●特集T● 「止まらない多忙化、その行き着く先は・・・」 |
教員による教員の多忙化について |
郡上慶孝 |
プロローグ 生徒と他愛もない会話をしているとき、「自分はどうせいい仕事に就けない」と嘆いたので、いい仕事とは何かを尋ねると、「雨の日に濡れず、暑い日に暑くなく、寒い日に寒くない仕事」と返ってきた。いい仕事とは「楽をしてお金をたくさん稼げる仕事」といつもの回答が返ってくると予測していたし、私自身は高校生のころ、「温度や湿度を管理され、四季を感じることのない仕事はしたくない」と考えていたので、対照的な考えに出合い意外だった。 屋根と壁のある場所に自分の居場所をつくり、暦に準じた行事等の仕事があり決して四季を感じないわけではない、また多くの職種の中から見たら平均給与は高い方の、ある種あこがれを持たれてもおかしくない教員の多忙化に関する私の率直なエッセイです。 芯がないと周りに流される 初任校は夜間定時制高校に赴任した。その数年前に非常勤講師を横浜市の中学校で2年間務めたほかは、特別養護老人ホームに採用されたので、母校が入学式や卒業式、文化祭を一緒にやっていたくらいのイメージしか夜間定時制にはなく、よくわからなかった。よくわからなかったから、そこに馴染もうと、何も考えずに前年踏襲スタイルを貫いた。 定時制ばかりを渡り歩く教員が多い職員室の中で3年目くらいまではそれが通用したが、生徒数の増加に伴い、徐々に教員数も増加すると、全日制から異動してきた教員を中心に異論が噴出した。一つひとつの疑問にロクな返答をできない。そして、全日制から来た先生の方が全日制で培ってきた教育的な意見を言っているから、そちらの意見に追従しないわけにいかなくなる。 せっかく慣れたやり方を放棄し、また新しいやり方に着手することになり、気持ちのせわしなさがずっと続いた。最近になり、あれは仕事に対して自分が芯を持っていなかったから、どちらにも振り回されてしまったのだと気付いた。自分に芯があれば、納得のいく回答ができただろうし、まず、自分の正義で仕事を貫けたと思う。 定時制全校を異動重点校に据え、定時制と全日制の教員の人事交流が進むと、定時制の全日制化が加速する。圧倒的多数の全日制で学んだ仕事を貫く方が簡単だし、仕事として正しいことの方が多いからだ。そうすると、定時制の昔あった良さが失われてしまうし、定時制も新しいことに対応しようと精神的に追いつめられた職場になる。 やったことのない仕事はすべて負担 定時制の次に、全日制総合学科に異動になった。総合学科は忙しいという印象があり、慣れるまでが大変だという噂があったが、それよりも最初に2校目ということで仕事をどんどん回されることに参ってしまった。制服も頭髪指導もない定時制から制服や頭髪の指導をする全日制に来て、生活支援Gに配置された。次の年は校内のPC管理を任された。やったことのない年次会計もやる羽目になった。どれもすべて初めての経験だったので、多忙というか消化するのにとても苦労した。 3年目には高校総体の事務局兼務になることがわかっていて、その直前は予算のための計画や準備が山積していたが卒業式の仕切りもやることになっていた。そして、総体事務局では朝から終電までデスクワークだった。大会が終わり学校に戻ると、会計のほかに入選の仕事が用意されていた。総合学科だからではなく、適材適所の配置と複数で助け合って仕事に取り組む風土が薄い職場だったので、多忙感があったと思う。 しかし、会計を一度経験し、日常的な仕事と年間のスケジュールが把握できると前もって心と書類の準備をすることができた。複数のチェックをして齟齬がないときの達成感が自分には合っていたし、また、経験者との2人体制だったのでスムーズに取り組むことができた。また、総体では上から無理難題を押し付けられ、参加関係者から強烈なクレームを受け、それらをクリアしてもそれが人事に反映されなかった経験をして、大抵のことはそんなに大変ではないし、やったからといって報われるわけでもないと受け止めることができるようになった。 やった仕事には次回、アレンジを加える 特にグループ業務は、自分の経験したグループや得意なグループを長く持つ傾向があると思う。そして、ルーチンとして毎年繰り返す人もいるが、大体の人が前年の反省を次の年に活かしてアレンジを加えるのではないだろうか。アレンジを加えるのは自主的な判断だから前向きな多忙かもしれないが、雪だるまのように大きくなったその業務を、次の誰かが引き継ぐときに膨大な負の多忙感が生まれる。バトンを渡す側は自分のやってきた仕事を無下にして欲しくないし、バトンを渡される側はそれが仕事なら100%受け継がなければいけないと無批判に受け取る。教員の多忙化の一因はこれであると考えている。前任者の仕事をクリティカルに引き継ぎ、省力化に努めることが大切だし、これからはそういう風にやっていきませんか。 自分を上回る同僚に出会った時 2005年から大量採用が始まり、ここ10年は毎年のように新採用者が各職場に着任している。教員の質にもばらつきがあり、玉石混淆であると自戒を込めて自認している。そうすると、数年経験が上の自分よりも仕事が早くて的確で要するにできる年下の同僚が出てきたりする。この時の自身の態度がとても悩ましく、先輩面するのもきまりが悪いし、妙に下手に出るのもおもはゆい。この感覚はひょっとして年配者にもあるのではないか。自分は自分だと強引に我を通す人もいるだろうし、パワハラまがいのことをする人もいるだろうし、あっさりと敗北を認めて仕事を丸投げする人もいるだろうと思う。それらはどれも悪質だ。原則は、自分の力量を自覚して一緒に取り組むことであり、自分がされて嫌だったことを他の職員にはしないこころづもりが必要である。 まとめ 多忙化は解消して欲しいし、当然解消する前提で組合には県当局と交渉してほしいが、はたから見ているとその方向がどうも自分のベクトルと異なっている。多忙化は調査回答や会議、部活動から生み出される絶対的なものではなく、もっぱら未経験の膨大に見える仕事に直面することで発生する相対的なものだ。それを解決するのは、行政に異動しそのさらに上を行く長大な仕事に取り組むことか、それは無理だと思うので、日ごろの仕事を振り返り不要なものを削ぎ落とす省力化が近道だと思う。教員の多忙化は教員が産み出している。 |
(ぐんじょう よしたか 教育研究所員) |
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