも「これはあたしはいやだ、ぜったいいやだ、やってほしくない。でもこれだったらいいよ、これだったら、友だちにね、友だちが妊娠したらカンパしてあげたりとか、それはいいよ、ぜんぜんオッケーだよ」っていう生理感覚っていうのは、やっぱり人間が、その子が生きてきた積み重ねの中でしかぜったい生まれてこないわけです。
それはたとえば高校でね、「友だちが妊娠したからって黙ってカンパするようなことはいけませんよ」って言われても、「どうして?友だちが困ってる。それを助けてあげるのがどうしていけないのかぜんぜんわからない」とか、あるいは、オールのパーティーでガンジャがまわってきた。そこで私一人が「やらない。いけないことだと思う」って言ったら、そのパーティーはもうどっちらけで解散になっちゃう。だから「うん、やるよ」って言って親密な気分にすると。それはいいとか悪いとかじゃなくて、それは「私のこの生理が決めたんだからいいの。お父さんやお母さんがいけないって言っても私の生理がいいって言ったからいいの」その子の中ではそういう感覚でセーフとアウトが決められている。
今の女子高生で進んだ子、行動が要するに突出しがちな子、まあ大人から見ると逸脱した、援助交際はやるは、クスリはやるはっていうような子たちは、わりとそういう生理的なジャッジ感覚っていうのがものすごく強くあるんですよ、自分の中で。つまり、援助交際を何人もやって、一人十万円とかね、もらったとか、いろんな、大人が聞くとウエーっていうようなことをやっている子でも、「あたしはこれだけはぜったいやらないよ」「親を泣かすことはやらないよ」とか、「お父さんはかわいそうな人だから、私はお父さんにだけはいい子だと思わせておくんだよ」っていうような、そういう感覚っていうのがね、必ずあるんですよね。
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この前、実は『AERA』の取材で、援助交際を買う、要するに買うおじさまを取材しました。渋谷でですね、まあどうやって彼を見つけたかというのは内緒ですが、彼が、要するに「援助交際しようよ」と言ってもちかけた女子高生とそのオジサンといる所に私も同席して、くどいているのをこの目でずっと見ていました。すごいシーンだと我ながら思ったんですが。
そのオジサンていうのは普通のサラリーマンで、息子ももう成人して子どもがいます。とてもいい人なんです。「私はぜったいうそはつかないし、無理やり強制的に人のいやがることもしない。私が好意を持った子に好意を持ってもらえれば、援助交際はするけど、そうじゃなければ無理強いはしないよ」という人だったんですよ。その時に、食事をしたんですよ、おごってあげるからって言っていろんなものをその女の子におごったんですが、私にはおごってくれなかったんです、なぜか。悲しかったんですけれども。
それでいろんなもの頼んで、「あ、じゃ僕ちょっとトイレ行って来るね」ってそのオジサンが立ち上がったんですよ。私は非常に貧乏性で、この時に「このオジサンがトイレへ行ってくると言ってそのまま帰ってしまったら、この食事代は私が払うのかな」という思いが一瞬頭をかすめて「ああ、やばいよね。あのオジサンちょっとこのまま逃げちゃうかもしれないよね」って言ったら、女子高生の方が「ううん、ぜったい帰らないよ」って言うんですよ。「どうして?」「だってあのオジサン、すごいいい人だもん」て言うんですよ。「すごいね、人間的にいい人だと思うよね」って、二人で話し合っているんですよ。「いい人が援助交際で買うか?」って思ったんですけども。
でも、彼女たちの言うこともすごくよくわかるんです。ほんとにいい人なんです。つまり、奥さんに先立たれてしまって、十年前に。もうとっても寂しいんです。会社でも、まあ今リストラだなんだで50歳過ぎてしまうと、仕事もまあ、第三線くらいに退いてしまう。会社も非常に先行き悪くてですね、ボーナスも給料も非常に悪いと。何よりも彼自身の居場所が会社にない、って言うことを話してくれたんですよ、その場で。とっても正直に話してくれて、もう思わずほんとに泣きそうになっちゃったんですけど。「かわいそうですね」って。「ここで泣いてどうする」と思ったんですけど。
だから、その人が「僕は寂しい。うちに帰ってもビールを飲んでテレビを見るだけだから、それだったら君みたいにかわいい人とね、誘って一緒にお食事をしたり、お話をしてもらったり、カラオケ行ったり、その他いろいろしてもらった方がずっと僕は楽しいから、君がいやじゃなかったらそうしてほしいんだ」って言うんですよ。で、まあ、彼の好みの女の子は一人いてですね、結局私たちといくら話しても最後はその子のところに「ねえ、来週の金曜日、来る?」っていう話に戻っちゃうところがちょっと悲しかったんですけれども。
