●特集U● 大震災・原発災害の中で子どもたちは
原発震災から1000日が経過して

 國分 俊樹
0 大地讃頌 …

  母なる大地の懐に
    我ら人の子の喜びはある
  大地を愛せよ 大地に生きる
    人の子ら
      人の子その立つ土に感謝せよ

  平和な大地を 静かな大地を
  大地を誉めよ 頌 (たた) えよ 土を
   (「大地讃頌」 より 作詞:大木惇夫)

 佐藤眞により1962年に作曲された、 混声合唱とオーケストラのためのカンタータ 「土の歌」 より 「大地讃頌」 は、 私の大好きな合唱曲のひとつである。 作曲から50年以上を経た現在でも、 日本全国で愛唱されている。
 この歌を折にふれ思い出すたび、 目頭が熱くなる。 東京電力福島第一原子力発電所から放出された放射性物質により、 大地が著しく汚染されたフクシマでは、 私はこの歌が歌えない。
 詩の内容が、 人間にとって根源的なものであればあるほど、 現在のフクシマは本来の 「人間」 とは180度異なる状況に立たされていることを痛感せざるを得ないのである。
 報道によれば、 2013年12月 4 日で原発震災【1】から1000日が経過したとのことである。 現在でも数万〜数十万ベクレル/uものセシウム134 (半減期約 2 年)・セシウム137 (半減期約30年) 等の放射性物質が、 あらゆる場所で検出されるフクシマにおいては、 放射能との戦いの1000日である。 福島での生活を強いられる限り、 これからもこの戦いは最低でも数十年は続く。
 以下、 2013年12月時点での私観を交えたフクシマの現状を記述せていただく。

