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特集 : シンポジウム「高校生は今!」 |
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「想像もできない、予想外の出来事でショックを受けています」――この一年社会を騒がせる子どもたちの事件が起きるたびにつたえられてきた学校関係者の平均的反応はこうだ。しかもこの反応には、子どもが引き起こす事件でいちいち学校に見解を求められても対応できない、というあきらめの雰囲気がそこはかとなく漂う。子ども、若者の事件が起きる度ごとに学校のあり方が問題にされてきた80年代とはあきらかに問題の様相がちがってきたのである。つまり、少年少女たちの世界で起きている変化を真っ先に学校教育の秩序と結びつけて解釈する仕方がもはや通用しなくなった。変化は別の次元ですすんでいるのであり、学校生活は、とりわけ高校の段階では、彼ら彼女らの生活世界・意識のうちでより小さな部分へと縮小してきている。(1)
では少年少女たちの変化はどこで起きているのか。
一言でいえば、学校や家庭の外にある彼らの生活圏の広がりが変化の中心にある。そしてこの新しい世界は消費社会、消費文化の論理につらぬかれている。子どもたちの成長のほぼ全過程が、学校、家族、消費文化的世界という三つの軸からなるトライアングル構造に支えられるようになったこと、さらにこのトライアングル構造内で学校教育の機能が子どもの成長にとって相対的に比重を低下させてきたこと――これらの要因によって、既存の子ども理解や成長理解ではとらえきれないさまざまな変化が生みだされてきた。高校生ともなれば、生活空間の広がりはいまや学校秩序や家庭、地域の枠を遠くこえてゆく。大学生のあいだで80年代に広まった卒業旅行という風習が高校生にまで伝播する時代である。友人関係にしても、ケイタイやポケベルなど個人用コミュニケーション・ツールを駆使して、親も教師も知らないつながりがどんどん広がってしまう。学校が少年少女の行動や意識を「捕捉」できないだけでなく、親たちにも同様の事態が生じている。どんなにきびしい家庭であろうと、手のあいだからこぼれる水のように彼ら彼女らの意識も行動も親の枠組みを外れてゆくのである。消費文化的世界は家庭と学校のすき間にすぎないようにみえても、実際には成長に関与する軸にすわっている。消費文化的世界が大人たちからすき間のようにみえていることが、学校や家族の枠を子どもたちがすりぬけやすくさせているのだが。
こうした変化の下で、学校生活にたいする意味づけも大きく変わるだろうことは当然すぎるほど当然だ。律儀に出かけていっても稼げるわけでなく、遊んでいられるわけでもない学校に毎日行き続けることですら、努力を要する難儀なことがらなのである。そのうえ、自分が決めたわけでもない「級友」という赤の他人と一つの空間に押しこめられて、なぜ仲良くしなくてはいけないのか。まして修学旅行で一緒に寝泊まりするなんて、友だちがいなければほとんど拷問じゃないか。学校という場所では従来当たり前と思われてきたことがいちいち生徒たちの「自然な」生活感覚とずれてしまう事態が進行する。そのギャップが現在の学校生活におけるもろもろの軋轢の源になっているといえよう。その軋轢は教師と生徒のあいだで起きるだけでなく、生徒同士のあいだでも生じる。たがいに「むかつく」ような関係は、たまたまそうなった個人同士の問題というよりは、同じ空間に心ならずもおかれることの問題というべきなのである。
では高校生たちは高校生というその位置を抜け出したいと思っているのだろうか。
必ずしもそうはいえないようだ。彼らが消費文化的世界での「生活」を気楽に楽しめるのはとりあえず「いま」の高校生という位置のゆえである。学校生活は彼らの世界の一部にすぎないが、学校にいることが消費文化の「いま」を生きる条件となっている。そのかぎり学校という枠は子どもたちの成長にとって不可欠なのである。意識のうえではますます比重を低下させてきた学校が他方では「いま」を楽しむ自分を可能にしてもいる――この矛盾が彼らの奥深いフラストレーションになっていることは想像に難くない。