でも、やっぱり私はそのオジサンをね「あなたは悪人だ」とかね、「あなたは12月になったらね逮捕されるんですよ」とか、「社会の中であんたクズだよ」とかって、やっぱり言えなかったんですよ。それは、言えない自分の弱さ、あるいはみんなが持ってる弱さっていうのを自分の中にひしひしと感じるし、その人は人間的にね、ぜんぜん悪い人じゃないっていうのもよくわかるし、それはそのさっき言ったね、女子高生が「私はパクリはやるけど、本番はNGだよ。だって人間は弱いんだもん。大人がね、賄賂とかやっても、やっぱり弱いからしょうがないんだよ」って言うのとやっぱり同じ感覚なんですよ。それはみんなつながってるんですよ。
だから、むしろ、今の大人たちは弱い部分をもっともっと彼女たちに見せ、彼女たちじゃない、彼、彼女、彼氏、高校生、中学生、みんなに見せて、「人間て弱いから、こういう時にぐらぐらしちゃうんだよね。やっぱり俺も弱いから、こういう時、やっぱりつらいんだよな」って言ってほしいんですよ。そうすると「ああそうだよね、俺もそう思うよ」って「じゃ、どうすればいいの」っていう話になるんですが、そういう面を全部覆い隠して、「いや、ほんとは俺だってソープへ行きたい。ほんとは女を買いたい。ほんとは賄賂を受け取りたい。だけど、家庭では父親だから、『いや、人間としてそんなことはいかん』」というふうにつっぱっていると、そういうギャップっていうのは子どもたちはみんなわかってるんですよ。わかってるからそういう声はぜんぜん聞けないんです。教師も同じですけれども。教師も弱い所を出した方がいい。そうすると、もっと「弱いんだよね」っていうところから話が始まると、ものすごくよくわかりあえる話になります。それは私が高校生といっぱい話してきてとっても感じたことです。ですから、今日いらっしゃっていただいた皆さんに、まず人間は弱い、弱いから壊れやすいし、誘惑されやすいし、悪いことをしやすい。だから、「私もそうだしあなたもそうだよね。じゃあどうしようか」っていうところからまず始めてほしい、っていうところが、今日の私の一番言いたいところです。
三橋:ありがとうございました。
速水さんは取材に行かれたんですよね。援助交際に行かれたんじゃないですね。
速水:「君でもいいよ」って言われたんです。「君でもいい」って。
三橋:ああ、「でも」が頭に来て、乗らなかったというそうですが。
それでは、シンポジスト最後になりましたが、東京都立大学助教授の宮台真司さんにお願いします。
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宮台:宮台真司と申します。こんにちは。まずですね、中学生、高校生を含めて、若い人たちの著しい変化というのは何を意味しているんだろうか。これは単なる非行、逸脱、あるいは不良化、あるいはある種の破滅、破壊であるのかどうかということなんですが。それ以前に、社会学的な立場から言えば、これは単純に言うと、適応的な学習、あるいは学習的な適応であるというふうに言うことができます。
たとえば、売春に関してですね、あるいは援助交際に関して、今速水さんの方からお話がありましたように、あるいはあの駒崎さんの発言もそうなんですが、これを叱るという行動にはほとんど意味がありません。なぜかというと、たとえば援助交際が広がってきた背景はですね、まさに日本の社会が、男の人たちにとっての買春天国であるという事実をですね、ここ十数年間の間、とくにテレクラ、あるいは告白投稿誌のようなものが女子中学生や高校生に広がって以降、学習されたからなんですね。
朝日新聞に今年の夏に出ていたデータでも、三十代の男の半分には女を買った経験があります。私が昨年調べた東京大学の学生で言いますと、五人に一人、20パーセントに女を買った経験があります。東京大学の学生の売春経験の割合は立教や青山の倍ぐらい高いんですね。ま、これはあの日本の官僚、上級国家公務員の方々の間に売春接待がある理由とも結びつくものかもしれませんが。日本はそういう社会であります。
私が学生企業をやっていた十年ぐらい前もですね、売春接待はまったくあたりまえのことのように持ちかけられたようなものでございますね。まあ、こういう日本の買春接待の実体、あるいは日本がもともと伝統的に売春をタブーとしない社会であるという長い長い伝統があるんですが、この伝統がですね、実はとくに明治32年にできた高等女学校令以降の良妻賢母教育や、あるいは1945年の敗戦の直後に文部省から出た純潔教育の通達などのもとで行われてきた、ある種の隔離教育の結果ですね、こういう社会の実態が、短い歴史的な期間ではありましたが、少女や婦人の目から隔離された、隠されたということがあるんですね。この短い隔離の期間が、しかし終わりまして、いろんな情報チャンネルを通じて、日本の男社会ないし日本社会の実態が、あるいは伝統がですね、再学習されてその結果、それに適応したわけですね。男の半分が買うのであるならば、女の半分が売ってなぜ悪いってことですね。悪い理由はありませんね。まったく正しい理屈であるわけです。これが適応的学習というふうに申し上げてることであります。