1 結論めいたこと
  1. 核災害により放射能が拡散した地域は切り捨てるしかない (切り捨てられる)。
  2. 「フクシマ」 は 「フクシマ」 以前にも、 いたるところに存在した。 (という発見)
  3. 「フクシマ」 の現状から、 どう 「自己決定権」 【2】に結びつけていけるのか。
  1. について (「フクシマ」 切り捨て)
      「福島の復興なくしてこの国の復興なし」 「がんばろう福島」 等々、 フクシマを支援するかのようなスローガンがこの間、 数多く喧伝された。 私は、 これらスローガンは原発震災関連ビジネスへのエールであると認識している。 まちがいないのは、 原発災害によって塗炭の苦しみに喘ぐ人々へのものではないということだ。
     2013年10月11日、 いわゆる 「原発事故子ども被災者支援法」【3】の基本方針が閣議決定された。 「放射線による健康不安を感じている被災者や、 それに伴い生活上の負担が生じている被災者に対し、 基本方針に基づく支援により、 被災者が安心して生活できるようにする。」 との施策推進の基本的方向性が示されているにもかかわらず、 「慢性低線量被ばく」 による人体への健康影響が生じた場合の施策が全く盛り込まれていない。 また、 この間の、 学校を主とした子どもへの脆弱な放射線対策、 原発直近の強制避難を強いられた双葉地区住民に対する支援体制、 さらには、 福島県内東北新幹線沿線の放射能汚染地域への対応、 等々を思い起こせば、 「フクシマ切り捨て」 に帰結せざるを得ないのである。
  2. について (「フクシマ」 はいたるところに)
     自らが 「ヒバク」 を強いられて、 新たな発見があった。 社会の矛盾、 不条理について、 特に組合活動を通して 「知っていたつもり」 であったのだが、 世界中いたるところに存在する苦しみは、 結局 「他人事」 であったという自覚である。 この自覚は、 あくまで私個人としての自覚である。 他の人々が私と同じであったとはいわない。
     同じく 「ヒバク」 を強いられたヒロシマ・ナガサキ・第 5 福竜丸事件・JCO事件・スリーマイル・チェルノブイリ・劣化ウラン弾禍・核関連産業従事者等々の人々の苦しみの 「当事者」 としてのシンパシー。 それだけではなく、 不条理としかいいようのない、 社会構造の中で抑圧されている人々の苦しみへのシンパシー感度が私個人として格段に磨かれた感がある。 オキナワ、 公害、 薬害、 貧困、 差別等々。 不条理による苦しみ、 人々の怒りは、 この国、 この世界、 いたるところに存在していることを再認識している現在である。
  3. について ( 「自己決定権」 )
     原発震災以来、 「どうして、 フクシマの人たちは声を上げないのか」 という質問を受ける。 被災から1000日、 もうすぐ 3 年が経過しようとする現在では、 時間の経過もともなって、 福島県内で生活する私も、 原発・放射能被害に関する市民の怒りの声を聞くことが少なくなってきていると感じている (この傾向は、 震災直後から感じているのであるが)。 様々な要因がある。 詳しくはこの間活字となった、 いくつかの文献【4】をお読みいただきたい。 福島県の歴史的経緯からの考察では、 赤坂憲雄【5】の発言が、 フクシマの住民の意識を的確に言い表しているように思える。 13年10月にインターネットで公開された対談を引用する。 「やはり東北には敗者の精神史が流れている。 そして震災を通して改めてそれを強いられている、 再編させられている、 そんな気がしてしまうんです。 (中略) 途方もない原発事故で苦しんでいながら、 国家や東電に対するストレートな批判が大きな力にならない。 なぜか? 反対の声を上げたら、 補償金が減らされてしまうんじゃないかと考える。 それで口をつぐむ。 我慢してしまう、 我慢させられてしまう。 やはりそれってね、 悲しいけど千年の植民地が作ってきた精神のありようだなって思います」 ( The Future Times 「 東北から 50年後の日本 を描く 対談:赤坂憲雄×後藤正文」)
      「反対の声を上げたら、 補償金が減らされてしまう」 からかどうかは定かではないが、 「我慢してしまう、 我慢させられてしまう」 「千年の植民地が作ってきた精神のありよう」 という考察は的を射たものではないかと思える。
     福島県の近代は、 まさに中央へのエネルギー供給地としての歴史である。 明治維新とほぼ時を同じくして、 現いわき市における常磐炭田開発が1970年代まで行われている。 また、 福島県のホームページの 「県の歴史」 には 「電力供給県」 という言葉さえ見られる。 1899年の猪苗代湖の水を利用した水力発電所開設から戦後の1960年に完了する只見川電源開発 (全国的に有名な尾瀬国立公園の尾瀬沼、 尾瀬ヶ原、 さらには 「経済県都」 を自称する郡山市の水瓶である猪苗代湖の水利権は東京電力にある!)。 そして1971年に東京電力福島第一原子力発電所1号機の運転開始。 以降、 1987年の東京電力福島第二原子力発電所4号機の稼働まで10基の原子炉が設置されるに至る。 戦後の 「電力供給県」 としてのフクシマは、 東電との共存の歴史といっても過言ではないのである。
     めぼしい産業が発達しなかった貧しい福島県のなかでも、 特に貧困地域であった原発立地町村の双葉郡はもちろんのこと、 福島県内の政・財・官こぞって、 東京電力ならびに原発推進勢力に擦り寄るような隷属体質があったことは否めない。 経済優先の戦後民主主義のなかで、 中央に隷属せざるを得ない首長・議員を担ぎ、 日々の生活の糧を得るために職を求める人々が、 卑屈になってしまったとしても、 誰がそれを責めることができようか、 とも思う。 それが前掲、 赤坂の考察 「千年の植民地が作ってきた精神のありよう」 と合致するのである。
     この隷属的な精神構造は 「共同体的な相互扶助の絆が残されている一方、 声を上げて自己主張することには慣れていない。 (中略) もともと受動的であることを強いられてきた彼らには、 生きるために必要なものを要求する力そのものを奪われているのである。」 (徐京植 『フクシマを歩いて』 毎日新聞社2012年) という現在に結びつく。
     大量の放射能が撒き散らされ、 1000日が経過したいま、 国家・政府からの 「フクシマ切り捨て」 が明らかであるにもかかわらず、 汚染地帯に生活を強いられている多くの 「ヒバクシャ」 が 「声を上げて自己主張」 する状況にあるとはいえない。 しかし住民すべてが御用学者や原発推進勢力からの 「安全キャンペーン」 を信じているわけでは決してない。 多くが 「不安」 と 「不信」 を抱えている。 それにもかかわらず、 赤坂が指摘するように、 東電やこれまで原子力施策を推進してきた国家・政府の責任追及をする大きな動きがみられない。 これはまさに、 徐がいう 「生きるために必要なものを要求する力そのものを奪われている」 状態そのものであり、 長尾がいう 「抵抗権としての人権」 が根付いていない証明に他ならない。 この現状をふまえて、 「自己の不利益に黙っておらず、 自らがその状況をきりひらいていくこと」 を汚染地帯のなかでどう構築していけばいいのか。
     私は約30年間、 学校教育に関わってきた。 特にこの10年強く感じてきたことは 「子どもは操作の対象ではない」 ということである。 「教え   教えられる」 関係性 (権力構造でもある) を可能な限り排除して子どもたちと接してきたつもりである。 さまざまな内容を 「教え」 ようとしても、 最終的には子どもたちの判断や主体性が認識が深まるかどうかの鍵となる。 これを 「生き方」 に置き換えれば 「自己のあり方を自らが定めていこうとする=自己決定していこうとする」 ということになる。 汚染地帯に生活を強いられる人々すべてにあてはまることでもあると思う。
     多くの人々が感じている 「不安」 や 「不信」 を少しずつ紡ぎながら、 人々それぞれの 「自己決定」 に期待するしかないのかもしれない。
2 フクシマの現状
(1) 強制移住、 ディアスポラ、 「放射線管理区域」 に相当する東北新幹線沿線に120万人以上
県外への避難者:52,277人
県内への避難者:91,998人
(2013年 8 月12日現在) 計:144,275人
<18歳未満>
県外への避難者:14,149人
県内への避難者:13,468人
(2013年10月1日現在) 計:27,617人
(2) 震災関連死【6】
福島県:1,605人(宮城県878人、 岩手県428人:2013年11 月末現在)
放射能汚染による強制避難で生活再建が遅れるなか、 福島県内の直接死を上回る。
※福島県の直接死:1,603人