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子どもたちの世界における学校のこうした位置は教育のいとなみ一般に深い困難をもたらすことになる。成長にたいする配慮という広い意味での教育のはたらきが危機に瀕するのである。青少年にたいする社会(大人)の要求(叱責、配慮、励まし、脅しなどなど)には、「世の中に出て一人前に働けるようになる」という目標がどこかに必ずふくまれている。「そんなこと考えずにいま「いい感じ」でいられるならそのままでいいよ。それで何とかなるよ。」というメッセージがないわけではない。癒しの手段(問題をとりあえず心理的に解消する迂回にすぎないかもしれない)か、「後はこっちに任せておけば何とかする」というパトロンの態度か、あるいは逆に、「勝手にすればいいけどその分どうなろうと自分で責任とれよ」という大人(社会)―子ども(個人)関係に自明とされた責任を解除する主張か、メッセージの根拠はさまざまだけれども、こちらの方が子どもたちにとってははるかに魅力がある。魅力はあるが、「いまのままでいてよい」と言うわけにゆかない事情が社会(大人)の側にあるのも事実だ。子どもたちはやがて「一人前に働く場所」へと移行してもらわねばならないから、パフィの歌詞のようにいまの日常をずっと延長させていいというわけにはゆかない。「将来どうするの」かを念頭におき、そこから逆算して「いま」を規制する要求なり態度なりがどうしても出てくることになる。あからさまな地位上昇や望むわけでなくても、「先のある身」として成長過程をとらえるまなざしは社会の側では不可決なのである。
しかしこれを子どもたちの側からとらえるなら、現在の欲求を遮断すること、いま望んでいる期待を先延ばしすることを意味しよう。もっといえば、いま自分が抱えている現実を、ありうべき未来のためにとるに足りぬものとして処理することを意味する。そう感じられている。ところが現実の青少年は消費社会の成立以来、「幸福の現在主義」を生きるようになった。現在輝いていること、子どもとか生徒とか若者とかの集合名詞で一括される社会の「味噌っかす」ではなく、特定される何ものかであること、消費文化的世界のなかで「一人前であること」が一人ひとりの「自己確立」にとってとても重要なこととして感じられているのだ。ファッションや化粧へのこだわりなど、過剰な同調性ともみえるトレンドの後追いはここから出てくる。消費文化的世界の「いま」を生きるためにはそれなりの努力も自覚も必要なのである。そしてそういう世界が成長の一つの軸となっている以上、彼らにとってこの世界の要求はいい加減にできない。
若者たちの生き方のこの変化にたいし、現にみえている幸福(快楽、趣味、いい気分)を捨て、未来につながる「現実」を選択せよというメッセージは、それだから、非常に強い圧迫になってしまうだろう。大人のだれかれがわからずやで権威的だから圧迫が存在するのではない。「一人前になる」という未来から逆算された「現実」が学校にいても家にいてもつねに押しつけられているという圧迫の水位の高さが問題なのである。「むかつく」という一見あてどない感覚はこのように遍在する圧迫への反応であり閉塞感の表現にほかならない。したがって、むかついてキレる瞬間の状況だけ取り出しても無益というか、対処のしようがないのだ。
この種の閉塞感は特別に「敏感な」子どもたちだけにかぎられた感情ではないだろう。「幸福の現在主義」は子どもたちにとって動かし難い現実感覚、「歴史」感覚(いやむしろ反歴史感覚というべきか)として根づいている。「いまを生きる」こと、正確には「いましかはっきりした輪郭をもてない」生の現実があるからこそ、その現在の生を先にある(とされる)幸福のために犠牲にするような「引き延ばされ、おあずけをくらう」提案や強要にたいしては拒絶感しか出てこない。そう大した要求をしているわけじゃないと大人たちは言いたくなるだろうが、学校に何とか行っているというだけで彼らはすでにけっこう我慢している状態だと受けとめているのである。学校という場所はこの場合、いまの現実ではなくて幸福を引き延ばすいわれなき処罰の執行機関のように位置づけられているのであり、家庭生活もしばしばそちら側の場所みたいに感じられる。(家庭生活が企業社会秩序と消費社会の枠組みが折り合わされる場所である以上、この感覚は当然でもある。)ようやく我慢して過ごしているところに「もっとしっかり」というメッセージが入ってくるから「むかつく」のだし、「うざい」のだ。
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彼らがこんな風に「いまの欲求」にこだわり、「いま面白いこと」で生活を満たす(かさ上げする)のに必死になるのは、決して先がみえないからではない。むしろ逆だ。「一人前になる」というターミナルについて彼らこそリアルな感覚をもっており、いま手が届くはずの幸福感を犠牲にし先延ばしするほどそのターミナルが魅力的とはとうてい感じられないのである。男の場合なら、いずれどうしたって企業社会秩序のなかに身を沈めて働かざるをえなくなるのだし、女の場合にはその男たちの下に立って生き続けるか、結婚してそこから脱出したにしても、夫である男の世話をしながら「パートのおばさん」という人生が待ち受けている。それはいやだ。割りが合わない。そういう未来に照準を合わせて「いま」を犠牲にする価値がどうしてあるのだろうか。そう思わせるお手本も自分たちの身近に親たち、大人たちの生活としてよくみえている。「私たちのようになりなさい」と言われてもそれは無理というもの。とくにバブルの崩壊から後、そこに向かって大人が自分たちを頑張らせるゴール自体が危うくなっているじゃないか。「努力すれば報われる」なんて嘘だ。(2) 社会が変わっているのに子どもにだけいつまで我慢を押しつけ続けるつもりなのか。