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実はこの適応的学習っていうことの概念の射程はたいへん広いんですね。その広さをご理解いただくために必要な概念として、成熟社会っていう言葉を使わせていただきたい。あるいは成熟した近代という概念をお出ししたいんですね。実はですね、昨今の、たとえば高校生や中学生、まあ酒鬼薔薇聖斗の事件のようなものも含めまして、この振る舞いが示していることは何かというと、僕は四つの幻想の解体っていうふうに言いますが、学校幻想と家族幻想と少女幻想と子ども幻想の解体であるわけです。この解体は、私の立場から言わせると、まったく健全なことであります。
例えばですね、いろんな所からお話ししてかまわないんですが、まず言論的な話をいたしますと、近代社会、あるいは過渡的な近代っていうのはですね、きわめて幻想的な社会です。どういうことかっていうと、社会がまだ巨大な欠乏を抱えている上に、その欠乏を切実に意識してそれを埋めようとする社会が過渡的な近代なんですね。これはその、敗戦後のしばらくの期間、あるいは高度経済成長期がそうです。例えば、巨大な欠落を皆が共有しているときには、皆が同じ幻想を共有しやすいんですね。それは国家幻想であったり、アメリカ幻想、アメリカニズムであったり、団地幻想であったりするわけですね。
そういう幻想の中で最も重要なものが、戦後で言いますと、家族幻想であります。戦前までさかのぼりますと、学校幻想であります。例えばその、家族っていうことに関して申しますと、子育てに専念する、子どものために生きる専業主婦というものが、日本で一般化いたしますのは1950年代後半以降のことでありまして、それ以前には子どものために生きる主婦という存在は、もうごくごくまれな例外的存在、まあ大学教授とか高級官僚の奥さんに限られておりました。基本的に、お母さんは家業をやっているのであり、子どもはその辺にはいずり回っているんですね。子どもが、兄弟の数が多かったり、地域社会がまだ存在したりして、そこで育っていったわけであります。団地化が進むプロセスで、子どもに、つまり子どもを育てること、家事育児に専念する専業主婦という存在が良きことであるかのような幻想が抱かれ、公的にはいろんなインフラストラクチャーの支えもあって、良き家族あるいは団地家族のイメージというのもがとりわけ1960年代に最も強く抱かれ、例えば僕は1959年生まれですが、そこで育ったわけなんですね。
いま家族の話に集中していましたが、実はその家族がこの時期、70年後半に崩壊を始めたことが、私が申し上げる学校化現象の直接の原因でありました。70年代後半というのは、皆さんもご存じのように、子どもの、とくに小中学生の塾通いが急速に増大した時期であります。これは、私の分析によれば、家族幻想が崩壊し、何が家族にとって、子どもにとって良きことであるのかよくわからなくなった専業主婦が、子どもをいい学校に入れる、そのために多額の投資を行うという、誰から見ても否定できない良きこと、つまり形にこだわるコミュニケーションを始めたが故のことであるというふうに考えられます。
同様にですね、日本の環境浄化運動が、実は1970年代後半に第一期の盛り上がりを見せます。これもほぼ同じような状況があると思いますね。実はその、有害環境が子どもをダメにするのかどうかということについては、大いに疑問の余地がありますね。
戦後闇市の混乱の時代に過ごした私の両親の世代はそれで頭がおかしくなっているかといえば、そういうことはもちろん、ないわけでありますけれども、その子どものためを考える、子どものために生きる専業主婦が、最初は「うまいものをいっぱい食べさしてあげたいな。アメリカ的な生活を送りたいな」とずんずん来まして、そういう基本的な欠乏が埋め合わされたときに、何が子どもにとって良きことかわからなくなる。「そうだ、いい学校に入れることがいいんだ」あるいは「そうだ、環境の浄化だ」と。「これが子どもをダメにしているんだ」っていうふうにして問題がかぎ括弧付きですが、発見されていき、学校化が始まり、環境浄化運動が盛り上がると。そういう動きの中で、団地はニュータウンに変貌を遂げていくということがあるわけですね。その結果、家も地域社会も学校の出店のようになり、かつてとは違って、学校で劣等生ないし優等生という自己イメージを抱く子どもは家に帰っても地域社会でもどこでもその自己イメージから逃れられないという窮屈さがあるわけですね。
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