映画に観る教育と社会[21]

ビリギャル

井上恭宏
 映画『ビリギャル』が大ヒットした。原作は、『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(坪田信貴 KADOKAWAアスキー・メディアワークス 2013)である。金髪でスカートを短くし、ふてくされた表情を作っているモデルの石川恋の表紙が平積みとなっているのを目にした方も多いだろう。映画『ビリギャル』公開に合わせて主演の有村架純が表紙を飾り、原作も100万部を超えた。1年で偏差値を40上げる。「どうしたら、そんなことできるんだろ?」という話である。教育関係者なら、「ビリギャルさんがふてくされるのを止めて、もともと家族が有しているのであろう経済力や教育文化資源を活用するようになれたからだ」と瞬時に判断するだろう。したがって、購読も鑑賞もなし、となるわけだが、ここでは、「ビリギャル現象」から、教育と社会について少しだけ考えてみたい。

■「体験学習」ではない、さやかの体験
 名古屋に住むさやかは、脱サラして自動車販売業を営む父と専業主婦の母との間に生まれた。公立小学校に入学したさやかは、学校になじめず、母(さやかは、お母さんを「ああちゃん」と呼ぶ)のアイディアで中高大の私立一貫校に中学から入学する。お受験を突破したのだ。ああちゃんは、さやかを大切に育てていった。名古屋のお嬢様(俗に「名古屋嬢」と呼ばれる)の一人として、さやかは女子中学生、女子高校生ライフを満喫する。まったく勉強をしなくなり、いつの間にか「学年ビリ」になっていた。プロ野球選手を目指す弟ばかりかわいがり、自分のことをバカにする父に反発していたさやかは、ああちゃんの勧めもあって、(「個別」ではなく)「子別指導」をかかげる街の個人塾に通い始める。そして、講師の坪田先生の指導のもと慶應大学への合格を目標にかかげ、1年半の準備で目標を達成する。
 『ビリギャル』に描かれているのは、教育の商品化の実相である。家庭の経済力が子どもの学力や進学に強い影響を与えるということは教育関係者の間では周知のことなのだが、そのことを前提として教育について語ることができるようになったのはそれほど昔のことではない。『ビリギャル』は、相当程度経済力のある家庭の子女が、中高一貫教育校という閉ざされた教育環境のなかで一度は自分を見失いながらも、その囲いをぶち破って教育商品化社会に打って出ていく物語である。さやかの体験は、「体験学習」ではなく、「教育商品化社会での現実の体験」である。

■さやかのハビトゥス、いじめと恋
 さやかは、「尾張の三英傑(さんえいけつ)」を「3つの良いお尻」と勘違いしてしまう高校生だが、そうしたおもしろいやりとりができる。「化身」を辞書で引けと指示されて、「消しゴム」という語が辞書に載っていることに興味を持ち、感動できる。「再生産論」で有名なピエール・ブルデューの概念で言えば、さやかは大学受験に向かっていけるハビトゥスを有している人間なのである。
 名古屋のお嬢さま学校の仲間たちに、「慶應受験」を宣言したりすれば、無視され、いじめられるのだろうなとハラハラするのだが、お嬢さまたちは、こころよくさやかを応援する。こうした余裕のある仲間たちに囲まれていなければ、受験に集中できるわけがない。いじめだけではなく、「恋バナ」も出てこない。塾の同窓生でさやかに思いを寄せる弁護士一家の息子との間に恋が芽生えるのかとハラハラするのだが、さやかは上手に受け流して受験に集中する。さやかの集中を妨げるのは、父と母とが対等に話し合える関係にないということであり、おそらくこのことが、小学生のさやかを不安定にしていたのではないかと想像できる。

■みんながああちゃんになれるわけではない
 さやかは、英語と日本史と小論文対策のみに集中して準備をすすめていく。高校の授業は枕を持ち込んでの睡眠時間に充てることにした。内職をするのではなく、船を漕ぐのでもなく、眠るのである。大学受験の準備と比べれば、高校の日々の授業など何の意味もなさないし、かえって邪魔にさえなるということを堂々と宣言して気持ちがいいくらいである。ああちゃんは、学校に頭を下げ(退学を申し出るわけではないから、授業料は納めないといけない)、塾には追加指導分の受講料(実際には百数十万円)をパートなどで捻出し上乗せして納める。自営の自動車販売店を無給で手伝うのではなく、現金収入を求めてパートに出るああちゃんの姿に、教育投資には糸目をつけないといった富裕層ママのイメージはまったく重ならない。しかし、費用対効果を求める点では同じで、子どもの学力は親の教育投資によって決まってくるというリアルな現実が描かれている。
 原作の坪田信貴は、「ダメな人間なんていない。ダメな指導者がいるだけだ」と記している。現在の消費社会は、教育もサービスの一つとなった教育商品化社会でもある。そして、『ビリギャル』は、「生徒がダメなのは、教育サービスの提供者である教師がダメだからだ」という人々の心性にヒットした。たくさんのお母さんたちが、映画館に足を運び、本を手に取っているようだ。経済格差が教育格差を生んでいる現実に目隠しをされ、「子どもがダメなのは、子育てをしている私がダメなのだ」と思い込んだりしないで、と声をかけたくなってくる。
 愛知県で母と高校生の長女を含む子どもたち4人の心中事件が起こったのは、『ビリギャル』公開後、2週間が経った日のことだった。

 
(いのうえ やすひろ 教育研究所員)


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