(3) 甲状腺がん (県内に被災当時、 約36万人の子ども)
約239,000人の検査結果:がん27人、がんの疑い32人 (2013. 11. 12現在)

(4) 原発労働者・除染労働者の被ばく問題(「 1 年で50ミリシーベルト」 「 5 年で100ミリシーベルト」 が限度)
  1. 原発作業員・・・もしかすると、 落ち着くまでに100万人は必要か?
  2. 貯蔵タンクの汚染水漏れ → 周辺で最高2200mSv/h ( 2.2 Sv/h) 計測
    ※100%死亡は7〜8Sv、 急性症状は2Svから発症といわれる
      1800mSv/hでも 2 秒間で 1 mSvの被ばく
  3. 貯蔵タンクパトロール要員の不足
  4. 汚染水も壊れた原子炉も、 使用済み燃料の処理も 「速やかに」 できるわけがない
    除染労働者・・・中央の大手ゼネコンが仕切り。 実務者は何の保障もない
    ●農地を汚染された農業従事者が現金収入を求めて除染労働者に誰が作業をするのか。 誰かがやらなければならない。 これから数十年どうするのか。
3 新潟からのたより
 本稿執筆中に原発震災以来、 継続して支援を いただいている 新 潟 県 平 和 運 動 セ ン タ ー 【7】から次のような報告書が届いた。 私も同行させていただいた、 同センター主催の福島第一原発周辺地区視察の 「福島ツアー」 報告集である。 運動での大先輩である、 同センター事務局長:高野秀男さんの報告文を最後に掲載させていただく。 この数年間、 いっしょにフクシマを考えてくださった、 高野さんが、 私の1000日間のスタンスや、 これまで不条理と闘ってきた新潟水俣病問題との接点を適切にまとめていただいたものと感じている。 ぜひお読みいただき、 前述のAとあわせて、 皆さんにも 「新たな視点」 でお考えいただければ幸いである。
 現地の案内は、 福島県教組の書記次長で、 福島県平和フォーラムの事務局次長でもある國分俊樹さんにお願いした。 國分さんは、 毎年秋開催の新潟水俣病現地調査に、 事故が起きた11年から今年も含め 3 年連続で参加している。 福島の子どもの人権を公害問題を通して考えたいと、 今年の水俣病の現地調査には福島県教組から23人が参加した。
 國分さんはこの間、 全国各地で 「現状報告」 を行う一方、 放射能の危険性と子どもの人権に関する書籍を数冊出している。 昨年の 5・15沖縄平和行進の最終日に開かれた宜野湾海浜公園での 「県民大会」 では、 鶴田浩二の 「何から何まで真っ暗闇よ」 の唄から始め、 福島の困窮を訴えた。 今年の原水禁長崎大会ではパネラーとして出席し 「福島に希望はない」 旨発言したと聞いている。
 実はこの間、 國分さんと 「希望」 についてのやりとりをしてきた。 きっかけはこうだ。 3・11からしばらくして、 新聞のオピニオン欄で 「希望」 という言葉を取り上げていたように思う。 ハッとしてわが身を振り返ると、 私自身 「ミナマタに希望はあるか」 ということをほとんど考えてこなかったことに気がついた。 水俣病にかかわって今年で30年になるが、 目の前にいる高齢化した被害者をどう早く補償・救済するか。 あるいは、 国や企業と約束した 「水俣病の教訓を伝える事業」 をどう履行させるのかについて労力を費やしてきた。 福島の方々には申し訳ないが、 福島がミナマタを新たな視点でとらえるよう示唆してくれたと受けとめている。
(高野秀男、 「福島の 「希望」 とミナマタの 「希望」」 『第 3 期ワイズエネルギーライフ研究会フィールドワーク福島原発事故福島ツアー報告集、 2013年』)  