ざっとこれらの感覚が、大人たちの配慮を「幸福の先延ばし」体制と受けとらせ、拒絶感と反発とを思春期の日常感覚に定着させている。しかしその反発が社会化の別のコースに結びつくこともまたきわめて困難である。90年代初頭以来、企業社会のこれまでの秩序が急激に崩れてきたといっても、それに代わるコース、魅力的な未来像が用意されているわけではない。そしてそれだけ、いま生きている現実を一番気持ちよい状態に保つこと、現在の幸福(快楽)へのそういう努力を自分の生き方と力として社会的に承認させることが強烈な関心事になる。この数年間にきわだって顕在化した高校生たちの「狂躁」もこの文脈から考えてみるべきだろう。彼らが行っている、「楽しい毎日」を過ごすためのありとあらゆる努力は、いま現在の幸福に焦点を合わせようとする特別ないとなみにほかならない。男女を問わずお肌の手入れを怠らず、「かわいい」「かっこいい」ファッションと生き方を実現しようとする立ち居振る舞いは、高校デビューという言葉に象徴される、この時期特有の「異様な」エネルギーに支えられている。彼らの人生コースの分岐がはっきりしてくる大学や専門学校段階ではもうこの特別な努力は日々の生活の表面から消え去る。彼らの立ち居振る舞いはその社会的・経済的位置からして当然に、生産生活の場面ではなく、消費社会、消費文化の「文法」にのっとり、その枠のなかで表現される。そのため私たちは少年少女の文化表現を趣味の領域、生活のどちらかといえば余分な領域でのできごとだと受けとめてしまう。しかしたとえば、やせることへの強迫一つをとってもわかるように、大人の目からは余計な努力や熱中は、その上にプライドを築き自己の人生を展望する不可欠の作業なのである。
少年少女たちのこの努力は、いわば「消費社会向けの身体」のまま生き続けたいという要求の現れであり、現在と未来との引きかえの拒否だといえよう。問題は、そういう特別な努力によって築かれた「いまの生活」がそのまま延長できるかということである。社会から要求される「一人前になること」の中味には、消費社会の「文法」でつくられた立ち居振る舞いを遮断する要素がふくまれており、否応なく我慢が要求されるような場面もある。「一人前に」働くとなれば、たとえ気楽な暮らしの手段だと割り切っても、企業社会の「やってられない現実」に直面せざるをえないのであり、その局面をすりぬけるうまい手や「おいしい人生」がみんなに用意されているわけではない。これからずっと「いい感じ」で生きてゆけると思うのは幻想にすぎない。『レディ・ジョーカー』(高村薫)や『アウト』(桐野夏生)といった小説で活写されているように、「やってられない現実」の下で「キレかかっている」人々は何も少年少女にかぎらず、社会の各層に広がっている。それが90年代日本社会の現実なのである。そういう現実とどうつきあうのかが90年代における少年少女の社会化(成長)に課せられた客観的な課題であることは疑いない。
この課題をうまくこなせないだろうという頭からの速断はただしまちがいである。援助交際は市場原則にのっとった商行為の形式を踏んでみせることで文句を言いにくくするやり方であったし、働く場面でそれなりにうまく立ち回る狡知を若者たちが身につけられないと決めてかかる方が幻想というものだ。結婚にせよ夫婦関係にせよ、あるいは仕事の見つけ方にせよ、彼らがこれまでの企業社会秩序にとらわれないありようを事実上つくってしまう可能性はむしろ大きい。ただそのことと、そうやってつくられた新しい秩序が気持ちよく生きやすいかどうかはこれまた別問題だろう。というのも、消費社会の文法にのっとった立ち居振る舞いにつらぬかれていた抑圧的な力が新しい生き方・働き方にそっくり受け継がれない保証などないからである。たんに文化的に「いけてない」だけでなく、働き方でも生活でも「いけてない」層がつくられ、その「いけてない」状態を逆手にとったり開き直ったりする(古谷実『行け!稲中卓球部』で描かれたように)こともできそうにない――そういう現実としてポスト企業社会のシステムがつくられる可能性は大いにある。成功組と「そこそこ生きてる」組とがすみわけられるならそれでもよいだろうが、成功が失敗のだめさ加減をはっきりさせるよう関係づけられているかぎりそうはゆかない。「私は私でいいの」といえるだけの社会的空間は残念ながらメガコンペティションの世界ではいまよりも狭められてゆくにちがいない。
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いったい学校教育はこの転換期にどうかかわることができるのだろうか。なるべく軋轢が少ないよう企業社会秩序に子どもたちを移してきた学校の機能はいまあきらかに壁に直面している。職業的社会化という学校にになわされた機能がいま危機に瀕していること、これが少年少女たちの「反逆」を受けとめきれない要因の一つになっている。それなりに「待ったなしの現実」であり続けている仕事の場を学校は代弁することはできても、学校自体がその場を具現しているわけではない。そういう代弁機能が説得力を失い、かといって消費文化の洗練された技術や資力にも太刀打ちできない学校文化が危機にさらされるのは当然なのである。子どもたちがもちこむ文化に負けない魅力と威力をそなえた「学校の力」を築くのは至難の技だ。もちろんそうした力が教師たちの日々の努力によって生み出される例はあるし、その努力を貶めるべきではなかろう。だが、「学校の力」がそうした努力次第で左右されるものだとしたら、社会制度としての安定性を欠くと言われても仕方がない。現代の教師たちにとってそれだけの文化能力が要求されていることは事実である。が、そういう力をつけて子どもとつきあえなければ教育ができないというのは一面的にすぎる。それはまた、教師たちにあまりにも重い負担を負わせることにもなる。
「あんたたち自分でうまく生きてゆけばいいのよ。でもその分責任は問われるんだからね。そこ考えて好きに、思うとおりすれば。」というスタンスなら、「いま」を生きる高校生たちにそれなりに効果的ではある。未来に照準を合わせた配慮によって子どもたちのいまを縛る「親心」主義にたいしての解毒剤にもなる。学校教育は限定的に子どもたちの人生にかかわれるだけなのだから、配慮も親切もそれに応じた限度あるものなのである。とはいえ、問題はいまや学校空間が過剰に教育的になっているという側面だけではなく、そういう過剰性が表に出てこなければ学校の日常が一番基本的な次元ですら維持し難くなっているという点にもある。80年代型の管理教育批判だけでは欠落してしまう現実がそこにはあるのだ。「一人ひとり好きに生きなよ」という魅力的なメッセージは、この点を考慮するなら、各人が自分に必要なものを必要なときに取り出せる図書館やカルチャースクールへと学校を近づけてゆくことになる。学校機能をこの線にそって転換してゆく構想はそれとしてすじがとおっているかもしれないが、筆者にはそれだけで前節にみた子どもたちの課題に応えられるとは思えない。
90年代の少年少女たちが消費社会の文法にのっとって培った文化能力を基礎に社会を生ききるという姿勢をあらわにしているとき、そこには「わたしの勝手にさせてよ」という直接の要求だけでなく、自分たちのそういう姿勢を生活に定着させたいという社会的要求がふくまれている。彼らのもろもろの文化表現がどんな社会的要求の次元をふくんでいるかは必ずしも自覚されていないし、疎外されたあるいは迂回された仕方で示されている場合もある。彼らが「消費社会向けの身体」のままこの時代を生き抜こうとするとき、彼らの我を通す理屈は徹底して商品関係の原則にささえられざるをえない。その理屈は大人社会をつらぬく現実ときっちり一致しているから、自分たちの要求を通しやすい。と同時に、そういう理屈の通し方は自分たちなりの要求にひそんでいる社会的次元や共同的次元を見失わせもする。「いま」の自分を社会的に承認させたいという欲求そのものがすでにどうしようもなく社会的性格を帯びているのである。消費文化的世界がそこに生きる一人ひとりを勝手にさせることでこの要求を自覚させたり満たすことを保障しているわけではない。学校という空間がなしうることは、おそらく、高校生たちの「いま」を生きたいという欲求にひそむ社会的次元をささえ、正当であるかどうかにかかわらずそれらの欲求を要求として顕在化させることであろう。少年少女たちが自己をつきつめ表現する、公的で社会的な舞台として学校という場所が自覚され位置づけられるかどうか――このことが集合空間としての学校の性格を決めてゆくはずである。
[注]
(1)この点について都市部と非都市圏との地域差があることは当然である。ただし、非都 市圏で生きる高校生たちもまた意識の世界ではこの変化を共有しているから、自分自身のなかにこのギャップを抱えることになる。
(2)社会で成功するうえで「運やチャンス」が重要だと考える青年が日本は他国に比して 特異的に高い。
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(なかにし しんたろう 横浜市立大学 社会哲学) |