【1】原発震災:、 原子力発電所が地震で大事故を起こし、 通常の震災と放射能災害とが複合・増幅しあう破局的災害。 岩波書店 『科学』 1997年10月号で使用された地震学者・石橋克彦による造語。 (wikipedia)

【2】自己決定権:人権教育は、 ごく一般的に言えば、 人権が尊重され、 人権尊重を実際のものとしていくような教育である。 では人権が尊重されるとはどうしたことなのか。 まず考えられるのは、 私の人権が尊重されることである。 それは私が社会や世間、 他者によって差別されたり、 抑圧されたり、 不平等な扱いを受けたりすることがないということである。 もし私が差別や不平等な扱いを受けたとすれば、 それに対して抗議し、 抵抗する権利を私は有していなければならない。 そしてまた、 差別や不平等、 そして不利益を受けたり、 受けるかも知れない状態を自ら改善し、 克服していく権利をも私は持っていなければならない。
 こうした人権概念は、 おそらく 「抵抗権としての人権」 と言われているものと通底しているのであろう。 が、 いずれにせよ、 自分が被る不利益には黙っていない、 その状況を自ら改善していく、 そうした力 (パワー) を身につけていくことは人権教育の大きな課題 (目的) なのである。 そして自己の不利益に黙っておらず、 自らがその状況をきりひらいていくことは、 とりもなおさず、 自己のあり方を自らが定めていこうとする=自己決定していこうとすることであり、 「自己決定権としての人権」 といったことになるのでもあろう。
(長尾彰夫 『学力保障と人権教育の再構築』 明治図書2005年)

【3】 「原発事故子ども被災者支援法」 :正式名称 「東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律」 2013年6月成立。 第2条に 「政府は、 第二条の基本理念にのっとり、 被災者生活支援等施策の推進に関する基本的な方針を定めなければならない。」 との条項があり、 基本方針が2014年10月11日閣議決定。 東京電力福島第一原子力発電所から拡散された放射能被害を受けた住民にとっては、 全く容認できない施策の羅列であり、 現在、 基本方針の撤廃と再策定を求めている。

【4】國分が関わったいくつかの書籍を記載させていただく。
○福島県教職員組合 放射線教育対策委員会・科学技術問題研究会編
  『子どもたちのいのちと未来のために学ぼう 放射能の危険と人権』 明石書店2012
○後藤忍・國分俊樹 「福島の現場から:副読本が生んだ〈傷〉と〈混乱〉」 『科学』 10月号:岩波書店:2012
○佐々木賢・阿部忠編 『福島の現状と子どもたちの人権〜國分俊樹講演会〜』 本の森2013

【5】赤坂憲雄:民俗学者、 学習院大学文学部教授。 福島県立博物館館長。 以前より 「東北学」 を主宰している。

【6】震災関連死:東日本大震災と東京電力福島第一原発事故により、 地震や津波など震災の直接的な原因ではなく、 震災後の避難生活など間接的原因で亡くなること。

【7】新潟県平和運動センター:世界の人々と連携し、 核も戦争もない平和な、 そして人権が尊重され、 環境保護が確立される社会を作ることをめざして活動している新潟県の団体。 柏崎刈羽原発問題や新潟水俣病問題を中心に力強い運動を展開している。 原発震災以降、 福島県平和フォーラムならびに福島県教職員組合はさまざまな支援をいただいている。

  (こくぶん としき 
   福島県教職員組合書記次長、 福島県平和フォーラム事務局次長)
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